ジルとの隠匿10か月目。
ジルの動きが悪くなってきた。
前よりも動きが悪く、握力も弱くなってくる。明確に体が力を失い、死んでゆくという実感が襲いかかってくる。ジルの寝たきり生活がここから始まる。最低限の生活は耐えられるはずだったジルの体も、いよいよ天寿を迎えようとしていた。魔血魂によって壊されたジルの体は、底抜けの桶のようなものだった。命が常にこぼれ行く状態であり、器が根本的に壊れているため、力がそのうち入らなくなり、そのまま息を引き取る。その段階にジルは入りつつあった。今までは零れ落ちて行く命も残されていた。だがそれが尽きそうになっている。
天寿の時が近い。その軽い絶望感とさみしさ、そしてどうしようもなさが自分の胸を打った。そして砕こうとした。何とかしたかった。だけどどうにも出来なかった。それをジルが止めるからだ。
パジャマ姿でベッドの上から微笑みながら、ジルは首を横に振る。
「いいんです、先生。私はこれで満足しているんです」
「俺は結局お前に、報いることができたかどうか解らないんだ」
「なら胸を張って生きてください。先生、貴女は私の誇りでした。貴女は素晴らしい人です。そしてそんな人に教わることができた私は―――《魔法Lv3》を持つ事よりも、ずっと素敵で、そして幸せなことだと思うんです。何度も言いますが先生、私はこれで満たされているんです。諦めでも傍観でもなくて。これを求めているんです」
「……それでも、俺はお前に、人並みに生きていて欲しかった」
「……そうですね、出来たら素晴らしい事だったと思います」
だけど、とジルは笑った。
「
ジルは頭を横に振る。
「確かに手段を尽くせば私は助けられるのかもしれません。だけど先生、何かの可能性を生む事はまた、別の可能性を潰す事かもしれないんです。先生が本気で動けば私はどうにかなるかもしれません。だけどその場合、本当に必要だった時にその手段が失われる可能性があるかもしれません」
「それは確かにそうだ。だけどお前を助けられる事と引き換えなら俺はそれでいいと思う。それぐらいに俺はお前を助けたかったんだ、ジル」
「はい、解っていますよ先生。そしてその気持ちは嬉しいです―――嬉しいですけど、ダメです」
頭を横に振る。空いた窓から風が入り込み、ジルの髪を僅かに揺らす。
「先生ももう解っているでしょうが、血の記憶は本来の形のそれとは逸脱しています。私が魔王の間に……ラ・バスワルドを受け取る際に、ローベン・パーンとプランナーに干渉されました。あの二柱も前提となるシナリオをベースに、それを超越して物語を構築する事を狙っています。恐らくは化身も既に地上で活動を始めているでしょう」
「……」
目を閉じ、ジルの言葉を聞く。考えていたことではある。だが段々と【ひつじNOTE】の内容が通じなくなってきている。あの血の記憶の凶悪さも、正史を前提に三超神が改良を施してきているのであれば当然なのかもしれない。
「それでも……」
それでも、と言葉を紡ぎ、
「お前には……生きて、幸せになって欲しかった……」
それだけだ。自分の中にある感情はそれですべてだ。幸せに、なって欲しかった。ジルという女の人生に幸福な結末を。俺が望むのはそれだけだった。今はもう、未来とかどうでも良かった。そんなの放っておいてもどうせルドラサウムが勝手に楽しむのは目に見えている。だからせめて、自分の手が届く範囲だけでも幸せでいられれば良かった。そう思いたかった。
「だけど……ダメなのか」
「はい、ダメです。そしてこれで良いんです、これは……必要な事ですから」
そう言ってジルは窓の外へと視線を向けた。年が明けて入ったGI1年からも数カ月が経過している。雪は溶けて、それが水となって流れ、そしてその下から新緑が育った。それによって山は緑色を取り戻し、今は暖かい春になっている。本当に魔王との戦いが、魔軍との戦争があっただなんて思えないほどに平和で、そして美しさに溢れている景色が窓の外からは広がっている。それを眺め、ジルは呟く。
「あぁ……ずっと、こんな穏やかな日々が続けばいいのに……続けば……いいのに……」
「ジル」
「もっと、もっと生きたかった。もっと先生と歩き回って、買い物して、美味しいものを食べて、遊んで……でもいいんです。私、これが生きるってことだって漸く解ったんです」
私は、とジルは言葉を置いた。
