襲撃の翌朝。北郷一刀は、傷の痛みとは別の感触によって目を覚ました。
左右から、じんわりとした温もりを感じている。ほのかに、自分のものとは違う香りも漂っている。首を振ってみれば、愛しい二人の顔がそこにあった。
楽進と郭嘉。結局、昨晩は離れたくないという思いが勝ったようである。大きめの寝台ではあったが、三人で寝るには少々手狭でもあった。だから、余計に密着して眠ることになったのだろう。
眼鏡を外し、髪を解いた無防備な姿。いまだ熟睡している郭嘉の頬に触れ、一刀は何度か指を動かした。肌には、その吐息すら感じている。
「ん……、一刀さま」
しばらくすると眉根を寄せ、郭嘉は渋面を作りはじめた。なんだろう、と思いつつ一刀は耳を澄ませる。寝言に聞き耳を立てるというのは、あまりいい趣味だとはいえないのかもしれない。とはいえ、いまは真横にいるものだからどうすることもできなかった。
「あまり、御無理をされないでください……。あなたの傷つくところなどわたしは……、ううっ……。ですから、御身の大切さを、もっとよく……。ん……、っ……」
「ごめんな、稟。でも、ありがとう」
思わず、頭を抱き寄せてしまう。苦悶しているかのように絞り出されていた声は消えていき、穏やかな呼吸が再開されていく。せめて、こんな朝くらいは穏やかな時間を過ごしていたい。そういった気分で、一刀は郭嘉の柔らかさを感じていた。
「一刀さん」
「起きていたのか、凪」
背中に、ぐりぐりとなにかを擦り付けられているような感覚。日頃一歩引いていることの多い楽進にしては、珍しい行いだなと一刀は口元を緩ませた。
「斬られた箇所は、痛みますか」
「ン……、多少はな。凪と稟が側にいなければ、いまごろ涙で枕を濡らしていたところだ」
冗談を言ってのける一刀。楽進はその声色に安堵したのか、さらに額を広い背に埋めていった。
「自分が傷を引き受けることができたらどんなにいいか、そんなことばかり考えてしまいます。それに、偽物の天の御遣いだって……。一刀さんのその名には、たくさんの覚悟や、みんなの志が込められているのだと思います。それを誰とも知らない者に使われて、あまつさえ命まで狙われてしまうとは。自分には、到底許せることではありません」
「凪……」
楽進の腕に、じわりと力が込められていく。治りきっていない傷跡から、痛みがゆっくりと拡がっていった。
天の御遣いを騙り罪を犯した人間には、相応の報いを受けさせる必要があるだろう。それは自分のためであり、慕ってくれる仲間のためでもある。ともかく、所在を突き止めることが先決だった。
「お兄ちゃん、入ってもいい?」
部屋の外から、徐晃の声が聞こえていた。恐らく、一晩中警固の役目を果たしてくれていたのだろう。
いまも関羽は屋敷の外周で目を光らせているのか、その姿は見えなかった。
「寝てないんだろう、香風。こっちにおいで」
「うん。愛紗には休憩しろっていわれたけど、眠れなかった……」
普段しっかりと睡眠をとっている徐晃だけに、表情にも疲れがいくらか見えている。
本当であれば、昨日は徐晃を伴ってのんびりと過ごすはずだったのだ。一刀は悪いと思いながらも郭嘉を起こすと、寝台に胡座をかいて小さく手招きをした。
「まだ時間は平気だから、少し寝ていけばいい。今日一日は、香風と鈴々についてほしいと思っているから、元気でいてもらわないとな」
「んー、それなら」
徐晃は寝台に上がると、おもむろに一刀の膝へ頭を預けていった。どうやら、そのまま眠るつもりでいるらしい。
「シャン、お兄ちゃんのここで寝たいかも。だめ……?」
「いいよ、もちろん。凪、しばらくしたら鈴々を呼んできてもらえるか」
「わかりました、隊長。わたしも、愛紗さんと交代できるようにしておきます」
