董卓、盧植、そして北郷の軍旗が、盛んに揺れ動いていた。北郷軍へ援兵を派遣すると同時に、董卓は本隊を前進させていた。戦の潮目は、いまここにある。そう判断し、全軍に出撃を命じたのだった。
董卓軍が黄巾の大軍を粘り強く突破し、隙間を開けていく。その様子を、張角は丘の上から見つめていた。この大戦の責任の一端は、自分たちにもあるのだ。そう思うと、いたたまれなくなった。
さりとて、なにかができるわけでもない。だからこそ、もどかしいのだ。あの男、馬元義も、その視線の先のどこかにいるのだろう。再会したとしても、かける言葉はみつからないのかもしれない。口が上手い男なだけに、言いくるめられてしまうかもしれない。そこで、唇を噛んだ。
「姉さん、ここにいたんだ」
「心配かけちゃったかな。ごめんね」
張宝と張梁が、隣に並んだ。どちらも、戦況が気になるようだった。妹たちには、弱気なところを見られたくない。だからいつものように、張角は明るく振る舞おうとした。
「……ッ」
言葉が出なかった。いま、一刀たちが戦っている相手は、ほとんどが憂国の思いを抱いた民なのである。矛盾を抱えた戦場であったが、一刀も董卓もそれは承知の上なのだ。ここで叛乱の大もとを潰さなければ、待っているのはさらなる混乱でしかない。それだけは、避けなければならなかった。
国の根幹は、いま激しく揺れている。中央にいる宦官や大将軍の
民衆がこぞって立ち上がり、各地の豪族たちもそれに乗じているのだ。優秀な将軍が、ひとりでも多く必要な時なのである。それなのに、盧植のような将軍を、くだらない讒言により失脚させてしまっている。
権力争いばかりに力を注ぎ、政が誰のためにあるのかが、すっぽりと抜け落ちてしまっていた。後漢の命脈は、もういつ消えてもおかしくないところにまで来ているのだ。
「祈りましょう、姉さん」
「れんほー、ちゃん?」
丘から、両軍の戦いを見守る三姉妹。その胸中には、様々な思いが交差している。そう言って張梁は、両手を身体の前で握った。目を閉じ、静かに祈りを捧げているようだった。うん、と頷くと、張角も妹にならって手を結んだ。
「わたしたちには、祈ることくらいしかできないわ。一刀さんや、みんなが無事に帰ってこられるように。なにより、この戦が少しでも早く終わるように。それしか、できないの」
「ちっぽけなんだね、わたしたちって」
「そうだよ、ちーちゃん。だから、もっともっと頑張らなくちゃ。この国のみんなに、笑顔になってもらえるように。今度こそ、ほんとうに」
祈りながら、張角は歌を口ずさんでいた。穏やかで、癒やしを与えるような歌だった。妹たちも、それに続いていく。優しい歌声が、風に乗って広がっていった。
ひとりでも多くの、悲しみを拭ってあげられますように。確かな思いを込めて、張角は歌うのだった。
土煙があがる。原野を駆ける騎兵。その中心に、曹操の姿はあった。体躯こそ小柄であったが、そこから発せられる闘気は並のものではない。
曹操の義理の祖父を、曹騰という。強大な権力を持つ、宦官だった。能力のある男で、朝廷内で辣腕を振るったものだった。それゆえ蓄えた財も膨大で、それが曹操軍の後ろからの支えともなっている。
曹操のことを、宦官の家系だからと
その両隣。夏侯惇と夏侯淵は、すでに戦闘態勢に入っている。曹操からの命令があれば、二人はすぐさま飛び出していくことだろう。
三人のすぐ後ろ。荀彧が、わずらわしそうに腕で顔を隠している。時折砂埃が目に入ってしまうのか、辛そうにしながら馬を走らせていた。のんびりとしている余裕はない。騎乗したままの軍議となった。
「華琳さま、鉅鹿で戦が始まっているようです。董卓の軍勢が、盛んに黄巾どもを押している様子だとか」
「少し、遅れてしまっているようね。戦場まであとどのくらいかしら、秋蘭」
「はっ。多く見積もっても、十里(約四キロ)ほどかと。まだ充分に、間に合う距離でしょう。騎兵だけ先行させるというのも、ひとつの手ではありますが」