「愚かな娘でした。賢過ぎたんです。だから両親に気味悪がられて捨てられました。だから証明したかったんです。私の能力を。それで人の為になるという事を。結局、それはどこにも受け入れられませんでした。最初は味方として受け入れてくれた派閥も私が恨まれていると知ると切り離してきました。裏切られたんです。だけど……私は自分だけを通そうとしていた。彼らを知ろうとしなかった。だからあれは当然の結末だったんです」
誰もが人生に失敗を起こす。
それを経験し、人は成長する。
それでもどうしようもなく、思わずにはいられないのだ、
「あぁ、あの頃をやり直せたら……なんて、なんて素晴らしい事なんでしょう」
「あぁ、俺も常々思うさ。だけど……俺達は過去に戻れない。変えられない。そうだろう?」
「えぇ、そうです。出来ないんです。出来ませんでした。だから……これでいいんです」
後悔はある、とジルは言う。変えたいこともあるとも言った。やりたい事もたくさんある。だけどジルはそれを選択しなかった。救われる道を選ばない。それが必要であるとジルは告げ、そして同時に言うのだ、
「先生」
「おう」
「私―――とっても幸せですよ」
「おう」
俺には、そうとしか彼女には答えられなかった。
だから、
約束は守ろう。
11か月目。ジルの寝ている時間が増えている。
起きている時間が減り、死んでいる様に寝ている時間が増える。少し前までは一日中話し合っていたのに、起きていられるだけの生命力が足りないのか、一日のほとんどを眠って過ごしている。その面倒を見ながら日々の家事を一人でこなしてゆく。その事実にジルが申し訳なさそうな表情を浮かべるが、最後まで面倒を見ると決めたのはこちらだ。そんなことを気にする必要はないと、笑いながら返答する。
だが果たして、俺はその時ちゃんと笑えていただろうか。
もうすでに、明確な生活の終わりを感じ取っていた。ジルもそれを理解していたのか、誤魔化す様に笑うことが増えていた。それでも、ジルは楽しそうにしていた。心の底から浮かべる笑みで、この生活を楽しんでいた。
そこに、一切に演技のようなものは感じられなかった。ただそれでも、終わりが近づくにつれ、発狂しそうなほどの胸の苦しさを感じるのは事実だった。なんとかしたい、変えたい。
それでも変えられない。
それには既に遅過ぎるという事を理解していた。だから寝たきりが多くなったジルの面倒を見て、心の中で別れを告げる準備を整えていた。近いうちに来る。近いうちに来るのだ、と覚悟を決める様に自分に言いつけていた。
そして、
生活を始めて13か月目。
「―――あぁ、逝ったんだな……ジル」
生活が1年を超えて少ししてから―――眠りからジルは目覚めなかった。予想していた1年よりも長く持ったジルの命は、それから少しして尽きた。彼女の死は穏やかで、ベッドの中で眠ったまま、目覚める事もなく息を引き取っていた。
美しさを残した姿のまま逝ったジルの姿をベッドの脇に腰掛けつつ、その姿を見て、言葉を失った。一日中その姿を眺める様に見つめながら、胸を襲う喪失感にジルの死、そして彼女が永遠に戻ってこないという事実を噛み締めるしかなかった。
もう、助けることも何も出来ない。その事実をなんとか受け入れようとしてジルの頬に手を当て、その頬の冷たさを感じ取った。もう、肉体には体温が宿らない。そして、その身に宿った魂はルドラサウムへと還元される。
だからそうやって彼女の体から魂が離れる前に、
ジルの体から魂を抜き取った。
この世界、その魂はルドラサウムの生命力が元となっている。大陸の全て、生物の全てはルドラサウムの一部でしかない。ルドラサウムから生まれたもの。故にジルの魂も、もとはルドラサウムから生まれ、そして奪われなければルドラサウムへと帰る。だがその魂も、ストレスなどを受けていくことで汚染され、濁っていく。
「―――」
だが、ジルの魂は、
―――欠片も濁っていなかった。
「綺麗だな……」
美しいと表現できるほどに穢れがなく、純粋な命の色を映していた。その命は終わりを告げ、残されたのは血肉と魂とのみ。それを眺め、魂を手に取り、持ち上げた。
「じゃ―――約束を果たすぞ、ジル」
彼女の生前の約束を果たす為に持ち上げたその魂、エンジェルナイトや悪魔が回収のために出て来る前に、
それを口に近づけ―――飲み込んだ。
「ジルの血肉と魂を取り込み同化した気分はどうだ?」
「てめぇ……ナイチサか」
