董卓を交えての会談の後、曹操は兗州へと帰還していった。曹操の言葉の端々に野心が見え隠れしていたのは、わざとだったのかもしれない。挑発、していたのだろう。董卓にも、そのことははっきりと伝わっていた。
川に向かって、一刀は地面にあった石を投げた。二度三度と水面を跳ね、とぷん、と石は沈んでいった。
真横に座っていた董卓は、一刀の琥珀色の瞳をじっと観察していた。触れようとすれば、すぐにでも触れられる。天の御遣いという大仰な名に反して、なんと近しい人なのだろうか。
惹かれている。初めて会った頃よりも、その感情は確かに強くなっている。董卓は、恥ずかしくなって関係のない言葉を紡いだ。
「曹操さん、あのお方は、漢室に未来はないとお考えのようですね。その目は、すでに天下へ向いている、そう感じました」
「ああ、月の思っている通りだろうな。それに曹家は、必ずいまより大きくなるだろう。世の中が乱れれば、まず間違いなく頭角を現すはずだ」
曹操が勢力を拡大し、いずれ天下へと打って出る。そのことは、一刀自身が最もよくわかっていた。
いまはまだ、乱世の序章にすぎないのだ。これからの戦いでは、曹操の言っていたようにより覚悟を決める必要がでてくるだろう。そのためだろうか、程昱との会話を、一刀は思い返していた。
「月には、これまで言ってこなかったことなんだけどさ」
「はい、なんでしょうか」
「風や稟は、俺に天下を取ってほしいんだと思う。愛紗は……、どうかな。やると言えば、ついてきてくれることは確かだろう。ともかく、そういうことを話したことがある」
董卓は、狐につままれたような顔で一刀の話しを聞いていた。その口ぶりに、まだ気持ちがついてきていないことが明白だったからだろう。
いまの朝廷による乱れた政治を正し、漢王朝の権威を復興させる。董卓は、それこそが最も筋道が通ったやり方だと信じている。それは自らが、漢の臣たる立場にあるからの感覚でもあった。
「天下……ですか、北郷さまの」
「男として、考えたことがないっていえば嘘になる。だけど、どうしても実感が湧いてこなくて。それに、一地方すら治めたことのない俺が天下なんて……って、ごめん! 愚痴なんて、聞いても仕方がないよな」
「くすっ……。いいんですよ、北郷さまのお心の内を聞けて、わたしは嬉しいんですから」
忌憚のない笑顔で、董卓は喜びを表にしていた。これまで考えてこなかったが、そういう道も確かに存在しているのだ。もしそうなれば、いずれ自分と一刀が敵対することもあるのだろうか。
それだけは、絶対にしたくない。咄嗟に、董卓は首を振って浮かんできた考えを吹き飛ばした。どうかしたのか、という風に一刀は董卓のことを見つめていた。だから心配をかけないよう、精一杯笑ってみせた。
「えへへ、平気です。北郷さまがそんなお方だからこそ、風さんたちは天下を取らせたいと思えるんでしょうね」
「そう、なのかな」
「主従の関係で結ばれていても、北郷さまはみなさんと平等でありたいと思われています。そういった姿勢は、為政者にも必要なんではないでしょうか。自分ですべてを決めてしまうような支配者であれば、いずれどこかで綻びが見えてきます。北郷さまであれば迷ったとき、風さんたちを頼られますよね?」
「ああ、それだけは間違いない。俺ひとりにできることなんて、たかが知れている。みんなで力を合わせて来られたから、黄巾軍だって打ち負かすことができたんだ。もちろん、月たちの存在だって大きかった。だから、すごく感謝しているよ」
温かい感情が、董卓のなかに広がっていった。同時に、その考えにも変化が起ころうとしていた。
たとえ朝廷を完全に立て直すことができなくても、次代への道を切り開くことができればいい。新たな希望、それはすぐ側に見えていた。
「ありがとうございます。その言葉、できれば詠ちゃんにも言ってあげてくださいね。きっと、喜んでくれると思いますから」
「詠にも……、ね。うん、努力はしてみよう」
双方ともに不機嫌そうな賈駆の表情を思い浮かべ、つい小さく吹き出してしまった。
蒼空を、鳥が駆けている。鳥の鳴き声につられ、一刀と董卓は空を見上げていた。
「それでですが、一旦、わたしは洛陽へ戻ろうと考えています。黄巾軍討伐の報告もしなければなりませんし、つぎの動きにも備えなければいけないですから。北郷さまたちも、同道されますか?」
