次々と地面を叩く馬蹄。それによって、土煙が舞い上がっている。
騎兵の集団。その先頭に、関羽はいた。他を圧倒する存在感を放つ赤兎馬。真紅の馬首が、自在に巡っている。
「突撃を開始する。それぞれ、油断なく働いてみせよ。重要なのは、退き際を誤らぬことだ。それだけは、しかと心得ておけ」
掲げられる青龍偃月刀。鋭利な先端が、敵陣の方を向いている。関羽麾下の騎兵三百が、揃って気炎を上げている。
後方には、周倉率いる関家軍の歩兵一千が続いていた。こちらは騎兵とは違い、いかにもゆっくりと進軍をしている。関羽から、あえて歩調を合わせず動くように命じられていたのだ。機動力のある少数の騎兵で敵軍の主力を釣り出し、自分たちの戦場へとおびき寄せる。どちらかといえば、歩兵は攻めの姿勢を示すための数合わせという意味合いのほうが強かったのである。
北郷軍が動いたという報は、楡中城外に置かれた韓遂軍の陣へすぐにもたらされた。騎兵同士の戦であれば、遅れをとるはずもない。羌族を率いる将が、そう言い切って出陣を決めた。張飛がそうなっていたのと同じように、こちらでも睨み合うだけの滞陣に飽きが生じ始めていたのだ。
初戦をとって勢いをつけることができれば、そのまま相手を飲み込むこともできよう。韓遂軍のほうも、そう考えていたのである。
羌族を主体とした軍勢が、陣から飛び出していった。騎兵が三千。ほとんど、全ての馬をつぎ込んでいるようだった。
「おー、そろそろ戦が始まりそうですねえ。よいしょっと。せっかく見物に来たんだから、こうでなくっちゃ面白くないもの。えーっと、あっちが天の御遣いさんのほうかな?」
ひとりの少女。足元に、荷物を下ろしている。どうやら、丘の上から戦闘の風景を見ているつもりらしい。小柄ではあるが、利発そうな顔つきをしていた。背負っていた荷から、巻かれた竹簡と筆を取り出している。ただ見るだけでなく、戦況を書き記す。それが、第一の目的なのだろう。
「それにしたって、天の御遣いさん……、北郷軍のほうは数が少ない。後ろから歩兵で支えるにしても、なかなか厳しいものがあるもんなあ。うむむ……。こんなとき、孔明先生だったらどうするんだろう」
短髪を指でいじくる少女の口から、孔明先生という名がぽつりと出た。孔明というのは、司馬徽主催の水鏡塾で、鳳統と評判を分け合った諸葛亮の字である。
数年前、益州牧であった劉焉に強く請われるかたちで、諸葛亮は荊州を離れた。益州の守りをさらに堅牢なものとし、経済的にも自立した土地としていきたい。そのためにも年若くして秀才と名高く、軍事と内政の両面に明るい諸葛亮のような人物の力が必要だと、劉焉は判断したのである。
劉焉の死去に伴い劉璋へと代替わりしてからも、諸葛亮は益州の発展に尽力するつもりだった。しかし、国の状況がそうさせてはくれなかったのである。先代が重用してきた臣下たちのことを、劉璋は徐々に遠ざけていった。もともと、親子の仲があまりよくなかったということもある。自身の意をよく汲み取り、賛同してくれる者。劉璋の周りには、自然とそういった臣下たちが集まるようになっていった。
これまで多忙だった生活が一転、諸葛亮は半ば隠棲をしているような格好となってしまっている。時折文面にて献策をしてみてはいるものの、それがどこまで届いているかすらわからないという状態なのである。司馬徽のもとへ帰ることも検討してみたが、真面目である性格が大いに災いした。益州をこのまま捨て置くのは、どうしても忍びない。なにか行動を起こすにしても、いまは時期尚早なはずだ。だから、空いた時間を活用するために、諸葛亮は師匠にならって私塾を開いてみることにしたのである。
「羌族の騎馬はさすがに連携が取れてるけど、北郷軍のほうだって負けていない。ううん……。むしろ少数な分、動きだけなら上回ってるくらいかも? あの指揮官、かなりやるもんだなあ。名前は、なんていうんだろう。よし、あとで調べておかなくっちゃ」
