この有様を、なんと表現すればよいのであろう。まるでいつまでも続いてしまうような、そんな沈黙の時間が訪れている。
今ならば、肌を流れる汗の音ですら聞こえてしまうのではないか。一刀だけでなく、他の四人もあまりのことに発する言葉を失っていた。
初めて異変に気づいたのは、程立であった。進行方向に見える幾筋の黒煙。程立お気に入りの飴の味すらほろ苦くするどす黒いそれを、一刀は村の者がごみでも燃やしているのだろうと片付けた。彼女は反論しようとしたが、到着まで後少しということもありそれを喉の奥にしまい込んだ。
やがて、完全に村の様子を目視できる距離にまで彼らは近づいた。そこに映し出された光景に一刀はたまらず力一杯手綱を引き、楽進は片手で目を覆う。その時にはもう、全てが手遅れのことであった。
変わり果てた村の中を、一刀は必死の形相で駆ける。後ろを顧みる事なく飛び出すと、痛々しい家々の姿が散見された。
焼かれ、略奪された家屋を通り過ぎる度に胸が苦しくなる。傷つき倒れている村人のことも、脳内にこびりついている。だがそれらをどうにか振り切って、彼はひたすらこの世界で得た家族の元へ向かっていた。
「おやっさん! なあ、しっかりしてくれ!」
住み慣れた我が家の戸にもたれかかり、農夫は虫の息となっている。刃物で腹を突き刺されたのか、抑える手の下からは血が止めどなく溢れていた。
農夫は曇りかけた瞳で一刀を見つけると、弱々しく何か言っている。一刀は耳をそばにやり、それを少しでもはっきりと聞き取ろうとした。
「ああ……、お前が、無事でよかった。最後にこうやって話せて、らっきー、ってやつだな……」
咳き込みながら、農夫は一刀から聞いて覚えていた天の言葉を使ってみせる。あまりのやるせなさに、一刀の肩は打ち震えた。
衰弱していく身体を抱きかかえながら、どうしてという思いが頭の中から尽きない。次々に湧いて出る記憶が、辛さを後押ししているようであった。
「そんな暗い顔するんじゃねえよ。上向いて、笑え」
「できるわけないだろう、そんなこと! もっと沢山、色んな事を一緒にやりたかった……」
ようやく追いついた楽進らは、二人の最後の時を静かに見守ることしかできなかった。事情を深く知らない郭嘉達にも、邪魔をすることは
「馬鹿野郎、そんなしけた面すんな。お前には、力になってくれる人がいるじゃねえか。だから、死に土産にいい顔見せてくれや、一刀……」
瀕死の状態で力を振り絞り、「おやっさん」は一刀の腕をぐっと掴んだ。死を目前とした男の凄絶な思いが、一刀にはっきりと伝わっていく。
やがて肺を空にするほど大きく息を吐いてから、一刀はゆっくりと鼻で深呼吸をした。そうすることによりほんの少しだけ脳内が落ち着きを取り戻し、覚悟を決めるための理性が呼び起こされる。
「くっ、ああ……っ。おやっさん、今日までありがとう。俺、胸張って報告できるように、精一杯生きてみせるよ。だからまた、どこかで会おう」
「はは、言ってくれるじゃねえか……。それからな、慕ってくれる子を、無碍にしちゃあいけねえよ……?」
「せっかく格好良く決めたってのに、なんだよ……それ」
「心配してやってるのさ、俺なりにな。うぅ……、期待してるぜ、一刀」
「うん、任せてくれ」
がくり、とおやっさんの身体の力が抜けていく。
悲しみを胸の奥底にしまい込み、一刀は無理やり口元を笑った形にして誓った。そして事切れた農夫の安らかな死に顔に触れると、静かに黙祷を捧げたのである。
やりきれない気持ちを抱きながらも、楽進は一刀の背に視線を落とした。そこにはこの惨状を乗り越え、新たな一歩を踏み出そうとする男の姿がある。
物陰からの凶刃が一刀を襲ったのは、そんな折であった。
「危ない、一刀さんっ!」
反射的に身体を投げだしていた楽進は、まさしくの盾となって一刀の身を護った。瞬間、彼女の切り裂かれた左腕から、ぴしゃっと血飛沫が舞った。
あっ、と叫ぶ間もなく、一刀は楽進を引き寄せてニノ太刀をかわせるように横に倒れ込む。
「ちっ、浅かったか!」
