崩れた楡中駐屯軍。北郷軍は関羽の騎馬を中心に、逃げる軍勢を追い立てられるだけ追い立てた。結局、三十里(約十二キロ)くらいは追撃を続けたのだろうか。そのあたりで、一刀は全軍に攻撃の手を止めるよう通達した。散らばった敵兵は、韓遂軍本隊への合流を目指している。
盛んに自軍の兵を追い込む張飛。行軍中だったが、合間をみて調練を行っているのだ。
斬った兵は約二千、捕らえた兵は、三千ほどだった。張飛のような剛力無双の将ならばともかく、盧植は操る兵がいてこそ力を発揮する将なのである。そのためには、とにかく部隊を整えることが先決だった。捕らえた三千のうち二千を盧植の麾下に加える、というのが郭嘉の提案だった。残りは、一刀の直轄にすることが決まっている。
降ったばかりの人員を、関羽や張飛の隊に分散させることは、あえて避けた。馴染みきれていない兵がいればいるいほど、突撃の鋭さが鈍ってしまうからだ。多少の数の差であれば、覆せるだけの力を両将は備えている。それは、北郷軍にとってなによりの強みでもある。
張飛による厳しい調練。それが終わる頃には、降兵らのなかにあった反発心は叩き折られてしまっている。容赦なく振り回される蛇矛を、夢にまで見たという者すら出てきたくらいなのである。三日もすれば、誰もが粛々と従うようになっていた。
張飛が扱き上げた兵は、つぎに盧植のもとで調練を受けていた。隊伍を組ませて、平地を駆け回らせている。太鼓の音が響く。それを合図に、兵たちは陣形を変化させていった。
「調子はどうかな、風鈴先生」
「ええ、順調よ。鈴々ちゃんがしっかり躾けてくれたおかげで、みんなわたしの言うことを素直に聞いてくれているわ。うふふ、よっぽどあの子が恐ろしかったようね」
「よくやってくれているよ、鈴々は。限度を知らないようで、ちゃんとギリギリのところがわかっているんだ。愛紗だと、ああはいかないだろう」
先任に恐怖を与えられた分、兵たちは理路整然としている盧植のことを慕うようになる。涼州兵のような荒くれ者だろうと、それは変わらなかった。経験豊富なだけに、盧植は相手によって教え方を使い分けることができるのである。それに、西域に近いこの地のことも、よく知っているのだろう。
盧植の手腕には、郭嘉も感心しきりだった。降した兵を百人ずつに分け、もともとの配下をその上につけていく。それで、軍勢としての体裁はほぼ整ったことになる。言うまでもなく、この待遇は一刀からの信頼の証なのである。それに応えるためには、働きで示すしかない。笑顔の裏で、盧植は静かに闘志を燃やしている。
「わたしの名をお呼びになりましたか、ご主人様?」
関羽は手にまとめた手綱を持ち、赤兎を引いていた。赤兎の澄んだ眼差し。それが戦場では猛々しく燃え盛り、周囲を威圧するのである。一刀が首のあたりを撫でようとすると、赤兎は小さく身体を震わせた。この孤高さだけは逆立ちしても真似することができないな、と一刀は笑った。
「愛紗か。ははっ、なんでもないんだ。そうだ、この間の指揮のことだが、風鈴先生も褒めていたぞ。俺も、自分の軍に愛紗のような将がいてくれて、心からよかったと思っているところだ」
「ええっ? い、いえ、ご主人様にそこまで言っていただきますと、逆に恐縮してしまいます」
「うふふ。こういうときは、素直に喜んでおけばいいのよ? だってあの奇襲は、愛紗ちゃんの統率がなければ成功していなかったんだもの」
「わかってはいるのですが、こう……むず痒いとでもいいますか。しかし、ありがとうございます。歴戦の風鈴殿から見てそうだったのであれば、自信になるというもの。よろしければ、調練を見ていっても?」
「ええ、どうぞ。わたしの調練でいいのなら、いくらでも見学していって。それにしても、愛紗ちゃんは本当に律儀で可愛らしくて、一刀くんが夢中になってしまうのもすごくよくわかるわ」
「だろう、風鈴先生? 愛紗は自慢の将であり、奥さんだよ」
「ご、ご主人様まで、またそうやってわたしをからかわれるのですから」
関羽の顔が、赤く染まっていく。真っ赤な赤兎と並んでいるから、それが余計におかしく思えた。
「愛紗殿で遊ぶのは、ほどほどにされてくださいよ、一刀さま」
郭嘉の平坦な声が響く。そばには、数十騎が控えている。郭嘉には全軍の見回りを任せてあったから、その完了を報告しに来たのだろう。
「別に、遊んでいるわけではないんだぞ? ただまあ、稟が言うならこのくらいにしておこうか」
「あらあら。稟ちゃんは、さしずめ一刀くんのお目付け役といったところなのかしら?」
「む……、そう見えてしまいますか? あまり口やかましくしようとは思っていないのですが、つい」
「ふふっ。真に受けさせてしまったのなら、ごめんなさいね? けれど、稟ちゃんのように一刀くんに意見できる子がいるのって、大切なことなのだと思うの。ねっ、一刀くん?」
「そうだな。それに稟に対する信頼は、ちょっとの小言で揺らぐようなものじゃないよ。もしそう思ってもらえていないのだとすれば、身を以て示す必要があるのかもな?」
「か、一刀さま……っ。いけません、かような場所で……」