しばらく髪を撫でていると、徐晃は可愛らしい寝息をたてはじめた。精神的な部分に疲労がたまっていたのだろう。見るからに気持ちよさそうな寝顔であり、釣られて飛び出しそうになった欠伸を一刀は必死になって飲み込んだ。
「わたしも一度、戻ろうと思います。いくらでも寝てしまう子ですから、キリのいい時間で起こしてやってください。それでは、一刀さま」
「わかってるよ、稟。それじゃ、またあとで」
川の水流に剣を潜らせ、濡れた刀身を布で拭っていく。気持ちのいい朝日に照らされ、刃は煌めいていた。
その持ち主たる女。名を、
洗いながらに思い出しているのは、昨夜襲った天の御遣いのことだった。
確かに、御遣いを殺してくれと頼まれはした。偶然とはいえ、出会ってしまった頼み人なのである。街道に横たわり、血を流して死にかけていた女。その口から、下手人の名を聞いていた。
「むう……」
懐の中に手を入れると、チャリチャリと金属の音がする。受け取った頼み料。正直に言って、郡の太守を狙うには少なすぎる金額ではあった。それでも、恨みの込められた金には違いない。
裏稼業をやりはじめてから、もう何年になるのだろうか。殺しても殺しても、悪人は雨後の竹の子のようにいくらでも湧いて出てくるのである。義憤から開始した裏の仕事だったが、いまではどうなのだろうか。食いっぱぐれがないことはありがたかったが、自分はそれでいいのだろうか。
世の中が何も変化しないことに、嫌気が差してきているのかもしれない。日に焼けて浅黒くなった肌から、水滴が滴り落ちている。それを拭うことすら忘れ、胡車児は殺しの的のことを考えずにはいられなかった。
「少し、事を焦りすぎたのかもしれないな」
胡車児の追う天の御遣いというのは、犯した女を何人も殺しているような男だった。その名を求めて、この冀県までやって来たのである。新たに漢陽郡に赴任した太守は、民草の間にすら様々な噂が立つほど女好きなようだった。
「向こうは相当、警備を厳重なものとしてくるのだろう。上手くやったとして、相討ちに持ち込むのが関の山か」
そろそろ、年貢の納め時が来ているのだろうか。どうしても、考えが暗い方向へといってしまう。
「やめだやめだ。とにかく、監視は続けなくては」
ようやく顔を拭き、胡車児は立ち上がった。黒い袍が翻ったかと思うと、あとには影すら残されていなかった。
冀城から数里離れた原野では、北郷軍の兵たちが駆けずり回っていた。明らかに、隊列にも乱れが見えている。それというのも、将である張飛がいつも以上にやる気を出しているせいであった。
感情が昂ぶっていくままに、調練も激しさを増していく。全力で駆けさせ続けたあとには、自ら相手になって兵を打ち据えていくのである。当然、誰も本気となった燕人張飛に敵うはずもない。そんな調子では、意味のある訓練ができようはずがなかった。精神的に少々幼い部分があるだけに、張飛は自身を律しきれていないようなのである。
「まずいな。あのままだと、兵が潰れてしまうだけだ。香風、ひとまず鈴々をなだめてきてもらえるか」
「……いいの、お兄ちゃん。シャンが離れたら、守れなくなっちゃう」
小高い丘の上。そこからであれば、張飛軍の動きもよく観察することができている。床几に腰掛けた一刀は、隣りにいる徐晃に張飛を止めてくるように頼んでいた。
「すぐに戻ってきてくれるんだろう? どうせなら、鈴々もこっちに呼んできてくれたらいい。なにか食べてお腹がいっぱいになれば、鈴々も落ち着くだろうから」
「む~、わかった。お兄ちゃん、油断しないでね。シャンも、急いで帰ってくるようにするから」
一応、周囲には兵が百ほど控えているのである。それだけの壁が存在していれば、おいそれと相手も仕掛けることができないことくらい徐晃だってわかっている。それでも、心配なものは心配なのである。