夏侯淵の話しを聞き、曹操は打つべき手を考え始めた。野戦では、官軍のほうが優勢であるという。涼州の兵は精強だし、天の御遣いの兵もよく戦っているのだろう。黄巾軍が十万あるとはいえ、潰走させるまでそう時間はかからないのかもしれない。
そうなると、この遅れがやはり響くことになりかねなかった。ただ追撃に加わっただけでは、あまり旨味もない。それでは世間の評も、董卓を中心としたものになるはずである。
高みを目指すのであれば、名声は必ずや必要となってくるだろう。自然とついてくるものともいえようが、飛躍を望む現状を鑑みれば、目立った功をあげて損はないのである。
「近くに、城があったわね。桂花、そちらには兵がどのくらい残っているの」
「けほっ……、は、はいっ。黄巾軍は、董卓との決戦に重きをおいているようです。調べが確かならば、五千ほどしか守備兵はいないはずです」
満足そうに、曹操はうなずいた。ならば、取るべき道はひとつだ。董卓らが野戦で黄巾軍を破ったとしても、数万で城に籠もられては、厄介なことになるかもしれなかった。
鉅鹿城を急襲して攻め落としてしまえば、敵の戦意を挫くことにもなるだろう。曹操の軍は一万五千。城攻めをするには、守備側の十倍の兵が必要だと、一般的にはいわれている。だが、曹操は悠長に城を包囲する気などなかった。始めから攻め続け、勢いのままに敵城を呑み込んでしまおうとしているのである。
「華琳さま、我が兵に先鋒を御命じください。たとえ城攻めであろうと、勇猛に戦い門を打ち破ってみせます!」
「当然でしょう、春蘭。あなたの隊に、
季衣、というのは許楮の真名だった。典韋のほうは、
どちらも劣らず怪力を誇っており、その武勇をもって村を襲撃してくる賊軍と戦っていたのだ。救援にやってきた曹操は、未熟ながらも見どころのある者がいる、と感心したものだった。当然、すぐに許楮と典韋は召し抱えられた。
曹操は、夏侯姉妹のつぎを担うのならば、その二人になるだろうと考えている。飛び出しがちな許楮を、典韋がよく抑えこんでいる。そのあたりも、夏侯惇と夏侯淵の関係に似ていた。二人も、近頃姉妹に懐いているようだった。
「姉者のほうに季衣をつけられるということは、こちらには流琉を?」
「ええ、そのつもりよ。秋蘭も、流琉の強さは頼もしいでしょう」
「そうですね。荒削りな部分はまだまだ多いのですが、磨けば必ずやよい将軍になってくれるでしょう。それに流琉の突破力があれば、わたしの弓兵がさらに輝けますから」
曹操の軍は精強であったが、なかでも夏侯淵の兵が放つ弓には特筆すべきものがあった。弓矢といえども、強弓を引くものがいれば相当な距離まで攻撃を届かせることができた。
夏侯淵の隊は統率も見事にされているから、敵軍は一度に凄まじい射撃を受けることになるのだ。その威力は、連携の取れた歩兵がいることによって何倍にもなるだろう。典韋であれば、いつしかその役割をこなしてくれるようになるはずだ。夏侯淵は、笑顔を浮かべながらそう期待していた。
「決まりね。誰かある!」
曹操が伝令を呼ぶ。城攻めの段取りが決定した。夏侯姉妹の部隊を中心とし、曹純、曹仁、曹洪が搦め手を攻撃する。
ひとを集める才能はあるが、戦に関してはそれほどではない。それが、黄巾軍の首魁に対する曹操の評価だった。ならば、敗れる道理などあるはずもなかった。
夏侯惇が豪勇をもって鍛え、夏侯淵が理を説いて形作った軍勢なのである。緩みはない。どれだけ疲れていようが、開戦となれば力を発揮してくれるだろう。そう信じているからこそ、迷わず采配を振るえるのだ。
「いくわよ。総員、気合を入れなさい」
ほどなくして、曹操軍は鉅鹿城に到達した。古い話をすれば、鉅鹿は
そういう故事にあやかろうとは、曹操自身考えていることではない。だが、将兵たちは吉事だと、士気を高揚させているようだった。軍内随一の武をもつ夏侯惇を、項羽に重ねて楽しんでいるのかもしれなかった。
あえて、締め付けるような真似はしない。勢いというのは、殺してしまえばそこまでのものになってしまう。ならば、そのまま敵にぶつけてしまえばいい。
