花園を走る。
靴が花園の大地を踏みしめるたびに花びらが舞う。ふわりと、足を出してなるべく足元の花を踏みつぶさないように少女の姿が頑張っていた。だが走ってみれば宙に舞い上がる花びらが多く、そしてそれが風に乗って運ばれてゆく鮮やかな色彩が美しく、そして幻想的な光景が少女の琴線に触れる。何が面白いのかもわからず、少女は楽しそうな声をこぼしながらステップを踏み、くるりと花畑で一回転する。黒のラインが混じった金髪が陽光の中で煌めいて、鮮やかな花びらの舞いよりも美しく宙を漂っていた。
花びらが風で舞い、蝶がその合間を漂う。甘い香りを漂わせながら日光の下、秘された花畑の存在は楽園だった。まるでここだけ、世界から切り離されたような穏やかさを保っていた。脅威となるものはなにもなく、脅かすようなもはなく、ただただそこは幸福で満ちていた。
少女は花畑を駆ける。花びらの合間を縫うように、踊るようにステップを踏む。それとともに小さい口を開き、声を出す。
「―――」
かわいらしい少女の声が出る。自分の感じる世界を表現するように。自分の感性を通して触れたこの花畑、狭い世界を音によって表現する。正しく誰かから技術として学んだものではない。天性のセンス、あるいは才能。そう呼べるもので表現される歌声は明確な歌詞が存在しない。だが放たれる声、その音を聞けばその声に秘められた意味が、意思が直接心へと響いてくるものがあった。
全霊で集中したような熱唱ではない。
花畑を踊りながらの、鼻歌だ。スキップするように足を進めながら鼻歌を歌っている。その音色に惹かれるように枝に足を止めていた小鳥が近寄り、少女の方に乗って囀る―――彼女の声に合わせるように。
花の蜜を啜っていた蝶は歌声に舞い、
暖かな日差しを思わせる歌声に森の中で獰猛な獣がゆっくりと目を閉じて眠る。
魅了されるように歌声を聞いた者たちが集まり、そして音色に揺蕩う。それはある種、混沌であり、秩序的でもあると言える景色だった。それを少女はほとんど無自覚に行ており、だからこそその音は強く、どこまでも染み渡るように伝わった。その危険性も、幼さゆえにまるで理解が進んでいない。ゆえに歌唱へと変わったそれは熱量を伴ってやがて、さらに響かせようとして―――。
「―――ルーシェ」
「ぁ」
少女の名を呼ぶ声がした。その声に一瞬で少女は声を止め、小さく音を漏らしてから視線を音源へと向けた。少女が視線を向けた先で見る姿に、少女は笑みを浮かべながら全力で走ってゆく。その先にいる姿は、シンプルなチュニックとロングスカートに身を包み、編んだ金色の髪を肩に乗せた女だ。
ルーシェは全速力で名を呼んだ人の下へと走り、そしてその胸の中へと飛び込んだ。それなりの勢いと、小さな体からは想像もつかない力があるにも関わらず女性は羽毛を受け止めるようにルーシェを受け止めた。そのまま胸に飛び込んだルーシェを女性は片腕で抱きしめるように持ち上げると、ルーシェも女性を抱き返しながら笑い声を零した。
「ママ!」
「ふふ、ルーシェちゃんのママよー」
片手でルーシェを軽くスイングさせるように抱きしめると、楽しそうな声を漏らすルーシェが母と呼ぶ女性の首に両手を回す。二人の髪色は、ルーシェの髪に黒い、漆黒を思わせるような色のラインが入っていなければ全く一緒となる。それが何よりも彼女たちの親子関係を語っていた。
そうやって娘を抱きしめる母は、微笑みながら愛娘の姿を見て、
「さ、そろそろおうちに帰りましょ」
と、帰宅することを告げた。だがその言葉に不満を抱いたルーシェの頬が膨らんだ。目がばってんになったのではないかというほど苦そうな表情を浮かべ、
「やだー! かえりたくなーい! まだあそびたーい!」
抗議の声を上げた。それを受けても母の表情は崩れず、
「あら……じゃあ、お祝いしなくていいの?」
と、声をかければ即座に今日が何という日なのかをルーシェが思い出す。
「帰る! 早く帰ろ! ボク先に帰る!」
そこからの行動は早く、母の腕から抜け出したルーシェが駆け足で花園を出てゆき、森へと続く道を進もうとする。だが途中で足を止めて、振り返りながら母の方へと振り返る。
「ママ、早く早く!」
「はいはい、ルーシェちゃんはせっかちさんねぇ」