「つぎ……、か。わかった。すまないけれど、先に出発しておいてもらってもいいかな。冀州に戻ってきたことだし、寄っておきたいところがあるんだ」
「寄り道、ですか? わかりました。それでは、先に行ってお待ちしていますね」
そう言って遠くに目をやる一刀のことを、董卓は不思議そうに見つめていた。
この冀州には、かつて一刀の故郷だった場所があった。いまではそこに、大切だった人が眠っている。軍を興してから半年と少し、あっという間だったように思える。そのきっかけとなった黄巾軍の首魁を、ついに討ち果たした。一度顔を見せるには、いい機会だったのだ。
「月」
「はい、なんでしょう? んむっ……、んんっ……」
衝動的に、一刀は董卓と唇を重ねてしまっていた。董卓の細い手首を取り、さらに抱き寄せる。肩口で整えられた髪から、太陽の香りがしていた。
驚きによって開かれていた目が、徐々に細まり最後には閉じられていく。どうやら、受け入れてもらえたようだった。
小刻みに振るえる董卓の手が、後頭部に触れている。たどたどしく、ぎこちなかったが、それでも懸命に口づけに応えようとしてくれているのだ。
「んふ……、ふあっ……、んっ……。いきなりでしたから、びっくり……、してしまいました」
「悪い。月があんまり、かわいかったから。一応確認しておくけど、嫌だったり……しなかったよね」
「ずるいです、そんな聞き方……。でも、こんな風に触れていただいて、嬉しい……、あふっ」
もう一度、今度は思いを確かめるように。華雄の話していた通り、董卓が待っていてくれたのかどうかはわからない。ただ、行動は言葉より饒舌だった。
かわいらしい鼻息が、時折肌をくすぐっている。これでも、遠慮してしまっているのだろう。試しに舌で唇の割れ目をからかってみると、すぐにさっと退かれてしまった。
どうしていいのか、わからないようだった。董卓の親友といえば賈駆だったが、あの性分だから男女のことを話題にするとは思えなかった。
むしろ、意図して遠ざけていたのだろう。年頃を考慮すれば、興味があって当然なのである。
「口づけには、舌も使うんだよ。恥ずかしがらないでいい、きっと気持ちよくなれるから」
「へう……、気持ちよく……? わかりました……、北郷さま。たくさん知らないこと、教えて……くださいね」
小さな身体を持ち上げ、膝の上で抱えるようにする。先ほどの繰り返しということで、舌で唇をなぞった。粘膜の感触。迎えに出てきた董卓の舌と、ぶつかったようだった。
すかさずその舌を吸い上げ、こちらに引き寄せていく。董卓の呼吸が、乱れている。体温も、上がっているようだった。
触れ合っている音を聞かせたくて、わざと動きを大きくしていった。なにも知らない董卓からすれば、全てが未知の領域だった。いやらしく口内を這いずる舌も、下品なくらい大胆に立てられる水音も。
「はあっ、ふうっ……。北郷、さま……っ」
「平気か? 月がかわいくて、やりすぎてしまったかも」
一刀の膝の上で、董卓は荒い呼吸を続けている。頬は朱に染まり、僅かに瞳も虚ろになっていた。触ってみなければわからないが、下着も濡らしてしまっているのかもしれない。
薄紫色の髪を撫でる。急くようにして肉欲を貪るのは、この場では相応しくないように思えた。
「頭のなかが、くらくらしてしまっているようです。北郷さまの……、一刀さまのせいなんですからね」
油断していたところで名を呼ばれ、愛おしさで目眩がしてしまいそうになった。
董卓の身体を、きつく抱く。この小さな身体には、乱れた世をなんとかしたいという強い願いを宿している。その助けに、自分はなってやれるのだろうか。どんなことでもいい。とにかく、全てを董卓だけに背負わせてしまうよりはマシだろう、と一刀は思った。
「どうか、されましたか?」
「なんでもない。きっと月に、見惚れていたんだよ」
「もう、一刀さまったら……」
穏やかな時間だ。ずっとこうした時を過ごすことができればいいのに。そう考えてしまうのは、いけないことなのだろうか。
そうしてしばらく、一刀と董卓は木陰で抱き合っていた。川のせせらぎの音だけが、二人の耳に届いていた。
翌早朝。昼過ぎには、董軍を始めとする官軍は、洛陽に向けて出発する手はずとなっている。早起きしていた劉備は、一刀の陣屋へと入っていく人影を見ていた。
