「……もう、ここでの生活は無理、なのか?」
「あぁ……ペンシルカウに行く必要がある」
その言葉を向けた時、ウルの表情に影がかかるのが見えた。別に、彼女がペンシルカウに戻る事を忌避している訳ではない。彼女があの場所を故郷だと、そして落ち着く場所であると認識しているのは良く理解している。だからこそ、彼女がそんな表情を浮かべたのに驚いた。彼女がペンシルカウに戻るという話をして、そんな表情を浮かべるとは欠片も思わなかっただけに、言葉にそこから詰まってしまった。
「戻らなきゃ……駄目、なのかな……?」
「少なくとも、俺にはこの問題を解決する知恵も力もない。俺が知っている以上、ドラゴンという生物に最も詳しいのはマギーホアだ」
となると、マギーホアに聞きに行かなければならないだろう。その言葉を出さずとも、ウルはその意味を理解し、項垂れる。何故、仔が産まれて来ないのか。卵のままなのか。それが理解できず、解決できそうなのは奴だけなのだ。非常に苦しく、そして辛いのは事実だ。だが仔の為とあらば、一切の躊躇はない。マギーホアに頭を下げる事も、翼をまた捥がれる事もその為であれば許容する事が出来る。
……いや、違う。許容ではない。
頼むのだ、此方が。
故に、ペンシルカウへと戻す必要があった―――ウルと、卵を。
「だけど、そうなったらアベル……」
ウルが手を伸ばし、此方の頬に手を添えて来る。それを片手で抑えるように触れる。少しだけ震える手を押さえながらもその手の熱を感じ取りながら、視線を合わせる。恐れる様な、弱い雌の瞳が見えた。それを見て良かった、と思えるのは自分もまた、弱くなってしまったのかもしれない。そんな事を考えながらも、もう片手でウルの頬に触れる。
「言いたい事は解っている。だが、もはやここでは解決の出来ない事だ」
「でも、そうしたら……」
「解っている……解っている。だがそれでも、お前と仔には健やかであって欲しい」
ごく普通の、親としての感情。産まれて来る命に対して、己の家族に対する責任を取る。雄として、守る者として当然の責務でもある。責任。己にはそういうものが長らく欠けていた。こんな状態になって漸くそれを理解する日が来るとは思いもしなかった。だが悪いものではないと……そう思っている。
「ペンシルカウへと行けばマギーホアが俺を許さないだろう。恐らく、こうやって放置してくれているのは奴の温情だろう。俺が直接赴けば無視はもう、無理だろう」
「それなら!」
「それでも、だ。俺にはお前を選んだ責任がある。いずれは向き合わなくてはならないことだった。それで、お前と仔の為になるのであれば俺は負けない」
場合によってはマギーホアとぶつかる事もあるかもしれない。それでもまだ、負けるつもりはない。いや、負ける気もしない。故にペンシルカウへと戻す。そしてそこで産まれて来る可能性を模索する。少なくとも、状況がここで好転する様な事はあり得ない。自分達しかおらず、そして出来ることをした後でこの始末だ。これ以上ここに残る事は……難しいだろう。
だから、
「ペンシルカウに行こう、ウル」
「アベル……俺、は……平和で、穏やかな日々があればそれだけで良かったんだ……」
あぁ、解っている。良く、解っている。それを知っているからこそ歯がゆい。この大陸ではそれを求める者こそが不幸に陥り、破滅する。だったら神を殺せばいい? そんな事をすればこの大陸が亡ぶ。
都合の良い話なんてものはない、という事は自分が理解している。
その理不尽に今までの生を狂わされてきたのだから。
それでも、自分たちは生きるしかない。それが産まれてしまった以上、自分たちが成し遂げられる唯一の事なのだから。故に生きる。生きて最善を尽くす。それ以上のものはない。そして自分達にできる範囲で、成せることを成す。その果てに幸いがあるという事を信じて。故に、自分の最善を尽くす。それにはペンシルカウへと行く必要がある。
「……少しだけ、考えさせて」
「あぁ、ゆっくり考えてくれ。俺は準備を進めて来る」
「うん……」
一度、頬に口づけしてから軽く抱きしめ、震えを止めてからゆっくりと離れる。名残惜しむ番の姿を見てから、彼女では出来ない事を―――今は、自分にしか出来ない事を成す為に立ち上がって歩き出す。ペンシルカウには卵を運んでいく必要がある為、徒歩や飛行で向かう事は出来ない。そうなると、乗り物を用意する必要がある。
ウルを置いて部屋を出る。落ち込んでいるが、前よりは持ち直している。今すぐどうこうという状態にはならない筈だ。となると、その間に何か乗り物を調達して来る必要があるだろう。
「……うし車か?」
一番メジャーな乗り物だ。だが荷台部分と、うしその物をどこで調達してくるか、という問題も出て来る。無論、森の中で調達できるものではない。そして、調達できそうな一番近くの村はあの鉄人形共によって蹂躙されてしまっている。なるべくであれば、遠出したくないのも事実だ。となると、自作するしかないのだろうか……?
