月が唇を強く噛んでいる。
これ以上言葉を続けると、蓋をしたはずの本音が彷徨い出てしまうからなのではないか。そうやって、一刀はひたすらポジティブな思考でいようとした。自分は、誰も諦めない。我儘な理由で覇者を目指すと決めたのだから、そのくらい傲慢でいるべきなのだ。
一歩踏み出す。退こうとした月の肩に、手で触れる。直接肌に触れているのではない。それでも、妙な感動があるのは確かだった。
「自分だけ破滅すればいいとか、そんな悲しくなるようなことを言わないでくれ。月の漕ぎ出した舟、地獄の果てまで相乗りさせてもらうよ」
「一刀さま。そんな、そんなのって」
小さな身体を抱きしめた。力の限り、少しでも体温を感じられるように。
嗚咽。胸の中から、聞こえてくるようだった。ウェーブのかかった月の髪を、ゆっくりと撫でる。凪と稟の前だからと、遠慮するつもりはなかった。
ただ、無事の再会を喜びたい。僅かなボタンのかけ違いが、永遠の別離を招くこともある。それが、乱世の厳しさであることを知っているからだ。
ひとしきり泣いても、月は顔を上げなかった。なにを話せばいいのかわからない。感情の整理も、ついていないのだと思う。
背後で、扉の開く音がした。殺気はない。そもそも、この部屋に無断で入れる人間なんて、もはや片手の指でも余すくらいなのではないか。
「ほんとに、ほんとにきてくれたんだ。これって、夢じゃないんだよね。あははっ……。ボク、どうしてこんなに自信がないんだろう」
「ご安心を。ここにいる一刀さまは、幻でもなんでもありませんから。月殿を早速手籠めにされようとしているところなど、まさに」
「やっ……。軍師のあんたが感動の再会をぶち壊しにしてとうするのよ、ったく……」
詠が部屋に入ってきてから、ちょうどいいタイミングで稟が雰囲気をやわらかくしてくれる。
「んっ……。ふっ、ふふっ。あの、一刀さま。そういえば、じごく……っていったいなんですか? 質問をする雰囲気でもなかったので、つい聞き流してしまいましたが、気になって」
無理にでも、月が笑ってくれていることが嬉しかった。
とにかく、今は前向きでいるしかない。反董卓連合軍の攻勢を退け、涼州に残してきたみんなと合流する。そのための確かな一歩を、月は踏み出したのだと一刀は思った。この戦、月の闘志に火をつけられなければ、そもそもなにもはじめられないからだ。
「どんなに苦しくても、どんなに辛くても、一緒に闘うってこと。月のいない天下なんて、俺は欲しくない。たとえそれが、どんなに綺羅びやかなものでも」
「強欲なんですね、一刀さまは。それにしても、天下ですか」
「そう、天下だ。我儘を押し通すためにも、俺は天下を奪る。曹操でも、袁紹でもダメなんだ。大好きな人たちと、歴史を次代に繋げる覇者となる。それが、俺にとってのいまの夢」
瞬きを忘れてしまったかのように、月は一刀の顔をじっと見つめていた。その顔が、徐々に赤みを増してくる。それは、命の色でもあった。
「月。頑なでいるのは、もうやめにしよう。一刀が本気で覇者を目指すって言うなら、ボクは支えたい。月だって、そうでしょう?」
詠の放つ言葉には、どこまでも真っ直ぐな響きがあった。
ここにも、自分に期待してくれている人がいる。当然ありがたいことなのだが、それだけ責任は大きくなるということだ。
「うん、詠ちゃん。たった今、私は二度目の命を一刀さまから貰ったのだと思う」
闘志による炎。その揺らめきが、月の双眸で輝いているようだった。
手を、引き寄せられる。もう、離さない。誰かに、断ち切らせたりもしない。絆は、心に強く深く根差しているから、絆なのだろう。
「押し返してやろう、連合軍を。それで、俺たちは堂々と涼州に引き揚げる。月のいない都なんて、くれてやるさ。まだ挑戦者でしかない俺には、必要のないものだから」
劣勢のまま、軍を涼州に動かすことは難しい。だから、一度は勝ちにいく。
連合軍に参集している諸侯は、ほとんどが遠征軍だった。戦が長引けば、不満がでる。兵糧。部隊を動かす順番。軍議での序列にしても、きっとそうだ。
相手には、あの白蓮もいる。闘いを避けることは難しい。だけど、ぶつかればわかる気持ちもあると思った。
「やりましょう、みんなで。北郷軍と董卓軍。黄巾の大軍を打ち破ったときのように、今回も」
「ふふっ。参陣早々恐縮ですが、今夜は寝かせませんよ、詠殿。軍の配置、調略の順序。話しておきたいことは、いくらでもあります。先ほどの言葉が真実なら、あなたも一刀さまの軍師となってくださるのでしょう?」
「うえっ……。言っておくけど、頼まれたってご主人様とは呼ばないからね。こいつなんて、チンコの遣いで充分じゃない」
調子の出てきた詠が、ツンツンした態度をとってくる。
それがあまりにも懐かしくて、一刀はつい月と顔を見合わせた。
オリキャラ列伝
・胡車児
真名は紅波。天の御遣いの命を狙ったこともある、元・闇の仕事師。北郷一刀に帰順してからは、軍の諜報を受け持つ。胸が小さい。