それから支度をしていると、ぽつぽつと将たちが起き始めてくる。そのなかには、一刀のところへ顔を出そうとする者もいる。関羽も、その一人であった。
「あのっ、愛紗ちゃん……だめだめっ! ご主人様、昨日は遅くまでお仕事されてたから、朝くらいゆっくり寝かせてあげようと思ってるの! だから、ねっ……!?」
「と、桃香殿……? わかりました。そうであれば、わたしもご主人様の眠りを妨げる輩を遠ざけてみせましょう」
普段であれば、関羽の行動を止める理由などなかった。側仕えをする者として一番に会いたいという気持ちはあったものの、それはそれである。しかし、今日は特別な事情があるから通すわけにはいかなかった。
あの賈駆が、隠れるようにしてひとりでやってきたのである。二言目には一刀にきつい言葉を浴びせるのが賈駆という人だったが、それも最近では随分とおとなしくなってきている。ツンツンとした態度は相変わらずだったが、そんなことをとやかく言う天の御遣いではなかった。
これはきっと、そういうことだ。劉備のなかの女の勘が、確信を持って告げていたのだ。
ならば、恋する乙女を憚るものなどあってなるものか。賈駆のことを応援したい一心で、劉備は人払いを買ってでたのである。
なにも知らない関羽を加え、陣屋の守りは万全となった。
なかでは上手くやっているのだろうか、と劉備は少し心配になる。だが、喧嘩にでもなっていれば、今頃どちらかが飛んで出て来ているはずであろう。
「あー、もうっ……! なんだか、わたしまでドキドキしてきちゃったよお!」
「ひゃあっ……!? いきなり抱きついてこられるなんて、どうかなさったのですか……!?」
「うーん、ごめんなさい! やっぱり愛紗ちゃんには、内緒にしておくね!」
一刀と賈駆がくんずほぐれつとなっている様を想像し、劉備は身を悶えさせていた。そして、その衝動に突き動かされるがまま、すぐ隣にいた関羽に飛びついたのである。
さしもの劉備も、真実を教えようとは思わなかった。それに、女同士のスキンシップに身体を強ばらせている関羽は、それどころではなさそうだったのである。
時間を、少しさかのぼる。大地を照らす日光は、まだ弱々しかった。
北郷軍の陣内に現われた賈駆は、誰から見ても挙動不審といえる動きをしていた。わざわざ人目を避けるようにして移動し、視線は辺りをちらちらと伺っていたのだ。
目標としていた地点は、北郷一刀その人の眠る場所。
賈駆の心は、自分ではどうにもならないくらいに揺れていた。その原因は、明らかだった。午後になってしまえば、董卓の軍勢は洛陽に向けて移動してしまう。数日経てばまた一刀と会う機会もあるはずだったが、気づけば先に足が動いてしまっていたのだ。
「なんでこうも、いらいらするのよ……ッ! 月は、あいつのことが好き。こうなるなんて、わかりきってたことなのに。ボク、ボクは……っ」
付き合いの長い幼馴染であるだけに、賈駆は董卓になにがあったのかすぐにわかってしまっていた。そこまでは、まだよかった。大切な親友を奪われたと、怒りが湧いてくればまだよかったのだ。
期待していた感情は、ついに生まれてはこなかった。代わりに賈駆の心を埋めた感情は、焦燥感だった。このままでは、置いていかれてしまう。それは董卓にか、それとも一刀にだったのだろうか。とにかく、昨晩はまともに寝ることすら叶わなかったのである。
「北郷……」
結局、ここまで来てしまった。一刀に関係を迫ったところで、断られることはないないだろう。そのことが、より苛立ちを募らせていた。
ふらふらとした足取りで、賈駆は陣屋の内部へと消えていった。そのことを劉備に見られていたことなど、知る由もなかったのである。
「ボク、どうすればいいの?」
寝ている一刀の上に覆いかぶさり、しばらく顔を見つめていた。穏やかな寝息。それに安心してしまっている自分が、賈駆は嫌になった。
「呑気に寝てくれちゃって、ほんと……バカなんだから」
「聞こえてるぞ、詠。今日は朝っぱらから、ひどい言われようだな」
「へっ……!? 嘘っ、起きてたのっ!?」
二人の眼と眼が、交差している。驚きを隠せなかったのは、侵入したはずの賈駆のほうだった。
わずか数秒のうちに、賈駆の顔が赤く染まる。あたふたとしてバランスを崩したその身体を、一刀はゆるやかに迎えたのだった。