「ふー……スッキリした」
時間にして一時間に満たない頃──ガイの行為は終わった。
少女の中から己の分身を引き抜いてさっさと後始末を済ませる。そこらにあった適当な布で綺麗にしようと思い立つと、
「くすん……あ、あの……これどうぞ」
「ん? あ、ああ……?」
少女が立ち上がり、近くにあった布をガイに向かって手渡す。犯したばかりだというのに平然と立ち上がってくることに微妙に戸惑ってしまったが、それよりも不思議なことがある。
それは、
「お水はいりますか? それとも、お食事でしょうか……? 生憎と、ここでは料理が出来ないので簡単なものしかありませんけど……」
「……おう。じゃあ水」
「はい。どうぞ」
近くの荷車から水筒を取ってきてガイに向かって手渡す。その様子がやはり不思議だったが、喉がちょうど渇いていたので水筒の蓋を空けて喉を潤す。
もう少し見てみるかと、ガイは胡乱な表情で、
「……次は食べ物だ。出来る限り美味しいものがいい。なんかないか?」
「あ、はい。でしたら……こちらの果実と干し肉なんかはどうでしょう? よくご主人さま達が食べていたものです。私は食べたことないので美味しいかどうかは分かりませんけど、多分美味しい方だと思います……」
「おお、果実は悪くないぞ。うむ、頂いてやろう」
「良かったです。では、どうぞ」
「うむ」
頷いて干し肉と果実を受け取る。携帯食料は基本的に酷い味のものが多いのだが、干し肉と果実は比較的マシな方だ。干し肉は貴重な食べれる肉だし、果実も大体が美味い。美味い飯は少ない世の中なので、特に貴重で需要があるのだ。
奴隷時代に粗末な餌を食べ、酒場では一般的なものを、カラーの森では結構良いものを食べていたガイにとっては、冒険者がよく食べるような携帯食料など、出来れば食べたくないものである。貧しくて不味い物を食べてると昔を思い出すので嫌いだった。味については過去に食べ慣れているので皮肉にも我慢出来ないほどでもない。普通に食べることが出来るが、それがまた自分の生い立ちを思ってしまいイライラするので出来れば食べたくはない。
それだけに食事に関しては気を使っているというか、単純にこういった行商人を襲ったら良いものが沢山あるのでよく襲って奪うようにしている。
干し肉を齧り、果実を食す。水で喉を潤してそれなりに満足したガイは、ほっと一息ついて少女を見た。
そして改めて思うのは、
「……お前、逃げないのか?」
「えっ?」
「えっ、じゃないだろ。普通は真っ先に逃げるし、襲われたら泣いてどっかに行くだろ。なのにお前は……平然と世話してるし、なんなんだ?」
首を傾げる少女に問いかける。実際、ガイに襲われて逃げなかったのはこの少女が初めてだった。
基本的に強盗すれば、男はちょっと戦おうとして一人二人死んだところでガイの強さを認識し、逃げる。女はガイに汚された後に泣きながら逃げていくか、その場で死んだような眼になって動かなくなる。
大体二択なのだが、襲われてなお甲斐甲斐しく世話をしてくる少女はガイにとっても珍しく、興味が湧いたのだ。
故に問いかけてみたが、すると少女は少し戸惑いながらも、
「えっと……私は、奴隷ですので……ご主人さま達はもういませんけど……」
その言葉に眉をひそめる。そういえば先程もちらっとそんなことを言っていたな、と、
「ご主人さま達? さっき逃げていった奴らのことか?」
「はい、そうです。私はこのキャラバンの奴隷でした」
「奴隷……」
奴隷。そう聞いて一瞬、奴隷だからと従う必要はないと思ったが、直ぐにそういうことかと察してしまう。
ガイは実際に過去、奴隷であったのでその時の生き方をよく覚えている。
生まれながら、もしくは物心ついた時から奴隷のような立場で生きている者は、逆らうということを考えることが出来ない。
何故なら奴隷として生まれた者は、奴隷としての生き方しか知らないからだ。
主人に付き従って生きることが正しいのだと心の底から本気で思っている。その境遇が嫌だと感じても、酷い仕打ちを受けたとしても、逃げるや逆らうといった概念がそもそもない。
別の生き方を知る、あるいは経験した者でなければ、その発想には至らないのだ。
人間牧場で家畜として生まれ、扱いは良かったとはいえ奴隷やペットとして過ごしてきたガイは、その内心をよく理解出来る。複雑ではあるが。
……だが奴隷か。
眼の前の奴隷の少女の事を思い、ガイはどうしようかと考える。
