三月になった頃には、情勢は一気に動き始めていた。諸侯が袁紹からの檄文に賛同するかたちで、足並みを揃えて兵を挙げたのである。
曹操や孫堅も、手勢を率いて一路洛陽を目指している。これで形式としては、袁紹が全軍を取り仕切ることになるはずである。そのこと自体は面白くなかったが、戦闘さえ始まってしまえばあとはどうとでもなる、という気持ちが曹操らにはあった。
涼州漢陽郡。太守である北郷一刀は、城壁の上にいた。両隣には、郭嘉と程昱の姿があった。眼下には、大勢の武装した士卒らが控えている。
「どうですかー、ご主君さま。緊張をほぐすために、あちらをほぐしてさしあげてもよろしいのですが」
「そのくらいにしておきなさい、風。いま一刀さまの気勢を削ぐのは、あまりよくないことだから」
「いや、いいんだ。おかげで、力みが少しとれたような気がするよ。よし……、始めようか」
一刀が声を張り上げた。天下を目指す。全軍にそれを伝えるのは、今日が初めてのことなのである。
「聞けっ! みんな、これまで、厳しい調練によく耐えてくれた。その成果を、存分に発揮するときが来たぞ」
中原の軍勢とも渡り合えるよう、激しい調練を重ねてきたつもりである。本当の殺し合いでないとはいえ、怪我をして闘いを続けられなくなった兵もいるくらいなのだ。
関羽をはじめとする将軍たちは、本番でないからといって容赦をすることはしなかった。調練についてこられない兵は、遅かれ早かれ戦場で死ぬことになるのだろう。その見極めをしてやるのは、ある意味では優しさともいえた。
「洛陽に、諸侯が集まりつつあることを知っている者も多いだろう。その余波を受け、穏やかだったこの涼州も、ふたつに分断されようとしている。
一刀の言ったように、この涼州においても勢力に別れての争いが始まろうとしていた。涼州北部に影響力を持つ韓遂と辺章が、一刀のことを親董卓派だとして追討の号令をかけたのである。
これは間違いなく、袁紹らの挙兵と連動したものであろう。郭嘉の調査から不穏な兆しがあることはわかっていたが、なにも起こらぬままに手を出すわけにもいかなかった。最終的な目標は、この国を統一することなのである。そのための初手であるだけに、動くにはそれなりの大義が必要なのだ。
「韓遂さんたちをそそのかしたのは、どなたなんでしょうねー。稟ちゃんは、そのあたりのことまでつかんでいるのですか?」
「さて、どうでしょうか。しかし、調略を仕掛けたのが袁紹であろうと曹操であろうと、こちらには関係のないことです。今回の叛乱によって、我らに敵する者たちの存在が浮き彫りになったのですから」
「おおー。稟ちゃん、とっても悪いお顔をされていますねえ。ご主君さまのためにどろどろとした情熱を燃やす稟ちゃんの姿、風も見習わなくてはなりません」
郭嘉は、あえて叛乱という言葉を使用した。現状、帝を抱え朝廷を動かしているのは、董卓なのである。その董卓を非難し、あまつさえ私兵を遣って自分たちまで討とうというのだから、これは立派な叛乱行為だろうと郭嘉はいっているのだ。
「韓遂たちが闘いたいというのであれば、それを徹底的に利用してやればよいだけです。この戦に勝ちさえすれば、日和っている涼州の豪族らも、態度を明らかにせざるを得なくなるでしょう。それに、いまはあちらに靡いている者であっても、情勢が変わればこちらに鞍替えする可能性も出てくるはずですから」
「そうですねー。闘うことも大切ですが、常に調略のきっかけは探っておくべきでしょう。ここで時間をかけ過ぎるのは、よくありませんから」
まだまだ先は長いですからねー、と程昱は付け足した。
とにかく、素早く地盤固めをすることだ。一日二日で出来ることではないが、天下を獲るというのであれば尚更急ぐべきだろう、と郭嘉は周辺の景色に目を移した。
参軍ふたりが話している間も、一刀による演説は進んでいる。
「俺は今回の闘いを期に、涼州をひとつに纏め上げようと考えている。夢物語だと思う者がいるかもしれないが、この涼州から乱れた天下をもう一度ひとつにしたいんだ」
ざわめきが起こる。当然だろうな、と一刀は思った。それでも将軍たちが落ち着いて聞いている分、動揺が鎮まるまでそれほど時間はかからなかった。事前に知らされていたというのもあったが、郭嘉の言っていたように家中で意見が割れることはなかったのである。