身体を少し近づけただけだというのに、郭嘉は恥じらうような反応をみせた。凛々しい参謀としての顔が、崩れかかっている。
「ふっ。気をつけるのだぞ、稟。戦場で血を吹いて倒れたとあっては、兵たちの士気に関わるというものだ」
「それは平気ですから! ……多分」
郭嘉の語尾が、小さくなっていく。戦場暮らしが続いているだけに、ゆっくりと抱いてやれる時間はそうもないのだ。それでも、着実に闘いは進んでいる。あと数日もすれば、馬騰たちの陣地に到着することができるはずだ。
馬家の面々との再会を、一刀は心待ちにしている。
護衛を百騎ほど引き連れて、一刀は騎行していた。同伴しているのは郭嘉と張飛、それに盧植の三人だった。
『馬』の一字の旗。遠くにぽつんと見えていたそれが、段々と大きくなっていく。張り詰めた陣営のなかを、一刀たちは駆けていた。
「やっほー、お義兄さま! 思ってたより、こっちに来るの遅かったね。それに、知らないひとまで増えちゃってるし」
「久しぶりだな、蒲公英。こっちは、盧植将軍だ。楡中攻略のときから、俺のもとで闘ってくれている」
「はじめまして、盧植です。そちらは、馬岱ちゃんで合っているのかしら。一刀くんの言っていた通り、元気いっぱいな子ね」
「えへへー、でしょでしょー? お義兄さま、本営でみんなが待ってるよ。お姉さまなんて、お義兄さまが来るって聞いてからずっとそわそわしちゃってさあ」
飛びついてきた馬岱の身体を受け止めて、一刀は軽い包容を交わした。屈託のない笑顔には、いつだって癒やされていた。
「だったら、急いで行ってやらないとな。ほら行くぞ、鈴々たちも」
「鈴々、かけっこだったら負けないよ? 蒲公英、勝負するのだ」
「ちょ、ちょっと待ってよー! 勝負するって言う前から走り出すなんて、蒲公英だって勝てるわけないじゃん!」
「これが、軍略ってやつなのだ! 悔しかったら、がんばって追いついてみればいいんだよー!」
まっしぐらに駆け出していく、張飛と馬岱。
馬騰のいる本営は、ひと目見てわかるくらいに大きかった。本営の前には、立派な体格をした馬がつながれている。そのなかには、馬超が好んで乗っている一頭の姿もあった。
「遅くなりました、馬騰殿」
「ああ、一刀かい。おや、今日は変わった女を連れているね」
馬騰は床几に腰掛けて、付近一帯の絵図を見ていたようだった。ぱっと上がった顔が、盧植に向けられている。
漢の将軍として、盧植は長年戦地を巡ってきている。そのなかでも、涼州は警戒するべき地域だったはずだ。そのなかで、両人が采配を闘わせていたとしても、なんら不思議はない。
「盧植です。戦場以外で馬騰殿と出会うのは、これがはじめてではないでしょうか」
「くくっ、だろうね。お互い、色々あってここまで生き延びてきた。だが、まだまだ枯れるような歳でもないのさ。楽しみっていうのは、案外いくらでもあるもんだね、盧植殿」
「もしや、馬騰殿も一刀くんのことを?」
「ははっ、まさか。わたしは、娘たちの世話を焼いてやるので手一杯さ。となると、あんたは……?」
「うふふ、それは秘密にしておきましょうか。ご息女の機嫌を損ねても、いけませんし」
盧植が、ちらりと馬超の顔を見た。
馬超は、びくりと肩を震わせている。一刀はその隣に立つと、耳もとで一言二言呟いた。
「うははっ! 翠、婿殿といちゃつくのはそのくらいにして、しゃきっとしな」
「い、いやいやいや! これは、別にそういうんじゃ!」
「ふーん、違うんだ? じゃあじゃあなんで、お姉ちゃんはそんなに真っ赤になってるのかな~?」
「こら! もうやめなさいってば、蒼! すみません、義兄さん。こちらには、軍議をされにきたというのに……」
馬騰一家によるにぎやかなやり取りを眺めるのも、久しぶりのことだった。小さく頭を下げている馬休とは対照的に、馬鉄はまだ楽しそうに顔をにやつかせているのである。
馬の尻尾にも似た、馬休の髪。それをやんわりと撫で付け、一刀は笑いかけた。馬超が、またむっとした表情を作っている。
「ほらほら、そこまでだよ。わたしたちがしなくちゃならないことは、ただひとつだけだ。わかってるね、翠」
「当たり前だっての。一刀殿を洛陽に送り出すためにも、せめて金城郡からは韓遂の兵を追い出さないとな」
拳を握る馬超。武人の顔つきをしている、と一刀は思った。
行軍中、郭嘉とは策を協議してあった。とにかく前線を一度破り、調略の手をのばす。なにもかもを、闘いに頼る必要はないのだ。敵軍には、馬騰の知り合いが何人もいるのである。天の御遣いか、韓遂か。結局は、それを天秤にかけているだけな部分があった。
「馬軍の突進力を活かすためにも、我らはその道を開けることに専念いたします。それから……」
郭嘉が、軍の配置を提案していく。
馬騰は、頷きながら話を聞いていた。その手のひらで、抱き寄せた張飛の頭を撫でている。小さい子ができたように、思っているのかもしれない。
軍議が終わると、一刀たちはすぐさま自軍のもとへ帰還した。
涼州の乾いた風。それが、泣いているような気がしていた。