ふふふ、と声をこぼしながら女性が歩く。軽く待ちきれないとばかりに飛び跳ねているルーシェの下まで歩くと、残された片腕を差し出す。それをルーシェが手を伸ばすようにしてつかみ、手を繋いで状態で森の道を歩く。軽く手を揺らすように、しかし娘との歩幅を合わせて母が歩く。ルーシェもペースのあった速度に疲れる事はなく歩いていた。
そもそもの、生物としての違いとして―――彼女たちに走りまわった程度で、疲れるという概念が適応されるかは怪しいが。
それでも母子は互いをいたわるように、しかし楽し気に林道を歩いていた。
森の動物たちを除けば、彼女たち以外の存在の気配のない道を。
「楽しみね、ルーシェちゃん」
「うん! パパも帰ってくるんだよね?」
「もう帰っているかもしれないわねー?」
楽しそうに語る二人が争いとは無縁の林道を歩いてゆく。なんの危険にも晒されず、何を心配する事もないときが過ぎてゆく。歩くルーシェはこの先の出来事を夢想し、期待に胸を膨らませながら鼻歌を零す。ルーシェが鼻歌をこぼすようになってからその足跡に、花が咲き始める。
「やっぱり、お誕生日は楽しみかしら?」
「うん! ふわふわとかしゅわしゅわとかのとか、普段は食べられないものいっぱい食べられるもん」
「ルーシェちゃんは食いしん坊ねぇー。一体誰に似ちゃったのかしら」
「ママー!」
「うーん……」
困ったような様子を浮かべるも、本当に困っているというわけではなく、親子で会話を楽しんでいるのが解る。他愛もない会話が続く傍らで、ルーシェが自分の誕生日である事を、前々から楽しみにしていたことがわかる。
ここは人界からは切り離された秘境。
あるいは異郷。
もはやそこに、呼び込まれた者以外で入り込める者はいない隔絶された場所。
秘密の花園が誰の目に留まらぬように秘されているように、この場所もまたそうなっていた。幸せな親子が存在し、存在し続ける限りは
ゆえに、この時、この日を、ルーシェは楽しみにしていた。
この森で暮らし、生きてゆく分には何も不足はなく、その生活を楽しんでいた。
だが、
「今日はパパ、何を持ってくるかな?」
「何か面白そうなものを持ってくるわよ」
「ふわふわなの?」
「そうね、ふわふわなのとか」
「ぱちぱちしそうなのとか?」
「めらめらしそうなのとか」
「うぅ……気になる……」
父が、何を買って待っているのか。それを想像するだけでルーシェの歩みが少しだけ、早くなる。その様子にあらあら、と母が軽く微笑みながら歩幅を合わせて歩く。そうやって期待を膨らませながら林道は森の中の一軒家へとつながる。木造の一軒家は二階まで存在するが、しかし一家が住むにはちょうど良い程度の大きさとなっている。その作りからして嵐でも来れば薙ぎ払われてしまいそうに思えるが、
その家は新品同様の輝きを発していた。
そして家に近づくに連れて、空気に美味しそうな匂いが漂うのをルーシェが察知した。それを感じ取った瞬間、母と繋いでいた手を放して一気に家へと向かって駆けだす。しょうがない子だ、と呟くようにため息を母親が吐き出して、ルーシェの行く先を見た。
先に一人で走ってゆくルーシェは入口へとつながる階段を軽く飛び越えて扉の前に立ち、手を伸ばして扉を開ける。そのまま勢いよく家の中へと雪崩れ込む。それでも、良くしつけられているのか家の中に入ってからはあまりどたばたと走ることをせず、小走り程度の速さで玄関を抜けて、
リビングからダイニングへと向かう。
そして、そこでテーブルの上に並べられる数々の料理を見た。
その横にはエプロンを装着した、褐色姿の男の姿がある。両手にはミトンを装着し、大きなプレートを抱えている。愛娘の存在に少しだけ眉をひそめた。
「ルーシェ、家の中では……」
「ただいまパパ!」
彼女が母へとそうやったように、今度は頭から父親の腹へと突進を行った。両手にプレートを握った父はそれを大きく上へと掲げるように持ち上げ、腹筋に一瞬だけ力を入れてルーシェの突進に耐えた。
ルーシェの頭と父親の腹筋が衝突し、鈍い音がする。
腹筋に突進をはじかれたルーシェが軽くふらつくように頭を押さえながらもプレートを持ち上げる父の姿を見た。
「お帰りパパ!」
「……ただいま、ルーシェ」