移動手段を考える為に腕を組み、家を出た所で空を見上げ、軽く息を吐く。
「もっと、もっと強くあらねばならない。そう思って生きてきた」
だが必要なのは強さではない……ような気もする。強さだけではどうにもならない。志だけでもどうにもならない。その両方を兼ね備えていても―――このルドラサウム大陸ではどうしようもない。ルドラサウムという法則が存在する限り自分たちに本当の意味での安寧はないのかもしれない。
「或いは―――いっそ、この世界を捨てるのもありかもしれないな」
本当に、仔とウルの事を想うのであれば。
このルドラサウムという世界そのものを捨てて、どこかの善神を求めて次元を超える旅に出てもいいのかもしれない。寧ろ、それが我々に与えられた唯一の解決策とも言えるだろうと思う。だが問題がこの世界の神々が自分たちを……いや、ウル・カラーという女を解放するであろうか、という事実だ。
彼女がルドラサウムのお気に入り、であるという事実は重々承知している。だがそれだけではなく、彼女の影響力は大きい。何よりもその出自、彼女から聞かされている彼女の知識―――この世界の真理、根幹とも言える部分。彼女は余りにもそれに触れすぎている。このルドラサウム大陸から本当の意味で離れられるか、それが怪しい。
「問題は、解決策が見えてこない事だ……」
この大陸で幸福を本当の意味で掴むためには―――。
―――根本的にこの大陸の抱える問題を解決しなくてはならない。
「知ってた、筈なんだけどね……」
横に倒れ、卵を抱きかかえるように呟く。
誰よりも自分がこのルドラサウム大陸の事を知っていた筈だ。本当の意味で幸せになれる存在なんていない。根本的な部分でこの大陸のルールは変わらない。どれだけ苦労し、そして幸せを求める権利を得たとしても
むしろ逆だ。
ルドラサウムではもはや概念的なレベルで
幸福を願って静かに生きようとした所で、報われるわけがない。
良く知っていた筈だ。
なのに、普通である事を求めてしまった。
自分に間違いがあるとすれば、恐らくそれなのだろう。
「やっぱり―――俺が、何とかしなきゃいけなかったんだろうなぁ」
思えば、それだけが解決方法だったのだろう。未来が確約されたから、と投げだすのが間違っていたのかもしれない。今更そんな事を―――いや、今だからこそそんな事を考えているのだろう。アベルと結ばれて、それで幸せになって。それで……その幸せが、ずっと続けばいいのだと思ってしまったから。だからこそ、ここに自分たちの子が欲しい。子と一緒にこの日常を過ごしてほしい。
アベルとも、別れるかもしれない。
その恐怖が心の中に芽生える。
だがそれは同時に、自分の中に強い意志を覚醒させるものでもあった。
もう、自由に生きたい。囚われたくはない。自分と愛しい人の事だけを考えて生きれば良い。本能のままに、そのまま生きれば良い。そうすればよいと思っていた。ランスに未来を任せれば、もう終わりだ。そう思っていた。
卵を抱きかかえながら、呟く。
「あぁ、そうだ。俺が……私がルドラサウムを変えない限りは、どうしようもない」
解っていたことなのに、解っていたはずなのに。それでも忘れてしまっていた。それこそがこの世界の生物に与えられた、潜在的な愚かさなのかもしれない。だがそれを自覚し、そして理解してしまった以上はどうしようもない。
離れたくない。別れたくはない。
だから、どうにかしなくてはならない。
どうにかしなければ―――親子三人でいられる未来がない、というのを確信できてしまった。
「あぁ、結局こうなるんだねジル……貴女が何故そこまで必死になったのか、漸く本当の意味で分かったかもしれない……」
ジルは本当の意味でルドラサウムから解放される手段を取ろうとしていたのだろう。この次元ではない、遠くの次元へと去って完全につながりを断つ。その仕方が解っていたのかもしれない。いなくなってしまった今、その手段も方法も解らない。だから、自分には自分の出来ることをしなくてはならない。