こういう可愛くて自分の世話をする奴隷を飼うのも、いいかもしれないと。
いつでも自分に付き従い、身の回りの世話を何でもやらせることが出来て、ヤリたい時にヤることも出来る。一石二鳥どころか、一石三鳥だと、ガイはほくそ笑み、
「おい、お前」
「? なんでしょう?」
「俺のことをどう思う?」
そんなことを訊ねてみる。すると少女は考えるような仕草を見せた後、
「そう、ですね……強い方だと思います」
「ふはは! それはそうだろう! 俺は世界最強だからな!」
「後は……お優しい方かと」
「……優しい? 俺がか?」
強いと言われて機嫌が良くなったガイであったが、その後に告げられた言葉を聞いて頭に疑問符を浮かべる。自分で言うのもなんだが、優しいかと言われれば優しいことをした覚えはなかったし、別に優しくあろうとも思っていない。
だが少女は微笑を浮かべて言った。
「はい。こう言うのも、その、不敬というか申し訳ないのですが……その、ご主人さま達みたいに、ぶったりしてこないですし……今も、私と普通に喋ってくれます」
「……ふーむ、人間扱いされてこなかったってことか」
「人間扱い? ……それは分かりませんけど……その、貴方の方が優しいと思います」
だから、と少女は何の企みもなく、純粋な笑みを向けて、
「貴方の方が好きです」
「!」
ガイは面と向かってそんなことを言ってきた少女に、思わず面食らう。
それはガイにとって、初めてのことだったからだ。おそらくは、そういった意味じゃない、純粋なものではあるだろうが、ガイにとっては、
……俺のことが、好き……。
そうやって、他人から好意を少しでも持たれたこと自体が、初めてのことだった。
以前のガイ──身体の主導権を自分が握る前のガイであれば、ちょっとした好意、親愛の情を抱かれたことはある。
だがそれはガイであって、今のガイじゃない。自分に向けられた好意ではない。それはもう一人のガイが勝ち取った好意だ。
だが、今のガイはそういった人の気持ちはいらないと思っていた。自分はもう一人とは違い、強者として生きるのだ。
好き勝手、思うがままに振る舞う。その過程で他者にどう思われようとも関係ない。弱い奴らの戯言だと相手にしない。
しかし、こうやって僅かながらでも好意を向けられて初めて思うこともある。
それはガイにとって、気まぐれに近いものではあったが、確かな変化の兆しであった。
先程までの思いが僅かに強くなる。だからだろう、ガイはいつも通りにニヤリと笑みを浮かべ、
「……ふははは、そうか、そうか……」
「? どうかしましたか?」
少女が小首をかしげる。何でも無いと首を振りつつ、ガイは意を決して口を再度開いた。
「……お前、
その言葉は、ガイの運命を決定づける言葉であるはずだった。
ガイという男が、真の意味で、この時代の英雄となり得るための分岐点。
──だが運命は、それを許さなかった。
「────随分と、仲が良さそうだな?」
「っ……! ああ?」
「っ──」
荒野のど真ん中で、急に響いた声。その存在感に一瞬だけ嫌なものを感じ取り、ガイは振り返る。
少女も同じ様に振り返り、隣で息を呑んだ。
そこに立っていたのは、怪しくも異常な存在感を醸し出す男だった。
黒いローブに仮面を付けた、正体不明の人物。先程の護衛の仲間、というわけではなさそうだ。
というのも、その人物は強かった。
「チッ……!」
ガイが即座にそれを見抜き、剣を抜いて警戒に入らなければいけないほどには。
今まで出会ってきた存在の中でも、別格の存在が目の前にいる。ガイは己より強いとはまだ認めることはせずとも、戦士としての本能から自然と最大限の集中をしていた。
だが、それでもなお──その一刀には気づけなかった。
「────」
「あ……?」
剣を構えた途端、その一刀は、寸分の狂いもなく、ガイの隣を走り抜けた。
距離もある。それにガイはまだ、相手の剣を見ていない。見えていない。剣などどこにも持っていないように見える。
だが起きた現実に対し、戦士としてのガイはそれを斬撃によるものだと断定している。
そして同時に、ガイの頭は真っ白になった。
隣にいた少女の首が──飛んだのだ。
「……ぁ……」
事が終わってから、ガイは間抜けにもそれに気づく。
それはあまりにも、速すぎる一撃だった。
予測も回避も防御も不可能。察知することすら出来ない一撃は、慈悲深くすらあった。
