「凪、ここからどうする」
「正直に申し上げますと、自分では打つ手がありません。やはり隊長だけでも、後退されるべきかと」
「それだけは、だめだ。ひとりであの強さの敵を相手にするのは、無茶がすぎるだろう。時間稼ぎでもなんでもいい。力を合わせて切り抜けるんだ、凪」
どうにか距離を取って会話をしている一刀と楽進のことを、呂布は冷え切った瞳で観察していた。興味がない、ただそれだけのことなのだろう。敵は敵であり、倒すためだけの存在に過ぎなかった。
打つ手がないと楽進は言ったが、その通りだった。むしろ戦闘を続けるほどに、一刀たちのほうが不利になっていく。体力の面でも、呂布は数段上だったのである。
じりっ、じりっ、と呂布が距離を詰めてくる。首に巻いた赤い布が、まるで血に染まっているかのように見えた。
こうなってしまっては、捨て身の覚悟で一撃を入れるしかないのだろうか。後方から馬蹄の音が鳴ったのは、一刀がそう考え始めた頃だった。
「関雲長、推参! ご主人様、ここは一度お退きください!」
「愛紗か! それにしても、早い到着だったな」
関羽の眉がつり上がっている。途中すれ違った李典の様子から、一刀の身になにかあったのだと直感していた。
呂布の意識も、一刀らの後方から矢のような勢いで駆けてきた関羽に向けられていた。
「実は様子を見に行くようにと、稟に頼まれていたのです。鈴々と香風も、じきに到着することでしょう。ですから、どうかご安心ください」
「そうか、あとで稟には感謝しておかないとな。だったら愛紗、ここは任せる。呂布殿はかなりの使い手だ、それでもどうにかして止めてくれ。戦うことは、俺の本意じゃない」
一刀の言葉を受けて、関羽が頷いた。
なにかあるかもしれないと、郭嘉は殿を受け持っていた関羽に伝えていたようだった。そのことが、功を奏したかたちとなっていた。
関羽であれば、そう簡単に呂布に遅れを取ることはないはずである。その間に張飛と徐晃が間に合えば、制止のための算段も格段に立てやすくなる。
「参るぞ、赤兎ッ!」
馬腹を蹴る。
愛馬にも気合を入れ、関羽は青龍偃月刀を構えた。相手が尋常ならざる使い手であることは、見ただけでなんとなく理解できている。それだけに、初手から全力でいくつもりだったのである。
どうしたのだろうか。ふと、呂布の冷え冷えとしていた瞳に、生気が戻っていた。ぽかんと無防備に開かれた口が、何事かを呟いている。
一瞬、赤兎が走りながら首を振り、戸惑いを浮かべた。呂布のまん丸で愛らしい瞳が、燃えるような毛並みを持つ関羽の乗馬を凝視していたからである。
「…………? せき……と?」
「はっ……? あやつめ、なにを口走っているのだ」
「セキト、どこ……?」
「れ、恋殿っ……!? いけません。いま気を抜かれては、危険ですぞー!?」
焦ったような陳宮の声が飛ぶ。
一刀たちには理由がわからなかったが、呂布の闘気が霧散してしまっている。武器を持った右腕はだらんと垂れ、純粋そのものな瞳がなにかを探しているようでもあった。
「くっ……! なんだというのだっ。まるで、戦う気が感じられないではないか」
ぎりぎりのタイミングだった。
横に薙ぐようにして斬りかかった偃月刀を腕力で押し留め、関羽は手綱を引いた。その動きが予想外だったのは赤兎も同じようで、小さな
「何が何だか分からないけど、とにかく終わったみたいだ。凪、傷は平気か」
「ええ、この程度。隊長を守るためですから、なんともありません。自分は、浮足立った兵たちを鎮めてきます」
「そうしてもらえると、助かるよ。でも、それが終わったら必ず治療はすること」
