一歩、一歩を踏み出す。
この一歩が果てしなく遠く、そして重く感じる。だがこれは確かな一歩だ。今までの自分が経験したことなかったことへの、未知への一歩だ。それを確かめるように確かな一歩を踏み出すように前へ、前へと体を押し出してゆく。最初は軽かった足取りが、森の終わりに近づいてくるたびに少しずつ重くなってゆく感覚は、純粋に自分の心に恐怖があるのだろう。未知への恐怖だ。今までは、ずっと解っていることばかりだった。知っていること、経験している事。そういうことばかりだった。だから進むことに恐怖を感じなかったのだろう。
だが今、初めてこの森の外へと向かって足を踏み出そうとしている。
未知である。それはつまり経験したことのないこと。その先に何があるのか、その恐怖は実際に経験しない限りは終わらない。だから今日、その恐怖を終わらせるために踏み出すのだ。この一歩目が自分の人生、そのすべてを変えるものになるんだと信じて。
そう、信じて。
一歩を踏み出す。言葉もなく、大きな一歩を。
森の木々が終わる、道の終わりへ。
森の箱庭から、外の世界へと向けて―――踏み出した。
踏み出す足は森の緑地から、土が剥き出しになった大地へと変わる。ブーツの裏から感じる大地の感触は森のそれとは違った固く、しっかりとした手ごたえが返ってくる。濃かった森の空気は薄れ、そして花や木々の匂いが遠ざかる。あれだけ穏やかだった空気は一瞬で乾いたような気さえした。その感触に自分がついに、森の庇護下から離れたのであったという事実を理解した。
「あっ……」
森を抜けて空が見える。乾いた空気が頬をなでる。
「これが……」
言葉を失い、涙が出てくる。やっていることはただ簡単に、呼吸することだ。全身で森の外を出ただけ。それで世界が劇的に変わったわけではない。景色が、変わった程度の出来事だ。だがその衝撃と言えば、言葉にはできない。心臓がバクバクとその存在を主張するように音を立てている。あぁ、うるさいほどに良く聞こえる。あぁ、でもしょうがないかもしれない。だってこの興奮は、
今、ここでしか味わえない。
この未知と遭遇した、初めて感じる感動は―――。
「これが、外の世界……」
美しいというわけではないのだが。それでもただ、存在している。それだけで十分だった。踏み出した事実は、自分が成長した証でもあり、この外の世界の広さはどこまでも自分が歩ける場所だった。この大地は、自分が知っている森よりもはるかに広い。この先にはたくさんの出会いが待っている。その事実がどうしようもなく自分の心を高揚させる。多くの未知が自分の前には存在する。
それを解き明かし、踏破し、自分の物語として歌にする―――これほど、楽しいこともない。
「ボクは、ついに外に出られたんだ……!」
まだ、森を出たばかりだし夜には森に帰る。だけどその森がすべてだった自分にとって、これはまさに大冒険でしかない。目の端を伝って落ちる涙を片手で拭いながら、前へと向かって歩き出す。最寄りの街へと行く方法は教えて貰っている。街道まではそう遠くはない。まずは街道へと出て、それからそれに沿って行けば良い。そうすればやがて、街へとたどり着く。
たどり着いたら……たどり着いたらどうしよう?
そんな事を悩みながら軽く感じる足取りを前へと急がせる。あぁ、いや、焦っちゃだめだ。この時間を楽しめないのは勿体ない。だから早くなる足取りを意識してゆっくりとしたものに落とす。それでもどうしても軽やかに、少しずつ速度が上がってしまう。
「ふふふ……はは……」
肌で感じられる未知に想いが抑えきれない。もっと遠くへ、もっとたくさん。冒険と未知を求めるように、走らないと決めていたのに走りだしてしまう。腰に下げているポーチと、背に背負うリュートが揺れて、その重みを感じながらも駆け出してしまう。街はどういう姿をしているんだろうか? どういう人たちがいるんだろうか? 何を食べているんだろうか? 冒険者と呼ばれる人たちは本当にいるのだろうか?