「そして、世の中をよくしたいというのは、董卓殿の願いでもある。一緒に闘ったことのある者でなくとも、涼州の人間であればそのことをよく知っているだろう。董卓殿はいま、洛陽において孤立無援の闘いをされているところだ。朝廷内部にたまった膿を出しきるため、あえて苦難の道を選ばれたのだと俺はみている」
古参の兵たちに同調するように、涼州に来てから加わった兵たちがその通りだと叫んだ。凛々しくも優しげだった、董卓の姿。ここにいる誰もが、董卓が憂国の士であることを知っていた。
刀を鞘から抜く。一刀がそれを頭上高く掲げると、陽光を吸った刀身が強く輝きを放った。
「どれだけ暮らす地が離れていようと、心はともにあると信じている。だから、俺は董卓殿を見捨てたくはない。新たなる天下を創造するためには、董卓殿のようなお人が必要なんだ。全てを、この涼州から始めるぞ。天の御遣いとして、俺はこの国を安寧に導いてみせる。この闘いは、その第一歩だ」
身体中の血が、熱く滾っている。韓遂と辺章を退け、諸侯の囲む洛陽までひた走るつもりなのだ。
全員の視線が、自分だけに集まっている。程昱は、普段となんら変わらぬ飄々とした様子で飴をねぶっている。一刀は、瞑目しながら大きく息を吸い込むと、丹田に力を込めて全軍に向け声を発した。
「気合を入れろ! 友を守り、敵を打ち倒せ! 俺たちの行く道は、どこまでも開けているぞ!」
ざわめきが、鯨波へと変化していく。楽進、関羽、張飛といった面々が、兵たちに混じって雄叫びを上げている。
激しく振られる、十文字の大旗印。それを見つめながら、一刀は再び拳を天高く突き上げた。
「蒲公英」
「あっ、お義兄さま……。来てくれたんだ」
出陣を前にして、一刀は馬岱の様子を伺いにいった。他家からの客将とあって、馬岱には最後まで真意が伏されたままだったのである。
韓遂たちは、旗色を明確にしていない馬騰のことも、敵とみなしているはずである。それに元々、この両人には因縁があった。だから、それの清算までもを韓遂は狙っているのかもしれない。
「お義兄さま、涼州を獲るって本気なんだよね? だったら、馬家との関係はどうなっちゃうわけ? お義兄さまとお姉さまが戦場で喧嘩するとこなんて、たんぽぽ見たくないよ」
元気いっぱいの笑顔が似合う可愛らしい顔が、ことさらに暗く沈んでいた。
馬岱の懸念は、もっともなものである。一刀が涼州、そして天下を統べるということは、すなわち馬家をもその支配下に加えるということを意味している。
そんなことを、果たしてあの馬騰が認めてくれるのだろうか、と馬岱は心配しているのである。馬騰には独立心があり、これまで外敵から漢を守護してきたという誇りも備えている。それにもし、一刀と馬騰までもが争う事態となれば、韓遂ら反董卓勢力を喜ばせてしまうだけなのだ。
「そんなこと、俺だって望むものか。蒲公英、お前には伝令を頼みたい。漢陽と隴西の郡境にまで、馬騰殿を連れてきてほしいんだ。そこで、俺が話してみよう」
「うん、わかったよ……。でも、ダメだったらそのときは……」
「やる前から弱気になるなよ、蒲公英。馬騰殿だって、月のことは気になっているはずだ。この国の在り方だって、決していまのままでいいとは思っていないだろう。だから、大丈夫」
「あはっ、自信満々なんだ。ねっ……お義兄さま、ぎゅってしてくれる……? そうしてくれたら、きっとわたし頑張れると思うから」
いつになく小さく感じられた馬岱の身体を、力任せに一刀は抱きしめた。繊細な抱擁など、いまは求められていないはずである。
衝動と熱意。抱きしめられながら、馬岱はそれを強く感じていた。
「ありがと、お義兄さま。ちゅっ……、えへへっ」
軽い軽い口づけ。馬岱とこういったことをしたのは、今日が初めてのことだった。意識していたつもりがなくとも、なにか罪悪感のようなものがあったのかもしれない。避けていたわけではないが、どうしても最後まで踏み込むことは躊躇われていたのである。
栗色の髪を撫で付けながら、一刀は少しだけ目を伏せた。馬岱は、その手を気持ちよさそうに受け入れている。
「ごめんな、蒲公英。本当なら、お前にも相談しておくべきだったのに」
「いいんだよ、そんなの。ほら、たんぽぽっておしゃべりだから、どこで洩らしちゃったかわかんないし。だから安心して? おば様は、きっちり連れてきてあげるから」
数日して、両者は相見えることとなった。場所にして、隴西郡
安定郡から来る敵への備えも考えて、一刀は全軍一万のうち、兵四千を連れてあらわれた。対する馬騰は、全て騎兵で編成された精鋭二千だけを率いている。
