冀県に到着すると、これまで蓄積された疲労がさすがに押し寄せてきたようだった。旅の経験がある郭嘉らも、洛陽からの行程はなにかと堪えたようである。当日は誰もが、泥のように眠っていた。
それだけに、自前の寝床があるというのは喜ばしいことだった。公孫賛のところで戦っていた頃を除いて野営続きだったから、石の壁に囲まれた場所で眠るというのは、本当に久しぶりのことなのである。
ここまで先導を務めてきた馬超たちにも、客室があてがわれていた。一晩しっかりと身体を休めたあとは、早速政務の段取りを相談する予定になっている。太守が変わったとあって、不安に思っている住民も多数いるはずだった。その不安を取り除くためにも、素早い行動が求められるだろう。
「ご主人様、みんな揃ったみたいだよ」
「ありがとう、桃香。それなら、すぐにでも始めよう」
城内で最も大きな広間に全員を集め、一刀はおもむろに口を開いた。馬超と馬岱も、客人の立場ではあったが出席をしていた。馬家の二人は、まさか自分たちにまで出席要請が来るとは思っていなかったようだが、特に拒否をする理由もなかった。
馬騰からは、しばらく漢陽郡に滞在してくるようにとも言付けられている。出発前は麾下の騎兵の調練でもやって暇をつぶそうかと考えていた馬超だったか、いきなり予定が狂わされたかたちであった。
「なあ、あたしたちも本当に混ざっていいのかよ? 別に敵対しているわけじゃないけど、こういうのって普通は嫌うものなんじゃないか?」
馬超の表情は訝しげだった。この場に自陣営以外の者を出席させるということは、内々のことを外部に向けて自ら曝け出しているのと同じなのである。
「俺もみんなも、涼州の地は初めてなんだ。だから、馬超殿たちから見ておかしいな、と思ったことがあれば助言をしてもらいたいんだ。だめかな?」
「あ、あたしが? いいのかよ、そんなことを他勢力のやつに任せたりなんかして……」
「うん、是非お願いしたい。ここ何日か一緒に行動していて、馬超殿は信頼できる人だと俺は思っているよ。もちろん、馬岱殿もね」
真っ直ぐな好意というやつに、馬超は弱いようだった。ぱっと顔を赤らめていく様は、純情な少女そのものである。
母から言われたことなど、気にする必要はない。だいたい男勝りな自分のことを、天の御遣いが目に留めることはないだろう。馬超はずっと、おのれにそう言い聞かせてきた。
「えへへー。聞いたー? お姉さまー? 北郷さん、たんぽぽたちのこと信頼してくれてるんだって!」
「ば……、ばっか、そのくらい、聞こえてるっての!」
勇猛で凛々しい錦馬超。その内側には、年頃の少女らしい一面も隠されていた。馬岱は当然、そのことを承知している。
「もう、嬉しそうにしちゃってえ。北郷さん、たんぽぽにもなんでも聞いてくれていいからね!」
「ああ、そうさせてもらうよ。風、稟」
「はいはーい」
「はっ」
一刀から名を呼ばれた程昱と郭嘉が、前に進み出て拱手する。広間の空気も、それに従い引き締まったものとなっていく。
「民政については、二人に一任したいと考えている。素人が手を出しても良い結果は得られないだろうし、住んでる人達のためにもそうするべきだと思う。もちろん俺も気になったことがあれば伝えるし、最終的な決定には関わるつもりだけどさ。それで、どうだろう」
「風としては、ご主君さまからのご信任に応えるだけなのですよ。稟ちゃんも、そうですよねー?」
「ええ、わたしにも異存はありません。……冀県までの旅路で思いましたが、もう少し道を整備する必要がありそうですね。人々の行き交いが楽になれば、経済も回りやすくなることでしょう」
これまでいた冀州や司隸に比べれば、涼州は地方の色が濃い土地だった。街道の利便性が向上していけば、軍の出動も素早く行うことができる。一刀の参軍だけあって、郭嘉は軍事の面のことまで考慮して意見を述べていた。
「そうかもなー。あたしたちは馬を使えばいいって話だけど、商人からすればそうもいかないんだよなあ」
自領のことを思い浮かべながら、馬超は腕組みをして唸っている。郡を治める馬騰もその箇所については問題には思っていたが、まだ手を付けきれていない現状があった。
「大規模な整備となれば、民を動員するだけでは足りないのではないでしょうか」
「現地の人達に働いてもらうことも大切だけど、やるなら軍からも人員を割くべきだろうな。そのことについては、俺にも腹案がある」
疑問をぶつける関羽。一刀の目が、ひとりの将へと向けられている。見つめ返してきているのは、くりっとした大きな瞳。大きな胸が、たぷんと揺れている。
