闇が空間を覆っている。湿り気を含んだ風が、一迅通り抜けた。
辺りに、人気はほとんどなかった。丁度、民家からは距離がある道だった。虚空の如き空間。その隙間から、時折なにかの姿が覗いていた。地面には、気を失った男が二人うずくまったままだ。それぞれ、額を赤く腫らしている。そばに転がっている
そしてもうひとり。北郷一刀は、闇夜に目を凝らしながら殺気を放っていた。
「何者だ。俺に、一体なんの用がある」
愛刀を抜き放ち、一刀は虚空に向けて問いかけている。返答があれば、相手の位置をざっくりとでも知ることができる。それを見透かされたかのように、返事はどこからもなかった。
荒い息遣い。鼻先から、血が一筋流れ落ちている。
一瞬の邂逅だった。護衛が無力化されたかと思うと、すぐに飛び込んでくる影がひとつあった。そのとき、剣士としての本能が働いたのかもしれない。繰り出される刃をギリギリのタイミングでかわし、皮膚を一枚斬られただけで難を逃れることができたのである。
「ちっ」
唇まで達した鮮血を、舌で拭う。苦味が走る。だが、それは
これは、まともな闘いではない。襲撃者にとって、自分は恐らく獲物なのだろう、と一刀は直感的に悟っていた。肺にたまっていく空気すら、異様に重い。それに相手は、この暗さを物ともしていないようだった。そういう手合にも、とうとう狙われるようになったか。身に覚えはなかったが、太守の地位とはそういうものなのかもしれない。
どこかの豪族が、新しい領主が気に食わないから、と刺客を差し向けてきた可能性すらあるのだ。これまで楽進からは散々、護衛をもっとつけろと言われてきた。せめて、夜道の移動くらいは気をつけるべきだったのか。だとすれば、人数を借り受けるためにも相談する必要がある。楽進と同じくらい、関羽に怒られてしまうかもしれない。性質上、人一倍責任感が強い女性である。最悪の場合、泣かれてしまうかもしれない。あまり情けない姿で対面するというのも、嫌だった。そのためにも、上手くこの場を切り抜ける必要がある。一刀は、なにひとつ諦めてはいなかった。
「どこからくる、狐め」
鼻先を斬られた瞬間に、相手が狐の面をつけているのが見えていた。闇夜に浮かぶ、白い狐面。なんとも、不気味な存在でもある。
いつまでも呼吸を止めているわけにもいかず、一刀は肺を緩ませて息を吐いた。その緩みを、待っていたのだろうか。じゃり、っとほんの僅かにだったが地面を蹴り上げるような音がした。
身体の左方向からやってきた凶刃に反応し、愛刀で受けて立つ。狐面の襲撃者は、両刃の直剣を使っていた。鍔迫り合い。擦りあった刃が、不快な音を奏でていた。
「どうして、俺を狙った。誰かに頼まれでもしたのか」
狐の面を睨みつけた。時間を稼ぎさえすれば、救援に駆けつけてもらえることもあるだろう。とにかく、ここは耐えて持ち堪えるべきだ。
「そうだな。天の御遣いを殺ってくれ、とだけ頼まれた。だからわたしは、ここにいる。殺しをするのに、それ以上の理由なんていらない」
思いがけず、初めて返答が返ってきた。
女の声。ひどく平坦で、感情はどこにもなかった。
「雇われの殺し屋、ってところか。悪いが、やられる気はないぞ」
剣圧で押し、一刀は相手から距離をとろうとした。この女がその道の人間であれば、どんな手を使ってくるかわかったものではない。姿が見えなくなるのは厄介だったが、接近しすぎているのもそれはそれで危険だろう。
だが、するりと押し合いを抜けた女は、巧みに身を縮めて下から斬撃を繰り出した。後ろに跳躍しようとしたが、間に合わない。右腕に痛みが走る。いつもの学生服を身にまとっていなくてよかった、と思ってしまうのはいささか呑気がすぎるのだろうか。袍はばっさりと切り裂かれ、そこから血が滴り落ちている。
「終わりだ」
女の声が、冷淡に響く。どうやら、つぎで自分を仕留める気でいるらしい。
痛みによって動きが鈍る腕で、どこまで対応できるのだろうか。神経を研ぎ澄ますが、相手の位置をつかめないままでいる。なんとか一撃でもいれなければ、このまま押し切られてしまうのは確実である。
後方で、なにかが跳ねたような感覚があった。振り向き、刀で受けようとする。足もとにある篝火の明かりで、狐の面が一瞬だけ浮き上がった。
