北郷軍の陣屋。物見から帰還した胡車児と、一刀は言葉を交わしていた。
大きな動きは見られなかったものの、俄に兵たちには戦の準備をさせているようだった。自分たちが動くことがあれば、それに応じて迎撃をするつもりなのだろう、と一刀は思う。出来うることならば、初戦にて手痛い一撃を見舞っておきたいという思惑があった。
なるべく早く楡中を抜き、韓遂と対峙を続ける馬騰の援軍に赴く。現時点では、敵の総大将を討ち取れるかどうかはさほど重視していることではなかった。ともかく自分たちと馬騰による連合軍が優位であることを知らしめることさえできれば、涼州の趨勢は一変することだってありえるのだ。
涼州に暮らしているほとんどの人間にとって、漢朝による天下の行方というのはどうでもいいことでもあった。大切なのは、これまで連綿と続けてきた生活を、次なる指導者が許容してくれるのかどうかなのである。彼らにとってはどちらかといえば、西域との繋がりのほうが重要であるのかもしれない。
「失礼いたします。よろしいでしょうか、ご主人様」
「どうかしたのか、愛紗」
陣屋の戸が開く。姿を見せたのは、関羽だった。
滞陣中ではあるが、日頃と変わらぬ艶のある黒髪が美しかった。時間が許すのであれば、柔らかな肢体を抱きしめながら、その手触りを存分に確かめたいものだ、と考えてしまうのは男の性というものか。
「稟の率いる援兵が到着いたしましたので、ご確認いただけますでしょうか。それから、風鈴殿がご主人様にお目通りを、と」
「わかった、すぐに行こう。お前もついてきてくれるか、胡車児」
「承知いたしました、殿」
足早に、一刀は開きっぱなしになっていた戸をくぐった。
いつぶりかの対面なのである。盧植の優しげな風貌を、一刀は脳裏に思い起こした。
柵で囲まれた本営から外へ出ると、見知った顔がすぐに側へと駆け寄ってくる。郭嘉だ。なにやら竹簡を手にしているから、行軍による消耗などを確認していたのかもしれない。
見知った顔は、もうひとつ。こちらは、少しばかり申し訳無さそうに瞼を伏せている。肌の艶に陰りが見えるのは、気のせいではないのだろう。楡中の手前まで休まず移動を続けてきたのも要因のひとつではあろうが、それだけではないはずだった。
そんな疲れを覗かせている盧植の手を両手で包み込み、一刀は労をねぎらう。深く情を交わらす機会がなかったとはいえ、気にかけている女であることは確かだった。
盧植の表情が、ふっと緩む。それを見て、郭嘉も幾分安心しているようである。
「ごめんなさいね、せっかくの再開だっていうのに、こんな姿を見せてしまって。でも先生、一刀くんがすごく大きくなってくれたような気がしているわ。若い子の成長って、本当に早いものね」
「なるほど、風鈴殿のお見立ては、正しいものかと存じます。ですが、一刀さまの将器は、まだまだ大きなものとなっていくことでしょう。わたしも、それを楽しみとしている者のうちのひとりなのかもしれません」
「なんだ。こんな場所でおだてたって、なにもくれてやることはできないぞ、稟」
そうですね、と郭嘉が笑みをこぼす。それにつられてか、盧植も小さく声を洩らした。
「わたしたちよりもずっと速く駆けていたのに、胡車児ちゃんはさすがに体力が違うわね。先生、羨ましいと思ってしまうかも」
「いいえ、拙者にはそのくらいしか能がありませんゆえ。殿にこうして使っていただかなければ、いまもどこかの片隅で燻っていたような女なのです。ですから、疲れさえも心地良い。そう、思えてしまうのです」
「あら……。うふふ、みんなにすごく愛されているのね、一刀くんは。さすがは、天の御遣いさまといったところなのかしら?」
「冗談はやめてくれよ、先生。それよりも、涼州まで来たのはどういう訳があってのことなんだ」
「月ちゃん打倒を掲げて、袁紹を中心とした連合軍が結成されたのは一刀くんも知っているわよね?」
「ああ、知っている。その状況をどうにかしたいと思ったから、俺はこうして闘うことを決めたんだ。月がこうなってしまう前に、俺にはもっとできることがあったのかもしれない。だけど、それを嘆いたってもう仕方がないんだ。月が苦しみながら切り拓いた道だ、その想いを無駄にしないためにも、乱れた天下をまとめ直す。俺はそれをやるつもりだ、風鈴先生」
「一刀くん……。ええ、その言葉を聞けば、きっと月ちゃんも喜んでくれるんじゃないかしら。自分が非道な行いをしていることを、あの子は充分すぎるくらい承知しているはずよ。けれども、決して手を緩めることはしない。それが、今後のためになると信じているのでしょうね」
沈痛な面持ち。盧植の視線が、地面へと落ちている。
「変わってしまったように見えても、月ちゃんは優しい月ちゃんのままなのだと思うわ。そうでなければ、戦を前にしてわたしを追放したりしないはずだもの。連合軍のなかには、わたしの教え子だった白蓮ちゃんだっている。名目上は敵と通じる可能性があるからといっていたけれど、あの子なりにわたしに気を使ってくれたのでしょうね。一刀くん以上に、月ちゃんを見守ってあげる責任がわたしにはあったはずよ。腐敗した漢王朝を変えていけるのは、あの子たちのような若い力のはず。そう思って支援してきたのは、先生なんだもの」