本当であれば、議題が軍事方面のことになってから明かそうとしていたことだ。工作や土木といったことであれば、任せるべきはひとりしかいない。
「真桜」
「はいな! ウチになんかしてほしいん?」
「余裕がある間に、工作専門の部隊を組織しておいてもらいたい。軍の中からひとを見繕ってもいいし、必要なら外から集めてくれてもいい」
「ほえー、ついにウチも、自前の部隊を持つことになるんやな。よっしゃ、任されたで!」
「うん、頼んだよ。街道の整備なら、いい訓練になるだろう。そのあたりのことが落ち着いたら、陣の構築や築城についても調練しておいてもらいたいんだ」
「築城? なんや、いきなり話の規模がおおきなってるやないの。ここみたいなもんを作ろうと思ったら、資材も相当使うことになるで?」
李典が頭で描いている城とは、うず高く石の壁が積まれた構造物のことである。
一刀のいう城は、そういうものではなかった。自身の故郷である日本。中世から近世にかけての戦乱で、城塞も目まぐるしい進化を遂げていった。そして石垣や天守のある城が生まれる前、主流だった形がある。
「石の壁を作れるのが最上ではあるけど、そこまでのものは考えていないさ。
「……ははあ、なるほどなあ。その出た土をどんどん積み上げてって、防壁にするってことやな」
「そうそう。さすが真桜、理解が早くて助かるよ。その周囲に柵を巡らせたり、木製の壁を設置したりすれば、石組みの城を作るよりずっと早く防御施設を完成させられるだろう?」
「うんうん、了解や。でも、訓練のときはともかく、本番でそれやるなら工作兵以外にも人員貸してもらわな無理やで?」
「わかってるよ、そのへんはもう少し詰めて考えるべきだろうな。とにかく、頼んだよ。なにか聞きたいことがあれば、いつでも尋ねてくれればいい」
うなずく李典は、早くそちらに取り掛かりたくて仕方がないようだった。脳内では、早速図面を描き始めてもいる。
「隊長がいま話されていた城の形式は、天の国のものなのですか?」
「そうだよ、凪。俺が生まれる四百年ほど前になるのかな。天の国にも、戦さ続きの時代があったんだ。俺のご先祖が活躍していたのも、ちょうどその頃だね」
各地の大名が日の本の覇権を賭けて争い、国が麻のように乱れた時代。それでも、日本が完全に割れることはなかった。最終的に勝者となった徳川家康が幕府を開き天下を掌握することとなったが、京には依然として帝が存在していたのである。
家康以前に台頭して天下の権を握った織田信長や羽柴秀吉も、古から続いた帝を蔑ろにすることはなかった。それには自勢力に箔を付けるという意味もあったのだろうが、日の本に生きる人間としての本能的な畏怖があったのかもしれない。
いま、漢の帝は前後合わせて四百年間地上に君臨し続けている。それが千年、千五百年と続いていけば、或いは現代の日本のような形になることもありえるのかもしれない。一刀の脳裏には、そのような思考が
「隊長、どうかされましたか? なんだか、ぼーっとされて」
「ん……、なんでもない。稟、続けてくれ」
「はい、承知いたしました。それでは、軍事の話しに移りましょうか。軍を司るのは、いままで通り愛紗殿でよろしいですか?」
「ああ、そこはそのままでいい。愛紗を中心として、みんなで強い軍を作り上げていってもらいたい。兼務になって大変だろうけど、稟と風には軍事のことにも力を発揮してもらいたいと思う。それと、これからまた、新規の兵も増えることだろう。沙和、訓練についてはよろしく頼む。苦しい戦いも多くなってくるだろうし、少々厳し目にしてくれても構わない」
「はいなの! 凪ちゃんと一緒に、ビシバシしごいちゃうよ!」
より実戦に近い訓練を施すというのは、兵のためでもあった。強度の低い訓練をしていたのでは、いざ実戦となったとき相手に呑まれてしまいかねないのだ。ひとりでも多く生還させてやるためにも、激しい訓練は必要なことなのである。
「だったら、馬超にも協力してもらったほうがいいと思うのだ」
「そうだねー。異民族が攻めてくるかもしれないしー、涼州の騎兵と模擬戦するのはシャンもいいことだと思うー」
「模擬戦か。それならこっちの兵も鍛えることができるし、望むところだぜ。北郷殿のところの将とも、個人的に戦ってみたいと思ってたところだしな」
やはり戦いこそが、馬超の本分なのだろう。右腕をぐるっと回しながら張飛と徐晃のことを見つめ、瞳に闘志を滾らせてもいる。もし、その手に槍があれば、いますぐにでも模擬戦を始めてしまいそうなくらいの雰囲気があった。
