ママは、物知りで優しく、綺麗だ。
「……こう?」
「うーん、もうちょっと指を丸めて……うん、そうそう」
猫の手―――と、ママは言う。指先を丸めてそれを野菜に乗せ、ゆっくりと包丁を下ろして切る。指を切らないように、気を付けながら一回一回包丁を下ろしてママに料理の仕方を教えてもらう。ママはいつも、おいしい料理を作ってくれる。お家の裏では菜園もある。ママが、そしてたまにパパが手伝っている菜園でとれた野菜や果物を包丁でカットして簡単なフルーツサラダの作り方を教えて貰っている。
お手本を見せてくれるママの手つきは丁寧で、綺麗だ。躊躇がなく、ほとんど流れ作業のように簡単にやっている。そこには何度も何度も繰り返してきたからこそ染みついた動きというものが見えた。
それを真似してみようとすると、自分の指を切らないかどうかが少しだけ、不安になってくる。だからちょっとだけ、躊躇してしまう。だけどママは、そんなこっちの様子を見ながら微笑む。
「少しぐらいなら指に当たっちゃっても大丈夫よ。何せ私たちの体は頑丈よ。ただの包丁や武器じゃ傷をつける事は出来ないんだから」
「でも……なんか、失敗したくない!」
「そうね、出来たら失敗しないほうが良いわよね」
ママを見上げながらそう返すと、頭を軽く撫でられた。暖かく、優しいママの手の熱を感じる。こうやってママに撫でられると安心するし、心が落ち着いてくる。ずっと、こうやって撫でられていたいと思っちゃう。だけどそのまま眠ってしまいそうで、ちょっとだけ時間が勿体ない。だから軽く手をずらすように視線を上げる。見下ろすママの顔が見える。
「でもね、ルーシェちゃん。失敗は大事なのよ」
「そうなの?」
えぇ、とママが頷く。
「失敗しないと何が悪いの、というのが解らないわ。だから失敗して、ちょっとだけ苦い思いをして、それでそこを治すのよ。だから失敗を恐れないで。取り返しがつくときに、失敗しちゃえばいいのよ。……まぁ、失敗すると恥ずかしいのは変わらないけどね?」
「むぅー」
小さく笑うようにママが告げた言葉に少しだけ頬を膨らませたりする。だけど、失敗してもいいんだよ。その言葉は少しだけ心を楽にしてくれる。そうだ、包丁で指を切る事なんてないのだから、失敗する心配はいらない。もし、切っちゃってもすぐに治る体だし。
だけど、ママの前で失敗するのはちょっとだけ恥ずかしい。
いつも優しく微笑んでくれるママは、私の理想の姿。いつもみんなをぽかぽかと太陽の照らしてくれる。そんなママの前で失敗するのはちょっと、心が苦しいかもしれない。
だけど、
「失敗を……恐れない」
自分に向かって呟きながら再びキッチンのまな板へと向き合いながら、包丁を手に取ってカッティングを再開する。
ママは優しくて、色々と知っている。
いつも、こうやって私に知らないことや新しいことを教えてくれる。そうやって自分の知らない事、出来ないことを一つずつ知っていくことが楽しい。
だけどそうやって、新しいことを一つずつ知るごとに、
どんどんと、膨らんでくる気持ちがある。
包丁で指を切らないように気を付けながら、視線を前に向けたまま、ママに質問するために口を開く。
「ねぇ、ママ」
「何かしらルーシェちゃん」
うんとね、と言葉を置いてから、
「―――ママ、こういう事も《外》で習ってきたの……?」
「うーん、そうねー」
ママは、《外》の話になると少しだけ渋る。それでも一瞬の事で、ちゃんと答えてくれる。
「そうね、ママも昔はよく旅をしたわ。色んな所を見て、感じて……そして旅をしている間に自分で勉強したりもしたわねぇ」
「旅……」
旅―――それはかつて、ママが経験した事らしい。いろいろと土地をめぐって、知らない事を知って、それを楽しむ。大変かもしれないし、楽しいことばかりじゃないかもしれない。でも旅をしていたころの話をするママの表情は、いつもどことなく楽しそうだった。それをいつも眺めるボクとしては、
すごく、気になってくる。
旅の事が。外の世界を歩き回る、という事の楽しさを。
その経験を得たママが、羨ましい。
「ママは誰かに教わったりしなかったの……?」
「そうねぇ、ママはたぶん人類で一番最初にお料理した人だからねー」
「えー、それは絶対嘘だってボクでもわかるよー!」
「嘘じゃないわよ? まぁ、その後はコックさんや旅先でお勉強させてもらったりしたんだけどね。ママ、これでも結構練習とお勉強し続けるのは得意なのよ」
「ママはがんばりやさん!」
いつもいつもボクとパパのために料理、洗濯、掃除、庭の手入れ、菜園の世話、そして僕のお勉強まで見てくれているママは、一日中忙しくしている。なのに一度も疲れたとは言わないし、ボクと遊んでくれる。
本当に大丈夫かな? と思うときもあるけどママはいつも笑顔で大丈夫だって言ってくる。
そんなママだから、いつかこの大変さを軽くしてあげたい。
力になってあげたい。そうなる為には早く、大人になりたい。
でもどうやったら大人になるんだろう? パパもママも、そのうち、時が来たら大人になれるといつも言ってる。だけどその時はまだ、来ない。ボクの何かが足りないのだろうか?
