夢と現実の境界。あまりにも朧気なものであり、ときに人々はそれに惑わされる。
いま自分が見ている世界が現実なのか、それとも夢であるのか。そのことは、誰にも証明することなどできないのである。
「ん……、むにゃ……、んんっ」
またしても、夢幻の境目に足を踏み入れてしまった者がいるようだった。
ぼんやりとした意識のなか、周囲の声だけが頭に響いている。少しづつ、四肢に力が宿っていく。
「鈴々、どうしたというのだ! おい、しっかりしろ!」
長い睫毛がぴくりと揺れる。意識が戻るまで、もう一歩のところまできていた。
背中から地面に大の字で倒れている少女。自分の名が呼ばれている、そのことはわかっていた。
痛む頭を無理矢理に再起動させ、上がらない瞼をこじ開けていく。もう一歩。開けた眼のなかに、艶やかな黒髪が陽光とともに映っている。
「平気か、鈴々!」
「ふえ……、愛紗?」
「愛紗、ではない。鍛錬中にいきなり眠ってしまうなんて、一体なにがあった」
黒髪の持ち主のことは、よく知っていた。
関雲長。張飛の義姉であり、ともに戦ってきた同志でもある。その関羽が、いまは鍛錬中だったという。
言われて右手を動かしてみれば、指に棒状のものが当たる。つい先程まで、握っていたはずの蛇矛がそこにあった。
「りんりーん、だいじょーぶー? 急にばたん、って倒れたから、シャンもびっくりしたー」
自分を見下ろしている人物がもうひとりいることに、張飛は気がついた。背丈は小さく、全体的に子どもっぽい印象を残している。知らない少女だった。
ぼんやりとしていた脳内が、急激に沸騰していった。全く面識のない人間に真名を呼ばれ、怒りに火がついてしまったのだろう。転がる蛇矛を一瞬で手にして、張飛は飛び上がるついでに得物を振り下ろしていった。
「ひゃわっ……!? 鈴々、寝ぼけてる……?」
「また呼んだ! なんでお前、鈴々の真名を知ってるのだ!」
「え……? なんでって……、どういう意味……? 鈴々の真名は鈴々からあずかったのに、いまさら……なんで怒るのー!?」
長大な蛇矛と戦斧が激突し、ビリビリとした衝撃が走る。受け止めた徐晃は珍しく慌てているようで、しきりに関羽の表情をうかがっていた。
どうやら、寝ぼけて武器を振り回しているようではないらしい。そのことがわかるくらい、張飛の気迫が関羽にも伝わってきていた。
「だから、呼ぶなっていってるの! 愛紗も見てないで、訂正するようにいってほしいのだ!」
「お前、香風のことがわからないのか……? 昨日だって、一緒に遊んでいたではないか」
「愛紗まで、変なこといわないでよ。鈴々、こんなやつ見たことないのだ」
本気で打ち掛かってくる張飛相手に、徐晃は防戦一方といった様子である。実力だけでいえば、ふたりは拮抗している存在だった。
「ううっ……! シャンのこと、忘れちゃうなんてひどいよー!?」
戦う理由がないゆえに、全力で大斧を振るうことさえままならない。動揺の分だけ、張飛の攻勢は強まっていった。知らない人物に真名を何度も呼ばれた上に、頼りの関羽すらも自分のことを訝しんでいる。
苛々を募らせる張飛の武は、とどまるところを知らなかった。蛇矛によって叩かれた地面には亀裂が入り、その力の強大さを誇示しているかのようである。
この暴風をおさめることができるのは、あの方をおいて他にはいない。そのように確信した関羽は、徐晃に時間を稼ぐように伝えようとしていた。この時間であれば、その人物は政務室にいるはずだった。
「鈴々」
「こんどは、誰なのだ!」
男の声に、張飛は振り返った。関羽の表情が、安堵に変わっている。
よもや、一刀のことを忘れはしないだろう。これまで揃って武を捧げ、戦い抜いてきた仲なのである。
もしや一刀が太守となったことで、遊んでもらえる時間が減ったことに拗ねているのかもしれない、と関羽は一瞬考えてしまった。しかし、徐晃との打ち合いで見せた気迫が本物だっただけに、理由は別にあるという気がしているのも事実なのである。