「もう、お姉さまったら脳筋なんだからー。もうちょっと、お淑やかにできないものかなあ」
「あん? なにか言ったか、蒲公英……?」
「ひゃっ……!? 助けて、北郷さん!」
馬超に睨みつけられた馬岱は、わざとらしく一刀の腕をつかんで背中に隠れている。
どちらかといえば、スキンシップの多い少女だった。少し歳の離れた妹ができたようで、一刀もそれを楽しんでしまっている。
小柄な体型に反して、馬岱の胸はしっかりと膨らんでいた。女性らしい感触が、腕や背中に触れている。
直情そうな馬超と、ころころと表情を変えて、場を引っ掻き回してしまえる馬岱。この二人の組み合わせは、案外補完しあっているのかもしれない。
強引に行くべきときは馬超が押し通し、それではどうにもならないと思えば馬岱が主導的に動く。
「北郷殿を盾にするなんて失礼だろ! 離れろよ、蒲公英!」
「やだもんねー。それに北郷さんだって、楽しんでくれてるみたいだしー?」
にかっと笑った馬岱は、さらに身体を密着させていく。さらにはっきりとしてくる乳房の感触。一刀の意識は、七割ほどがそちらに向けられていた。
馬岱は、男の弄し方をよくわかっている。これぞ、小悪魔という存在なのだろう。
しかし、そろそろ頃合いかもしれない。いい息抜きにはなっているが、いつまでも会議を中断させておくわけにはいかなかった。
「ほら、馬岱殿」
「ええー? もうやめちゃっていいのー?」
「名残惜しくはあるけどな。だけど、休憩はほどほどにしておかないと」
「はうぅ……。もう少し、慌てさせられるかと思ったんだけどなあ。ふふん、それじゃあお終いっ!」
馬岱はさっと離れると、馬超に向けてちろりと赤い舌を見せる。会議の場とあって怒るに怒れず、馬超はこめかみを指で押さえて言葉を我慢しているようだった。
「よし、あとは細かい部分を詰めてしまおう。桃香、飲み物をお願いしてもいいかな」
「はーい。それじゃあちょっと行ってくるね、ご主人様」
ぱたん、と劉備が扉を閉じる音がする。
郡統治のための外郭は決まった。変えなくてはならないところは、動いてみなければわからない。土地にもとからいる文官らにも、支持を出してやる必要もあった。
そろそろ眠そうにしていた張飛に徐晃をつけ、街の見回りに向かわせた。純粋な感覚を持っているだけに、様子を確認させてくるには適任だと思ったからだ。多少サボられてしまうのだろうが、それくらいでどうこう言うつもりはなかった。
朝から開始した会議は、結局昼時を大幅に過ぎた頃まで続けられたのである。
「あたし、あんまり今回みたいなのには参加しないからさ。途中から、肩が凝りそうな気分だったよ」
「ですが、我らとすれば貴重な意見をいただけたのですから、感謝の言葉しかありません」
「よ、よしてくれよ! あたしはただ、普通のことを言っただけでさ……」
「そうそう。でも居眠りしちゃわなかっただけ、お姉さまにしては偉かったと思うよ。それでよく叔母様にも、怒られてるもんねー」
「……蒲公英、お前ってやつは! 今度の今度は、許してやらねえからなあ!」
ついに怒りを露わにした馬超に追われ、馬岱は大急ぎで逃げていった。木霊のように響く馬岱の叫び声だけが、虚しく聞こえていた。
なんとも騒がしい馬家の二人を見送って、一刀たちは昼食をとりに行くのだった。
「馬超殿」
「ん……? 北郷殿か……、ってあわわわっ……!?」
夕刻。中庭でひとり槍を振るっていた馬超の姿を見つけ、一刀は声をかけた。
日課である修練を行っていたから、荒々しい形をした木刀が右手には握られている。諸肌脱いだ姿がいけなかったのか、馬超は表情を慌てさせている。どうやら同年代の男に対してまったく免疫がないようであり、手からこぼれ落ちた槍がカラカラと音を立てて転がっていた。
「えっ……? ああ、すまん。近頃だと上くらい脱いでいても、なにも言われないものだからつい……。ちょっと、着てくるよ」
庭木に掛けてある上着を取りに戻った一刀だったが、馬超の口はまだパクパクと開閉を繰り返している。
意識してしまっている。普通に接すればいいと考えるほどに、母からの言葉を思い出してしまうのだ。
天の御遣いは、既に多くの女性に囲まれている。そのことは理解できているはずなのに、意識することをやめられない。跳ね上がった心臓よ収まれ、と馬超は胸のあたりを押さえている。
「さっきはごめんな。女の子に声をかけるのに、配慮が足りなかった」
「い、いいって……。それよりその……、女の子って……」
