白みかけてきた空を、程立は一人見上げていた。彼女と同じく見張り役でありながらも早々に居眠ってしまった徐晃は、座り込んだ身体を振り子のように揺らしている。その寝顔があまりにも幸せそうであるので、起こすのはもう少々待ってやろうと程立は見ぬふりをした。
山の端から顔を覗かせる日輪に向けて、程立は両腕を伸ばす。しばらく日光を受けていると、全身に力が漲っていくような感覚が走る。これこそが命の根源を支えるものであると、本能が理解していた。
「なにが起ころうと、太陽は昇ることを止めたりはしません。お兄さんは、どうでしょうか?」
変わって、今度は地べたに布一枚で眠る一刀に視線を落とす。こうして上辺を見ているだけでは、至って平凡な青年だと程立は評するだろう。
そんな彼が郭嘉を惹きつけ、自身にも可能性を垣間見させたのだから、心中複雑なものである。
少し経つと夢見が悪いのか、一刀の呼吸が苦しげに変わりだした。枕代わりにしている丸めた衣類の上を、辛そうに頭が動いている。
すぐ近くにしゃがんだ程立は、その額に浮かんだ汗を服の裾で拭いてやった。
「よしよし。風がなでなでしてあげますから、ゆっくりとお休みくださいねー」
汗で湿り気を帯びた一刀の頭部を、慈愛に満ちた程立の小さな手が梳くように触れる。
少女の見立通りに流れが動けば、必ずこれから忙しくなる。それまでは、どうか傷ついた心を癒やしてほしい。
そんな思いを込めて、程立はやんわりと手を動かしたのである。
甲斐甲斐しくした成果もあって一刀の寝姿が穏やかになってくると、程立はまた日輪に目をやってふと思う。
「ねえ、宝譿。風もそろそろ、名を改めるべきでしょうか?」
そう問われた宝譿は、普段通り寡黙に佇んでいる。くすりと独りでに笑った程立は、スカートを翻して立ち上がった。
「そろそろ、香風ちゃんを起こしちゃいましょうかー」
本格的に眠りについている徐晃の首がだらんと垂れている。どんな風にして起こしてやろうかといたずらっ子になったような気分で、程立はそっと徐晃に近寄るのであった。
「――みんな、生きていてくれて本当によかった」
早朝、一刀たちは村へ立ち入り作業を再開していた。携わる人数が少ないために思うような進捗は得られないのであるが、それぞれ黙々と身体を動かしている。
そうしていると、周辺にある森林などに避難をしていた村人たちがぽつぽつと戻ってきた。賊を恐れてもっと遠くの集落へと逃れてしまった者もいたので、その数五十ほどである。
彼らは互いに無事を喜んだが、住み慣れた土地が無残な姿に成り果てていることに総じて肩を落としている。
「この先、俺たちゃどうなっちまうんだ……」
「あの屑どもをぶっ殺さねえと、死んだ奴らが浮かばれねえよ」
腹の底から湧いて出る、悲しみと怒り。誰しもが、そのぶつける先を求めていた。そのうちの何人かが、すがるような目で一刀のことを見ている。
「なあ北郷さん、あんただって悔しいだろう。州牧のちんたらした軍勢なんて当てにできねえし、天の御遣いの力ってやつを見せてくれよ……!」
追い込まれ、窮地に立たされた彼らは、久しく口にしていなかった『天の御遣い』という特別な存在に救いを見出していた。
北郷一刀が自分たちとなんら変わらない普通の人間であることを知っていながら、一方では彼ならばなんとかしてくれるのではないかという根拠の無い希望を抱いてしまっている。
楽進と郭嘉は固唾を飲んで渦中の青年のことを見守り、程立は表情を崩さずにやり取りの様子をじっと静観していた。
そして一刀はというと、ひとしきり話しに耳を通すと腕を組んで黙り込んでしまっている。その場の誰もが彼の発言を待つ中、慎重に思考を巡らせていた。
村人の話していたことで気になったことがひとつある。襲撃してきた賊軍は百を越えていたらしいが、そのうちの半数ほどが頭に黄色く染めた頭巾を着けていたということであった。
(もうじき、俺の知っている黄巾の乱が起こるのかもしれない。そうなればこの村だけじゃなく、他の地方でもこんな悲しみが広がってしまう)
一刀が例えここで生き残った者たちを突き放そうとも、どこかでその怒りが爆発してしまうのは目に見えている。だとすれば今は志を燃やし、共に立ち上がるのが正しいのではないのか。
ぐるっと周りを見渡す一刀の視線が、計らずも程立とぶつかった。彼女はゆるりと首肯し、一刀がその身に宿す火をさらに焚き付けていく。
「……わかった、やってみるよ。俺にどんなことが成せるのかわからないけど、いまはみんなと一緒に戦っていこう」
歓声に沸き立つ村人たちを前にして、一刀は血の滾りを熱く感じていた。代々受け継がれてきた薩摩隼人としての性分が、その立ったばかりの後背を支えている。
「君たちにも、少しの間だけでも手を貸してほしい。どうかな?」
埋葬のことを聞かされた人々が散らばっていくのを背に、昨日の協議を知らない一刀はそう語りかけた。
少女たちからは、無論
「仕方がありませんね。ここまで巻き込まれてしまったのですし、北郷殿だけに任せて放り出すのは酷というものですから」
協議の時には悩んでいる様子であった郭嘉は、
さしもの彼女も、事情も分からぬままに一刀が郭嘉の心の鎖を解していたことなど知る由もない。
