馬の尾が、ゆらゆらと揺れている。馬蹄が順に土を叩き、小気味いい音を立てていた。
駆けていても、戦の爪痕はよく見える。これが、叛乱を起こした人々の望みだったのだろうか。そう思うと、一刀の心は虚しくなった。
気づけば、同乗している程昱の腿を撫でていた。柔らかく、温かい。スカートの内に少し手を入れてしまっても、程昱は何食わぬ顔で受け入れたままだった。
「どうなるかな、これから」
「どうにも、ならないかと。一度起きてしまった流れは、そうそう変わることはありませんから。ご主君さまの旺盛なすけべ心が衰えることがないのと、同じなのかもしれませんね」
程昱は、いつものように笑っていた。
スカートの内側で、手が重なる。小さな手だ。それでいて、懸命に包み込もうとしているのである。いじらしさで、胸が一杯になりそうになった。
わかっている。馬元義を討ち取ったところで、全てが好転するはずもなかった。叛乱は下火になりはするだろうが、それだけなのである。
そこから先、いったい自分になにができるのだろうか。そのことを、最近はよく考えてしまう。
「風はこれでも、ご主君さまに賭けているのですよ。その思いを、志を、もっと大きく広げていってほしいのです。この国は将来、さらに乱れていくことになるでしょう。ご主君さまだって、それがわかっているから悩んでおられるのではー?」
厳しいことを平然と言ってのける、それが程昱でもあった。それゆえに、信頼することができる。
天下。それを意識するのは、とてつもなく恐ろしいことのように思えてしまう。言葉にするのは簡単かもしれないが、その道中では夥しい量の血が流れることであろう。叛乱を鎮圧するのとは、わけが違うのだ。
人々ためか。野心のためか。根底にある志がどうであれ、やることには大して変わりがない、と一刀は思った。
「お兄ちゃん、風、どうかしたの?」
二人のやり取りを眺めていて、徐晃はなにか気になったようだ。ぼんやりと空を見つめているようでも、護衛として周囲には常に気を配っていた。
「ああ、なんでもないよ。少し……、ね」
「香風ちゃんも、気をつけたほうがいいですよお? ご主君さまは隙きあらば、このようにあらぬところをまさぐってこられるのですから」
そう言って、程昱は握っていた一刀の手をさらに中へと誘い込んだ。すぐ隣に馬をつけているから、徐晃にも二人の状況がわかってしまう。
見られたからといって、いまさらじたばたすることではない。そもそも、一刀はそういうつもりで触れたのではなかった。
人肌に触れていると、心が落ち着くのである。愛する人の体温を、身近に感じることができる。それ以上の幸せなど、ありはしないだろう。
「お兄ちゃん、いけないよー。お外であんまりそういうことしてたら、愛紗に叱られる。このまえも、すごかった……」
「うっ……、そうだな。あんまり怒らせてしまうと、そのうち赤兎に乗って追い立てられるかもしれない」
「それは、考えただけでも恐ろしいのですよー。愛紗ちゃんがそういう現場に遭遇しやすいのも、困りものですねえ」
星の巡り合わせとでもいえばいいのだろうか。とにかく、関羽は情事に出くわすことが多かった。生真面目な性格でもあったから、その度に注意をされていた。妬いてくれるのはありがたいことだが、青龍偃月刀を持ち出されたのではそうもいっていられなくなる。
前回の体験を思い出して、徐晃は小さく身震いをしていた。
「あっ、あれかな」
身震いをしていた徐晃が、前方を指さしている。どうやら、目的の場所に到着したようだった。
鉅鹿城のすぐ側に、曹操は陣を構えていた。長居をするつもりもなかったから、あえて城には入っていなかったのだ。
城内に蓄えてあった兵糧は必要な分だけ接収し、あとは周辺の民に分け与えられた。そのほとんどが、まともな手段で集められたものではなかったのだ。
叛乱によって土地が荒れれば、それだけ収穫は減ってしまうことになる。曹操の配慮に、民たちは感謝していた。
「このあたりか。曹操殿の陣屋は……っと」
曹操の陣を訪問するために、一刀はここまで足を伸ばしてきたのである。
董卓も、あとから向かうと聞いている。普通であれば、朝廷から直に命を受けて戦っている董卓のほうに曹操が出向くべきであろう。そうしなかったところにも、董卓の人の良さが表れているのかもしれない。
目の前で、長い金髪が左右に揺れている。程昱が、興味深そうに陣地を見回していた。曹操の兵は、装備がしっかりとしている。武具が端々にまで行き渡っており、調練の様子もきびきびとしていた。軍を率いる曹操の、性格が垣間見えるようでもあった。
「さすがに、きちんとされているようですねー。風たちの軍もそれなりにはなってきたかと思っていましたが、もっと頑張る必要があるのかもしれません」
「そのへんのことは、持ち帰って話し合うしかないな。稟や愛紗も、考えていることがあるだろうし。……香風、どうかしたのか?」
「なんだろう、だれかに見られてるような? ぴりぴりっ、てしてるわけじゃないけど、ちょっと気になる」
武人の勘が働いているのか、徐晃は忙しなく周囲を見回していた。とはいえ、特段どこかから殺気を向けられているようには思えない。なにかと喧嘩腰だった夏侯惇の姿も見えないし、思い過ごしではないのかと一刀は言いかけた。
陣の入り口で馬から降り、近くにあった木に繋いでおいた。しばらく歩いていると、徐晃の受けた視線の正体がはっきりとしてきた。