「くっ……」
全身が総毛立つような殺気。このままでは、殺られてしまう。なんとなくだが、そう思わされてしまった。
刃が飛び込んでくる寸前、別の方角から誰かがやってくるような気配を感じていた。味方か。ほとんど縋るような気持ちで、一刀は叫んでいた。
「お兄ちゃん!」
尋常ではない速度で、小さな体躯が女との間に割り込んできた。同時に、武器を打ち合う音が大きく鳴り響く。
この危地に駆けつけてきたのは、大斧をかついだ徐晃だった。空間ごと斬り裂いてしまえそうな大きな得物が、暗殺者の刃を押し返している。これならば、なんとかなる。肺を震わせながら、一刀は深々と息を吐いた。
冀県に来てからは、それぞれ屋敷を持つようになっていた。何人かでまとまって生活をしている屋敷もあったが、一刀は誰かと暮らすわけにはいかなかった。とはいえ、ほぼ毎日来客はある。
干渉するようなことでもないので口は出さなかったが、女性陣のほうで不満がでないように訪問の順番を決めているようだった。いまやって来た徐晃とは、たまたまこの夜を過ごす予定だったのである。そのことが、今回はよい方向に働いていた。
「お兄ちゃん、平気? あっ……、血が……」
一刀の痛々しい姿を確認した徐晃は、じんわりと瞳を潤わせてしまっている。さすがにこれでは不利だと判断したのか、数合打ち合っただけで女はこの場から消え去っていた。
また来る。女によって残された言葉が、一刀の肩に重石のごとく乗りかかっていた。
「ごめんね、シャンが遅くなったから……」
「そんなことないって。香風には、感謝してもしきれないくらいだ。とにかく、屋敷に戻って防備を固めよう」
未だに気絶したままの兵を一人ずつ担ぎ、太守の屋敷まで早足で向かっていく。緊張感はあったが、いまは徐晃が側にいてくれている。これではあちらも迂闊に手出しはできないだろう、と一刀は考えていた。
屋敷に戻ると、使用人を伝令にして配下を招集した。あまり偉ぶりたくはないと初め一刀は思っていたのだが、郭嘉たちに雇用を生み出すことも太守としての仕事だと説得され、使用人を数人雇い入れていたのである。
呼び出したのは、郭嘉と程昱。それに武官からは、関羽、楽進の両名である。普通であれば兵を動員して屋敷の周囲を守らせるのであろうが、それでは太守になにかあったのだと喧伝しているようなものである。
「お呼びとのことでしたので、楽文謙参上仕りました。隊長、入室してもよろしいでしょうか」
「ああ、よく来てくれた。入ってくれ」
「はい、それでは。あ……、え……? 一刀さん……?」
呼び出しの際、使用人に余計なことは伝えるな、と釘を差してある。寝台に座って治療を受ける一刀の姿を見た楽進は、思わず絶句してしまう。
「屋敷までの帰り道に襲われたのだ、ご主人様は」
先に到着して事情を聞かされていた関羽は、つとめて落ち着いた口調で経緯を説明した。関羽とて、決して心中穏やかなわけではない。それでも、武官を束ねる者としての自覚が、なんとか動揺を押し留めているのだろう。現在、徐晃は屋敷の外周を警備している。これ以上は、絶対になにもさせない。纏った闘気が、そういった覚悟を滲ませていた。
「凪につけてもらった兵たちは無事だ。俺も怪我はさせられたけど、この通りだから」
蒼白として言葉を失ったままの楽進を案じて、一刀は手足を動かしてみせた。痛みはあったが、どうにでもなる範疇のものではある。それでも、楽進の表情は晴れなかった。
「隊長を守りきれなかったのは、自分の部下の失態でもあります。ですから如何様にでも、罰してください」
「……ははあ、やはりご主君さまの仰られていた通りになってしまいましたねえ」
「茶化さないの、風。それだけ凪は、一刀さまのことを大切に思っているのよ」
一刀の傷を治療していたのは、参軍のふたりだった。趙雲たちと旅をしていた時の経験が、いまになって活きている。知識としても当然持ち合わせていることだったが、応急手当くらいはお手の物だった。
傷口をきれいな水で洗って、止血用の布を巻いていく。主君のことを心配はしていても、この場で感情を表に出すことはない。それだけに、一刀も落ち着いて話しをすることができる。
「いいか、凪。今夜のことは、警備を甘くしていた俺にも原因がある。だから、あんまり自分のことを責めるな」