痛みも苦しみも一切ない。きっと、何が起こったかすら分かっていないだろう。少女の表情は、先程までガイと仲良く会話していた時とそれほど変わらない表情だった。
だからだろうか。
ガイの心が、訳も解らずかき乱される。
とてつもなく嫌な気分になる。
まるで何かを邪魔されたような、途中で奪われてしまったかのような不愉快な気分だ。
だからガイは、見えない攻撃を察知して一瞬の間を置いた後──即座に斬りかかっていた。
「死ねぇーーーー!!」
ガイは一瞬にして男までの距離を詰め、飛びかかるようにして剣を振り下ろした。
それはガイにとって、今までで最高に近い一撃だった。これ以上ないほどに淀みのない洗練された斬撃。常人ではそれこそ、反応することすら出来ないであろう一連の動作。
しかし、
「……良い反応だ」
「っ!」
男はそれを、しっかりと見ていた。
ガイの動作を観察し、品定めをするように、細かな部分までじっくりと。
それはガイの動きが、完全に見抜かれているということに他ならない。
だが男は、だというのに何の行動も起こさない。
ガイは背筋に嫌なものを感じつつも、その剣を頭部目掛けて振り下ろした。だがそれは、
「──無駄だ」
「なっ……!?」
ガイの一刀が防がれる。
何か硬いものにぶつかったような感触。ガキン、と音が鳴った。手応えもおかしい。
まるで見えない壁に阻まれてしまったかのように、ガイの剣は相手の皮を斬り裂く手前で止められてた。
「如何に強くとも、人間では
「がっ──ぐ!」
そして同時に、反撃を受ける。
先程よりは遅い、それでも辛うじて見える程度の斬撃にガイは咄嗟の防御を行うが、それでも尋常ではない力で吹き飛ばされる。
まるで敵わない。敵う想像が湧かない。
それはガイにとって、久方振りに感じる恐怖だ。
自分よりも圧倒的に強い存在。かつてそれを見た時と同じような感覚を覚える。
自然と息は乱れる。肩が重く感じる。
それは眼の前の何かから発せられる異常な圧力の所為だった。
「……お前は、何なんだ……くそっ……!」
「名乗るほどの者じゃない」
と、男はそう名乗ることを拒否しながらもこう言った。
「俺はただの──“魔人”だ」
「ッ……!?」
魔人。
男が、魔人が、そう告げた瞬間、ガイは己の中のトラウマが呼び起こされるのを感じた。
意識が覚醒する。
それは表の人格の精神が揺らいだことにより生じた結果だ。
人格が違ったとしても、互いの記憶、経験、知識は共有されている。
故に、強固な精神の裏でひっそりとただそこにいたガイは、同じ恐怖を受けてその精神を再び表面化させた。
「──どうした? 気を抜いていると死ぬぞ?」
「ッ──! あ……ぐっ!?」
ガイは突然の声と見えない斬撃を受けて背後に吹き飛ばされる。
吹き飛ぶ際に聞こえたのは打ち合う鋼の音。剣戟の際に生じる響きだ。
故に相手の使っている得物は剣なのだろう。未だにその剣が見えていないのが不気味ではあるが、感触からそれは確かな筈だ。
だがそれを高速の思考で判断する一方で、この状況を未だ正しく認識出来ていない自分がいた。
そして同時に、心からも声が聞こえる。それは、
『おいっ! 早く構えろ! 防御しろ! 死ぬぞ!!』
「っ……」
心から聞こえるのは久し振りと感じられる、それでいて全く嬉しくない声だった。
だが、それによってようやく状況を理解していく。
眼の前には──そう、魔人だ。
強盗を行っている最中、奴隷の少女を見つけ、会話をしていたところに魔人が現れ、少女が殺され、同時に攻撃を行ってしまい、戦闘が始まった。
その記憶を正しく認識し、眼の前の黒衣と仮面を身に着けた魔人が迫るのを感じ取って防御を行おうとする。だが、
「……僅かに、剣筋が変わったな」
「ぐっ……!?」
『おい馬鹿!? もっとちゃんとしろ! お前が死んだら俺まで死ぬんだからな!?』
……うるさい。そんなことは分かっている。
心の中の声にそう返答しつつ、ガイは久方振りに己の身体を動かす感覚と、痛みを経て眉を顰めた。
そう、久し振りなのだ。体を動かし、戦闘を行うのは。
だが動きに支障はない。自分の身体であるし、そもそももう片方の人格が動かしていたことも相まって、業腹だが身体能力は向上している。むしろ動きやすいくらいだった。
しかし、それでもなお届かない高みにいるのが、眼の前の魔人だった。
恐ろしい。怖い。魔人は幼き頃に一度だけ見たっきりだが、それでもこれほどまでに強かったのかと驚愕する。