「よう一刀、直接会うのはあのとき以来だったね」
「足を運んでいただけたこと、嬉しく思います。蒲公英から、事情はお聞きでしょうか」
自らの考えを訴えるために、一刀は関羽だけを伴って馬騰の陣を訪問していた。この話し合いをしている間も、韓遂らの軍勢は南下してきているに違いない。そのこともあってか、陣内にはひりついた緊張感が漂っていた。
「ああ、聞いたさ。なんでもお前、涼州どころか天下が望みだっていうじゃないか」
「ええ、その通りです。俺は涼州の力を結集させ、やがては中原にまで打ってでるつもりです。韓遂たちの動きは厄介ですが、これは統一を早めるための好機ともいえるでしょう」
「それもこれも、月ちゃんのため……ってか。女を守るついでに天下を獲りに行くとは、婿殿はとんだ食わせ者だねえ」
今頃、洛陽でも戦支度が行われているのかもしれない。そちらが陥落してしまうことがあれば、なにもかもが水泡に帰してしまう。一刀にも、まったく焦りがないわけではなかった。
「なるほど。そう言われてみれば、確かについでなのかもしれません。ですが、そのくらいの気持ちで臨むのが丁度いいと思うのです。天下なんてものは、常人の俺にとっては重すぎるものなんですから。だから、とても一人でなんて闘えません。俺には、馬騰殿たち馬家の力が必要なのです」
一刀の発言を聞いて、馬騰は堪えきれず破顔してしまった。
前回会った折になにかを感じたのはこのためか、と今更になって思う。だいたい、そのような大言をさらりと言ってのける常人が、一体どこにいるというのだ。馬騰の笑い声は、陣屋の外にまで響いている。
「くっ、うははっ……! いいねえ、その青さ。わたしも、若い頃は散々手下を連れて暴れ回ったもんだ。そんな女が、随分とつまらないことを考えるようになったもんだよ」
先程とは打って変わって、馬騰は少し自嘲気味に笑った。
いまは、自分ひとりだったときとは違う。槍をいくらか遣えるようになったといっても、娘たちはまだまだなのだろう。涼州で名を挙げてこそいるが、中原の戦は知らないままなのである。
年は取るものではないな、と馬騰は思った。自領を焦がさんとする火の手は、すぐそこにまで迫っているのである。なのに、自分はなにを迷っているのか。
槍を取り、広大な原野に馬を駆けさせる。軍人である自分にとって、それが全てではないのか、と馬騰は拳を握った。それに、娘をやると認めた男が、力を貸してくれと言ってきているのである。ならば、道はとうに決まっているはずだ。
「乗ってやろうじゃあないか、お前の博打に。わたしも馬家も、お前とはこれから一蓮托生だ。……だいたいわたしは、韓遂のやつとは昔っから反りが合わないのさ。ふん……、そうだ。あいつからやろうってんなら、受けて立ってやるのが筋ってもんだろう。やると決まれば、わたしは徹底的にやるよ。馬家の本気の戦、お前たちにもよく見せてやるから、楽しみにしておくんだね」
馬騰の視線に、野性的な鋭さが戻っている。老練さを増す代わりに忘れかけていた獰猛な部分が、再び燃え上がろうとしているのかもしれない。
「戦の段取りは、決めてあるんだろうね。洛陽のほうでも、ぼちぼち争いが始まりかけているって聞いたよ?」
「洛陽に駆けつけたいのはやまやまですが、ひとまず韓遂たちの力を削がなくては、いずれ挟撃を受ける可能性もあります。ですから、まずは軍を北上させてそちらを叩くつもりです」
「そうか。だったらわたしは一度狄道に戻り、総力を上げて金城郡に攻め入ろう。……苦労するね、お前も」
「この程度の障害を乗り越えられなくては、覚悟をした意味がありません。洛陽に行ったら、引きずってでも月を連れ戻すつもりですから。頼りにしています、馬騰殿」
金城郡で合流することを約束し、一刀は馬騰の陣屋を出た。誰かとぶつかる。戸口のそばで立ち尽くしていたのは、馬超だった。
「あっ、ごめっ……、一刀殿っ」
「ここにいたんだな。ずっと会いたかったよ、翠」
「うっ……、ほんとかっ!? そ、それよりも、母様との話し合いはどうなったんだよ!」
「安心するがいいぞ、翠。馬騰殿は、ご主人様へのご助力を約束してくだされた。よもや、お前が嫌だとは言うまいな?」
関羽のからかうような口調に、馬超はぶんぶんと首を左右に振って応えた。馬岱から知らせを受けたときには戸惑ったが、ここに来るまでに腹はくくっていた。一刀が天下を狙うというのであれば、自分は全力でそれを支えよう。馬超は、そう心に決めていたのである。