真新しい数箇所の傷跡からは、いまも血が流れ出ているのだ。楽進は大したことではないように言ったが、多少の強がりはあったはずである。
どうせなら有無を言わさないよう自ら手当してやりたいくらいだったが、一刀にはまだやるべきことが残っていた。
この無為な衝突に、一体なんの意味があったのであろうか。それを確かめなくては、収まるものも収まるはずがなかった。
戦意を失った呂布の横を通り、一刀は陳宮の前に出た。怯えている。右手には、いまも抜身がぶら下がったままなのである。そのことにようやく気づいた一刀は刃を鞘に納め、青い顔をしている陳宮に目線の高さを合わせた。
「聞いていたかもしれないけど、俺は北郷。よければ、キミの名前を教えてもらってもいいかな」
「な、なんですか、いきなりっ!? ねねを取って食おうなどとすれば、恋殿が許しませんぞ……!」
「いくらかわいらしい子が目の前にいるからって、そう焦ったりはしないさ。それに頼りの呂布殿は、心ここにあらず、って感じだけど」
「か、かわって……!? くうううっ……! そのような甘言で、この陳宮を惑わせるとは思わないことですぞ! お前のような男の一人や二人、恋殿がいなくたって……ッ」
ねね、というのは陳宮の真名である。本来は
怒っているのか恥ずかしがっているのか、陳宮の顔色は忙しなく青から赤へと変わっていく。
元気のいい跳ねっ返りだ、と一刀は笑みすら浮かべていた。いきなり襲われたことについては腑に落ちなかったが、どうやら悪気はないようなのである。
「陳宮殿、でいいか。俺たちは、洛陽へ向かっている途中なんだ。そちらが執金吾として街を警護しているのなら、董卓殿や盧植殿を知っているだろう?」
「え……、あっ! お前、董卓殿のことを知っているのですか?」
「知っているもなにも、冀州で一緒に黄巾軍と戦ってきたばかりだよ。だから誓って、俺たちは怪しい者ではない」
「あう……、そうなのですか……。ねねとしたことが、どうやら早とちりをしてしまったようなのです」
小さな身体を余計に縮めて、陳宮は落胆しているようだった。
呂布の武勇は、陳宮にとっても誇らしいものだった。何人たりとも寄せ付けない、圧倒的な武勇。見ているだけで胸がすく、とはこのことであろう。
しかし、戦功を上げて出世するという欲を、呂布は持ち合わせていなかった。気の向くままに武を振るい、家族の食い扶持が稼げればそれでよかったのだ。
もっと大きな戦場で戦う呂布の姿が見たい。陳宮は、時々そう考えることがあった。
憧れであり、慕うべき存在。主君が出世に無頓着であるのならば、自分がどうにかするしかない、と陳宮は思っていたのだ。
その焦りが、今回のような戦闘行為につながってしまった。
「その……、ごめんなさい。それから恋殿……、呂布殿には、なんの悪気もなかったのです。呂布殿は優しいお方ですから、ねねのためにと……」
「誤解がとけたのなら、それでいいんだ。幸い、どちらにも死人が出たわけでもないからな。もし兵を交えての戦いになっていたら、こうはいかなかっただろう」
小さな子に殊勝な態度で謝罪をされたのでは、許さないわけにもいかなかった。傷を負った楽進には、自分でいくらでも埋め合わせはしてやれるのである。
それに、呂布のような将とわだかまりを作っては、後々なにが起こるかわかったものではない。不利益を生む可能性を潰すためにも、一刀はあっさりと折れることを選んだ。
戦闘をやめてしまった呂布は、まだ赤兎のことを気にしているようだった。
下馬した関羽は呆れながらも、困惑中の馬体を撫でて落ち着かせている。探ってみても、呂布からは殺気が微塵も感じられなかった。まるで、人が変わったようである。怪異に化かされたような気分に、関羽は陥っていた。
