「うぐっ……!? お、おおっ……」
標的の懐へと飛び込んだ徐晃は、その鳩尾に痛烈な一撃を叩き込んだ。腹を抑え、前かがみになって崩れ落ちる男。その後背に回り込み、徐晃は首に巻いていた布を外して手に持った。
「お前を倒すだけなら、武器なんていらない。これで、おしまい」
悶絶している男の首に、長い布が巻かれていく。地面に膝をついていた男は背中を足裏で押さえつけられ、さながら二つ折りとなっていた。布を持った腕を交差させる徐晃。それをぐっ、と一気に引き絞った。
「かはっ、ううっ、むううぅう……!」
男の顔が、みるみるうちに青く変わっていく。首を締め付けている徐晃の表情は冷たく、そこに一切の容赦がないことは明白だった。
きゅっ、という音がするほどだった。限界まで耐えていた男の頭が、がくんと力なく垂れ下がる。それを見た徐晃が布を身体から抜くと、魂の抜けた肉塊が砂利の上に横たわったのである。
「ひ、ひいっ! こんなの、なにがどうなってやがる」
「あなた達は、やりすぎたんです。その報いは、どこかで受けなければなりません」
周倉と対峙していた男は、すでに恐怖によって腰が抜けてしまっている。這いずり、なんとか逃げ出そうとする小悪党を、鈍く光る切っ先が追い詰めていった。
「く、来るな、来るんじゃねえ!」
男は手に持った短刀を振り回し、必死の形相で叫んでいる。まさしく、最後の抵抗だったのだろう。周倉はそれを難なく弾き飛ばすと、小さな体躯を上手く使って馬乗りの体勢となり短槍を両手で構えた。
腕を押さえつけてくる足の柔らかな感触。死の間際にそれを味わえただけ、男は幸せだったといえるのかもしれない。
「が、ああっ……、うむむっ」
短槍の鋭利な先端が、非情にも男の額に吸い込まれていった。痙攣する身体。恨めしいほどに眼孔を開きながら、男は絶命していた。
ふーっ、と周倉が息を吐いた。引き抜いた短槍には、ドス黒い血がべっとりとこびり付いている。
これで、残すは偽の御遣いだけである。
夕日を背にゆっくりと近づいてくる一刀のことを、偽の御遣いは手で日除けを作って見つめていた。
一歩、また一歩。段々とはっきりしてきたその姿に、偽の御遣いは苛立ちを隠すことができなかった。
「お前、まさか……」
「そう、そのまさかだよ。散々、俺の領地で好き勝手をしてくれたみたいだな」
一刀の瞳は、怒りに燃えている。領民を無残に殺害されたこと。天の御遣いの名を騙られたこと。徐晃や楽進に一時でも後ろめたい気持ちを抱かせたことも、到底許せることではなかった。
「ふ、ふふっ……。そうか、あんたが天の御遣いのご領主さまか。なるほど、見れば見るほど俺たちはそっくりなようだな」
偽の御遣いは、そう言って薄暗く笑った。
「あんたも俺と同じで、相当女が好きなようだ。さっきの戯志才だって、どうせあんたが囲ってる女なんだろ? なんとも、羨ましいことだ」
「お前からすれば、そうなのかもしれないな。だけど、みんな俺にとっては半身同然の存在なんだ。汚い手段を使って身体を手に入れたあとは、なんの愛情もかけずに殺していく。そんな外道の考えることなんて、俺は理解したくもない」
聞いているだけでも、腸が煮えくり返ってしまいそうだ。そんな感情を抑え込みつつ、一刀は自分そっくりな男と対峙を続けていた。
「まあいい……。なあ、ご領主さま。俺にだって使い道はある、そうは思わないか」
「使い道……? お前が、俺に力を貸すとでもいうのか」
よもや、この期に及んでそのような提案を受けることになるとは考えてもいなかったことだ。口だけは回る男だ。いままで何人もの女を騙してきた経験があるだけに、この状況からでもなんとか挽回できると考えているのかもしれない。
腕を組み、一応話を聞く体勢をとってみる。すると偽の御遣いは、しめたとばかりに表情を明るくしたのだった。
「同じ顔、同じ声の人間を上手く使わないのは損ってもんだろう? これだけ世の中が乱れきっているんだ、きっと俺は役に立つと思うぜ。頼まれれば、影武者だって引き受けてやる。俺はまだまだこの世を楽しみたいだけなんだ。な、悪くない提案だろ?」
