長く、終わりのない夢を見ているようだった。
原野に馬を駆けさせ、叫びをあげる。どれだけ砂埃に塗れようと、闘志が消えることはない。むしろ、まだまだこれからだ、という感覚すらあるようだった。
曹操。孫策。ときには、劉備だったのか。自分ではないはずの名を呼ばれ、戦場に赴く。それなのに、どの場面でも不思議と違和感はなかった。
馬蹄が地面を叩く。その響きが、身体にまで伝わる。どこまでも駆ける。駆けて、天下を掴み取るのか。
光。溢れたかと思うと、意識がまた引き戻された。進むべき道は、幾重にも紡がれている。それが、北郷一刀の生きる道だった。
「ご主人様。どうかなさったのですか、ご主人様」
「ン……。ああ、愛紗か」
「もう……。愛紗か、ではありませんよ。かような状況でぼんやりと。万一、落馬でもしたらどうなさるおつもりか。間もなく、洛陽に到着いたします。ですから、ご主人様」
「うん、そうだな。悪かった、気合いを入れ直すよ」
慣れ親しんだ呼称だった。最初気恥ずかしく感じたのが、遠い昔のことのようなのである。やはり、愛紗にご主人様と呼んでもらうと、自分としてはしっくりくる。
視界が、徐々に現実味を取り戻していく。前方に見える騎影。先導しているのは、華雄の軍勢だった。
手綱をあらためて握りしめた。一応納得してくれたのか、愛紗を乗せた赤兎馬が加速して進んでいく。見送ってから、一刀は手のひらで頬を軽く叩いた。
「一刀さま」
愛紗と入れ替わりに、今度は稟が乗馬を近づけてくる。鋭い視線の中に、ちょっとあたたかさがあるような気がしている。たぶん、ぼんやりしていた姿も見られていたのだろう。どちらかといえば、心配をしてくれているのかもしれなかった。
「戦の委細は、すべてわれら臣下にお任せを。あなたさまは、董卓殿の心に再び火を灯すことだけをお考えください」
「ありがとう、稟。だけど、意外とネガティブな感じはしていないんだ。はははっ。面と向かって月と話をすればどうにかなるって、ちょっと楽観的すぎるかな」
「意味のよくわからないお言葉はともかく、一刀さまらしくてむしろよいのではないかと思います。ふっ、そうですね……。お気持ちに余裕があるのでしたら、今後の展開予想にお付き合いいただいても?」
きらりと光る眼鏡の縁。稟の緊張を和らげたくて、つい余計なことを口走ったように思えてくる。
実際、考えることはいくらでもあるのだろう。風を涼州に残してきたから、北郷軍の軍師と呼べるのは、稟ひとりの状況なのだ。愛紗は根っからの軍人気質だから、相談相手はもっぱら香風ということになる。
「いいけど、やるならお手柔らかに。稟の思考の邪魔になったら、本末転倒だからね」
「はい。でしたら、戦況の整理をしてみましょうか。一刀さまは、世間話に付き合うくらいの気軽さで構いませんので」
ゆっくりと稟が話しはじめる。
袁紹のこと。孫堅のこと。そして、曹操のこと。様変わりしてしまっているようで、自分たちは大いなる歴史の流れの中で泳がされているのか。
「ぶち破ってみせるさ、なにもかも」
そういう言葉が、つい口からこぼれた。
†
威容を放つ洛陽の城壁。はじめて眼にしたわけでもないのに、妙な感動があるのはどうしてなのだろうか。
どうか、月の心の壁はここまで高く頑強ではありませんように。祈る一刀の願いに応えるかのように、重く分厚い城門が音を立てて左右に開かれた。
「ついてこい、北郷。宮殿までは、私が案内しよう」
率いてきた一万の軍勢は、城外で野営させることにした。どうせ、すぐに戦をすることになる。馬も人も、ここで気分を緩めることはないと思った。
腰を落ち着けたら、愛紗が調練をはじめると言っていた。頼もしい鬼上官さまである。鈴々が不在の分、愛紗は張り切っているのかもしれなかった。
稟と凪だけを連れて、一刀は宮殿に向かった。
包囲を受けているわけではないが、すれ違う兵からは緊張が読み取れる。それもそうだ。反董卓連合軍は、十万を超える兵力をかき集めている。率いているのは歴戦のつわもの。横の連携が取れていないことが、救いといえばそうだった。
「よし、行こうか」
案内を終えた華雄が足をとめる。腰に差していた刀を預けると、一刀は大きく息を吸い込んだ。
ここからが勝負なのだろう。ちょっとざわめく宮殿の廊下を、堂々と進む。右後方に控える凪の表情は、さながら仁王像である。なにもそこまで威圧しなくても、と思わなくはなかったが、月のいる本丸に近づくに、つれそれだけ空気がひりついているということだ。
「何者か。これより先は、誰であろうと通すことはできぬ」
近衛兵らしき男に制止される。すぐに取り囲まれることになったが、慌てなかった。このくらいの拒絶反応、想定していないはずがない。
「北郷一刀だ。天の御遣いの風聞、知らないとは言わせない。董相国に、いますぐ目通り願う」
武器を向ける近衛兵を、一刀は静かに威圧した。
誰が、自分の足を止められるものか。董卓に、月に会えなければ洛陽にきた意味はなくなる。この国の覇者になるという果なき夢さえも、泡となって消えていくのだろう。
「ぐっ……。し、しかし」
「できれば、荒っぽい真似はしたくないな。俺たちは、董卓軍に味方をするためにここまできた。それだけは、信じてほしい」
近衛兵たちが小声で話し合っている。どうやら、強行突破はしなくて済みそうだな、と一刀は凪の尻をぽんと叩いた。
「どうぞ、お進みください。華雄さまや、軍師殿からお噂はかねがね伺っております。いまは都を追われた廬植さまからも、同じく」
包囲の手が解かれる。
宮殿の奥深く。普通の文官では立ち入ることすらできない場所。気持ちをかためるように、唾を飲んでから扉にふれた。この向こう側に、月が待っている。そう思うと、少し呼吸が乱れた。
隙間から光が洩れる。後ろ姿。似合わないくらい豪奢な着物を身にまとっているようだった。月は、窓から外をじっと見つめている。その瞳には、なにが映っているのか。
「月」
真名を呼ぶ。声は、ふるえていなかっただろうか。
凛とした横顔。凍てつくような空気と一緒に、月が振り返る。視線が鋭い。それが、覚悟のあらわれということなのか。凪と稟は、自分たちの行き着く先をただ見守ってくれている。
「どうして」
月が口を開く。声の響きからして、歓迎の言葉ではないようだった。
「どうして、きてしまったのですか。破滅するのは、私ひとりで充分だったはずなのに。どうして、一刀さまが」
どうして、と月が何度も繰り返す。
冷たい暴君の仮面は、早くも崩れかけていた。