「どうした、そんなに怒って」
「お兄ちゃん!」
一刀の姿を認めると、張飛はようやく蛇矛を振るうことをやめた。
思わぬところで脅威に遭遇した徐晃は、腕で額の汗を拭っている。
「あのね、あいつが鈴々の真名を勝手に呼ぶの! だから、訂正させようと思って……」
「あいつって……、香風のことだよな? もしかして、喧嘩でもしたのか。だったら……」
「ううーっ! お兄ちゃんも、愛紗とおんなじこというのだ! 鈴々、ほんとに知らないんだもん! そうだ、お姉ちゃんはッ」
「お姉ちゃん? 桃香殿なら、今日は街へ出かける言っていましたが。ともかく、どちらも武器を降ろしてください。香風は、こちらへ」
たまたま一刀に随伴していた郭嘉が、一旦の停戦を命じた。
張飛の顔が、またしても不審なものを見つけたように変わっている。まじまじと穴が空くほどに見つめられては、さすがの郭嘉も困惑しているようだった。
「なんで、戯志才がここにいるのだ。公孫賛のお姉ちゃんのところで、分かれたはずでしょ?」
「はて、それはなんの話しでしょうか。確かに白蓮殿のところに行きはしましたが、わたしに一刀さまと離れる理由などありません。それに今更、戯志才などと」
「一刀……さま? 戯志才、お兄ちゃんのことそんなふうに呼んでなかったのに……?」
益々、混乱は大きくなっているようだった。眉根を曲げて、張飛は首を傾げている。
関羽は、全く話のかみ合わない義妹に、どのように声をかければいいのかわからないようだった。
「ふむ……、これはもしや……? 一刀さま、少しお耳を拝借いたします」
張飛との会話から、郭嘉はひとつの推論を立てたようである。
いま目の前にいる少女は、張飛であって張飛ではない。明らかに、別の記憶があらわれているのだ。そのようなことが果たして起こり得るのかは郭嘉の埒外のことだったが、この状況はそうとしか考えようがなかった。
「ここにいる鈴々は、別世界の鈴々の可能性があるっていうことか。俺がここにいること自体がイレギュラーなことなんだから、平行世界が存在してもおかしくはない、か……」
「別世界の鈴々……、ですか……? しかしこの鈴々は、つい先程までわたしたちと鍛錬をしていたのですよ? ご主人様のように天から落ちてきたのならともかく、まさかそのようなことが……」
「上手く説明できないけど、なにかの拍子に記憶だけが入れ替わってしまったのかもしれない。鈴々、心当たりはないのか?」
一刀たちの議論を話半分に聞いていた張飛だったが、なんとか目を覚ます前のことを思い出そうとしているようだった。
不可思議な力が働いた結果こうなったのであれば、もとに戻ることができるとは限らない。だとしても、どんなに小さなことであってもいいから取っ掛かりがほしかった。
「あっ……そうだ。鈴々、いつもみたいに木の上で寝ちゃってたのだ。それでそれで……、うーんと」
「いつもみたいに……か。どこにいようと、鈴々は鈴々なのだな」
ようやく話を飲み込み始めた関羽は、ぐっと口元を押さえている。
どこかへ行ってしまった義妹が、寂しくて泣いてはいないだろうか。違う世界で、迷子になっていないだろうか。どうしても、そんな考えばかりが浮かんでは消えていく。
「そうそう! お昼寝してたときに下から愛紗に怒鳴られて、鈴々落っこちちゃったのだ! そしたら目の前がまっくらになって、なって……」
張飛のくりっとした瞳から、涙が一筋こぼれ落ちる。どうしようもないくらい、郷愁の気持ちが湧き出してしまったのだろう。
反射的に小さな身体を抱きしめ、一刀は落ち着かせるように頭を撫でていった。記憶が異なっていること以外、少しも違わない。それにこの張飛も、異邦人である自分のことを知っているようなのだ。
ひょっとしたら別の世界の北郷一刀だって、こうして迷いこんだ少女を慰めてくれているのかもしれない。そう思えば、多少は気が楽になった。