「だけどそうねー……ルーシェちゃんも、色々と憧れる年ごろなのかしら?」
「ボクはいつもパパとママに憧れているよ?」
「そういう事じゃないんだけど……うーん、そうねぇ……」
ママはそう言うと首を傾げる。少しだけ考えるように言葉を止めてから、
「でも……ルーシェちゃん、何時かは旅に出たいのよね?」
「うん!」
旅! かつて、ママが世界を歩いたように、ボクも世界を歩いて回りたい。パパとママが出会ったこの世界を見て回るんだ。そしてまだ知らないいっぱいいっぱいを知りたい。そのためにはやっぱり、大人にならないとダメなんだと思う。だから早くなりたい。
大人に。
「そうね……ルーシェちゃんがもう少し大きくなったら、ママもルーシェちゃんの旅に出る許可を出すわ」
その言葉がうれしくて、ママの顔を見上げると、そこには少しだけ、寂しそうなママの表情が見えた。寂しそうに、
「そうね……何時かは旅に出るものなのよね……」
「ママ……?」
どこか、遠くを見るようなママの視線は、まるで魂がここにないような気がして……少しだけ、不安になった。だから、両手でママのエプロンを掴んだ。そして大きく笑みを浮かべた。
「大丈夫だよママ! ボクの一番好きな場所、帰る場所はここしかないから、ずーっとママの娘として絶対に帰ってくるよ! というかママも一緒に旅をしようよー!」
その言葉を聞いて、ママは微笑んでくれる。
「そうね……えぇ、そうね……旅は始まり、そして終わるものよね……」
そう言うママはどことなく納得しながらも寂しそうだった。何かに、困っているんだろうか? こんなにも綺麗で、なんでも知っていて、すごいのに。ママでも困るようなことがあるのかもしれない。
なら何時か、大きくなったら、大好きなママの力になってあげたい。
そう思いながら、ボクは今日も努力する。
「だからパパー! 早く大人になりたいからボクにまた《外》のお話してー!」
「全く因果関係を見いだせない気がするんだが……」
パパはそう言いながら優しいから持ち上げて膝の上に乗せてくれる。居間のソファは結構大きいし、皆で並んで座ることができるぐらいの広さはある。ボクだけなら寝転がっても余裕。だけどやっぱり、ママとパパのお膝の上に座るのが一番良い。
確かにソファの方がふかふかで気持ちいいんだけど、やっぱりパパとママのお膝の上に座るのが一番落ち着く。だからパパの膝の上に座って、背中に寄りかかりながら上を見上げると、パパの顎がちょうど額のところにやってくるので軽く頭で顎をつつく。
「楽しいか?」
「うん!」
「そうか……」
子供は良くわからないなぁ、とつぶやきながらパパは頭を撫でてくれる。パパの手はママのと違って大きくて、そしてちょっと硬い。だけど頭を撫でてくれるときはママよりもすごく慎重に、ゆっくりと触ってくる。
パパは、あまり喋ろうとはしない。
喋る事が凄い不得意らしい。こっちから話しかけないとパパはいつも言葉に困っちゃう。でも、こっちから話しかけるといつもちゃんと答えてくれる。
パパは不器用だってママが言ってた。
ちょっと、わかる。でもパパが優しい人だってことは、ボクが良く知っている。だからパパの事はママと同じぐらい大好き。それにこうやってお願いすると、パパは少しだけ頑張ってから、
「……解った、少しだけだぞ」
「やったー!」
