──初めて知った感情は、“苦しい”だった。
最初はそれが苦しいことだと気づかなかったが、後から──“ああ、これが苦しいってことなんだ”と気づいた。
緑の少ない荒野。広々としているが柵で仕切られた限られた空間。多くの人と、人ではない何かが同じ様に苦しんでいる。そこが初めて見た風景。
母親から初めて掛けられた言葉は“ごめんね”だった。その母の悲しそうな表情で“悲しい”というものを知った。
父親はいない。知らない。他の子はいたりいなかったり。憶えた少ない言葉で母親に聞いてみたが、やはり悲しそうな顔をする。それから聞くことは止めた。
しかし聞いとけば良かった、と直ぐに後悔した。母親がある日突然、死んでしまった。
“死”は知っていた。何故知っているかは分からない。ただ、この場所ではありふれた事だったから。だから知っていたのかもしれない。
だが、今までは特に感情が動くことはなかったが、そのとき初めて涙を流していることに気づいた。胸が痛い。苦しい。悲しい。しばらくその感情は消えてくれなかった。柔らかい草は他の身体の大きい人間に取られている。土の上で眠るのがお決まりだったが、母の胸に抱かれて眠っている間は苦しみを感じずにいれた。何か温かいものを感じることが出来たのだが、これからは母はいない。父もいない。僕は“孤児”と呼ばれる者になった。
母がいなくなっても、苦しいは止まらない。毎日、“魔物”と呼ばれる人間よりも大きな生き物が殴ってきたり、蹴ったり、色々と暴力を振るってくる。しばらくは母を失った悲しみと痛みで眠れなかった。
だがそんな日もしばらく経って変化があった。
身体の右側に違和感を感じる。最初は僅かな違和感だったが、時が経つに連れて酷くなる。同時に痛みも感じる。またしばらくはその違和感と痛みにもがき苦しむ日々だった。
だがしかし、ある日突然にその痛みはなくなった。
何故だろうと疑問に思ったが、直ぐに気づいた。
──右目が見えない。
いつも見えていたはずの右側の視界は無くなり、見える場所が狭くなっていた。
それだけではない。右耳も聞こえない。匂いも分かりにくかったが、右だけ感じられない。
その日、毎日魔物から渡される食料を口にした時にも気づいた。右側だけ、味を感じない。
後から知ったが、これは病気というものであったらしい。それも相当に重い病気。
触覚以外の右半身の感覚が無くなったらしい。だが、これ以上酷くなることはないそうだ。それだけが救いだった。
この時、既に母が死んでからかなりの時間が経っていた。
身体がほんの少し大きくなり、ちょっとだけ頭が回るようになったと感じる。だから、というわけではないが、ある日、ふと思い立って柵の外に出た。
──柵の外はどうなっているのだろう? そう疑問に感じたためだ。
それに、苦しみというものから抜け出したかったのもある。痛いのも嫌だった。
魔物の目を盗んで柵の外に出てしばらく、歩き続けたが、行けども行けども風景はそこまで変わらない。多少の変化はあったし、妙に身体は高揚していたように感じる。不安もあったが、その時はそこまで悪い気分ではなかった。
そしてしばらくして、自分と同じ人間を見つけた。何やら硬そうで尖ったものを持っている。魔物がたまに持っていた物にも似ていた。痛みを与える道具だ。格好も、温かそうでしっかりしている印象でした。
ちょっとだけ怖いと感じていたが、柵の外に出てから何も食べてない。食べ物を求めて話しかけることにした。
その大きな男の人は最初、僕の姿を見てぎょっとした表情となり、しかし直ぐに笑みを浮かべて、“どうしたんだ? 親は? ”と尋ねてきた。
──親はいません。食べ物がほしいです。そんな感じのことを口にすると、男は笑みを深めてこう言った。“食べ物をあげるからついておいで”と。
僕はその時、初めて、ささやかな“喜び”というものを感じました。食べ物が食べれるし、優しい人に会えたと。
ですが気づきませんでした。その時、僕は初めて──“悪意”というものに触れました。
食べ物を与えると言われてついていくと、鎖のようなものに繋がれて捕まってしまいました。“まだガキだが、売れなくはねぇ”と、男はそんなことを口にしていました。
そのまま捕まり、男に付いていきました。そうするしかなかったから。ただ、僅かながらでも水と食べ物をくれたのは嬉しかった。
何日か男についていくと、森の奥に入ったところで、建物が見えました。それと、男と同じようなしっかりとした身なりの人。