夏侯惇が、先陣をきった。愛剣である
巨大な丸木を数人で担がせ、門扉に打ち付けていくのである。同行している許楮も、鎖の先に結びつけた鉄球を振り回し、門に何度も叩きつけている。
城兵がそれを傍観しているわけもなく、弓を頭上から振らせてきた。その矢のなかに、石も混じっている。防衛のために、城壁には落石用の石が積まれていた。弓に不慣れな兵であっても、それならば戦うことができる。ある意味、我慢くらべだった。
南門を夏侯惇が激しく攻め立てていることで、ほかの門の守りは確実に薄くなった。頃合いを見ながら、曹操は曹純たちに命令を発した。
「柳琳たちは、春蘭と反対の門を攻めなさい。秋蘭は、南門の援護をしてちょうだい」
「承知いたしました。城壁の兵に、たっぷりと弓を味わわせてやりましょう」
「それと、全軍にこう伝えなさい。城壁に我が軍の旗を立てた者には、特別の褒賞を取らすとね。兵たちも、それでもっと励んでくれることでしょうよ」
伝令が散り、夏侯淵も部隊を率いて城攻めに加わっていく。ここまでは、上手くいっている。このままいけば、日が落ちるまでに鉅鹿城を攻略することも可能であろう。それならば、もうひとつ手を打っておくことができる。曹操は、荀彧を手招きした。
「いいかしら、桂花」
「はい、華琳さま。足の早い兵が、入り用になりそうでしょうか」
「あら、冴えているわね。さすがはわたしの荀文若、といっておきましょうか」
敬愛する主君に褒められて、荀彧は嬉しそうに小さく微笑んだ。もし荀彧が愛玩動物であれば、左右に尾が揺れていることであろう。そのくらい、喜びようがわかりやすかった。
「董卓たちの戦場に、鉅鹿城が落ちた、という伝聞を流しなさい。使う人数は、あなたに任せるわ。とにかく、広範囲に知れ渡ることが重要よ」
「はい、華琳さまの仰せのようにいたします。これでやつらも、足下をすくわれたような形になるんですね」
「いくら反朝廷の思いで結束していようと、所詮黄巾軍は烏合の衆よ。帰る場所がなくなったと聞けば、さぞ慌てることでしょうね。それじゃ、わたしたちも動くとしましょうか」
曹操自身の隊は、どれかの門に集中して攻撃をかけるということはなかった。柔軟に配置を変え、敵が気になるような動きをする。
数時間、曹操軍は休むことなく攻め続けた。やがて南門のほうで、情勢に変化が起きた。城壁には、長梯子がかかっていた。その先で、城兵が悲鳴を上げている。
「者ども、臆せず次々と昇ってこい! この辺りは、わたしが殲滅しておいてやる!」
守備側の隙きを突いて、夏侯惇が駆け上がったようだ。すでにひと仕事終えているようで、その周囲には黄巾兵の死体がいくつも転がっていた。
夏侯惇を討ち取ろうと、城壁の弓兵が狙いを定めている。掛け声と同時に、矢が放たれた。
「このような矢で、わたしを殺せるものか。そうだな、どうしてもというのなら、秋蘭でも連れてきてみるがいい」
矢を躱しながら、夏侯惇は嗤っている。その次の瞬間には、弓兵の首が飛んでいた。七星餓狼が血を吸って、深紅の炎を纏っているようにも見えた。
城内で、怒号が飛び交っている。夏侯惇に気を取られている間に、門の守備が疎かになってしまっていたのだ。すかさず、許楮たちは攻勢を強め、ついに城門を打ち破ったのだった。
堅牢な門さえ突破してしまえば、黄巾側に兵力で勝る曹操軍を止める手立てはなかった。夏侯惇が兵と合流し、中の敵兵を掃討していった。夏侯淵が典韋を自由にさせているようだったから、許楮もそうさせていた。典韋もかわいがってはいたが、どうせなら許楮に功第一を取ってもらいたい。夏侯惇の、親心のようなものだった。
「おお! やったか、季衣!」
掃討を続けながら、夏侯惇は城壁を見上げている。「曹」の旗が、雄々しくはためいている。旗の柄は、許楮が堂々と支えていた。
夕陽が、赤々とその姿を照らしている。ひとつ大きくうなずいて、曹操は全軍に勝ち鬨をあげさせた。