そこまで話し切った盧植の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
生粋の儒教家として辛いことがあったとしても、耐えなければならない。そう覚悟して、これまで過ごしてきたのだろう。年長者として、なんとか支えになってやらなければ。それを全うできなかったことも、後悔として押し寄せているのかもしれない。
「泣かないでくれ、風鈴先生。先生は、俺にできなかったことをいくつもしてくれたのだろう? 月だって、心の中では絶対に感謝しているはずだ。だから、そんな悲しい顔をしないでほしい。風鈴先生の優しい笑顔が、俺は好きなんだから」
「ぐすっ、一刀くん……。そんな風に言われてしまったら、先生、本気にしちゃうんだから……?」
「うん、いくらでも本気にしてくれたっていい。だからさ……」
肩を震わせたままの盧植を、一刀は抱き寄せた。
規格外の大きさを誇る二つのかたまりが、身体の間でむにゅりと潰れている。しかしいまは、そのことを気にかけている場合ではない。疲労で少々ごわつく銀髪を、愛しげに撫でさする。そうして、一刀は言葉を投げかけた。
「行く宛がなければ、これからは俺の力になってくれないか、先生。先生がこれまで培ってきた経験を、どうか俺たちの軍で活かしてもらいたい」
「いいの……? わたしみたいなオバサンでも、一刀くんの力になってあげられるのかしら……」
「当然、そうに決まっている。むしろ、嫌だっていっても離してやるものか。あのときの続きだと思って、今度は俺に全てを委ねてくれないか、風鈴」
「あら、一刀くん……。うふふ、そんなことを言うなんて、イケナイ子なのだから」
落ち着いた様子の盧植の頬に、ゆっくりと触れる。多分、口づけを欲している。あの日森でしたことを思い出すと、さすがに身体が熱くなっていった。
「はふ……、んぅ……。一刀くん、んっ……」
しばしの間触れ合う二人を横目に、郭嘉は指で眼鏡をいじくっている。
風に吹かれて、『盧』の旗がゆらめいていた。新たなる居場所。それを見つけてか、佇まいが勇壮としているようにも映っている。
「まったく、こうした抜け目のなさは恐ろしいくらいです。それでも、風鈴殿の力を得られることは喜ばしいことなのでしょうが」
「殿を必要とされているのは、盧植殿だけではありません。賈駆殿もそのおひとりなのだと、拙者はお会いして感じました」
「ええ、そうでしょうね。口ではどうあれ、あの詠殿も一刀さまのことを慕っている。そのためにもまずは、眼前の敵を除かなくては」
郭嘉の言葉に、胡車児が頷いて返した。
北郷軍の陣立てが変わっていく。郭嘉の立案を受けて、行動を開始したのである。
こちらから迂闊な動きを見せてやれば、相手は主力である騎馬を投入してくるはず。それを誘い込み、一挙に壊滅させるというのが郭嘉の狙いだった。力の源である騎馬を失うこととなれば、羌族の戦意は喪失してしまうに決まっている。そちらさえ排除してしまえば、残った敵など所詮韓遂が手許に置かなかった程度の者たちなのだ。
「それでご主人様、詠のほうからはなんと?」
「うん、そうだな。洛陽の防御は固めているつもりだけど、なるべく早く来てほしいってさ。逆に、月は自分を討てといっていたそうだ。こういうときは、詠のほうがよっぽど素直だと思わないか、愛紗」
追放した盧植が一刀のもとに向かうことは、董卓も予見していたのだろう。けれども、その願いを叶えてやるつもりなどさらさらなかった。
ツンケンとしたなかに可愛げのある、賈駆の表情を思い出す。一刻も早く都に向かい、安心させてやりたいと一刀は思った。
「もう、惚気などを聞きたくて質問したのではありませんよ、わたしは。ですが、そうですね。あやつも、随分と変わったものです。初めて会った頃などは、ご主人様を刺し殺さんばかりに睨みつけていたというのに」
「ははっ。そういえば、そうだったな。あのときは、愛紗にも気を揉ませて悪かった。……早く会いたいものだな、詠にも、月にも」
「はい、それについては同意いたします。ご主人様の障害となる敵は、この関雲長が先手となって取り除いてご覧にいれましょう。鈴々……!」
「ほえー? なんなのだ、愛紗」
「なにをぼけーっとしているのだ、鈴々。わたしが出陣している間、ご主人様のことをしかとお護りせよ、よいな」
「合点承知なのだ。だから愛紗のほうも、しっかり敵を釣り上げてきてよね。鈴々、闘いたくてうずうずしちゃってるんだから」
周倉の引いてきた赤兎馬に跨り、関羽が前方を見つめる。そのあとに、乗馬した兵たちが続いた。
土埃が舞い上がる。その堂々たる姿を見送り、一刀は兵の配置の確認に向かった。