全てに始末をつけてから家を出た所で、そこで待ち構える様に元魔王ナイチサの姿が見えた。それだけであれば迷う事無くナイチサを殺しに行っただろうが、それを躊躇させたのはナイチサの格好にあった。彼が魔王の時から纏っていた黒衣だけではなく、今回の彼の片手には花束が握られており、それと合わせるとどことなく―――喪服の様な、そのような感じがナイチサからは見受けられた。その様子が一瞬だけ戸惑わせ、しかし即座に殺すことを止めさせた。
「異界の魂にはずれた肉体。システムに挑み続けた結果壊れた技能。それも極上の素質を持つ者の血肉と魂を取り込めばずれていたピントも合わさるだろう。どうだ、至れたか? 竜王マギーホアと同じ《ドラゴンLv3》には」
「解説どうも。で、何しに来たナイチサ。お前に対しては恨みしかないから俺は容赦しないぞ。今の俺、かなり機嫌が悪いんだが」
腕を持ち上げて爪を伸ばす。何時でもナイチサを殺せるように。だがナイチサはそれに応えることはなく、戦意や敵意を見せる事もなく花束を此方へと投げ渡してくる。それを掴みながら肩に乗せる様に担ぎながら、
「なんのつもりだ」
「死者を悼むのであれば花束と私の記憶にあるが」
「意味が解って言っているだろう」
睨むように視線をナイチサへと向ければ、さぁ、とナイチサが答える。
「ジルは私が魔王としての役割を教えた唯一の子でもあった―――ある意味、私にとっても生徒だった」
「お前に情があったとは驚きだな」
「果たして情かどうかは……さて」
ナイチサはそう言うと黙り込む。或いはナイチサ自身、なぜ自分がこんな行動を取っているのか、それが解っていないのかもしれない。ナイチサの魔王時代とは違いすぎる姿に一瞬困惑するも、花束自体はどうやらジルに対する純粋な感情の表し方でもある。こいつも、魔王でなければ―――なんて、事を考えるだけ無駄なのだろう。
それでもこいつがジルを魔王にした事実には違いがない。
そして俺がそこまでの道を作ったのも事実だ。
ある意味では、俺とナイチサはどちらも同じ存在だ。
その方向性がプラスかマイナスか―――いや、違う。関わってしまった所でプラスもマイナスもクソもないだろう。究極的には神々の玩具である事に変わりはないのだから……。
それでも、変えられる事はある筈だ。
「……」
「……」
ナイチサをしばらく見つめてから、口を開いた。
「……帰れ」
「殺しには来ないのか」
「そんな気分じゃねぇ」
爪を戻しながら息を吐く。ナイチサに対する憎悪は本物だが、それでもジルが逝ったばかりの手前、その死の直後に彼女と最期を過ごした場所を他人の血で穢したくはないのも事実だった。故に消えろ、とナイチサに視線を向けて、ナイチサが振り返り、
「ではまた……神の愉悦を満たす為に」
「お前一人で満たしてろ」
言葉と共に神魔特有の転移で消え去るナイチサの姿を見送ってからトントン、と花束で肩を叩く。ナイチサの持ち込んだ花束をどうするか、という話だった。流石に捨てるのはもったいないし。悪意のない行動なのに敵意を向けるのは―――あぁ、いや、敵だったら敵意を向けるのが普通か、と思い出す。
人類と魔軍を行ったり来たりしているからそこら辺の感覚が薄い。
「あー……植えるか」
手入れは絶対にしてやらないけど。それでもナイチサの持ってきた花だ、無駄に生命力が強そうだし、そのうち勝手に花園にでもなっていそうだ。だからこれを植えたら、
「ここから出ていくか。引き篭り過ぎも悪いし」
そして―――また冒険だ。
ガイとか元討伐隊の連中を探すのもいいし、魔物界を走り回るのも悪くはないだろう。それともどうせ、数百年間は記憶から消える為に姿を消すつもりなのだ、ペンシルカウでゆっくりするのも悪くはない。あぁ、でもちょっと異世界での冒険も心惹かれる。
「ま、楽しくやっていくか」
生きているのなら、何だってできる。渇望する程に明日が欲しくてもそれを手に入れられない奴だっている。だとしたらその分、めいいっぱい人生そのものを楽しむことが一番の供養になるのだろう。
花束を掴んだまま、胸に触れる。それから笑みを浮かべる事にした。泣き顔は自分には似合わない。
「―――また、冒険に出ようか」
呟き、明日へと踏み出す為の一歩を踏み出した。きっと、彼女もそうして欲しかっただろうというのを思いながら。まだまだ、
この物語は始まってすらいないのだから。
ジルの旅路はおしまい。彼女は死を通した献身を選んだ。先を見据えての行動もあった、神への反逆審もあった。後悔も、恐怖も確かにある。何も文句はなく満足! と全てを言えるような聖人ではない。
それでも、その魂の色が彼女の末期における心を表していた。