話だけで聞いていて、実際に見たことはない数多くの出来事や物事。
それをようやく、自分の目で確かめられる。
「よぉーし! やるぞぉー!」
声を出して響かせながら、堪えきれない笑い声を飛ばして疾走する。街までは二刻ほどかかるという話だったが、この調子だとそれよりもはるかに早く到着してしまいそうだった。それが解っていても足を止めることができない。
ただただ、この走って大地を靴の裏に感じる瞬間が楽しかった。
「あ」
足を止める。
そうだ、思いついた。その考えと共に背に背負っていたリュートを取り出し、走るスピードを一気に落としながら両手でリュートを手に、その弦を指で弾いて音を作る。今感じる気持ちを表現するように、音を一つ一つ確かめてゆく。そうやって生まれる音を重ねながら、音を風に乗せて混じらせる。そのために足を止め、空を見上げながら、笑い声をこぼして再び歩き出す。ボクの冒険の第一歩は、たった今ここで始まったのだから。それを噛みしめるように、自分の心が赴くままに進んだ。
そうやって、旅に出た娘の姿を見送った。
常に守られてきた雛鳥が、初めてその巣の外に出る。大事に、大事に育てられた彼女は漸く世界の広さをこれで知ることができるだろう。そしてそれを一度知ってしまえば、二度と同じものには戻れない。大地と空の広さを知ってしまったルーシェは、これから導かれるように、はるかな大地の果てを目指して何度も何度も旅に出ていくだろう。自分から未知を求めるその姿勢はうれしくも、寂しいものを感じられた。いよいよ、ルーシェの幼年期の終わりがやってきたのだ。ルーシェは自立する一歩手前の所に来ている。まだ殻を被った雛鳥だと思っていたのも少し前のことだ。
魔王の息女、ホーネットとの交流には少しだけ不安を覚えるも、双方に良い方向に影響を与えてくれた。果たして彼女が血の記憶の衝動に抗えるのかどうか、それはいまだに自分には解らない事ではあるものの、少なくとも未来を信じないまま生きてゆくのは辛い。
人は、己は、何かに縋り、信じて生きてゆくものだ。
何も信じず生きることは、死んでいる事に等しい。
「……行ってしまったな」
「そうね、行っちゃったわね」
自然と覚える寂しさからそんな言葉が口からこぼれてしまった。これはまだ最初の、予習とも言えるものだ。今夜にはルーシェが帰ってくるだろう。だがその慣らしを終わらせてしまえば、次は本格的な旅に出るための準備に入るだろう。親の目から見ても、今のルーシェが旅に出ることに問題はなく見える。多少のトラブルも、彼女が持ち合わせる力と知識でどうにかなる範囲だろう。それこそ、魔王が今すぐ殺しに来ない限りはどうとでもなる。少なくともそれだけの力はある。そういう風に容赦なく鍛えてきたのだから当然の事だろう。
だから、帰ってきたら半年以内にルーシェは本格的な旅に出るだろう。そして長命な種がそうであるように、あいまいな時間間隔に任せて数十年、と帰ってくる事もなく放浪するに違いない。そうなるとこちらから会いに行かない限りはルーシェの姿を見ることもできなくなる。
それを考えると、本当に辛い。
……自分も、そういう風に考えるようになって長くなった。まさか、娘の親離れよりも親の子離れのほうが問題になりそうだとは思いもしなかった。だが決して、悪い気分ではないのだ。むしろ、こうやって育てた子が世に飛び立てる事、
その誇らしさの何たることか。
だがルーシェの幼年期が終わるということは、親としての自分たちの役割が終わるという事でもある。もはやルドラサウム大陸はかつてとは違っている。その
それを見て回るような時間の余裕は―――ない。自分も自分で、やるべき事がある。そのための時間が必要だ。ルーシェが旅立てば平穏の時間は終わる。それからはこの世界の未来を決める為の旅が始まるのだから。そのために自分が出来る事はすべてなさなければならない。
再び、家族全員で集まれるように。
「ルーシェにもたくさん、友達が出来ればいいのだけれど……」
「できるさ。あの子は俺と違って明るい子だ。すぐに誰とでも打ち解けられる。そういうところに天性のものを持っている」
「そう……そうよね。心配は必要ないわよね」