「そこまで考えているのか。ふん、なるほどな。確かに、そういう意味ではお前以上の男なんて、この世界にはいないんだろうな」
考える素振りをしながら、一刀は男に背を向けた。
いま、目の届く範囲に自分たち以外の人間はいない。それを踏まえてのことだったのだろう。偽の御遣いの眼光が、にわかに鋭さを増していった。目の前には、がら空きとなった天の御遣いの背中がある。
右手に短刀を握る。この男さえ殺してしまえばあとはどうにでもできる、と偽の御遣いは判断したのである。真の意味で天の御遣いに成り代わり、その全てを自らのものとできる機会が転がっているのだ。
これまで味わうことのできなかったような女も、もうすぐ思いの儘になる。漏れ出しそうになる笑い声を我慢し、偽の御遣いは短刀を握った手に力を込めた。
瞬時、身体をぶつけるようにして偽の御遣いは行動を開始した。ずぶり、と刃が肉を貫いたような嫌な音がする。
「う、ぐうっ、ああっ……」
苦渋に歪んだ声。痛みによって、まともに声を出すことすら叶わないのだろう。刃の突き立った部分から、滾滾と血が流れ出している。
なぜだ、と刺された方の口が動いていた。
「どうだ、痛いか。お前のようなやつが、楽に死ねるなんて思うなよ。刃の痛み、存分に味わっていけ」
「は、はあっ、ううっ……てめ……え」
自分で自分を殺そうとしている。言ってしまえば、そのような感覚だった。だが、一刀は不思議なほど冷静でいられている。
男の腹に刺した愛刀を、わずかに押し込んでいく。痛みに歪んだ表情。これは、写し鏡なのだろうか。
いずれ、この行いが我が身に返ってくる日があるのかもしれない。だとしても、心中から湧き出る衝動がそうさせているのだろう。
「かはっ……、ふうっ。わざと、だったのか」
「当たり前だろう。お前のような男に、俺が本当に気を許すとでも思ったのか。だとしたら、間の抜けたことだ」
「くそ……が……。早く、殺せ……ころせ……え」
出血は続いていたが、まだ意識は残っているようだった。このままにしておけば、当分の間苦しみを与えてやることだってできる。郭嘉には悪いが、この男を初めから生かしておくつもりなどなかった。
下手に情けをかけてしまえば、どんな災厄となって降りかかってくるかわかったものではない。数多くの恨みを買っている人間だ。ならば、その報いを受けさせてやるまでだ、と一刀は決意を固めていた。
「残念だけど、お前を殺すのは俺じゃないんだ」
周辺を観察してみる。気配を感じることはできなかったが、胡車児ならば追ってきていると確信していた。
自らの手で頼み人の恨みを晴らしてやることができなければ、胡車児はそれをいつまでも悔いることになるのだろう。そうなってしまえば、力を借りることなど夢のまた夢となる。
「……どこかで見ているんだろう、胡車児。こいつは、きっとお前が仕留めるべきだ」
頭上。人影が落ちてくる。それに合わせて、一刀は偽の御遣いの身体を地面に向けて投げ捨てた。
乾いた呼吸の音が聞こえる。ほとんど虫の息といっていい状態だったが、偽の御遣いは腹の傷を押さえながら立ち上がろうとしていた。降りてきた胡車児が、両刃の直刀をすらりと抜き放つ。その輝きだけが、偽の御遣いの目に映っていた。
「死んでもらうぞ。天などではなく、地の底を這いずり回っているくらいがお前にはお似合いだ」
直刀が、見事な軌道で振り下ろされる。そうして恨みを乗せた刃が、偽の御遣いの首を豪快に斬り飛ばした。
見つめ合う。胡車児の相貌には、これでやりきったという感慨のようなものが表れていた。
「かたじけない、北郷殿。……いや、今よりは
「殿……、か。うん、それもいいだろう。俺のほうから誘っていたことなんだ、当然ノーとは言わないよ」
「の、のー? ううむ、よくわからないが、それは了承くださるということでよろしいのだな?」
きょとん、とした胡車児の顔を見ていると、肩の力が抜けていくようだった。刀身についた血を払い、鯉口を鳴らす。その意味は、胡車児にもおおよそ伝わったみたいでもある。
「お兄ちゃんのほうも、終わったみたいだね」