仕留めきれなかったことに賊は焦ってもう一度斬りかかろうとしたが、それは叶わぬことであった。凄まじい速さで飛び出していた徐晃の大斧が、文字通り賊の身体を叩き潰したのである。
地面にめり込んだ大斧を引き抜きながら、徐晃は賊を捕縛しなかったことを僅かに悔やんだ。とはいえ、そうも言っていられない状況であったことも確かである。
「お兄ちゃん、これ使って。シャン、ほかにもいないか辺りを見回って来るね」
徐晃は首に巻いていた布を外すと、半分ほど切り裂いて一刀に手渡した。
「ありがたく使わせてもらうよ。香風も、気をつけるんだぞ」
一刀は痛みに顔をしかめる楽進の介抱をしながら、力強く頷いた。腹を括ってしまえば、やらなければならないことは山ほどあるのだ。
怪我人が残っていれば治療する必要もあるし、できれば事の詳細も聞き出すべきであろう。
悲しみを拭い去るように、思考だけは活発に働いていた。
「凪。痛いかもしれないけど、少し我慢してくれよ。それと、怪我させてしまってごめん」
「いえ、わたしがやりたくてしたことですから。でも、傷がまた増えてしまいましたね」
止血をするために一刀が布を強めに結ぶと、さすがに痛みから楽進は口元を歪める。肌に傷跡が刻まれてしまうのは女の身としては辛いことではあるが、他でもない一刀のためにしたことであり誇らしくもあった。
ふと握られた手から伝わる一刀の体温が、少女に安らぎを与えている。いまはそれだけに集中していればいいと思うと、多少は気が楽になった。
「お邪魔するようで、申し訳ありません。ですが、文謙ちゃんは風と稟ちゃんで見ていますので、お兄さんはどうぞ行ってきてください。こんな状況ですから、あまり期待はできないかもしれませんが」
武の心得のない自分たちでは動き回ってはかえって足手まといになると考え、程立はそう提案した。
楽進もそうするよう目で促すと、一刀から身を離した。名残り惜しくはあるが、そうすることが現状では最善である。
「凪を頼んだぞ、二人とも。なにかあれば、大きな声を出して呼んでくれ」
「はい、わかりました。北郷殿のほうも、どうかお気をつけて」
すれ違いざまに目にした一刀の薄茶色の双眼に、程立ははっとさせられていた。
その輝きの奥底には、ちりちりと燻っている種火がある。それを見出してしまった程立は、胸の高鳴りを偽ることができなかった。
「……お兄さんこそが、風が掲げるべき日輪なのでしょうか?」
「風? 北郷殿がどうかしたのですか?」
程立はぼそりと耳に届かない程度の小ささで呟いたつもりであったが、一刀不在のほうが相談には丁度いいかもしれないと思案を固める。
何拍か心音を数えるようにしてから、彼女は思い切って打ち明けた。
「ええっとですねえ……。これは、恋?」
「恋、だと? 風、いったいなにを言い出すかと思えば」
「そうツンケンしないでくださいよお、稟ちゃん。んんー、表現するのが難しいですねえ。けれども、風はあのお兄さんに惹かれているんだと思います。運命を感じた、とでも言ってしまいましょうか。むむぅ……、口にすればするほど、なんだか安っぽく聞こえてしまうようなー?」
突拍子もない発言ではあるが、郭嘉にはそれがいつもの戯言ではないと判断することができた。郭嘉と楽進が素直に聞き役に回ると、程立はさらに続けた。
「とまあ、前置きはこのくらいにして。きっと、これよりお兄さんは悪党を討ち果たすために立ち上がられるでしょう。あっ、これはただの直感なのですけどねー。こほん……。そこを上手く乗り越えることさえできれば、あの方のもとには多くの人が馳せ参じることになるはずです」
「自分が何を言ってるのか、わかっているのだろうな? 北郷殿を王にでもするつもりなのか、風。仮にそうだとしても、なにもかもが不足しすぎている」
郭嘉の口調は冷たく鋭利なものである。彼女も程立の才を認めその鑑定眼を信用してはいるが、これはさすがに飛躍しすぎているのではないかと疑うのも仕方がない。
「そこはほら、稟ちゃんの出番なのですよ。稟ちゃんも、気になるお兄さんのために才を発揮できると思えば、満更ではないのではー? それにしても、星ちゃんとあっさりお別れしたのは風たちの失態でしたねえ。香風ちゃんもすごく頼もしいのですが、星ちゃんのようにぐいぐい行く質ではありませんから」