「セキト……、馬になった?」
「言っている意味がよくわからんが、この赤兎は正真正銘初めから馬だ。兗州の曹操殿から、譲り受けたことにも相違はない。しかしその言いよう、お前も赤兎、と名のついたなにかを飼っているのか」
関羽の質問に、呂布は首を縦に振って応えた。素直であり、純朴そうであった。動物のことが気になって戦いをやめる将など、関羽は聞いたことがなかった。
「恋のセキトは、もっと小さい。恋が家に帰ると……、いつもちゃんとまっててくれる」
呂布のいうセキトというのは、洛陽にある邸で飼っている犬のことである。種類でいえば、ウェルシュ・コーギーに近かった。
首もとには、飼い主とお揃いの赤い布を巻いている。名付け親である呂布が手づから巻いてやった布である。
呂布が帰宅するくらいの時刻になると、決まってセキトは邸の門で待っていた。短い足を動かして必死に駆け寄ってくる姿に、いつも心を癒やされていた。陳宮に負けず劣らずの忠犬ぶりといえよう。
「……こっちのセキトも、かわいい」
「む、そうか? ふふっ……。なんだ赤兎め、嬉しそうではないか。珍しいことがあるものだな」
戦っていた時とは別人のような呂布が、楽しそうに赤兎の体毛を撫でている。関羽以外にはほとんど懐かない馬だったが、いまは尾が左右に揺れている。赤兎は気持ちよさそうに手を受け入れたまま、ぶるるっ、と小さく鳴き声を発した。
「わたしは関羽、字は雲長。ご主人様に斬りかかったことは許しがたいが、不思議と憎めないやつだ。殺し合いではなく、いつか手合わせ願いたいな」
「恋は、呂布。……恋でいい」
「うむ。よろしくな、恋。ならばわたしのことも、愛紗と呼んでくれていい」
少しの沈黙の後、呂布はこくり、と頷いてみせた。二人の会話を聞いている赤兎は、どこか楽しげだった。
陳宮を伴って、一刀は二人のすぐ近くにやって来ていた。呂布と目が合う。恐ろしさのようなものは、さっぱり感じられなかった。
「ん……。愛紗の、ご主人様?」
「なんだ愛紗、もう呂布殿と仲良くなったんだな。それに、赤兎まで」
関羽がもう真名を許していることに、一刀は少し驚いたようだった。
どこかしら、波長の合う部分があったのだろう。赤兎を間に挟んで見つめてくるところなど、なんとも微笑ましい光景でもある。
「も、申し訳ありません! ご主人様が危険な目に遭われたというのに、わたしとしたことがつい……」
「まさか、責めてなんかいないって。陳宮殿の誤解はとけた。どうだろう呂布殿、俺とも仲良くしてもらえるかな」
「…………うん、わかった。迷惑かけたから、恋のことは、恋でいい。…………ん」
自分の真名を呼ぶことは許可したが、相手のことをどう呼べばいいのか呂布はわからないようだった。赤兎の首に抱きつきながら、小さく眉根を寄せている。
真名を預かったお返しに名前で呼ぶように伝えると、一刀は握手のために右手を差し出した。当然ながら、以前の董卓と同じように呂布の頭上には疑問符が浮かんでいる。
「仲直りの証、とでも思ってもらえればいい。お互いに、手を握り合うんだ。たったそれだけ、簡単だろ?」
「……ん、わかった。それだけなら、簡単」
呂布の指先が、一刀の手を確かめるように触れてくる。くすぐったかったが、悪くない感触だった。
本質的には、陳宮のいったように優しい少女なのだろう。無機質なほどに思えていた表情が、いまは愛らしく緩んでいた。そのあたりに関羽も惹かれてしまったのだろうか、と一刀は密かに胸の内で考えていた。
「ちんきゅうううぅううううう、きいいいぃいいいいっく!」
戦闘後とは思えないくらい穏やかだった空間を、けたたましい叫び声が破壊していく。
