―――それから二か月間、ルーシェは本当に真剣に準備した。
余程、最初の体験が楽しかったのだろう。それからは何度も何度も地図を見直しながら移動ルート、どこに寄るのか、何を用意するのか、どうやって運ぶのか、そういうのを真剣に考える様になってしまった。今までは漠然と、夢を追いかけるだけだったルーシェの姿が、現実を見て行動する為の姿へと変わっていた。彼女はそこに助けを求めようとする事はしなかった。自分が出来る事は自分でできる範囲でやって、少しずつ準備を積み重ねて行く。それは今までの百を超える年数の気が遠くなるような積み重ねではなく、現実的な、人らしい積み重ね方だった。
ルーシェが成長し、巣立ってゆく。それが今、形として見え始めていた。そして実際に巣立つときはもう、目前まで来ていた。ここに来るまで物凄い長い時を過ごした。自分が主役として時を駆け抜けてきた。それが何年も何年も何年も。
死ぬことを恐れ、負ける事を恐れ、自分を失う事を恐れ―――本当に、長い時を過ごしてきた。だけどそれも徐々に変わっていった。思い返せば自分の旅路は多くの出来事で溢れている。多くの出会いで溢れている。そして忘れられない出来事で溢れている。それらすべてがあって……今のウル、と言う存在が出来上がったのだろう。そう思うと途端に懐かしさを感じ、そしてそこに老いを感じられた。思い返すほどに過去を積み重ねてきたことの証でもある。だけどそうやって思い返すようになってしまえば、もう終わりだ。
ウル・カラーの物語はエンディングに来ている。それを誰よりも自覚しているのは自分自身だった。そしてそれで良い、と思っている。
未知を知って、冒険して、大陸を端から端まで歩いて渡るのは忘れられないほどに楽しかった。今やっても同じく楽しめるだろう。だけど、
それ以上に、娘に、ルーシェにこの楽しみを知って欲しい。解って欲しい。覚えていて欲しい。自分自身が心の中からそう思える様になってしまったのだ。冒険ではなく、心が安寧を求めている。自分が前に出るのではなくそれを送り出す姿の方が安心感と楽しみを覚えている。それを感じて、自分がもう時代を引っ張って行く時は終わったのだ、と言うのを心の底から感じ取っていた。そしてルーシェの成長と、彼女がこれから通って行く旅路で覚える事が楽しみになっていた。
こうなってしまえば完全におしまいだ。
もう、私は―――主役に戻れない。
世代交代の時が来た。これまでかぶっていた主役の冠を、娘へと手渡して、その姿を見守る時が来たのだと認めなくてはならない。
そうやって見守っていた娘は大きく育ち、夢を見て、現実を知りながら前に進み、そして少しずつ少女から女へと変わる、その狭間に立った。それから更に大人の女性になるまでには長い時間を必要とするだろう。だけど間違いなくその一歩目は踏み出している。これからを生き抜いてゆくだけの力を既にルーシェは身に着けていた。もう、その事に不安はない。
だから、ルーシェを応援した。
次の旅は、本当に旅立ちだ。次旅立てば本格的に大陸を渡る為、当分の間ルーシェが家に戻る事はないだろう。そしてそれもルーシェは重々承知で、準備を進めている。
そんなルーシェの姿を日々眺めながら、家族と共に時間を過ごして、
―――私は、終幕を感じ取っていた。
そして、二か月が経過した。
「うーん―――良い朝!」
家の前、旅立ちの朝、その時。ルーシェは全身で喜びを表すように両手を空へと伸ばしていた。
旅装に全身を覆うマントとブロードフェザーハットを被り、ルーシェの額のクリスタルは見えづらくなっている。まだ世の中は乱れている為、近所でならともかく、ここから遠く離れている地へと行くなら余計な問題を起こさない為にもカラーは額のクリスタルを基本的に隠すほうが賢い。何よりも聖魔教団にはカラーのクリスタル、その価値が伝わっている。滅多な方法で手に入れる事は出来ないが、それでもその魔性の魅力に手を伸ばそうとする愚者はまだいる。だからルーシェの被るブロードフェザーハットはそういう意味もある。