熱っぽい口調でまくし立てた程立は、乾いた口内を飴を舐めることで潤わせる。
さすがの郭嘉も友人がこれまで見せたことのないほどの熱弁には感銘を受けざるを得なかったが、あくまでも冷静な立場を貫こうとしていた。
「今の世を変えていくためには、お兄さんのような変わり種が必要なのではないでしょうか。天から落っこちてきたひとなんて、そうそういませんからねー。これは以前から時折考えていたことなのですが、風もこんな形で披露することになるとは思っていませんでした」
普段よりずっと饒舌な程立の言葉は、郭嘉にもしかと届いている。唇に指を当てて、少女は己の向かうべき先を熟考するようになっていた。
「くふふー。文謙ちゃんは、風の言ったことをどう思います? この場でお兄さんに最も親しい方の意見も、ぜひとも拝聴しておきたいのですが」
「自分、ですか……。一刀さんは、優しすぎるくらいの方です。そんな人に、あなたの仰るようなことができるのか、わたしにはわからない」
目を閉じて話していた楽進は、なにか決心するように大きく刮目する。そうして「ですが」と言葉尻を繋いだ。
「あの方が、自らそうした道を歩まれるのであれば、わたしは命果てるまで側にありたい。ただそう願うだけなのです」
痛む腕を掴みながら、楽進はそうきっぱりと応える。
一刀にはできれば平穏な暮らしをしてもらいたいというのが本音ではあるが、どのような形になるにしろ寄り添って支えていきたい。それこそが、彼女の切なる願いであった。
その返答を聞くや程立はにんまりと微笑み、またしても飴を口に運ぶ。だが、いまだ思い悩んだままの彼女の親友は、結局その場で返答することはなかった。
やがて三人の所へ、一刀と徐晃が揃って渋面を作って戻ってきた。結局、村中探しても見つかるのは息絶えた人間ばかりであり、襲撃者たちの残忍さが明るみになったくらいである。真っ先に狙われたためか長老の屋敷は特に酷い様であり、苦悶を浮かべながら生を絶たれた亡骸は見るに堪えないものであった。
老若男女別け隔てなく訪れた不幸な暴風に、一刀は怒りを覚え奥歯を噛む。多少の希望となったのは、彼が見た限りでは全ての村人が亡くなってしまったわけではないということであった。
「村のみんなを休ませてあげたい。香風たちも、手伝ってくれないか?」
死者をそのままにしておけば、やがて鳥獣に荒らされ、夏の暑さで腐敗し見苦しい姿になっていく。ならば、せめて安らかに眠らせてやりたい。そんな思いが、一刀には強くあった。
数十人分の身体を収める穴を掘るのは骨が折れるが、どの道ここへ帰ってくる人たちのことを待つつもりでもあるので時間はある。ひとまず村の外れに死者たちを集め、空き地を墓所とすることを一刀は決めた。
「あっ、これって。そっか……」
農夫の遺体を抱き上げた一刀は、その袂からなにかがこぼれ落ちているのを見つける。ころころとした小粒のそれらは、秋になったら蒔こうと約束していた作物の種であった。
死んだ農夫のためにも感傷的にはなってはいけないと我慢していたが、平静でいられるのにも限界がある
「おやっさん、やっぱり辛いよ」
頬を伝う雫が一筋。静かに、静かに一刀は涙した。外れまでの大したことのない距離が、とてつもなく長く思える。
到着し、物言わぬ農夫を横たえてやると、大きな疲労感がやってきた。後ろから一人担いで来た徐晃はまだまだ元気そうで、頼もしい存在である。
「お兄ちゃん、つかれたのなら休憩しててもいいよ? もしお兄ちゃんまで倒れちゃったら、シャン……すごく悲しいから」
「ありがとうな、香風。うん、でも今は頑張りたいんだ。本当に疲れたら、ちゃんと休ませてもらうから」
それから日が落ちるまで、一刀たちは埋葬のための作業に取り組んだ。
さすがにこの状態の村の中で眠ったのでは気が滅入ってしまうということもあって、少し離れた場所で野営をしている。
また、念のために夜間は交代で見張りを立てることにし、最初の番となった一刀と郭嘉は篝火を焚いて周辺を警戒していた。
「ああ、そうだ。いまは二人きりだから、真名を呼んでも構わないか」