ウルとともに森の中から、街道へと出た娘の姿を眺めていた。そろそろ距離が離れ、飛ばないと見えなくなってくる。だがそこまで過保護に見守ったところで、ルーシェの助けにはならない。彼女はこの先、一人で生きてゆく時間が増えるのだ。だから、いつまでも手を出して助けている訳にはいかない。
「……」
「アベル君? もしかして寂しがってる?」
「……そんな事はない」
直ぐに否定するが、面白がるようにウルが近づいて片腕で抱き着いてくる。少しだけ恥ずかしく、視線を逸らすも心を見透かされるように手を握られる。いや、まぁ、確かに寂しさはあるのだ。だけどそれを顔に出していたのでは俺らしくもない。それだけの事なのだが、
「顔に出てたか?」
「私なら解る、かな」
「ならいいか」
自分の女ぐらいには、弱さを見せてもよい。今は素直にそう思える。だからこそ、握るウルの手に少しだけ力を込める。今更、なんていえばいいのだろうか。彼女と過ごしてきた時間は、長い。だが全体からすればほんのわずかな時間だろう。もっと早く、この想いや気持ちにたどり着けていれば、と思わなくもない。
だが己の過去に後悔を抱くことはない。
今までがあり、その間違いがあったからこその結末だ。ここまで自分がこれたのは全て、これまでの積み重ねだ。一つでも違えばここに到達することもなかったかもしれない。そう考えれば、自分の過去は間違っていたとは言えない。
だから思う。
自分の人生をやり直せたとして、
俺は絶対に、同じ過ちを繰り返すだろうと。
だから、
「ウル―――」
愛しい人の名前を呼んで、視線を向けて、
―――
「ウル!」
急いで両手で確かめるように抱き寄せる。腕の中で、消えないように強く。腕の中にある感触は確かにあって、そして再び確認する姿は半透明ではなくなっていた。片手で頬に手を当てながら、感触をもう一度確かめる。視線の先でウルが困ったように笑みを零した。
「大丈夫よ、アベル君。えぇ、まだあの子を送り出さなきゃいけないのだから。それまでは気合で持たせるから」
「いきなり、そんな姿を見せないでくれ。俺は……」
「解ってる、解ってるわ。でも全部、あの子が生まれてくる時に決めた事よ……そうでしょ?」
「……っ」
そうだ、ウルの事はルーシェが生まれる為に話し合って決めた事だ。最初から
だが、
それを全て、完全に飲み込める訳でもない。
「信じましょ、あの子を……あの子が決める未来を」
すでに覚悟を決めている妻の言葉に黙ることしかなく、彼女の言葉に目を閉じて弱音を押し殺す。そして目を開き、森の外へと視線を向ける。
果たして、我らの娘は今、何をしているのだろうか。
彼女の初の道行き―――それが幸に満ちていればいいのだが。
その頃、ルーシェ・カラーは街道で手帳を広げた状態、片手にペンを手にしてその中に旅の記録を書き込む様子を完全に凍り付かせながら停止していた。その視線は目の前、街道に転がっているものへと向けられており。その対応が脳のキャパシティを超越していたが故に、最初の冒険を続けられずにいた。
「おぉっと、そこの道行く素敵なレディ。あぁ、いや、レディと判断したのはただ単純に俺がそうであったらいいな、と思っているからだ。ほら、常に希望を胸に足を進めよと言うものだろう?」
言葉を発するのは人の姿。顔面から街道に倒れながら、小粋なトークを披露する姿は、そのまま起き上がらず、顔面を街道にたたきつけた状態のままでルーシェへと語りかける。
「いや、まぁ、その足が今の俺にはないんだがな。はっはっはっは」
男の言葉の通り、足のあるべき部分は喪失しており、傷口から血ではなく闇のようなものが漏れ出していた。その常識に当てはまらない姿に、ルーシェは完全に停止し、しかし外の世界ではこういう人たちが普通なのかもしれないという新しいインプットを入力していた。
「え、えーと……大丈夫……ですか……?」
「なぁに、希望を歩むための足がなくなっただけだ。とはいえ、このまま突っ伏しているのも辛いので出来たら俺の足を奪って逃げたハニー達から足を取り戻して欲しい」
「え、えぇ……」
アベルとウルが未来と娘への思いにはせていた頃、ルーシェは足を盗まれた不審者と遭遇してた。
ついに、ご近所のお散歩が解禁! いやぁ、完全無欠のハッピーな展開ですよこれは!