皆が存分に飲んで食い、宴もそろそろお開きかといった頃。長老が、赤ら顔をぐっと一刀に近づけている。酔いはまわっているが、眼差しは真剣そのものであった。
「なあ御遣い殿、いや北郷殿か? そちらさえよければ、この村でしばらく暮らしてはみぬかね」
御遣いと呼ばれることにいまだ慣れない一刀であったが、その申し出には驚いた。これまでどちらの組についていくかで頭を悩ませていたが、居候させてもらえるのならばありがたい話しではある。
「こんな変わり者がいても、迷惑じゃありませんか?」
そんなことはないと長老は首を左右に振った。
「若い男手なら、いくらあっても歓迎というものじゃよ。それに、御遣い殿の天の知恵が、なにか我らの役に立つかもしれんしな」
現代では一介の学生でしかない一刀だが、その立場もここでは全く違うものになる。どこまで適応できるかはわからないが、日本で学んだ知識がこの時代でも通用する部分があるかもしれない。
「まあ、一晩ゆっくりと寝て考えればいい。お嬢さんたちからの話しも、よく考えてあげるんだね」
「すみません、なにからなにまで」
しばらくして、一刀たちは部屋に案内され寝付くことになった。長老の家は屋敷と形容できる立派な造りであり、母屋とは別に離れに客間がいくつか用意されている。
本来は国の役人などが訪れた際に使用するものであり、家具や調度品も整えられていた。
「北郷殿、おやすみなさいませ」
張飛の背中を押して部屋に入るすがら、関羽が振り向いた。件のやり取りを反省しているのか、神妙な顔つきである。一刀への呼び方も、御遣い様から北郷殿へ変わっていた。
「うん、おやすみ。今日はほんとうにありがとう」
一刀は努めて明るい口調で返す。昼間襲われときに彼女が来ていなければ、いまここに存在できていないかもしれないという思いがある。彼の謝意が伝わったのか、関羽は安堵の表情を浮かべて室内に足を進めていった。
「我らは別々になるが、夜這いには気をつけるのだぞ?」
趙雲はどこまでもマイペースな人である。誰とは言わないがと前置きながらも、横目で一刀を流し見ていた。
「飲み過ぎですよ。風、わたしたちはこちらへ」
徐晃に手を引かれていく趙雲を苦笑いで見送りながら、一刀は自身に割り当てられた部屋の扉に手をかける。程立、戯志才とひとつふたつ言葉を交わし別れると、さすがに眠気が襲ってきた。
暗い中で目を凝らすと、隅に寝台が置かれている。簡易なベッドのようであり、床より一段高くなっていた。どんなものかと触ってみると、竹でできた敷物がひんやりとしていて気持ちがいい。上着を脱いで椅子にかけ、壁に刀を立てかける。
「これで目が覚めたら爺ちゃんの家、なんて都合のいいことないよな」
天井を向いてごろりと寝転び、一刀は故郷に思いを馳せた。平和な日本にいたことが、すでに遠いことのように感じられる。
この地に放り出されてからといえば、仕方のない状況だったとはいえ賊を斬り、三国志の英雄の名を持つ少女たちと知り合ったのだ。
(半日前の自分にいまの状況を話したら、鼻で笑われて終わりだろうな……)
両目を瞑ると、どっと疲れが押し寄せる。意識が彼方へ向かうには、時間はそう必要なかった――。
それからどのくらい経ったのだろうか。ふと目が覚めた一刀は、身体を寝台から起こした。
――この地に唯一ともにやってきた刀を手に、屋敷の渡り廊下へ出る。
辺りを見渡せば、電灯もビルの明かりもない闇の世界が広がっている。淡い月明かりだけが、世界をぼんやりと照らしていた。
乾いた風が一刀の頬を撫でる。鼻孔をくすぐる大地の匂いすら、ここが異国であることを主張していた。孤独に立ちすくむ一刀の双眸からはいつしか、熱い雫がしたたり落ちている。
「なんだよ、天の御遣いって。三國志で、女の子って、漫画かよ……」
嗚咽を噛み殺したような声がもれる。鞘を握りしめる左の拳からは、ぎりぎりという音が聞こえてきそうなほどであった。
思い浮かぶのは、家族の顔。寮生活のため近頃会えていなかった父母に妹。厳しく剣術を叩き込まれた祖父母のことも今となっては恋しい。学園の友人と、もう馬鹿なやりとりをすることもできない。
一刀には己の立つ空間が、どこまでも馬鹿馬鹿しく、虚無なように感じられた。
「北郷殿、どうかなさいましたか?」
訝しむような声が一刀を呼ぶ。ゆっくりと振り向くと、そこには戯志才がいた。彼女は一刀のその姿を見るや、静かに歩みを進めそばに寄る。そしてなにも言わず、ただ両手を広げて抱擁するばかりであった。
(温かいな……)
戯志才に泣き顔を見られまいと、一刀は彼女の肩に頭を擦り付けるようにしている。赤子をあやすように、戯志才はぽんぽんと一定の調子で背中をたたいた。鼻孔をくすぐる女性の香りも、一刀には心地よく届いている。
「――少し落ち着きましたか?」
「うん……。でも、どうして」
ありったけ戯志才の腕の中で泣いた一刀の両目は、赤く充血している。
「実のところ、わたしにもわかりません。あなたが天の力とやらを使って、そう仕向けたのでは?」
何度か視線を泳がせてから、彼女は答えを返した。らしくないなと、戯志才は自嘲する。呆気にとられた一刀の顔を見ていると、昼間小難しく考えていたことが滑稽に思えてきた。