一方で、護衛対象のはずである一刀には別の予感があった。間違いなく、あの狐の面の襲撃者は、この場にまで来ているのだろう。恐らく、徐晃が側にいたままでは出てこようとはしないはずだ。だからあえて、張飛を呼びに行かせたともいえる。
「いるんだろう、狐の。ちょっと、話したいことがあるんだ。手出しはさせないから、出てこいよ」
まるで、虚空に向けて話しかけているような感覚だった。無視されても、当たり前な提案ではあるのだ。ただ、相手が応じてくればそれは大きな切欠にもなるだろう。
ふと、後方で草を踏むような音がした。さすがに、無警戒でいるわけにはいかない。愛刀の鞘を地面に突き立て、すぐにでも抜刀できる状態で一刀は胡車児のことを待った。
「変わった男だな、お前は。これでは、むざむざ殺してくれと言っているようなものだぞ」
「その言葉、そっくりそのまま返させてもらう。そもそも、お前だって武器を抜いてないだろう? ようするに、気になることがあるってことだ」
静かに現れた胡車児を見つめ、一刀は目を細めた。美しい女である。探るような鋭い目つきをしているが、それが気高さを増しているようだった。
「驚いたな。今日は、あの面はつけなくていいのか」
「ああ。いまは、お前を殺しに来たわけではないからな。だから、面などいらん」
変わった暗殺者だ、と一刀は思う。口の部分だけは布で隠してはいたが、おかしな部分で誠実であろうとしているのである。
周囲の兵が、段々とその姿に気づきだしたようである。一刀はざわつきを鎮めると、胡車児に向けて話しかけた。
「面をつけないっていうなら、呼び名を変えないといけないな。よければ、名前を聞きたい。俺は北郷、北郷一刀だ」
「ふっ、いいだろう。拙者は胡車児。姓は胡、名は車児だ」
「わかった。早速だけど胡車児、お前が狙うべき相手は俺じゃない。まだ足取りを掴めていないんだが、天の御遣いを騙っている奴がこの郡内にいる。そいつこそが、女殺しの犯人だと俺たちは見ている」
一刀の言には、取り繕うような雰囲気は微塵もない。怪しげなところがあればすぐにでも剣を抜いてやろう、と胡車児は考えていたのだが、聞き入ってしまっている自分がいることに驚きを隠せなかった。
「それをこちらに教えて、お前はどうしたいというのだ。まさか、手を引けなどとは言うまいな」
「そうじゃない。ただ、何もしていないのに狙われるのは迷惑だからな。みんなにも、心配をかけてしまう」
一呼吸置いて、胡車児の瞳を見つめ返す。濁りはない。しかし、迷いがある。そういう風に、一刀からは見えていた。
「俺たちに協力しろ、胡車児。お前の力があれば、偽物だって早く見つけることができるはずだ。形式にこだわりたいのなら、金を払ってもいい」
「……どこまでも、おかしな男だ。だが、その申し入れは拒否させてもらう。これはあくまでも、拙者が晴らしてやるべき恨みだ。お前のいうように別の天の御遣いがいるのであれば、調べ上げてそちらを殺す。いまいったことに偽りがあれば、お前を殺す。ただ、それだけのことだ」
「この国は、もっと根本から変わっていく必要がある。お前にだってそれはわかっているはずだ、胡車児。ひとりふたり消したところで、大勢が変わることはない。俺はそう思っている」
「その言葉は覚えておこう、北郷。今日のところは、これまでにしておく。ただし、邪魔立てはするな」
胡車児の姿が、一瞬にして消えていく。丘の下。ちょうど徐晃が、張飛を連れて帰還してきているようだった。さすがに洞察力には優れているな、と一刀は女の顔を思い描きながら感服している。
明らかに、手応えはあったといえるだろう。懐に引き込むためには、もうひと押しといったところか。額に一筋浮かんだ汗を指で拭いつつ、一刀は床几から立ち徐晃と張飛を出迎えにいった。