「そんなわけないだろっ!? 一刀殿ならいい世の中を作ってくれるって、あたし信じてるんだからな。絶対、裏切ってくれるなよ?」
「そうなるように、努力はしてみるよ。俺には、分不相応なくらい優秀な配下がいるからな。みんなの力を合わせれば、やってやれないことはないさ。だろう、愛紗?」
「また、そうやってご謙遜を……。我らなど、束ねてくださるご主人様がいらっしゃらなければ、力を発揮できないのですから。ですが、ご主人様のご期待に応えられるよう、これからも精進を続けて参りましょう」
馬家の旗本に預けていた青龍偃月刀を手に取ると、その石突きで関羽は地面を強かに叩いた。
戦を目の前にして、気が昂ぶってきているのだろう。なにしろ、相手は涼州でも名の売れた将軍なのである。鍛えてきた騎兵の力を試すには、絶好の機会ともいえるのだ。
「油断するなよ、愛紗。韓遂殿は、母様と何度もやりあってきた古強者だからな。戦の腕は、確かなものだ」
「わかっているさ、翠。ご主人様から一軍を預けられている以上、わたしはそうそう負けるわけにはいかないのだ。十文字旗のあるところに、関雲長あり。此度の戦で、この涼州にもそう知らしめてやろう」
「おっ、言ってくれるじゃねえか。一刀殿、あたしの活躍にも期待しててくれよな。へへっ……」
「もちろんだ。模擬戦は何度かしていても、実戦で翠たちを見るのは初めてだからな。馬家による騎兵の動かし方を、しっかりと学ばせてもらうつもりだ」
一刀に向かって、勇ましく宣言してみせた馬超。やはり、軍人としての血が騒ぐのだろう。
そういえば、と一刀は周囲を見回した。馬岱。こちらの陣にやって来てから、まだ見かけていなかった。恐らく同行しているはずだから、共闘が決まったことを報告をしておきたいと一刀は思っていたのである。
「……ここにいるぞっ! なーんちゃって。お義兄さま、つっかまーえたー」
背後からいきなり出現したかと思うと、馬岱は一刀の腰に飛びついた。大方、馬超との会話を聞いていて成り行きにも察しが付いているのだろう。その表情は明るく、悪戯っ子である本来の気質がよくあらわれている。
「蒲公英、お前はまたそうやって……!」
「いいでしょー、別にお姉さまには関係ないんだから。それに、お義兄さまに叱られたのなら、たんぽぽだってちゃんとやめるもんねー」
注意をしてくる馬超を尻目に、馬岱はからからと笑っている。ふたりのやり取りを聞きつけてか、馬騰までもが陣屋から姿を見せた。
「おうおう、やってるねえ。翠も、久しぶりに婿殿と会えたからって、あんまりはしゃぐんじゃないよ。……ところで、蒲公英とはどこまでいったんだい?」
「それがねー、おば様。お義兄さまったら、たんぽぽにはなかなか手を出してくれないんだよ? たんぽぽなら、いつだって心の準備はできてるのに」
「蒲公英はこう言っているが、お前はどうなんだい、一刀」
「そんなにニヤニヤしながら聞かれても、困ってしまうのですが……。というか蒲公英、こういうのを意趣返しっていうんじゃないのか?」
「えー、なんのことー? たんぽぽは、純粋にお義兄さまに愛してもらいたいだけなんだけどなー」
そう言いつつも、馬岱はおどけたように舌の腹を見せつけてくるのだ。これは、涼州制圧の真意を隠していたことに対する当てつけに違いない、と一刀は内心確信していた。とはいえ、馬岱だって本気で怒っているようには思えない。だとすれば、出陣前に交わした口づけの続きを、本気で望んでくれているのだろう。
「大変ですね、ご主人様も。これでは尚更、早急に事を片付けなければならないのではありませんか?」
「言ってくれるな、愛紗。だけど、その通りだと思うよ。俺たちが闘う意味って、結局はそこにあるはずなんだ。なんでもない日常を、大切な人と過ごしたい。それが出来る世の中が欲しいから、きっと闘えるんだ」
「お義兄さま……。えへへっ、だったら、たんぽぽも頑張らなきゃね」
「その意気だよ、蒲公英。涼州を騒がす奴らを黙らせりゃあ、いくらか暇だってできるはずさ。翠、兵を動かす用意はできてるんだろうね。すぐにでも、陣払いをするよ」
馬騰による命令がくだると、馬家の将兵たちは粛々と移動のための陣形を構築していった。それを背にして、一刀と関羽は自陣へと帰還した。
目指すは、韓遂らの勢力の掃討である。