それはもう一人のガイも同じだろう。強者として生きてきたはずの自分は、実際に人間の中では敵う者がいないほどに強く、魔物であっても問題なく蹂躙出来るような強さを手に入れていたはずだ。
「……弱いな。お前の力はその程度か?」
「……!」
だが、結果はこのざま。
魔人の、おそらく剣による一撃は不可視のもの。手を動かしたと思った時には、既に振り切れてこちらに届いている。距離が離れているとか、そんなことは関係ない。その一瞬で、動きの方も踏み込むのを認識した時には目の前に現れているし、何なら遠距離だろうと斬撃が飛んでくる。
そして全ての動きの過程が見えない。動と静の緩急が凄まじすぎるのか、動く前と動いた後、その直前の動きしか認識出来ない。
あるいは、己が未熟だからこそ、その動きが見えないのだろうとも推察出来るが、そうだとしても何もかも滅茶苦茶だ。
攻撃も行おうとしているが、そもそも先程の結界によって阻まれるだろうし、攻撃を行う暇すらない。防御だけで手一杯だ。
そして攻撃に転じたとしても、この異常な剣の腕を持つ魔人には通じないだろう。
今まで見てきた剣士の中でも、トップ。ダントツで一番だ。差が開きすぎて理解不能な剣技は、自分の事を未熟だと思わせてしまう。
『い、いいからずっと防御してろ!! そんで隙を見て逃げるか、死んだふりでもしてやりすごせ! なんとしても死ぬな!!』
『そんなことは分かっている! だから少し黙れ! 気が散る! 私の邪魔をすればお前まで死ぬぞ!!』
『っ……クソッ!』
心の中の声に対して叫ぶと、もう一人のガイが苦渋に満ちた声を上げて、少し静かになる。
もう一人のガイもよく言っているが、自分達は身体を共有しており、正に運命共同体ともいえる間柄だ。どれだけ相手の事が邪魔だと思っていたとしても、もう一方が身体の主導権を握っている時に、ヘマをして死んでしまえば、自分も一緒に死ぬことになる。だからこそ、身体の主導権を思わず奪い返されたもう一人のガイは、それでもなお危機感を感じて表のガイに必死の声を上げるし、気が散ると言われれば黙らざるを得ない。それで困るのは結局のところ自分なのだ。
……しかしどうするか……!?
ガイはこの状況をどうするかと思考を巡らせる。それほど余裕はない。今もこちらの防御をくぐり抜けて、剣による切り傷があちこちに出来てしまっている。このままでは出血による体力の低下、運動量が落ちるなどして、遅かれ早かれ死ぬことは間違いない。
だから何かしらの手を打たなければならないのだが、特に良い手立てはない。
逃げることは不可能だろう。直ぐに追いつかれる。
勝つことは出来ない。勝てるのならばそもそもこんなに危機感を覚えてはいないし、迷ってもいない。
せめて仲間の一人や二人でもいてくれれば──と思いもしたが、それほど変わらないかもしれないとも思う。この魔人相手に少しでも時間を稼げるような仲間など、今まで旅をしてきた中でも皆無だった。仮に自分より強い人間がいたとしても、この魔人よりは弱いだろう。それは確実に言える。この魔人は底が見えない。
ならやはり、癪ではあるがこの方法しかないだろう。とてつもなく怖い方法だが、致し方ない。
「っ、くっ!」
「…………」
ガイはまず、ひたすら待つことにした。
防御を続ける。攻撃に転じず、ひたすらに防御のみを行い続ける。
目を凝らし、相手の攻撃を見切ることに終始する。他のことは考えない。ただただ剣を構えての防御だ。
その時が来れば行動に移すが、それまでは相手の攻撃に少しでも慣れるようにと集中し、防御だけを続ける。
その間にも生傷は増え、徐々に体力は奪われていく。我慢比べのようだが、もうこれしか道はない。
相手は防御のみを続けるこちらを見て、無言であった。何を考えているのだろう、仮面を被っているので表情は殆ど分からない。
ただその口元が真一文字に結ばれていることから、特に面白味は感じていないのではないだろうかと予測する。魔人の考えなど分かるはずもないが、少なくとも楽しんではいない。つまらないのかもしれないと、
「──もういい」
と、不意に魔人は呟いた。少し、こちらを吹き飛ばして距離を取らせ、
「お前がそれなりに出来ることは分かった。人間にしては、幾分かマシであることも。だが──」
そこでようやく、魔人はほんの一瞬、蒼く細長い剣の刀身を覗かせ、
「──これで終わりだ」
「!」
来た。
ガイは待ち望んでいた大技の到来を感じ取り、身構える。