柵の内側にいた人間とは違う、外の人間と、その生活を見た僕は、初めて見ることばかりで驚きに満ちていました。
見たことのない食べ物。見たことのない建物。見たことのない服。見たことのない物。僕は思わず、男にあれは何、これは何、と聞いてしまっていました。最初のニ、三個は教えてくれましたが、その後は顔をしかめた上で軽く殴られました。うるさい、と。それからは聞くことはせずに、じっと周りの物を見ていました。
大人しくなった僕に満足した男は、一つの建物に入りながら言いました。──まずは“酒”だ。
酒、というものを知らなかった僕は首を傾げながらも大人しくついていきました。
中に入ると、そこは異質な空間。
嗅いだことのない匂い。仕切られた板の向こうの壁に並べられているのは、液体の入った容器。どうやら、それが酒らしい。そしてここは“酒場”という酒を飲むためのお店だと男は機嫌良さそうに言います。そこでふと、柵の内側では魔物がそれを飲んでいたことを思い出しました。だからといって酒のことを深く知れることはありませんでしたが。
“おい、来たぞー! お客様だ! ”──男が大きな声で言うと、奥から女の人が出てきました。
その女の人は、とても綺麗な人でした。
クリーム色の髪を後ろで結った──シニヨンというらしい──スタイルの良いお姉さんで、柔和な笑顔を見せるが芯の強そうな女性。エプロンの前掛けで手を拭きながら現れた女の人に、思わず見惚れてしまう。
女性を見たこと無い訳ではない。柵の内側にも、ここに来るまでも女性はいました。
だけど、ここまで肌に汚れの一つもなく、明るい笑顔を見せる女性を見たことはありませんでした。
その女性はまず男を見て、“あら、また来たの? しかもこんな時間に”と言いました。男が“別にいいだろ”とデレッとした笑みで返し、“いつものだ”という言葉で酒を頼みます。そこでようやく、女性がこっちを見て、
「はいはい──って、あら……? そっちの子は?」
「!」
女性が僕に気づきました。棚に掛けられた酒の一つを取ってコップに注ぎ、それを男に渡しながら。しかし男は、
「気にすんじゃねぇよ。こっちはただの売り物だ」
「売り物?」
「外で見つけてきた。多分、牧場からの脱走者だ。親はいねぇらしい。ま、痩せてるガキでも金にはなる。人手は人手だからな。がはははは!」
「…………」
そう言って、男はコップを傾けて馬鹿笑いをします。会話の内容はよく分かりませんが、気分はそこまでよくありませんでした。
だけど女性はこちらを見ました。じーっと見て、
「ふーん……ふふ、可愛い子ね。男の子?」
「!」
「あん? そうだが……何だお前。ガキに興味あんのかよ」
微妙に不機嫌そうに男は言いました。どうにも、女性が興味を示しているのが面白くないようです。
ですが女性はそんなことを気にもせずに微笑のまま、
「子供は普通に好きよ。可愛いじゃない」
「はっ、こんな痩せっぽちのガキが可愛いか?」
「子供は皆可愛いわよ。それに……確かに痩せてるけど顔立ちは整ってるし、ちゃんと綺麗にしてあげたら化けるわよ」
「ただの汚ぇガキだ。弱っちそうで才能も無さそうだし、討伐隊には売れねぇな。何も出来ずにくたばるのがオチだ」
「あら、じゃあどうするの?」
「そうだな……適当に人手欲しがってるとこに売るか……いや、見た目が良いってんなら物好きにでも売ってやるか! 掘り甲斐があるってたんまりと金くれそうだしよ! ぎゃはははは!」
「はぁ、下品ね……」
「事実だ! ま、命があるだけでも儲けもんだし、助けてやった礼をしてもらわねぇとな!」
どうやら男は、よく分からないが自分を誰かに売りつける気らしい。何となく嫌だったが、逆らうことは出来ないので黙っている。
しかし、
「でも、そっかぁ……」
「あん? なんかあんのかよ?」
女性がこちらを見たまま、何かを考える素振りをする。男が問いかけるもしばらく返事を返さず、じっと見つめ続けた。
こちらも、よく分からないが視線を合わせた。
するとやがて、何を思ったのか笑顔を見せると、
「……ねぇ、頼みがあるんだけど」
「ん? お、おお。お前の頼みなら、多少の無茶でも聞いてやるぜ!」
男が勢いで言う。すると女性は、それじゃあ、と前置きし、
「──この子、私に売ってくれない?」
「……ぇ……?」
女性の言葉に、思わず声を漏らす。しかし、
「おう、それなら──って、はぁ!? 売ってくれないってお前……お前がこのガキ買うのかよ!?」
それよりも大きな声によって掻き消された。男は、女性がそんなことを言うとは思いもよらなかった様で、妙に狼狽えていた。
