原野を疾駆する騎馬の軍団。風になびく旗には、「馬」の一字がはっきりと示されている。
ざっくりと数えて、五百騎はいるようだった。そのなかでも、先頭を
「急げよ、お前ら。出迎えに遅れたなんて思われたら、母様の面子に泥を塗ることになるんだ。だから、この行軍は戦と同じだと思え」
先頭を駆ける将らしき人物から、幾度も檄が飛んでいる。彼女こそが、涼州にその人ありと謳われる馬超だった。
配下たちはそれに応じ、乗馬の速度を限界まであげていった。さすがに涼州馬家の
いくつもの蹄跡を大地に残し、騎馬軍団は駆け続けている。休息もほどほどに、司隸と漢陽郡との州境を目指しひたすらに走っているのである。
「ねえー、お姉さまー」
「なんだよ、
後方からお姉さま、と呼びかけられ、馬超は煩わしそうに振り返った。二人は従姉妹だった。本当の姉妹でこそなかったが、その繋がりは強い。
蒲公英というのは、
「ちょっとくらい、いいでしょー? 進軍をさぼったりしてるわけでもないんだしさー」
「ったく、なんだよ……」
「天の遣いって、どんな男の人なんだろうねー? お姉さまは、気にならない?」
馬岱の明るい声が響く。風のうわさや董卓からの伝言によって、ある程度の人柄は掴めている。賊軍討伐をしながら力を強めていったことは馬岱も知っていたし、そこそこの将器をもっているのだろうとは思っている。
「さあ、な。でも、月殿がこれだけ入れ込んでいるってことは、それなりの人物なんじゃないか? ……だけど、それはそれだ。母様はああいってたけど、あたしにはそんなつもりなんてないんだからな。だいたい、おかしいだろ……。会ったこともない奴と、いきなり、その……」
「ええー、なにその反応ー? なんだかんだいって、やっぱりお姉さまも気になってるんでしょー!」
「う、うっせ! 顔も見たことない男のことなんて、気にしようがないっての! それよりほら、急ぐぞ!」
「あーっ、逃げるんだー? うふふっ、お姉さまってば、かわいいんだからー」
「だから、そんなんじゃないっての!」
出立するにあたって、馬騰は娘にとある命を与えていた。その内容のせいで、馬超はこの数日やきもきさせられているのである。
天の御遣いを見極め、可能であればそれとなく接近せよ。要するに、婿探しをしてこいというのである。
馬超が次代の棟梁となることは確実だったが、いかんせん男っ気がなかった。周辺において誰もが恐れる錦馬超だということもあり、我こそがと立候補してくる者はこれまで一人もいなかった。
それに加え、天の御遣いの血が入ったとなれば、涼州において馬家の存在は一段と大きくなることだろう。馬騰の腹の中には、そのような考えもあったのである。
「お姉さまがどうでもいいって言うんなら、たんぽぽがもらっちゃおうかなー。叔母様にも、ダメなんて言われてないからね」
「……勝手にしやがれ。それより蒲公英、あたしについて来られなかったら、晩飯は抜きにするからな!」
「えっ……!? なにそれ、聞いてないよ! 八つ当たり反対!」
大将の加速に従って、「馬」の旗が揺れている。叫ぶ馬岱。しかし、馬超の背中はじわじわと遠のいていく。
軍中随一の馬術を誇る従姉妹が、本気で馬を走らせているのだ。さしもの馬岱にも、追いつく術はない。
「もー、待ってよー! お姉さまってばー!」
原野にはただ、虚しい呼び声だけが響いていた。
屹立する十文字旗。その真ん前に、天の御遣いは立っている。
日光を受け、ポリエステルでできた白い上着は一層輝いて見えている。その姿を初めて目にした馬超麾下の兵たちは、これが噂の天の御遣いか、とざわめいていた。
集団の中から、進み出る一騎がある。
見事な栗毛に跨った馬超。伸びた背筋には、馬家の誇りが宿っている。
「馬超殿か」
一刀のほうが、先に声をかけた。馬超は少し手前で馬から下りると、肩にかかった長髪を払う。
「ああ、よくわかったな。あたしがその、馬超だ。それじゃあ逆に聞くけど、北郷殿だよな?」
「うん、北郷だ。出迎え感謝するよ、馬超殿」
「いいって。月殿からどうしてもって頼まれたんだ、断れるわけないだろう? それに任地も隣り合っていることだし、お互いのことをよく知っておくに越したことはないしな」
馬超と対面してみて、さっぱりとしていて付き合いやすそうだ、という印象を一刀は抱いていた。