「鈴々、って呼んでも構わないかな?」
「うん……。お兄ちゃんは、お兄ちゃんだもん。そう、だよね……?」
揺れる瞳が見上げている。そうだよ、と返事をしながら抱擁を強めれば、張飛は安心したように腕で背中に抱きついてきた。
赤い髪から漂ってくるのは、お日様のような香り。張飛は、確かにここにいる。自身にもそう言い聞かせるかのように、一刀はしばらくの間小さな身体を離さなかった。
「あっ、お姉ちゃん……」
「鈴々ちゃん、なんだよね? 愛紗ちゃんから聞いたよ。不安に思うことがあったら、なんでも相談してくれて大丈夫だからね」
「お姉ちゃんは、どこにいても優しいのだ。でも、鈴々もうへーきだよ。ここには、愛紗もお兄ちゃんもいるんだもん。だから、きっとなんとかなるのだ!」
一刀の膝に座っていた張飛は飛び上がり、元気になったということをしきりにアピールしている。
「しかし、不謹慎なことかもしれませんが、鈴々の話しは大変興味深いですね。なんでも、あちら側では桃香殿が義勇軍を率いて立ち上がられているそうですよ」
「へっ……? わたしが、義勇軍を……?」
「そのようです。一刀さまは、そこでは桃香殿の補佐に回っておられるようですね。それにいまもまだ、黄巾の連中が猛威を振るっているのだとか」
張飛に聞かされた話しを、振り返るようにして郭嘉は語った。僅かに顔が赤らんで見えるのは、その内容に思考を刺激されているためかもしれない。
配下の面々は一様に驚きを見せていたが、劉備が勢力を築くというのは、一刀にしてみれば至極納得のいく流れではある。
「それにしても、どこにいようが女性に囲まれる運命なのですね、一刀さまは。いえ、むしろ引きつけている、と言ったほうが正しいのでしょうか」
「お兄ちゃんだから、それはしかたないー。でもー、シャンがいないのは……ざんねんかもー? お兄ちゃんも、そう思う?」
空席となった一刀の膝に、徐晃が目敏く収まっていく。気持ちよさそうにぐりぐりと身体を擦り合わせており、はふう……、という快感混じりの声が口からは漏れていた。
状況を理解した張飛とは和解も済んでおり、真名も再び交換しあっている。未知の世界の友人がひとまず落ち着いたことで、徐晃も張り詰めていた気が緩んでいるのかもしれない。
「なんというか、難しい質問だな。あっちの俺は香風のことを知らないだろうし、残念がることもできないというか」
「うー、そうだねー。でもきっと、鈴々の世界でもいつかは仲良しになれるんじゃないかなー。だってシャン、お兄ちゃんのこと大好きだからー」
首を反らせて、徐晃は一刀のことを見つめている。その仕草があまりにも愛らしく、一刀はつい柔らかそうな頬に手を伸ばしてしまった。むにむにとした感触が心地いい。胸を揉むのとはまた違ったよさがあって、やめられなくなってしまう。
「しゃんふー、お兄ちゃんとくっつきすぎなのだ!」
「ふふっ、真っ赤になっちゃって鈴々ちゃん可愛いー。もしかして、向こうのご主人様とはまだそういうことはしてないのかな?」
「ふえっ? そういうこと、ってなんなのだ? お姉ちゃん、鈴々におしえて!」
「だったら、まだ内緒だね。元の世界で教えてもらうためにも、戻ることを諦めちゃだめだよ」
劉備の発言に、張飛は表情を曇らせてしまう。
どうすればいいかわからないというだけで、帰ることを諦めるべきではない。劉備は、そのように思っていた。
ここにいる自分は、張飛が武勇を捧げた自分ではない。志を同じくして立ち上がったのならば、そこで戦うことを願い続けるべきである、とも思ったのだ。
「桃香殿、いまはそこまで言わなくとも……」
「いいのだ、愛紗。鈴々、みんなで誓ったんだもん。だから絶対、お姉ちゃんたちのところに帰らなきゃ」
決意の込められた言葉だった。張飛の目には、諦観の色など少しもなかった。
あの日、劉備と、関羽と、そして一刀と誓いを交わしたのである。それを果たすためには、いつまでもここで油を売っているわけにはいかないのである。