剣による衝撃波。ビリビリと大気が震え、空間が悲鳴を上げている。
自分の方も余裕はない。しくじれば死ぬ。それだけに、集中力は普段とは比較にならないほどで、
「う、おおおお……ッ!!」
ガイは雄叫びを上げ、その衝撃波に呑み込まれた。
その斬撃の波。魔人の必殺技でもないが、大技にも見える技を受けて、大地が軽く抉れた荒野。
そこに立つのはただ一人──仮面を被った魔人だけだ。
「…………ふん」
魔人は自分が技を放った先──抉れた地面の上で傷だらけになって倒れている人間の姿に鼻を鳴らす。
普通の人間であれば、今の技を耐えきれるはずもない。当然だが、死んでいると思うだろう。魔人の間では、人間を侮る風潮が未だに蔓延しているのだ。
それは人間が魔人より遥かに脆弱である以上は致し方ないところでもある。この場でかの人間が死んだと思い、立ち去ったとしてもおかしくはない。
だが、その魔人は普通ではなかった。
そして、人間の方も普通ではなかった。
「…………可笑しな奴だ」
魔人が僅かに口元を釣り上げる。
先程までは笑みの一つも見せなかった魔人が、ようやく見せた喜の感情だ。
何故そうなったのかは分からない。
だが、人間が己の攻撃を受けて未だ生きていること。それに気づいたのは確かだ。
故に、魔人はこのまま無防備に倒れている人間に対し、とどめを刺すことも出来るのだが、
「──
と、魔人はそれだけ言うとあっさりと踵を返し、その場から立ち去る。
気づいていながら、何故人間を見逃したのかは分からない。
聞いていれば、その言葉の意味を考えることも出来るのだが、生憎とこの場にはその魔人の言を耳にしたものは皆無であった。
ただ一人、生きている人間も、
──息を潜めろ……ピクリとも、身体を動かすな……!
ガイは、そのどちらの人格も、その場で死んだふりを続けて怯え続けることで精一杯だった。
魔人の恐怖。その強さを目の当たりにし、実際に経験した両者の意見は、大技に合わせて死んだふりを行い、やり過ごすことで一致していたのだ。
その死んだふりは、迫真のものであり、傍目には本当に死んだように見えるほどだった。
あらゆる感覚を切り、呼吸すらも最低限に抑える。胸を上下させることなんてしないし、眼だって白目を剥き続けている。
だが彼らにとっては文字通りの死活問題。必死の行動であり、その緊迫感は今までに体験したことのないレベルであった。
今襲われたら確実に死ぬ。何も出来ずに死ぬ。魔人が見ているかもしれない。気づかれたら終わりだ。
だがかといって、魔人が立ち去ったことを確認する術もない。もし確認しようと少しでも動いた時、居なければそれでいいが、もし居たら一巻の終わりだ。もうガイには戦う力は残っていない。
どちらのガイも恐怖を感じて、黙りこくる。心臓の鼓動が激しく脈打とうとして、無理やりにもそれを抑える。動くな、動くな、と必死に自分の身体に言い聞かせる。
心の中では、やめろ、来ないでくれ、助けてくれ、死にたくない、と恐怖の声が木霊する。
それはどちらの声なのか、分からない。
あるいはどちらとも、同じ声を発していたのかもしれない。それほどに、今のガイは心を同じくとしていた。
一時間、二時間。時間が経ち、しかしその時間すらもガイには分からない。もしかしたらまだ数分か数十分しか経ってないかもしれないと、ガイはひたすらに死んだふりを続ける。
だがガイに差す光が茜色に変わり、そしてその光がなくなって月明かりに変わった頃──ようやくガイは鼓動を抑えながらも、意を決して起き上がってみることにした。
「……いな、い……」
恐る恐る確認すると、魔人の姿も気配もない。ずっと目を閉じていたので、夜でもそれなりに周囲の状況は確認出来た。
「っ、はーっ……はーっ……! うくっ……」
だが体力がもう殆ど残っていない。
ずっと地面に倒れていたとはいえ、怪我は放置していたし、ずっと気を張っていたため、緊張を解いた瞬間に激しく息は乱れ、立ち上がったのに膝から崩れ落ちそうになる。
しかし、生きるためには治療を、怪我を治し、体力を回復させなければならない。このままここにいれば野良の魔物に襲われる可能性も高い。
そうしてガイは生きた心地がしないと魔人の恐怖から逃れるように、ゆっくりとその場から歩き出し、新たな寝床を探すことにした。
──死んだ少女のことはこの時、全く頭に残っていなかった。
悪ガイ君のターンが一瞬で終了したで御座るの巻