繋がりそうだった一刀と呂布の手を引き裂くかのように、陳宮が跳び蹴りをして割り込んだのである。
「…………あっ」
反射的に、一刀は身体を引いてしまう。離れていく手を、呂布は少し残念そうに見つめていた。
「陳宮殿。俺はさっきので和解は済んだのだと思っていたのだけれど、もしかして違っていたのか?」
「勘違いをしてしまったことについては、その通りなのです。ですが、それとこれとではまったく別の問題でありましょう。いくら真名を許されたからといって、恋殿とべたべたしていいわけがないのです!」
「なんだ、要するに妬いているということか。言ってはなんだけど、俺の世界ではこれは挨拶みたいなものだ。そこに少しも、おかしな意味なんてないよ」
「俺の、世界……? むむっ……? もしやお前、天の御遣いとかいう……?」
一刀の物言いで、陳宮は相手が天の御遣いであるということに気がついたようだった。呂布の参謀を自負しているだけに、そういった情報は掴んでいた。
洛陽のあたりにも、天の御遣いの噂は広まっていた。世が荒んでいるいまだからこそ、民衆は御伽話のような風聞に心を躍らせていたのだろう。それに朝廷内部にも、天の御遣いに関する情報は入っている。
「陳宮殿が思っているように、俺が天の御遣いだ」
「な、ならば、不浄な輩から純粋な恋殿を守るのは、ねねの大事な役目なのです! おかしな振る舞いなど、絶対にさせませんからな! ……はっ、も、もしや」
「はあ、それでどうしたというのだ……」
勇ましかった陳宮の声が、いきなり沈みだした。
その次に出てくる言葉は、できれば別のものであってほしい。そう願いながらも、関羽は早くも目頭を押さえて俯いていた。
「さっきねねのことを、かわ……、かわいいと言ったのはもしやそういうことなのでは……!? いけません……、いけませんぞ……。お前は恋殿だけでなく、ねねの純潔まで犯そうというのですねッ……!?」
陳宮は必死に表情を怒らせながら、両腕で身体を隠すようにしている。
やはりこうなってしまったか、と関羽は天の御遣いの噂を呪った。嫌がる女を無理やり手篭めにしたことなど、これまで一度もないのである。それなのに、尾ひれや背びれがついた風聞というのはどこかしら広まりやすいようだった。
面白おかしく話せるだけに、真っ当な武勇伝よりも好まれているのだろう。民衆というのは、なによりもまず楽しむことを優先しがちだった。
「ねねのきっくで、お前を矯正してやるのです。覚悟っ!」
後ずさり、陳宮は再び跳び蹴りの構えをとっている。よほど不意を突かれない限り当たるものではなかったが、それはそれで怒らせてしまいそうでもあった。
「お兄ちゃんが危ないって聞いてきたのに、どうして遊んでるのだ?」
「だったらー、シャンもお兄ちゃんと遊びたいー」
遅れて到着した張飛と徐晃は、揃って状況が飲み込めていないようだった。
二人からしてみれば、一刀と陳宮がじゃれ合っているようにしか見えなかったのだろう。裏返してみれば、陳宮がどれだけ暴れようがその程度ということでもある。
「お兄ちゃん、まてー」
「鈴々も、追いかけっこするのだ! 誰だか知らないけど、負けないよ!」
なぜか自軍の将らにまで追いかけられ、一刀はしばらく走りまわることを余儀なくされていた。関羽と呂布が、それをなんともいえない面持ちで見守っている。
「今度は、恋のセキトにも会ってみたいものだな」
大っぴらにするつもりはなかったが、関羽はかわいらしいものが嫌いではなかった。というより、大好きなのである。
そんな新たな友人の頼みを、呂布は控えめな笑顔とともに肯定した。
洛陽近郊には、しばらく滞在することになるだろう。都はまだ、穏やかな波に揺られているだけだった。