「そうだね。こっちのことが落ち着いたら、俺も馬騰殿のところへ挨拶にうかがいたい。その時はまた、よろしく頼むよ」
「おう、そういうことなら任せとけ」
「へえー、いいんだあ。叔母様のところに一緒に行ったら、絶対あの話になると思うんだけどなー」
馬超の後ろからひょっこりと顔を出した馬岱は、悪戯っ子のような笑みを浮かべている。紹介を受けていないため一刀には誰かわからなかったが、姿形が似ていることから馬家の人間であろうことは察しがついていた。
「えーっと、この子は?」
「ふえ……ッ!? んんっ、こほん……。っと、すまない。こいつはあたしの従姉妹で、馬岱っていうんだ。ほら、挨拶しろよ」
「にへへー、馬岱です。よろしくね、北郷さん」
「ん……、ああ。こちらこそよろしく、馬岱殿」
馬岱の瞳は、好奇に満ちている。母から命じられたことを思い出した馬超は、たまらず赤面してしまっていた。
「そちらが、馬孟起殿ですか」
「そうだよ、愛紗。それと隣にいるのが、馬岱殿だ」
騎兵を組織する将とあって、気になったのだろう。赤兎を引きつつ現われた関羽は、馬超麾下の騎兵に目をやっている。
統率の取れた馬家の兵は、いまではぴたりと固まって邂逅を見守っている。どの馬も体格が優れており、さすがに違うな、と関羽は感心していた。
「我が名は関羽、字は雲長です。ご主人様のもと、兵を率いさせていただいております」
「そういう堅苦しいのはなしにしようぜ。そういう話し方をされると、あたしのほうが息が詰まるからさ。な、関羽殿」
「う、うむ……、そうか。ならば、そうさせてもらおう」
「関羽さんの馬、すっごく立派だよね。涼州でも、見たことないくらいかも」
「確かに、いい馬だ。毛並みもよく整っているし、なにより面構えがいい。……おっと、忠誠心も負けず劣らずってとこだな」
燃えるような体毛に触れようとした馬超のことを、赤兎は身体を揺さぶって威嚇している。いつものこととはいえ、関羽も苦笑いする他なかった。
「すまない。どうにも赤兎は、気性が荒くてな。とはいえ、一度駆ければ何人の追随も許さない。わたしにとって、こいつは唯一無二の名馬だ」
「ふーん。いいな、そういうのって。あたしも、乗馬には自信があるほうなんだ。関羽殿、そいつの速さも見てみたいし、今度競走してみようぜ」
「ああ、いいだろう。せっかく涼州まできたんだ、わたしも馬術を磨きたいとは思っていたからな。問題がなければ、騎兵の運用についてもいろいろと教わりたいのだが」
「いいぜ。どうせ、一朝一夕で身に付くことでもないからな。聞きたいことがあったら、なんでも聞いてくれ」
「ありがたい。当てにさせてもらうぞ、馬超殿」
簡潔に紹介を終えると、両軍はすぐに進発の体勢をとった。漢陽郡の中心となる治所へ至るには、まだ少々日にちがかかる予定だった。
「それで、どうして馬岱殿はこちらへ?」
「うーんとね。たんぽぽ、もっと北郷さんとお話ししたいなーって思ったの。それに、こっちに来ることはお姉さまに許可してもらってるから、安心してくれていいよ」
漢陽郡の治所である
郭嘉は一応警戒する素振りをみせたものの、馬岱からは言葉以上の意図を感じることはできなかった。
「まあ、いいんじゃないでしょうかー。なにもない旅路ですから、馬岱ちゃんのような子がいてくれると会話も弾みますしー。ね、ご主君さま?」
「俺は一向に構わないよ。それに馬岱殿が一緒にいてくれることで、兵にもいい緊張感が生まれるからね。いままで自分たちだけだったから、いい刺激になってると思うな」
「えへへー。そこまでいわれちゃうと、なんだか照れちゃうかも。向こうに戻ったら、お姉さまに自慢しちゃおーっと」
馬岱は嬉しそうに笑っている。だが、気を抜いているようであっても、馬には適切な命令が送られていた。幼少期から染み付いた感覚、とでもいうべきなのだろうか。一刀直属の兵たちも、その技術には驚かされているようだった。
「馬岱ちゃん、馬岱ちゃん」
「ん? なあに、程昱さん?」
「快調に飛ばされているのはいいのですが、あまりご主君さまの前には出ないほうがよろしいかと」
「えっ、なんで……? もしかして北郷さん、客人のくせに俺の前には出るなー、って思っちゃう方だとか?」