「そうだよね、ルーシェ……」
横に倒れ込んだまま、丸まるように卵を抱く。
私と、アベルの大事な子供。未来に託す光
彼女が、私達―――だけではなく、この大陸の希望でもある。どん詰まりで
いい加減、幸せな夢だけを見ているのはもう……止めにした方が、良いのだろう。
あぁ、そうだ。いい加減に目を覚ます時なのだろう。
夢と幸せに浸っているだけではどうにもならないのだ。
だとしたら―――今度こそ、全てを変える為に。終わらせる為に。その為に、自分から前に踏み出さないといけないのだろう。
そうやって、漸く私の物語が完結する。
「あぁ……本当に、貴女の未来は絶対に私が作るから……」
呟くように卵を抱きしめ。浅く呼吸を繰り返し、目を閉じる。静かに自分の中にある力を確認し、まだ衰えていないのを認識する―――レベルは下がっているだろうが、それでも根本的な部分での弱体化は入っていない。セーフ、だろうか。いや、関係ない。こちらには神光がある。それを利用すれば、システムと法則の悪用は出来る。なら後はそれを正しく実行するだけだ。
……だがこれを、一人でこなすことはできない。
久しく冷静に考え出す頭はこれから何をすべきか、どう動くべきなのか、何を目指すべきか。そして何を利用し、何を信じるべきなのか。
ゆっくりと体を持ち上げ、座り直しながら窓の外へと視線を向ける。暖かな日差しが入り込んでくるのが見える。
と、そこで近づいてくる足音が聞こえ、視線を入り口の方へと向ける。そちらの方から、アベルが戻って来たのが見えた。
「ウル、俺は少し調達の為に―――」
そこまで言った所でアベルは此方の顔を見て、言葉を止めた。そして、小さく笑みを零した。
「気分は、良いのか?」
「うん……自分が何をすべきか、漸く理解できた気がする……遅くなってごめん」
「気にするな……俺は特に気にしてはいない」
アベルの方へと手を伸ばすと、理解したアベルが手を伸ばし、此方の脇の下に手を通し、体を引き上げてくれる。そのまま、片腕でアベルを抱きしめ、両腕で抱きしめ返されながら、アベルの耳元で囁く。
「結局、自分達でどうにかしない限りはこの世界は、自分たちの事も、どうにもならないんだ」
「あぁ、そうだ。だが俺にはそれをどうにかするだけの考えも知恵もない。出来る事と言えば、暴力を成す事だけだ……その事だけでは、お前以外には負けるつもりはない」
だったらさ。
だったらさ、アベル。
囁くように、呟くように、確かめるように。
抱きしめ合いながら、愛を囁くように口にする。
「……私を、信じてくれる?」
その言葉に、帰ってくる言葉に迷いはなく。
「―――無論」
意思だけでは。力だけでも。
だったら、それがどれだけ荒唐無稽で、
無茶苦茶で、
そしてズルだったとしても―――成し遂げるしかないのだ。
今までの敵は、同じ領域の存在だったが、今度は違う。
このルドラサウムというシステムそのもの。この次元の世界。そして連なる現実。それをどうにかしない限り、自分たちにも、娘にも、そしてこれからの未来なんてものはない。
だから、
変えよう、ここから。
幸福は待っていても訪れないと解ったから。
―――ここからは、もう、容赦も遠慮も手段も選ばない。
それからほどなくして、
ルドラサウム大陸に、数千年ぶりとなるドラゴンが生まれた。その日、その命の誕生を感じ取ったドラゴンたちによる咆哮により大陸そのものが震えた。
新たな時代、新たな悲劇、
そして新たな歴史が確実に始まろうとしていた。
もはや、同じ未来はやってこない。
たっぷり休んだし、そろそろ仕込んだ諸々の伏線とか回収していくかー、って感じで。次回から娘ちゃんもついに登場。
結局、ウル様を奮い立たせる覚悟ってのは世界の為とか、じじーほあの激励とかじゃなく、物凄い個人的な事で家族と居たいってだけの話なのよね。やはり根が女性的という。