「はあっ、はあっ……。な、なんてかわいらしいお方ですの」
見えてしまった。大きめの陣屋の影。そこから、少女の顔が半分ほど覗いている。長い金髪。曹操のものではなかった。記憶を探り、一刀は以前対面した将の顔を思い出そうとしていた。
曹洪。あの日、夏侯惇とは別のベクトルで、敵愾心を向けてきた少女だった。とっつきにくい印象で、会話のきっかけすらもらえなかったことを覚えている。その曹洪が、なにやら恍惚とした表情で影から徐晃を見つめていた。
「ひゃっ……!? お兄ちゃん、シャン……こわい」
「ご主君さまは、あちらの発情美少女をご存知なのですか? ちょっと雰囲気が特殊すぎて、風では太刀打ちできそうにありません」
「あんまり、おかしなあだ名をつけたらいけないよ……。あの子は、確か曹洪殿だ。曹操殿の、従姉妹だったと思う」
一度謁見したことがあるといっても、無断で曹操の陣屋に足を踏み入れるわけにもいかないだろう。行くということは伝えてあったから、北郷だということを確認してもらえればそれでよかった。
曹洪とは面識があったし、さすがに取次くらいはしてくれるだろう、と一刀は考えたのである。
「な、なんてかわいらしいお方なんでしょう。わたくし、胸がときめいてしまって……、はあっ……」
「曹洪殿」
陣屋の縁にしがみつきながら、曹洪は肩を震わせている。あまり近づきたくないのか、徐晃は一刀の背に身を隠していた。
構わずかけた一刀の声は、少しも耳に届いていないようだった。曹洪は熱っぽい視線を徐晃に向け、物欲しそうに巻き髪をいじっている。
「あうう……。お兄ちゃん……」
「はっ!? え……、ええっ!?」
徐晃の姿が完全に見えなくなったことで、曹洪はようやく一刀のことを認識したようであった。
男嫌いなのは相変わらずのようで、気づいた途端に侮蔑を含んだ視線を向けられていた。それでも徐晃のことは気になっているようで、なんとかその影を追おうと一刀の周囲を回っているのである。
「どうしてですのっ!? あなたのような男のところに、どうしてそのようなかわいらしい……」
「むー、これは厄介な相手ですねえ。女たらしのご主君さまにも、こんな弱点がおありだったとはー。ならばここは、無理を承知で風がなんとかして差し上げるべきでしょうか」
どうすれば、興奮しっぱなしの曹洪を止めることができるのだろうか、と程昱は思案する。考えがてら、指で宝譿を数回揺らした。そうすると、なんとなくいい考えが浮かんでくるような気がしていたのだ。
「……そこの嬢ちゃん。嬢ちゃんがご執心になってるその子だがねえ、そっちの兄ちゃんと……ごにょごにょ、……ってな具合なんだぜ」
「う、嘘っ……!? そのようなこと、断じて許せませんわ! くううっ、やはり男なんて……所詮ケダモノなんですっ!」
宝譿から何事か耳打ちされ、曹洪はさらに怒りをあらわにしている。どう見ても、事態は悪化してしまっていた。
一刀には、程昱が火に油を注いだようにしか思えなかったのである。
「なあ……風、さっきよりややこしくなっていないか。まさか俺の気のせい、ってことはないよな」
「あれれー、おかしいですねえ。風としては、あまりの衝撃に曹洪ちゃんが気絶してしまうことを狙ったのですが。ふむうぅうううう…………うううううぅうううう……、ぐう……」
「寝るなっ!」
諦めの境地に達して眠る程昱を、一刀は強引に起こしにかかった。そういえば、こんな漫才のようなやり取りをするのも久しぶりな気がしていた。董卓と合流してからは戦続きだったから、くだらない会話をすることも少なくなっていたのだ。
「栄華、そこまでにしておけ。まさか、我らの陣に侵入してくる愚か者がいたわけではあるまい?」
「おやおやー? どなたか知りませんが、このお姉さんはお話を聞いてくれそうな感じがしますねえ」
騒ぎを耳にしたのか、陣の奥から人がやって来た。夏侯淵。相貌は理知的で、ひんやりとした色の髪が特徴的である。
助かった、と一刀は胸をなでおろした。夏侯淵とは言葉を交わしたことがあるし、なにより自分が来ることを把握しているはずだった。いまだ隠れたままの徐晃に出てくるよう促し、夏侯淵に声を掛ける。
やはり来訪のことが伝わっていたのか、夏侯淵は合点がいったように一刀を見つめ返していた。
「久しいな、北郷殿。話は色々と聞いているぞ。あれから、随分と身代を大きくしたようだな」
「妙才殿も、息災そうでよかった。その話の内容は、あえて聞かないでおくよ。ところで、孟徳殿は御在陣かな?」
夏侯淵にたしなめられ、ようやく曹洪は居住まいを正していた。それでも気に入らないのは同じなようで、苦虫を噛み潰したような表情でそっぽを向いていた。
「うむ。華琳さまは、ちょうど先ほど戻られたところだ。栄華、北郷殿が来たこと、伝えてきてはもらえないだろうか」
「ええ、そうさせていただきますわ。……それでは、わたくしはこれで」
両者の不和が明らかだったので、夏侯淵が気を回した形になった。一刀も曹洪も、そのほうがよほどありがたかった。
取り付く島もない、とはこのことを言うのだろうな、と一刀は思っていた。常に接しなければならない人物であれば、関係を改善する努力をするべきだろう。だが、曹洪の場合はそうではなかった。であれば、触らぬ神に祟りなし、ともいえるのだ。