片手にプレートを持ち替えテーブルに置きつつ、空いた片手のミトンをわきに挟んで抜き取り、ルーシェの頭を父親の大きな手が撫でた。壊れないように、大事な宝石に触れるような優しい手つきでルーシェの頭をなでると、ルーシェの表情がにへら、と崩れた。そして今度こそ、と父親の胴体に飛び込むように抱き着いた。
そこで母が帰宅した。玄関を抜けてリビングまでやってくると、抱き着かれているエプロン姿の夫を目撃し、幸せそうにその景色を眺めながら口を開いた。
「おかえりなさい、アベル君」
「ただいま、ウル」
母―――ウル・カラーが穏やかな表情で夫・アベルを迎えた。抱き着いているルーシェを挟み込むようにアベルに近づくと、軽く抱きしめてからその唇に口づけを交わした。それを見ていたルーシェがあー、と声をこぼす。
「ずるい! ボクもボクもー!」
そう言って飛び跳ねるルーシェをアベルが苦笑をこぼしながら両手で持ち上げ、そしてその頬に口づけした。それに喜ぶルーシェが両手を広げて喜びながら首に手を回して抱き着いた。アベルに抱き着いておきながら、現金なものでその視線はすでにテーブルの上へと向けられ、並べられている数々の料理に目を輝かせていた。同じようにテーブルの上にあるものを見ると、あら、とウルが声を零した。
「中々珍しいものもあるわね?」
「今年は特別な年だから、とガルティアやノスから多少押し付けられた。恐らくアレに関してはノス経由だがたぶんマギーホアからだろうな……」
「お父さん、未だにアベル君に会おうとしないものねー」
「仕方があるまい。ルーシェのことに関してはもはや馬鹿爺の一言で済ませられるが、それでも奴と俺の間には埋まらない溝がある。平和に相対するのは生きている間は無理だろう」
「仕方がないとは思うけどいつかはどうにかならないものかしら……」
テーブルの上には一際、異質な輝きを見せる果物や、まるで彫刻の様な菓子が置かれてある。そんな物をノスというドラゴンが用意できるとは思えない以上、アベルはそれをマギーホアが孫娘のためにどうにか調達したものだと確信していた。そしてウルもまた、マギーホアの孫かわいがりを考えるとありえなくはないだろうと思っていた。ただ一人、昔のマギーホアを知らないルーシェにとってマギーホアは、いつも可愛がってくれる優しいお爺ちゃんだった。
その事実を地獄の閻魔が知れば、きっとその事実だけで閻魔は笑いで窒息するだろう。
そんな大人たちの事を無視し、テーブルを眺めていたルーシェがアベルへと向き直った。
「あ、パパ、しゅわしゅわ買った?」
「あぁ、なんか知らないうちにいろいろと増えてたからな……適当にいくつか買ってきたぞ」
「やった!」
森の中では手に入れることのできない炭酸のジュースは、この時だけ飲むことのできるルーシェにとってのごちそうの一つだった。普段から美味しい料理を作ってくれるウルには何も文句はなかった。だがあるいは、女の子の本能的な部分で、健康からはかけ離れたジャンク的な甘さや面白さみたいなものを求める部分があった。
そして誕生日、それは森の異郷から出ることのないルーシェが唯一それを口にすることができる日であった。
アベルの腕の中から抜け出したルーシェがスカートが翻るのも気にせずにテーブルに両手をつき食い入るように並べられたそれを見つめ続けている。それに即座に飛びつかないあたりは、彼女の育ちの良さを表している。だがまるで尻尾が揺れているのを幻視できそうな姿に、アベルとウルは並んで手を繋いだまま、微笑んだ。
「……それじゃあ、少し早いけどルーシェちゃんのお誕生会を始めちゃおうかしら?」
「もう待てなさそうだしな、そうするか」
「……!」
その言葉にルーシェが勢いよく振り返る。少女の両目が期待に爛々と輝いてるのをアベルとウルは見てから、口を開いた。
「―――ルーシェ、
その言葉に少女、ルーシェ・カラーは満面の笑みで答えた。
「ありがとう、パパ、ママ!」
あらゆる俗世、外界の争乱、混沌から切り離され、
そこは―――楽園だった。
ルーシェ・カラー、登場。
完全なる不老であるドラゴン・カラーと、そして死を超越した暗黒竜アベルの間に生まれた恐らくは唯一の純粋なドラゴン・カラー。
主役交代の時だ。