「ああ。正真正銘、これで終わりだ。それと、この男の首は数日間晒すことにする。今回の事件が解決したことを、郡の隅々にまで知らしめたい」
「それはよろしいことだとは思いますが、一刀さま」
徐晃と共に近づいてきた郭嘉の目が、胡車児のことを不審げに捉えている。それもそうだ、と一刀は苦笑するしかなかった。
「その者はなんです? よもや一刀さまを襲った当人、などどは仰らないでもらいたいものですが」
状況から鑑みて、敏い郭嘉が勘付かないはずもない。わかっていて、あえてそう言っているのだろう。
北郷軍において、諜報を司っているのは郭嘉である。一刀は、胡車児を配下に加えることができれば、当然その指揮下に入れるつもりでいた。そのためにも、この場で郭嘉の理解を得る必要があるのは間違いない。
「御名答だな、稟。この胡車児は、頼みを受けて天の御遣いの偽物を追っていたんだ。ただ、そこに手違いがあって、俺も襲われることになったんだが」
「あのとき殿を襲撃してしまったことについては、弁解の余地もございません。それでも、この方は拙者の力が欲しいといってくださったのです。頼み人の恨みについては、ケリをつけることができました。ですから……」
「殿、などと馴れ馴れしい……。率直に申し上げれば、わたしはその者を信用することなどできません。そばに置いておくことで、今後一刀さまに危害を加えないとも限りませんから」
郭嘉の言うことがもっともであるだけに、胡車児としては反論することができなかった。どれだけ言葉を並べようとも、過去の行いを取り消すことなどできないのである。
咳払いすることすら許されないような、重い空気が流れている。厳しい姿勢を崩そうとしない郭嘉に対し、胡車児は伏し目がちになりながら拳を震わせていた。
そのまま、時間ばかりが過ぎていった。
「そのくらいにしておけ、稟。胡車児といったか、稟……郭嘉のことを悪く思わないでやってほしい。ご主人様の御身を心配するのは、我ら臣下にとっては当然のこと。ましてや、深く敬愛するお方とあれば尚更のことだ」
「それは承知しております。ですが、拙者はどうすればよいのでしょうか。殿にお仕えしたいという気持ちは本当なのです。しかし、それを証明しようにも……」
周倉から報告を受けて到着した関羽が、まずい雰囲気を察して仲裁に入っていた。
「わかった。それならば、わたしに考えがある。稟、この件はこちらに預からせてはもらえないだろうか」
「はあ……、わかりました。よき案があるのであれば、愛紗殿にお任せいたします。一刀さまも、それでよろしいですか」
「みんなに納得してもらえるような方法があるんだったら、俺はそれでいいよ。そうなんだろ、愛紗」
「納得してもらえるかどうかは、胡車児次第でしょう。多少危険な目にあうことになるかもしれないが、構わんな?」
どういったやり方を取ろうとしているのかは不明だったが、関羽には自信があるらしかった。ひとまず、郭嘉も矛を収めている。この場は、それでよしとするしかない。
「はい、それは覚悟の上です。それで、拙者はなにをすればいいのでしょうか」
「まあ、そう焦るな。一旦城に帰り、全員にこのことを知ってもらう必要がある。お前を試すのは、それからだ」
冀城へ帰還すると、一刀は主だった配下を全て集めて事の経緯を説明した。反応はそれぞれであり、楽進などは明らかに警戒心を強めていた。
練兵場の一角に、木製の人形が用意されている。どうやら関羽は、それを使用して胡車児のことを試そうとしているようだった。
「一刀殿も度量が大きいっていうか……。やっぱり、そういうところが天の御遣いって感じがするよな」
「いやー、どうなんやろなあ。でもそれくらいやないと、ウチらの大将なんか務まらんのかもしれへんな。翠さんみたいなお人だって、惚れさせてしまうくらいなんやし」
「ほれっ……!? た、確かに一刀殿のことを想ってはいるけど、いやいやいや……!」
早口になって捲し立てる馬超。一刀と親密な関係になってからは、他の者とも真名で呼び合うようになっていた。
「翠、ここにいたのか。どうだろう、よければ今回のことに協力してはもらえないだろうか」
