洛陽に向けて、一刀は兵たちを駆けさせていた。
渭水。その流れに沿って進むのは、涼州に来たとき以来のことである。
あれから、多くのことが変わってしまった。董卓は孤独な闘いをはじめ、袁紹らに包囲されるに至っている。ただし、得たものがないわけではなかった。馬家とのつながりは、今後の情勢に大きな影響を与えるのだと思う。中央に対する興味が薄いだけで、涼州にはやはり小さくない力があるのだ。その力をまとめることさえできれば、中原に打って出ることも可能になっていくのだろう。
「本当によろしかったのですか、ご主人様? いくら、
「いいんだ、
「ぷ、ぷらす……ですか? しかし、出過ぎた真似をしてしまったことを、謝罪させてください。覚悟こそしておりますが、わたしだってできれば白蓮殿とは闘いたくないのです。それに、あそこには
「それでいい。俺たちが
関羽は、同行している劉備のことを心配しているようだった。心配する気持があるのは、一刀も同じなのである。盧植を涼州に残してきたのにも、そのあたりに事情があるのだ。盧植に心を痛めて欲しくないから、董卓は洛陽から追放することにしたのではないか。勝手な推測ではあったが、一刀にはそうとしか思えなかったのである。
出立前に話をしてみたが、劉備は覚悟をかためているようだった。ならば、その手助けをしてやることが、軍をあずかる自分の責任でもあるのだろう、と一刀は思うのである。
渭水の流れをたどり、北郷軍は進み続けた。
途中、守備のために駐屯している董卓軍を見かけたことがあったが、攻撃を受けることはなかった。悠然とはためく、北郷十字の旗。守兵たちには、おそらく自分の意図が伝わっていたのだと思う。ほんとうは、一刀もちょっと不安だったのだ。董卓軍がしかけてくることがあれば、麾下のために闘うしかないのである。そうなった場合、洛陽行きはかなり厳しくなっていたのだろう。
自分が駆けつけるのを、きっと董卓は待っている。どんな振る舞いをしていようが、一刀はそう思おうと心に決めていた。
長安。『華』の一字の旗をかかげる軍勢が近づいてきたのは、そこを過ぎたあたりのことだった。騎兵が、五百ばかり。武器を構えて出ていこうとする関羽を押し留め、一刀は馬を走らせた。護衛が、あとから慌ててついてくる。
「久しいではないか、北郷。おまえも、董卓さまを討ちにきたのか? であれば、一戦馳走してやってもよいのだぞ」
「ははっ。本気で、俺がそんなことをできると思っているのか、華雄。だけど、その腕はどうしたんだ? 誰かに、斬られたりでもしたのか」
「まったく、おまえは少しも変わらないのだな。この腕は、不名誉の証とでもいうべきなのかもしれん。わたしは汜水関の守備をまかされていたのだが、持ちこたえきれず打ち破られてしまってな。その時闘ったのだが、孫堅というのはおそろしい女だよ。孫家の大将が率先して、突っ込んでくるのだからな。あの強さは、まさしく虎だった。運がなければ、わたしはあそこで死んでいたのだと思う。そのくらい、武人としては優れた女だった」
折り曲げたまま固定されている左腕をさすりながら、華雄はそうもらした。
孫堅。孫呉のいしずえを築いた勇将であることは、一刀も知っている。華雄が敗れたのだから、腕はかなりのものなのだろう。それに加えて、連合軍にはあの曹操がいる。厄介な敵になると考えて、まず間違いなかった。
「腕が使えないからと、わたしは使いっぱしりをさせられているのだ。そんな時に、十字の旗をかかげた軍勢が洛陽に向かっているという報告を受けてな。それで、飛んできたのだ」
「でも、華雄が生きていてくれてよかった。それだけで、俺は嬉しいんだ」
「ふっ。わたしには、必要のない言葉だ。そんなものは、董卓さまに会うまでとっておくのだな。口でなんと言っていようが、あの方が求めているのはおまえだけなのだ、北郷。たぶん、賈駆もそうなのだろうが」
「月は、ひとりでなにもかもを背負おうとし過ぎている。支え合って生きていけるから、人は人なんじゃないかな。俺は、そう思っているよ」
「だったら、さっさと洛陽の宮殿に乗り込んで、董卓さまを抱きしめて差し上げろ。そんな仕事をまかせられるのは、おまえただひとりなのだ、北郷」
「そっか。でもさ、華雄」
手綱を引いて馬を操りながら、一刀は華雄の身体を抱き寄せた。
乾いた唇。そこに、自分のそれを重ねていく。
「あっ、んむっ……。んっ、このっ、北郷……。やめろというに、ちゅむっ、ふあっ……」
咳払い。それが何度か、後方から聞こえている。
関羽か、それとも楽進のものだったのだろうか。嫌がる素振りを見せてはいるものの、華雄は力まかせに顔を離そうとはしなかった。行き交う唾液。互いに、生きている証を与えあっているようだった。這いつくばってでも生きていれば、いつかはこうして交わることができる。董卓とも、また同じ道を歩むことができる。
「ふっ、んんっ、ふあぁっ……。もう、いい加減にしないか、北郷。部下たちが、見ている前なのだぞ?」
「構わないさ。天の御遣いについて回っているおかしな風聞は、いまにはじまったことじゃない」
「たわけ者め。気分に火がついてしまったら、どうするつもりだと言っているのだ」
「ははっ。さすがに、俺もそれは自重していたかな。久しぶりに会えたんだ。どうせなら、静かな場所でじっくり愉しみたくはないか?」
「くくっ、違いない。とまあ、冗談はこのくらいでよかろう。とにかく、洛陽に急ぐぞ。賈駆は耐えに耐えるつもりなのだが、董卓さまがその気にならねば到底戦にはならんのだ。その状況を変えるためにも、天の御遣いの力が入り用でな」
「月が、こんなところで終わっていいはずがない。あの子のいない天下なんて、俺は欲しくないな」
一刀の言葉を聞いて、華雄は笑っている。
目指しているのは、それだけだった。次代は、愛する人と築かなければ意味がない。崇高な理想や理念などは、自分には必要ないものだった。こんな言葉、曹操が聞けばきっと腹を立てるに違いない。
「参りましょう、ご主人様。あなたさまの望みを叶えるためにも、いまは闘うべき時なのでしょう」
「自分が、どこまでもお供いたします。相手が誰であろうと、一刀さんを傷つけたりなんてさせません」
「行こう、愛紗、凪。戦場では、大いに頼らせてもらうよ」
ほほえんでいる二人に、一刀は笑いかけている。
華雄は、隊伍を整えるために戻っていったようだ。刀の鞘を握る。一刀が右手を差し上げると、進軍が再開されていく。
一万の北郷軍。そのなかに、十文字の大旗が雄々しく立っている。一刀の見開いた瞳の先。そこには、懐かしい面々の姿が確かにあるのだった。