しかし女性の方は全く動じておらず、微笑を浮かべ、
「あら、駄目? ちょうどうちの店もそろそろ私以外の人手が欲しかったのよね」
「だ、駄目ってこたぁねぇが……マジで買うのか?」
「長く使えば、普通に人手を雇い続けるよりも安く済むわ。だから、思い切って購入してみようかなって」
「だからって……よりによって、こんなガキじゃなくても……」
男は視線をチラリと斜め下に向けて言う。まだ不満そうだった。
だが女性の押しは続き、
「それで、幾らかしら?」
「……1万GOLD」
「あら、子供の相場はもう少し安いって聞いてるけど? 吹っ掛けるつもり?」
「……今の適正価格だ」
「そう? なら、キリング商会さんのお店訪ねて聞いてこようかしら」
「ここまで連れて来るにも金は掛かったからな! 嫌なら買うなよ!」
「…………そう。ならいいわ。1万GOLDね。ちょっと待ってて」
「えっ? いや、待──」
と、男が呼び止めるより早く、女性は奥へと一度引っ込んでいく。そして直ぐに袋を抱えて戻ってきて、
「──はい。1万GOLD。ちょっと多めに入ってるかもだけど、釣りはいらないわ」
ドン、とカウンターの上に置かれた袋の重さが音になって伝わってくる。それなりに大きい袋に入れられており、男の眼が驚きに変わった。
「ま……マジか……いや、その……」
「何? まさか売らないつもり?」
「うっ……」
そう問われて、男の目が迷う。女性と、金の入った袋。そして子供の間を視線が行ったり来たりとする。
だがやがて、その金の入った袋を掴むと、
「…………分かった。交渉成立だ」
「……それは良かった。それじゃ鍵渡してくれる?」
ほらよ、と男が鍵をテーブルの上に差し出す。女性がそれを手に取ると、それをきちんと確認した上で男は立ち上がった。
「今日はもう行くぜ。こんな大金持ったままじゃ落ち着かねぇからな」
「そう? じゃあお代の方はサービスしておくわね」
「……おう」
最後にそっけなく返事をして、視線をちらりと横に向けると、ため息を吐いて酒場から出ていった。
そうして酒場の中が二人だけになると女性はカウンターから出てきて、近づいてくると、
「さて、と。あなた、名前は?」
「…………」
屈んで目線を同じ高さに下げて告げてくる。少年は自分の名を、
「…………無い」
「──無い?」
不思議そうに首を傾げる女性に対し、少年は頷く。名前は……あったはずだが、憶えていない。
何せ物心がつく前、完全に言葉を理解する前に、自分の名を知る母親は死んでしまったのだから。
そういった複雑な事情を、女性は完全に理解してはいないだろう。しかし何か予感のようなものを感じたに違いない。
「……名前が無い、ね。そう……でも、それだと困るわ」
と、そう言って、女性は右手を伸ばしてくる。少年は、殴られるのかな、と大人が手を伸ばしてくることに反射的に身体を跳ねさせたが、そうはならず、
「──ガイ」
「…………?」
告げられる。最初は分からなかった。だが続く言葉で気づいた。
「貴方は、ガイ。ガイ、あなたは今日から、うちの子よ」
「……ぁ……」
女性の柔らかな手が、ガイの頭を撫でた。
その優しげな手つき。女性の全てを包みこむかのような慈愛に満ちた表情に、ガイは驚き、声を漏らす。
黒い髪を撫でつける。前髪の右側が、右目を覆い隠すように伸びているガイの髪。そこを女性は何気なく触れて、
「……っ! あなた……もしかして右目が……」
「…………う、うん。見え……ない……」
ガイもそれに、恐る恐ると頷いた。なんてことのない事だが、それを知られるのが怖いと思ったのは初めてだった。
だが女性は、それを聞いても苦笑し、
「……そう。大変だったのね」
と、ガイの頭をもう一度撫でてから立ち上がる。そして、
「さて、それじゃあどうしようか? 働くのは追々でいいとして……あ、お腹空いてない? 何か飲む? ……って、先に身体洗った方がいいわよね」
「…………うん」
「うん、それじゃあ中に行こっか。──ほら、おいで」
と、女性はガイの手を握って酒場の中へと連れて行こうとする。
その手はとても柔らかくて温かい。熱というだけではない。
それは初めて他人から受けた──人の“善意”であると、この時のガイは、まだその温かさの正体に気づけなかった。
きっと次回から、新しい家で絆を育んでいくハートフルな話になるんだろうなって。奴隷になっていきなり綺麗なお姉さんに買われるとか、なろう主人公かな?(すっとぼけ)