「あたしがか? 別にいいけど、どうすりゃいいんだよ」
「なに、簡単なことだ。わたしと翠、それから鈴々で、ご主人様に見立てた木偶人形を攻撃する。胡車児が身を挺してそれを守ることができれば、合格というわけだ」
篝火に囲まれた中。胡車児が剣を構えて、関羽ら三人の敵と対峙している。
「うううぅうううううう……りゃりゃりゃりゃりゃ!!!!!」
「鈴々のやつ、すげえやる気じゃねえか……。でも……あたしだって引き受けた手前、やってやろうじゃねえか!」
張飛と馬超、ふたりの繰り出す得物が胡車児に襲いかかった。手加減は一切なし。関羽が義妹らに求めたことは、その一点のみだった。
「ぐっ……! この程度……っ」
どちらも、剛勇で鳴らす猛将なのである。少しでも気を抜けば、腕の一本や二本は簡単に斬り落とされてしまうだろう。それに、相手にするべきはこのふたりだけではない。
「どこを見ている。わたしのことを、忘れてもらっては困るな」
青龍偃月刀が吼える。斬りかかる関羽の気迫は、戦場さながらである。斬撃。直刀を水平に払って必死に押し返し、胡車児は人形を守り通していた。
端から、無理な試練だったのである。北郷軍きっての使い手に加えて、西涼の錦馬超までが相手となっているのだ。暗殺の技を得意とする胡車児では、どこかで必ずや限界がやってくることだろう。
「よろしいのですかー、ご主君さま? あれでは、とても」
「いいんだ、風。愛紗からあの方法を聞いても、胡車児はやるって言ったのだから。だったら、俺はそれを見守ってやるだけだ」
一刀の左右には、程昱と郭嘉が控えている。関羽らの攻勢は凄まじく、これだけ保っていること自体が不思議なくらいだった。程昱が、横目で友人の表情を伺っている。眉ひとつ動かさない。郭嘉は、ただ静かに闘いの行方を見つめていた。
「どうした、もう音を上げるのか」
「誰がそんなこと……っ。まだまだ、拙者の剣は生きている」
「なかなか頑張るな、お前。そういうやつは、あたしも嫌いじゃないぜ」
「鈴々も、翠とおなじだよ! でもでも、いまは本気で闘うだけなのだ!」
全身に切り傷ができている。飛び散る汗と血。それでも、木偶人形には傷一つ付けられてはいなかった。
一刀のことを守る。胡車児は、そのことだけを意識して剣を振るっている。
「ご主人様……」
「だめだ、桃香。俺がここで止めてしまえば、胡車児の頑張りが無駄になってしまう。だからそれだけは、絶対にやるべきじゃない」
そうは言ったものの、この闘いの果はどこにあるのか。胡車児が息絶えれば、終わることなのだろう。だがそれでは、なんのために闘っているのかわからなくなる。
劉備がついに、目を覆ってしまった。誰しも、好んで見たくなる類のものではないのだ。
「……もういい、もういいでしょう。一刀さま、わたしの負けです。それにもし、このような状況を現実にしてしまったのであれば、それはわたしたち参軍の責任でもありますから。万全の戦をするためには、よい間諜がもっと必要となってくるのでしょう。胡車児の力は、得難いものです」
郭嘉の叫びによって、戦闘が中断されていく。関羽、張飛、馬超の三人は、相手を殺さずに済んだことにさぞほっとしているはずである。
ほとんど覆い被さるようにして木偶人形をかばっていた胡車児は、自分が生きているのかさえわからなくなっていることだろう。
虚ろな目をして地にうずくまった胡車児。そこに、手が差し伸べられてきた。
「あ……、郭嘉殿」
「ぼろぼろになったあなたを、取って食おうなどとは思っていませんよ。ほら、来なさい。それだけの傷ですから、早く治療をしなくては」
つい先程まで闘っていた三人にも付き添われ、胡車児は痛む身体をなんとか動かしながら郭嘉に連れられていった。
その光景を見ていた一刀は、安堵のため息をついている。過程はともかく、見事なまでに忠義を示してみせた胡車児は今後受け入れられることになるだろう。これで、軍の編成もさらに進むはずである。
膠着したままの洛陽の情勢にも、そろそろ動きが出てきてもおかしくはない頃合いだ。怪しげに揺れ動く篝火。それは、なにかを予感させうるものでもあった。