また、鼓動がうるさくなっている。一刀の優しげな声が、耳朶に染み渡っていく。緊張が、解けそうにない。この場に二人だけだというのも、それに輪をかけてしまっていた。
「もしかして、そう言われるのは嫌いだったりするのか? だったら、訂正させてもらうけど」
「ち、ちがうんだ。そうじゃなくて、その……。北郷殿は、あたしを女だって思ってくれてるのか……?」
錦馬超の名を聞いて、周辺で恐れない男はいなかった。
軍を率いるようになってからは、誰にも負けたことはない。馬超というのは、鬼神のような強さを持つ凄まじい女将軍だ。そんな風聞ばかりが、広まっていった。
涼州に睨みをきかせる馬騰の娘として、それは嬉しい評判ではあった。それでも、時折考えてしまうことがある。自分はどうあっても、恋愛などすることはできないのではないか。
読み物に書かれているような恋に、憧れはあった。しかし、いまとなっては自分を女扱いしてくれそうな男などいない。そんな風に、諦めていた。
「馬超殿みたいな魅力的な女の子は、そう見つかるものじゃないさ。馬を駆っているときの凛々しい姿も、いまみたいに真っ赤になっている姿も、俺は好きだな」
「すっ……!? ふえっ、うわわわわわっ……、!? す、好きって、いま好きって言ったのか……!?」
「気が多い上に惚れっぽいんだ、俺は。詠に知られたら、また叱られてしまうんだろうな」
「へっ……。そんなこと言って、どうせ冗談なんだろ……? やめてくれよ、そんなの」
少々苛立ったような様子で、馬超は自分からそう断言してしまう。女扱いされることに慣れてもいない上、その心は頑なでもあった。
「どうすれば、信じてくれる」
「いいんだって、ほんとに……! あたしなんか、どうせ可愛くもなんともないんだからッ」
「だったら、勝手にさせてもらうからな。馬超殿は、自分を卑下しすぎだ」
気づけば、予想外に強い力で身体を引き寄せられてしまっていた。ごつごつとした指の感触と、修練で浮き出た粒のような汗。そのどれもが、馬超に現実を知らしめている。
「ばっ……!? な、なにしてんだよ……!?」
「勝手にするって、言っただろう? こんなこと、可愛いと思ってない子にはしないよ。俺が馬超殿のことをどう思っているか、これではっきりしたはずだ」
「うそ、嘘だろ……っ? あたしだけこんなにドキドキしちゃって、馬鹿みたいじゃないか」
「ドキドキしてるのは、俺だって同じさ。馬超殿に本気で嫌われたらどうしようって、いまさら少し後悔してるのかも」
恥ずかしがっているところをこれ以上見られたくなかったのか、馬超は一刀の胸に顔を埋めた。ポニーテールの伸びる後頭部をやんわりと撫で付けながら、背中をぐっと引きつける。
目まぐるしく回った馬超の感情は、ついに着地点を見出そうとしていた。
「……
「好きだよ、翠。俺のことも、一刀でいい」
言葉にならない声が、いくつも馬超の口から漏れていく。
微笑し、一刀は肩に手を置いた。混乱模様の馬超には、それがどういう意味なのかわかるはずもなかった。
見るほどに、美しい顔立ちをしている。これで女扱いされなかったというのだから、正気の沙汰ではないな、と一刀は思った。
「ちょっ、一刀どの……っ、んむっ……!? ちゅる、んぷっ、はふ……、ちゅく……じゅぶ……」
有無を言わさず、口づけた。自信がないというのであれば、いくらでも証明して見せてやろう。そういうつもりで、唇を貪っていく。
しっとりとした感触。水気のある唇を、覆い隠すように吸っていった。馬超の鼻息が荒い。緊張の限界を越えてしまったせいで加減がわからず、為されるがままになっている。
「んんっ、ぺちょ、あふう……。もしかして、あたし夢でも見てるのか……?」
「夢なんかじゃない。俺はこうして、翠と口づけを交わしている。もう一回するよ、翠」
「ほんとに、ほんとに一刀殿と……。あっ……、んむっ、ちゅう……」
潤んだ瞳。それに吸い寄せるようにして、またキスを再開していった。
身体を強ばらせながらも、馬超は必死に動きについていこうとしている。うるさいくらいの心音が、いまは心地いいとさえ思えてしまう。
一時の感情に流されてしまっているようだったが、それでもよかった。この抱擁は、きっと嘘ではない。馬超は、そう確信していたのだ。
「一刀どの、もっと……。口づけ、すごく気持ちいいんだ。だからあ……」
「俺も、翠の可愛いところもっと見たいな。唇も柔らかくて、たまらない」
ひたすらに甘い少女の声色だけが、中庭の一角に響いている。
離れるのも億劫になるくらい二人は熱を確かめ合い、思いを分け合ったのだった。