益州にて、賢人が勉学の場を提供している。その噂を人伝いに聞きつけて、弟子入りしたのがこの少女だった。その名を、姜維という。姜維の出身は、一刀の統治下でもある天水だった。とはいえ、益州への出立は一刀の入郡と前後してしまっている。なので、実際にその姿を見たことはまだないのである。
姜維には、確かに資質がある。そう感じたからこそ、諸葛亮は自らの側に置き、様々なことを教え込もうとしていた。今回の戦見物は姜維から願い出たことだったが、その修練の一環でもあるのだ。
現在は離れて暮らしているといえども、やはり故郷のことは気になって当然といえよう。北郷一刀と韓遂。どちらが勝利することが涼州にとってよいのかは、姜維にはまだわからなかった。それでも、一刀は天水を領しているのである。だから、なんとなく気持ちではそちらのほうを応援するようにもなってしまう。
「うん、うん……。やっぱり、頭のなかで考えてるだけじゃわからないことって、たくさんあるんだ。すごいな、あの騎兵の動かし方。本当に手足になってるみたいで、わくわくしてきちゃう。あれだけ数で劣っているのに、少しも負けてないなんて」
関羽を先頭とした騎兵の集団が、羌族の軍勢と激しく干戈を交えている。自軍の数を減らすような無理な攻撃は行っていないだけに、戦況は硬直しているともいえる。むしろ、推しているのは羌族ら韓遂軍のほうにも見える。
韓遂軍から見て、じわじわと上がっていく戦線。その先には、なにが待ち受けているのか。姜維の思考が、巡っていく。
「北郷軍の狙いは、敵を懐に引き込むことにあるのかも……? この調子であと十里も下がれば、兵力の多い韓遂軍は隊形が伸び切ってしまうのかも。あっ、そうだ。あのあたりには、岩場があったはずだよね。そこで、騎馬の動きを封じ込めてしまえば」
はっとした視線を戦場に向け、姜維は筆を走らせていく。諸葛亮からは、事細かに状況を記してくるだけでは意味がないと言付けられている。その場で、自身がどう感じたのか。それが一番大切なことだと、小さな賢人は弟子に諭したのである。
「単純なようでも、敵を引きつけるって大変なことだもんね。露骨にやる気がないような餌だと、誰も寄ってきてくれないし。その点、あの将軍は上手く部隊を操っているんだと思う。羌族のほうも、必死になって追っちゃってるくらいだし」
関羽の采配によって、戦場が南方へと移行していく。姜維は慌てて荷物をまとめ直し、自身も移動をする準備をしている。
「天の御遣いさんのところにも、きっと孔明先生みたいな人がいるんだろうなあ。うーん、ちょっと会ってみたいのかも。おっと……。早く行かなくっちゃ、肝心な決着を見逃しちゃう!」
好奇心に溢れている瞳だ。戦闘を続ける両軍を追って、姜維は丘を駆け下りていった。
一刀の率いる本隊。郭嘉と盧植の連れてきた兵を含めると、五千ほどとなっていた。それを二つに分け、いつでも挟撃を行えるように伏せてある。
「愛紗のほうはどうなっている、胡車児。あまり時間をかけてしまうと、俺たちの動きまで悟られてしまいかねない」
「はっ。先程物見を行ってきた限りでは、順調でした。もうしばらくすれば、殿が敵影をご覧になることもできるでしょう」
「焦れないことが肝要ですよ、一刀さま。いま我らに出来ることといえば、愛紗殿を信じて待つことくらいなのですから。女を待つというのは、得意なことかと存じますが?」
「ははっ……。まったくもって、その通りかもな。愛紗なら、間違いなんてあるはずがない。そう信じてやるのが、俺の仕事か」
一刀の言葉に、郭嘉が頷いて返した。物見の兵が飛び込んできたのは、そのすぐ後だ。
「関羽将軍の部隊が見えました。あと三里ほどで、こちらに到着なされます」