そうだとすれば、評価を変える必要があるのかもしれない、と馬岱は思った。天の御遣いだと名乗ってはいるが、少しも威張り散らしているようには見えなかった。気さくな部分は馬超にも通ずるものがあったし、だからこそこうして馬岱は出向いて来ているのである。
「いえいえー、そうではないのですよー。馬岱ちゃんのような美少女と知り合ったのですから、ご主君さまのいけない虫さんが疼いてしまっているはずなのです。なので、ほら」
「ふえっ……、嘘っ!? 北郷さま、もうたんぽぽのことそういう目で見ちゃってるの……!?」
「んん……、どういうことだ……? おい、風……」
「くふふー。はて、なんのことでしょうかー? 風はご主君さまの忠実なる家臣ですので、お尻を視姦されるなどとは口が裂けてもいえないのですよ」
「はあ……。毎度のことですが、一刀さまの評判を下げるようなことをよく簡単に思いつくものですね……」
嘆息する郭嘉。それとは別に、馬岱は楽しそうにやり取りを眺めていた。
「あのさ、馬岱殿」
「きゃっ……! ……なんちゃって」
「どうやら、馬岱殿と風は馬が合うようですね……。冀県に到着するまでこれが続くのかと思うと、いまからどっと疲れが……」
「稟だけは、俺の味方でいてくれるよな……? 頼むから、そうだといってくれ……」
無論そのつもりです、と郭嘉が返事をする。
その間にも、馬岱と程昱はこそこそと会話を交わしている。こんなことになるのであれば、いつかのように程昱を同乗させていればよかった。そう後悔する一刀だったが、後悔先に立たず、である。
「ええーっ、そうなんだあ。北郷さんって、見かけによらず大胆だね!」
「それはもう、すごいのですよお。一度やる気になったご主君さまは、誰にも止めることなどできません。ちょっかいを出されるのであれば、馬岱ちゃんもどうかお覚悟をー」
「な、なんのことかな……? だいたいわたしたち、まだ知り合ったばかりだし……」
「あれー、そうなんですかー? 風はてっきり、そういう目的があってご主君さまに近づこうとされているのだとばかり」
核心を突かれた馬岱は、少々言い淀んでしまっている。こうも早く、目論見を見抜かれてしまうとは考えていなかった。
にやにやとしている程昱の表情が、馬岱には恐ろしく感じられていた。このような参謀を内に抱えているのだから、北郷一刀という男も決して侮るべきではない。馬岱の脳裏には、そんな考えすら浮かんでいた。
「馬岱殿を怖がらせてどうするつもりですか、風。馬家は涼州での、貴重な同盟者なんですよ? 我らの立場を確固たるものにするためにも、しっかりと協力してもらわなければなりません」
「あ、あはは……。郭嘉さんって、結構はっきり言うひとなんだね」
「ええ、それに隠すようなことではありませんから。そうでしょう、一刀さま?」
「端的に言えば、そうなるのかもしれないな。でも、俺はいい関係を築きたいと思っているよ。もちろん個人的な関係のほうも、ね?」
小さく、一刀は微笑みかける。馬岱の心臓が、一瞬跳ね上がった。
個人的な関係というのは、どこまでのことを指しているのだろうか。北郷一刀という人物のことを探りにきたというのに、馬岱は己のほうが絡め取られてしまったような気分に陥っている。
「こほん……。一刀さま、馬岱殿を口説かれるのであれば、別の場所でお願いします」
「いや、別にそんなつもりでは」
「兵は拙速を尊ぶとはいいますが、ご主君さまはそれを体現されているようですねー。ともあれ馬岱ちゃん、ほんとうにご注意くださいね」
先程のように、程昱はにやりと口角をあげた。そこには特に、敵意のようなものはない。
来る者は拒まず。一刀の方針は、基本的にそうだった。だから程昱も、釘を刺しつつもそれ以上のことをしようとは思わない。
「あはは、気をつけます……」
そういうことがありながらも、軍勢は冀県まで順調に進んでいった。馬超の麾下に引っ張られるかたちで、それまでよりも進軍速度があがっていたのである。
街道を行く道中で、新しい太守の姿は民たちの目にも入っていた。あの錦馬超を先導役にして、十文字旗の軍勢が駆け抜けていく。漢陽郡の各地は、天の御遣いに関する話題で持ち切りだった。
「あれが、都から遣わされたつぎの太守さまかあ」
「都どころか、天の国から来たってもっぱらの噂だぜ」
新たな道が、ここ漢陽郡から始まろうとしていた。