「はっ……、隊長。ならば、不意な襲撃にも備えられるよう、調練の内容にも変更を加えようと思います。自分にできることといえば、それくらいですから」
「うん、それでいい。いま考えるべきなのは、これからのことだ。そうだろ、稟」
「はい、一刀さま。……これは明朝ご報告しようとしていた案件なのですが、襲撃に関係があることかもしれません」
腕の傷に布を巻き終わった郭嘉は、立ち上がってそういった。なにやら、内々につかんでいた情報があるらしい。
民政などにあたらせる傍ら、郭嘉には諜報を取り仕切らせてもいた。使っている間者は両手の指に満たないほどであったが、郡ひとつだけの現状であるからなんとかなっている。
「ここ数日、何者かによって女が殺される、という事件が発生しています。二日前にも、天水において死体が発見されたようです。この城下ではそういったことはありませんが、時間の問題かもしれません。それに女が殺された村には、決まって天の御遣いが現れたというのです」
「なんだと。ご主人様が冀県を離れていないことなど、我らが一番よく知っている。天の御遣いを名乗る不敬者がいるというだけでも許しがたいが、殺しまでやってのけるとは」
郭嘉の報告を聞き、関羽が真っ先に怒りの声をあげた。到底、捨て置いていい話しではない。郡全体に事が及んでしまう前に、下手人をなんとかする必要がある。
「そういうことか、稟。俺を襲った女は、どこかで殺されたひと、もしくはその関係者に会って依頼を受けた。あいつは豪族なんかの刺客ではなく、個人的な恨みを晴らそうとしてやっていた。だとすれば、いい迷惑ともいえるな」
「ある意味では、自業自得なのかもしれませんねー。これだけ美少女をお側に侍らせているのですから、間違われても仕方がないのかもしれません」
「冗談を言っている場合ではないでしょう、風。この件、早急にかたをつけなければなりません。わたしのほうでも犯人を追ってはみますが、愛紗殿たちにも協力をお願いしたいと思います」
「ああ、無論だ。ご主人様の御名を傷つけようとする輩など、放っておけるわけがなかろう。騎馬の調練という名目で、明日からは広く当たってみようと思う。なるべく、下手人には勘付かれぬようにな」
「自分のところには、方々から新人が多く入ってきています。そこからなにか掴めたことがあれば、すぐに知らせに上がりましょう」
一刀は頷き、狐面の女のことを思い浮かべた。
自分が探していた標的ではないとわかってもらうことさえできれば、協力し合うことだってできるのかもしれない。受けた剣には痛みを与えられたが、川底の泥のように薄汚れた粘っこさはなかったように思える。
こちらに引き込んでしまうことができれば、あの隠密の技は心強いものとなるだろう。
「みんな、頼んだぞ。俺は明日から、軍の調練に出ようと思ってる。屋敷に閉じこもってたら、襲われて大怪我を負わされた、なんて変な噂が流れないとも限らないしな」
「それは良きお考えですが、出歩かれるときは必ず誰かお付けくださいねー。一度しくじったとあって、お相手も必死になってくることが考えられますので」
「わかってるよ、風。そっちの意味でも、ひと目が多い場所にいた方がいいだろうから」
程昱の頭を、軽く撫でる。きゅっと握られた小さな拳から、思いは理解しているつもりだった。
「ならば方針も決まったことですし、ご主人様はそろそろお休みください。我らが近くにいる限り、指一本触れさせはしませんから、どうかご安心ください」
「助かるよ、愛紗。そうだ凪、香風になにか差し入れをしてやってもらえるか。帰ってきてから、ずっと気を張っているだろうから」
「わかりました。でしたら、少し厨房をお借りしますね」
一刀から命を受けると、楽進は足早に厨房へと向かった。納得はしているが、やはり気に負うところがないわけではない。そういうときは、身体を動かすのがなによりの薬だった。
「お、撫でてくれるのか」
「ご気分はいかがでしょうか、ご主君さま」
「気持ちいいよ、風。しばらく、そうしておいてもらえるかな」
程昱にこうしてもらうのは、初めてではないような気がしていた。ずっと穏やかに撫でられていると、それまで張り詰めていた心が解きほぐされていくようでもあった。