「よし、もうすぐだな。胡車児、鈴々のところへ行って釘を差してきてくれないか。お前の動くのは、俺たちの後だとな」
「承知いたしました、殿。それでは、すぐに行ってまいります」
もし、張飛が我慢できず先に攻撃してしまえば、中途半端な状態の奇襲となってしまう。とにかく、騎馬だけは壊滅させておきたい、というのが一刀たちの思惑だった。
「風鈴先生には、俺たちの後詰を任せたい。急な話だが、頼りにさせてもらってもいいか」
「ええ、もちろんよ。だって、一刀くんはもう、わたしのご主人様なんだもの。ねっ、稟ちゃん?」
「はっ……? そこでわたしに同意を求められても、困ってしまうだけなのですが。しかし、風鈴殿の采配に期待しているのは、わたしも一刀さま同様です。ですから、布陣に穴などあれば、遠慮なく申していただきたい」
「うふふ。厳しいようで、稟ちゃんもすごくいい子なのね。そうやって言ってもらえると、先生すごく嬉しくなってしまうわ」
「う……。だからといって、抱きつくのはよしていただけませんか。ほら、兵たちも見ておりますし……」
「あらやだ……! ごめんなさいね、二人とも。こうして気を抜いておしゃべりできるのって、なんだか久しぶりなんだもの。わたしったら、つい浮かれてしまったみたい」
反省している様子の廬植。そんな、しょんぼりとしてしまった肩を一刀は数度叩く。どうせならば、元気があるほうがいいに決まっている。締めるべきところはともかく、自分の軍を規律で縛りつけたいとは考えていなかった。
「気にすることなんてないさ。城に戻ったら、桃香ともゆっくり話してやってもらいたい。桃香も、風鈴先生のことをすごく心配していたから」
「ええ、そうね。きっと、そうするわ。本当に、一刀くんにはたくさん感謝しないといけないわね」
三人で、小さく笑い合う。
戦闘を目前に控えているとはいえ、心の余裕があるのは悪いことではなかった。
「周倉の歩兵が先に戻ってきたようだな。タイミングを、機を計らって、縦に伸びた敵軍を叩く。総員、攻撃の準備をしておけ」
兵たちが、言葉を発さずに首肯している。
岩場の陰から、まずは全力で駆け抜けていく歩兵を見送った。その次に来たのは、『関』の旗を掲げた騎兵の一団だ。前を駆ける関羽と、一瞬視線が交差したような気がしていた。その後ろには、羌族の騎兵が続々と迫っている。機敏に馬首を反転させる赤兎馬。関羽という穂先を中心にして、麾下の騎兵が急速に方向を転換させていく。
「矢を放て。射って射って、騎兵の足を止めてやれ」
一刀が命令を下す。矢尻が、乾いた空気を切り裂きながら飛んだ。左右からいきなり射撃を受けたことにより、ひとも馬もぱたぱたと倒れ込んでいく。
敵軍に息をつかせる間もなく、それを三度ほど繰り返した。伸び切った羌族の集団は足が止まり、狼狽えを見せている。攻め時はここだ。一刀がそう思った瞬間には、関羽が麾下を率いて突撃を開始していた。
「者どもいくぞ! 涼州に、我らの存在を大きく知らしめてやるのだ!」
乗り手の意思がわかっているかの如く、赤兎馬が猛進していく。巨体であるにも関わらずその身のこなしは軽やかで、関羽は自由に青龍偃月刀を振るえている。二、三人は関羽にとっては当たり前で、多いときには一度で五人ほどを馬上から叩き落としている。その働きは凄まじく、さしもの羌族が震え上がるほどであった。
「俺たちもいくぞ。韓遂軍の歩兵も、そろそろこっちに着く頃合いだろう。それを抑えておくように、鈴々には伝えろ。稟、お前には弓兵の指揮を任せる」
「はい、一刀さま。どうか、無事にお戻りください」
腰の刀を確かめる。配下の兵の戦意は、これ以上ないほどに高まっていた。
「わかっている。この勢いに乗って、楡中を一気に抜くぞ!」
乗馬し、武器を抜き放つ。敵軍の姿は、すぐそこにまで見えている。
まずひとり。不用意な敵兵を馬上から叩き落とすと、一刀は雄叫びを上げた。