「それにしても、こちらの数が心もとないですね。いくら香風が強いといっても、一人では限界がありましょう」
「そうですねー。お兄さん、ちゃちゃっと天の力で兵でも湧かせてみせてくれませんか?」
無茶を言う程立ではあったが、実際そこは性急になんとかしなければならない部分であった。一度名声を上げてしまえばなんとでもなると計算立ててはいるが、まずは現状をどうにかする必要がある。
「あれは……? 一刀さん、あちらを見てください!」
原野の先を見つめていた楽進は、こちらに向かってくる集団があることに気づいた。昨日の今日のことであり、よもや再度の襲撃かと緊張が走る。
しかし集団が近づいてくるにつれ、一刀にはそれが敵でないことがわかった。先頭を駆ける騎兵の風に棚引く美しい黒髪と、肩に担いだ長柄の得物。それは他の誰でもなく、関雲長の威風を備えたシルエットであった。
「北郷殿、お久しゅうございます。……到着して早々に不躾で申し訳ありませんが、これは如何なされたのですか?」
率いる集団を停止させると、関羽は急ぎ下馬して一刀の前に現れた。彼女は村の変わり果てた光景に表情を曇らせながらも、やはり丁寧な語り口で言う。
一刀から事の
遅れてやって来た張飛も、今回のことが自身に起きたことのように悲しんでいる。数年前に張飛の両親も賊によってその命を奪われており、一刀の痛みはよく理解できるのだ。
「お兄ちゃん、元気出してほしいのだ……。そうだ、鈴々ぎゅーってしてあげる!」
己の元気を分け与えようと、張飛は一刀の片腕に抱きつく。ついで上目遣いに鈴々と呼んでほしいことを伝えると、一刀は少女なりの目一杯の気遣いに感謝した。
「ありがとう、鈴々。大丈夫、俺たちにはこれからのこともあるから、へばってなんかいられないさ」
「これからとは、北郷殿にはなにかお考えがあるのでしょうか?」
会話の中で、一刀が以前よりずっと逞しくなっていると関羽は直感している。彼女は緩みそうになる目元を引き締めると、かつて見知った顔が揃っていることにはっとした。
「その先は、風が引き継ぎましょう。それにしても雲長さんまでここに来てしまうなんて、お兄さんは持ってますねー」
程立がすっと一刀の横に並び、関羽の再訪を喜ぶ。運のめぐりがいいというべきか、一刀を中心にあるいは流れが出来ようとしていた。
のんびりとした口調の程立から一連の説明を受けると、関羽は青龍偃月刀の石突で大地を叩いて賛同の意を示す。
「我らとて、一宿一飯の恩義をいまだ返せてはおりません。この関雲長、北郷殿らに進んで助太刀いたしましょう」
「そう言ってもらえるとありがたい。えーっと、それでなんだけど……」
関羽との話がまとまったところで、一刀は駐留している集団のほうを指さした。あれらは一体なんなのか。いい加減、それが気になっている。
「お
いきなりの登場に一刀らがざわめく中、ツバの長い円形の帽子を被った少女は関羽のことをお頭と呼んだ。
張飛と比べれば頭ひとつ分ほど背が高いのであるが、着用するには大きめな帽子とラフに着流した先から覗く日に焼けた肌が、子供っぽさを印象づけている。
「ええい、そのお頭というのはやめろというに!
関羽は困り果てたように、周倉と呼んだ少女に挨拶を促した。
「はいはーい。わたしは関雲長様の一の子分、周倉ってもんです! 方々もどうぞお気軽に、周倉とお呼びください!」
ツバをくいっと上に持ち上げ、周倉はにこやかに名乗りを上げる。関羽の子分だという彼女の存在で、ようやく例の集団のことが一刀にも掴めてきた。
「よろしくね、周倉ちゃん。ということはあの人たち全部、雲長さんの配下ってことなのかな?」
「……はあ、一応そういうことにしておいてください。徐州にいた頃にたまたま義賊を名乗り盗みをしていた
関羽の話すところでは、彼女に敗れた周倉一味に気に入られ、不本意ながら軍勢のような体を成しているということであった。
しかし一刀たちからすれば、関羽が軍勢を連れて来てくれた事実は非常にありがたいことである。
「なるほど。関雲長殿の私兵ですから、さしずめ"
「おー。お姉さん、いい呼び名をありがとうございます。早速使わせてもらいますが、関家軍は当然お頭に付き従いますよ!」
郭嘉が周倉らの軍勢に名付けてやると、彼女は嬉々として従軍することを誓う。周倉自身も
それが義賊を名乗った彼女なりの誇りであり、一党の掟でもあった。
彼女ら関家軍の総数は百をいくらか越えるくらいではあるが、関羽と張飛の武勇を加味すればその戦力はさらに増大することになる。
まさに、現状では最良の援軍を得たと言っても過言ではないだろう。
(ああは言いましたが、本当に兵を降って湧かせてしまうなんて、恐ろしいお兄さん。これは、風の考えていた以上かもしれませんね)
軽く身震いした程立の全身を、陽光が暖かく照らす。
この天の御遣いを芯として囲う輪を広げていけば、きっと上手く前進していける。そんな確信を、程立は抱いていた。
関家軍の投入もあって、村落での準備は遥かに早く終わりが見えてきている。北郷一刀にとっての第二の故郷との別れは、すぐそこまでやって来ていた――。