「どうぞご勝手に。てっきりそんなこと、あなたは忘れてしまっているのかと思っていましたよ」
そういう郭嘉はやけに不機嫌そうであった。
本当であれば、なにか優しい慰めの言葉でもかけてやりたい気持ちもある。しかし程立から聞かされた決意や、それに関する自身の複雑な心境もあって、いつも以上に素直になれないでいたのだ。
「俺がここにやって来た日。稟の真名を初めて呼んだ夜も、こんな月夜だった」
一刀にとっても、あのひと時は忘れようのない思い出となって記憶されている。
見上げる夜空は変わらず美しく輝いているというのに、地上のなんと薄汚れたことか。そんな感情渦巻く一刀の手を、郭嘉は恐る恐る握った。
「どうして、なのでしょうね。あなたはそうやって、わたしの心を簡単に乱してしまう。……悪い御方です、一刀殿は」
ここにいる誰よりも心を痛めているはずなのに、どうしてそんな優しい声色で包み込んでくれるのか。代わりに泣いてやりたくなるような気持ちで、郭嘉はさらに手にこめる力を強めていく。
「……あの時の俺は、ただ稟に甘えて泣きじゃくることしかできなかった」
「一刀、殿……?」
少女を見つめる青年の瞳には、再び程立を動かしたほどの種火がパチパチと散りはじめている。
それを直視してしまった郭嘉は思わず息をのみ、一刀の言葉の続きをじっと待った。
「だけど今度は、それじゃだめなんだ。おやっさんの思いや、みんなの悔しさ。それを背負って、俺は立ち上がらなくちゃいけない」
そうすることがごく自然であるように、二人は向き合って視線を交わす。
心に決意を結んだ一刀の顔を見上げながら、郭嘉は身体の内から熱いものが流れ出ようとしていることを感知していた。
鼓動が高鳴り、少女の心臓はどうしようもないくらい跳ね回っている。
「俺ひとりの力なんてたかが知れている。だから、稟」
一刀の力強い声音に押され、鼓動はさらに上昇していった。
どれだけ止まるように念じても、ついに彼女の意志とは別に血流は走る。
一刀が少女の頬に手を当てて顔を近づけた頃には、その小鼻からたらりと赤いものが流れ落ちていた。
「あっ、ん……。だめ、です、ふうっ……」
「気にするものか。これも、稟の味だから」
流れる血をものともせず、一刀は赤く濡れた郭嘉の唇をついばんだ。鉄臭さが口内に広がっていくが、嫌な気はしていない。
どこか変に興奮していることをおかしく思いながら、夢中で口付けていく。郭嘉も一刀のすることに毒されて来たのか、彼の唇を甘噛しながらも舌を使ってちょんちょんと触れている。
「ちゅ……、んんぅ……。ふうっ……ちゅう。一刀どの……ッ」
負けじと一刀が舌先で郭嘉の唇のラインをなぞると、中へと招待するように少女の舌が出迎えた。そうしていると一刀の腕は自然と郭嘉の後背へと周り、抱き寄せるような形となっていく。
口内でくちゅくちゅと唾液が混ざり合う度に、両人ともに頭がぼうっとしていくような感覚になる。ただ口同士で触れ合っているだけなのに、思考はとろけ気持ちよさが支配していった。
「あなたのことを、わたしにもっと感じさせてください……。あんっ……、はむっ、ふうっ」
最早どちらが吸い上げて淫らな音を鳴らしているのかもわからないまま、二人は夢見心地で深く交歓していくのである。口腔で複雑に絡み合った舌は互いに離すまいともつれ、性的興奮を生み出していく。
「稟、かわいいよ」
「かじゅ、と、んんっ……!」
蕩けきった声で、郭嘉は青年の名を呼んでいる。いつの間にやら鼻血は収まり、少女本来の味を探るように一刀の舌が口腔を執拗に動く。
それに応じてもっともっと、と催促するように郭嘉はより大胆な動きで一刀の体温を求めていった。
(決めましたよ、一刀殿。わたしは、わたしは……っ)
熱の込められた舌の蠢きに感化されるものがあったのか、一刀は郭嘉の細い腰をぎゅっと強く抱き寄せる。
「もっと、稟……。んくっ、はあっ……」
永遠に続くかのように感じられた口づけは、やがてどちらともなく唇を離したことによって一旦の終幕を迎えた。
そしてそれは、次なる一歩への始まりでもあるといえるのだった。