こうやって、お願いを聞いてくれる。ママは昔のパパはもっと不愛想だったというけど、本当にそうなのだろうか? ボクが知っているパパは確かにすごーく解りづらいけど、微妙に表情を動かしているのがわかる。今のパパとか、なるべく表情を変えずにいるけど笑顔なのが自分には解る。ママも、パパの変化はすぐに解っちゃうからパパも隠すだけ無駄だと思う。
だから、
「お話してー!」
「解った、解った。なんの話が良い」
パパには、ママよりも甘えちゃう。ママは助けてあげたい。だけどパパはいつもかっこつけて、良く外にお出かけしている。だから家に帰ってきたらめいいっぱいボクの方から構ってあげるの。
「外の生活! どんなものがあるの? どういう風に暮らしてるの? みんなは何を食べて生きてるの? ボクもっと知りたい!」
「む……そうだな……」
パパは良く、外に出る。私とママがこの森で生活している中で、どうしても足りないものはパパが買いに出たりしている。その時にいろいろと持って帰ってきてくれる。だけど一番のお土産は、外の世界のお話だ。パパがいつも持ってくるお話は自分の知っている森の中の世界とは全然違っていて、すごく気になる。
「今、というよりここ100年で外の生活水準は大幅に上昇したのは知っているな?」
「うん! せーま教団っていうのが人類を統一したんだよね!」
「そうだ。カラーとドラゴン、JAPAN、後はホルス。それだけが聖魔教団に恭順していないが、それ以外の全ては闘神M・M・ルーンに従っている世の中となっている。そしてこの100年間、常に魔軍と戦い続けている」
「魔王とーばつをルーンって人がしようとしているんだよね?」
「あぁ、その為に聖刀日光をどうにか手に入れたらしいが……まぁ、ここら辺の話は血生臭い。飛ばそう」
「うん」
ボクも、あまり戦いのお話とかは好きじゃない。なんでみんな、仲良くできないんだろうなぁ? といつも思ってしまう。戦っていることよりも一緒に歌って、料理して遊んでいる方がずっと楽しいのに。
「聖魔教団の高い科学力の影響で高い生活水準を手に入れた各都市では高層建築が始まっている。元は浮遊都市を作成する計画だったらしいが……まぁ、カラーとドラゴンの協力を得られなかった影響だろうな」
「みんな、どんなもの食べてるの? 普段は何をしているの?」
「食べ物は……なんだったか……ビタミン剤? ひたすら毎日鉄兵の材料を生産していたな……」
「えー、なにそれ。楽しくなさそう」
「そうだな……楽しくなさそうではあったな。だから聖魔教団の話はこれまでだ。次は北の大地で見た光のカーテンの話をしよう……」
「なにそれ!? パパそんなものを見たの!? ずーるーいー!」
「お前も旅に出れば、何時かは見られるさ……綺麗な世の中を」
「うん……うん……!」
パパの話を聞けば今の世界を見るのが楽しみになってくるし、ママの話を聞けば過去、何があったのかを知りたくなってくる。
世界にはいっぱい、ボクの知らない事やまだ見つかってないことがたくさんあるはずなんだ。それを自分の脚で、目で、確かめていきたい。
この森での生活に不満なんてない。毎日が幸せで、そして楽しい。だけど、その気持ちとは別に、
外へ―――外へ行かないといけない。
日に日にその思いが胸の中に落ち葉のように重なり、溜まってゆく。この思いはきっと旅立ちの風が胸の中に吹くまで溜まり続ける。だから僕はきっといつか、
―――いつの日か、旅に出るだろう。
ルーシェちゃんは、パパとママが大好き。
それが彼女にとっての世界。