「うん、その意気だ。俺たちの世界の鈴々だって、きっと戻ってくることを強く願ってくれていると思う。ふたりがそうして同じ方向を向いていれば、すぐに天も間違いに気づくことだろう」
「なるほど、それはよいお考えです。天の御遣いである一刀さまがおっしゃることですから、必ずやそうなることでしょう」
「そうだよ! 案外、一晩ぐっすり眠ればもとに戻っちゃうかもしれないよ? だから今日は、いっぱい楽しんで、いっぱい疲れちゃおう!」
劉備の元気に満ちた声が、鍛錬場に響き渡っている。
そう決めたからには、善は急げともいう。一刀と劉備に手を繋がれ、張飛は街に連れられていった。
腹いっぱいになるまで食べ歩いた後は、徐晃たちとくたくたになるまで鍛錬を行った。
「えへへ、お兄ちゃん」
夜。一刀の寝台に潜り込み、張飛は楽しそうに布団をかぶっている。
ただ眠るだけであれば、あちらの自分に対しても不義理にはならないだろう、と一刀は思う。それに今夜は、二人っきりではない。
「桃香、狭くないか?」
「うん、平気だよ。鈴々ちゃんは、間で苦しくないかな?」
「大丈夫なのだ。それにぴったりくっつけるほうが、鈴々うれしいかも」
「だったら、ぎゅーってしちゃおう。ほらほら、ご主人様さまも!」
川の字に寝転んでいる様子は、いわば親子のようだった。一刀と劉備の体温を前後から感じて、張飛の目がとろんとなっていく。重たげな瞼が降りてしまえば、すぐに穏やかな寝息が聞こえてくる。
「とっても、幸せそう。鈴々ちゃん、いい夢見られたらいいな」
「そうだね。俺たちも、寝てしまおう」
「はい。おやすみなさい、ご主人様……」
窓から、朝日が差し込んでいる。天から伸びた道。そのように、受け取ることができるのかもしれない。
寝台の真ん中で、布団がもぞもぞと動き出している。一刀と劉備の間から顔を覗かせ、張飛は何度も瞬きをしている。
小さな手が恐る恐る一刀の肩を揺らし、起床を促していった。
「ねっ……、お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
「ん……、ああ、おはよう。鈴々、ゆっくり眠れたか?」
「うん!……ってそうじゃないのだ! お兄ちゃん、ここどこ!?」
焦っているように、現在の居場所を尋ねる張飛。肩を握った手にも、段々と力が入っていく。
その姿に、一刀はもしやと思った。
「ここは涼州だ。戻ったのか、鈴々……?」
「ほんとに、そうなんだ……! お兄ちゃん、鈴々のお兄ちゃんなのだ……っ」
勢い任せに飛び込んできた張飛をキャッチすると、一刀は万感の思いをもって小さな背中を抱きしめた。
もう、二度と離したくはない。その思いは、張飛も同じだったようである。
「ちゅっ、はむっ、おにいちゃ……んむっ……!」
熱い唇がぶつかってくる。感情の高まるままに粘膜を絡め合い、体温を分け合っていく。
強引に割り込んでくる舌を吸い取って、存分に味わっていった。
「鈴々ちゃん、帰ってこられたんだね。よかったよお……」
すぐ隣では、目覚めた劉備が瞼を擦りながらも張飛の帰還を喜んでいる。夢中で口づけている張飛は、どうやらそのことに気がついていないらしい。
「もっと……、お兄ちゃん……。もっとしよ……?」
天の気まぐれが起こした事件により、絆はより強まったといえる。そして、知らない世界の自分たちも、いまこの瞬間仲間が戻ってきたことに歓喜していることだろう、と一刀は思っていた。
それぞれの道があり、それぞれの戦いがある。決して交わることがなくとも、なにか勇気をもらえたような気がしていた。
「鈴々が帰ってきたんだ、いくらでも付き合うさ。ほら、おいで」
満点の笑みを浮かべ、張飛はさらに唇に吸い付いていった。やがては様子を見に来た関羽らとも再会を喜び合い、歓喜の輪は広がっていったのである。
この日いちにち、城内は祝宴でもしているかのように、晴れやかな雰囲気につつまれていたのだった。