「郭嘉です」
一刀の口はまだぽかんと開いたままである。彼女が郭奉孝であると補足すると、それが戯志才の本当の名前だということが一刀にも理解できた。郭嘉といえば、曹操に仕えた天才的な参謀である。
「そっか。奉孝さんに情けないとこ見せちゃったね」
悲しみに打ち震えていた先ほどとはうって変わり、一刀は人懐っこい笑顔を作ってみせた。不意を打たれてドキリとさせられてしまったことに郭嘉は
「今しがたの反応を見るに、あなたはきっと郭奉孝という名も存じているのでしょう?」
郭嘉の質問に、一刀が首肯する。そのことを確認すると彼女は短く目を閉じ、なにかを決意したような視線で青年を見つめた。
そして耳元に口を近づけると、囁くように真名を預けることを伝えたのである。
いきなりのことであったが、一刀の「いいの?」という質問にも郭嘉は首を縦に振った。
彼女の心に少し触れたようで緊張してしまいそうになるが、頭の内で数度反駁させ、一刀は心を込めて音にする。
「――稟」
まるで大切なものを抱きしめるように。できうる限りの優しげな声色で、一刀は郭嘉の真の名を呼ぶのであった――。
「天の御遣いが世を惑わす怪しげな術師であれば、迷わず官に具申して捕縛させるつもりでした」
二人は横並びに、廊下の端に腰を下ろしている。一刀は、郭嘉がそこまで考えていたのかと肝を冷やした。
「しかし、あなたはとてもそんな悪人には見えませんから」
「稟にそう言ってもらえると助かるよ。俺はおとぎ話の仙人でもないし、術なんてとても」
天の御遣いという名だけでそのようなイメージを持たれては敵わないなと一刀は思う。同時に、あまりそのことを表沙汰にしないようにしようと心に決めた。
「北郷殿は、やはりここに残るつもりですか?」
「色々考えたけど、そういう心積もりでいるよ。俺が着いていって、みんなの足を引っ張ってもいけないしね」
自分がもし武略や知略に長けた、世を憂う聖人君子のような人物ならばすぐにでも関羽たちの考えに賛同しただろうと一刀は唇を噛む。ただ今は、明日どう生きていくかを考えるだけで精一杯であり、気持ちがそこまで及んでいないのが現実だ。
そうですか、と郭嘉は相槌を打つ。彼がどのような判断をするかはおおよそ見当がついていたが、今となっては寂しくもある。
ジージーと虫が鳴き始めたのを境に、どちらともなく腰を上げ部屋へ戻っていく。
「真名を許したこと、風たちには内緒ですからね」
別れ際に、郭嘉が人差し指を口に添えて言った。雰囲気に流されるようなまま許したことを恥じたのか、別の理由があるのかは一刀にはわからない。
だが、その響きは確かに彼の胸の内に存在していて、深く刻まれていた。
「……わかった。おやすみ、稟」
夜が明ければそう呼べなくなることに寂寥感を覚えながら、一刀は部屋へと戻った。再び身体を横にすると、夢と現実の境界線があやふやになっていく。
――もう、どうしたんですか。一刀さん。
どこか遠くのほうから、一刀は名を呼ばれているようであった。その声は段々とはっきりしていき、ボリュームも大きくなっていく。
「一刀さん、聞いていますか?」
凪の心配そうな声に、一刀は我に返った。なんだか短い夢を見ていたような感覚でもあり、頬を両掌ではたいて現実がどこにあるのか再確認する。
「ごめん。えーっと、なんだったかな」
少女たちのことを回想していて心ここにあらずだったなどといえば、凪が不機嫌になるのは必定である。なんでもないように装い、一刀は姿勢を正した。
「今度来る時、嬢ちゃんが街のほうまで商売に行くから兄ちゃんも一緒にどうかって話してたんだよ」
「ああ、そうだった。俺も興味あるし、よろしくお願いしたいね」
一刀にとって、国の都市部はまだ未知のところである。名門である袁家の領する冀州は強大で、豊かな土地であった。
街には人口も多く、様々な商人や職人が集まり栄えている。風の便りでそう聞いており、一刀もそろそろ見物にいってみたいと考えていた。
「はい。馬はわたしのほうで用意するつもりですが、そちらのほうは?」
街までは距離があるので馬で移動するつもりの凪であるが、一刀が乗れなければ意味がない。
「大丈夫。元々練習はしてたし、ここでもたまに乗ってるから」
遊び半分ではあるが、現代でも乗馬の経験が一刀にはあった。そのおかげもあって、近頃は村の馬を借りての訓練も捗っている。
「そうですか! でしたら、荷物のほうもお願いできそうですね」
凪の笑顔がぱっと咲く。さらっとそういうことを言えるあたり、彼女も意外としたたかであった。案内してもらう上に足まで用意してもらうのだから、それくらいは仕方ないかと一刀は観念する。
「わかったよ。それじゃあ今度、約束だ」
一刀がぐっと握り拳を突き出すと、凪も同じようにしてこつんと合わせる。いつからかお決まりになったやり取りを交わし、一刀はぐっと背中の筋を伸ばした。
窓から覗く広大な空の下のどこかで、あの少女たちも今日を懸命に過ごしているだろう。そう思うと、一刀にはもうひと頑張りしようという活力が生まれてきたのであった――。