だが一番重要なのは恰好で旅人だとわかる事だ。特に見た目が詩人染みているのが良い。吟遊詩人と言う職業は知恵のある人間でないとできない事だ。それ故に各地の情報を知り、詳細に話せ、そして知識を持っているから価値が解るだけの脳のある相手であれば、丁重に扱ってくるだろう。だからルーシェの恰好は基本的な詩人をベースとして旅装になっている。それに長旅をするから物もそれなりに持てるようにしないとならない為、自分で作った道具袋と指輪をセットで渡した。道具袋は中が異空間になっていて大量に道具を入れられるし、指輪を装着していれば魔力を通す事で道具袋から入れたものを手元へ転送する事が出来る様になっている。一種のバランスブレイカーだろう。
「ママ、どうかな? 似合ってる……?」
「もちろん似合ってるわよ。心配しなくても大丈夫よ」
「お前はどこに出しても恥ずかしくない俺達の娘だ、安心すると良い」
「うん!」
ワクワクを抑えきれないような表情を浮かべたルーシェは今にも飛び出して行きそうな気配をしている。楽しみで楽しみでしょうがない、という様子はまだまだ彼女が子供らしいところを表しており、本当の意味で育つのはまだまだ先になるだろうなぁ、と思わせた。だがそういう微笑ましい姿が見れて嬉しかった。本当にこの子は何もない状態から育った、私の子であるという事が感じられた。
私は―――母親としての自分を、この日まで真っ当する事ができたのだから。
前に出て、両手でルーシェの頬を掴んだ。軽く膝を曲げて、ルーシェとの視線を合わせる。
「良い、ルーシェ」
「うん」
「ここから外に出ればもう貴女は自由よ。それを私も、パパも止めはしないわ。だけどそれは私もパパも助ける事が出来ないという事でもあるの。ここを出て一人で旅を始めたら全て自己責任になるわ……解るわね?」
その言葉にルーシェはしっかりとした瞳で頷きを返した。もう心配する必要もないだろう。きっと、この子は自分の力を駆使して生き抜くだろう。そしてきっと、素敵な仲間や友達をいっぱい作り、楽しい彼女だけの冒険を繰り広げるだろう。それでも心配してしまうのは、この子が自分の娘だからだろう。
そう、私はちゃんとこの子を愛せた。心の底から、この子が何であるかを理解しながらその全てを背負ってちゃんと母親としてふるまう事が出来た。だからこそここまでたどり着く事が出来た。もはや原作、正史、そんなキーワードが全く意味をなさなくなった世界で、未来へと繋げる灯を生み出せたのだ。
だからこそ、この子が愛しくて、愛しくて、ただひたすらに愛しく―――その幸いを祈っている。
それが母親として、この子の為にできる事だから。
「良し、良い子ね。まずはクリスタルの森を目指すと良いわ。あそこにはお爺ちゃんもハンティ叔母さんもいるからね」
娘にキスしてから立ち上がって後ろへと下がる。それに合わせてアベルが前に出て、同じようにルーシェの頬にキスをして、数秒間、強く抱きしめた。きっと、アベルも寂しいのだろう。初めて得た子供、それが巣立ちの時を迎えるのだ。それを今のアベルが、寂しく思わないとは思えなかった。だからきっと彼も、一人の父親として成長してここに至ったのだろう。
それはきっと、本来の歴史と比べて良かったのかどうかは解らない。確実に救いはあっただろう。だけど意図してこの未来を求めたわけでもない。だけどこうやってアベルが父として娘に接する姿は……言葉にできない程嬉しく、心が温かい。少なくとも私は、自分の選択肢、選んだ道に後悔はない、とこの姿を見て断言できる。それだけの価値があるものだ。
「お前がどこに行こうとも、俺達の心は常に共にある……安心して一歩を踏み出すと良い」
「うん!」
抱擁を終えるとルーシェが一歩後ろへと踏み出し、それから数歩、森の外へと向かって歩き出して、足を止めて振り返る。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「あぁ、行ってらっしゃい」
手を振るルーシェに手を振り返すように見送り、森の奥へと向かう背中姿を見送ろうとして―――ルーシェの足が止まった。
「あら?」
「何か忘れものでもしたか……?」
アベルと並んで足を止めたルーシェを眺めていると、勢いよく振り返ったルーシェが此方へと向かって走ってきて、手を広げるとアベルとまとめて抱き着いてきた。
「ごめんなさい、後少し……後少しだけ」
抱き着いてそう言ってくるルーシェに対して小さく笑みを零しつつ、
「良いのよ、別に今日旅立たなくても。また別の日にしちゃう?」
試すように言葉を投げる。それを受けたルーシェはううん、と否定しながらゆっくりと離れた。
「今日行かなかったらきっと一生行けない気がするから……お土産期待してて! じゃあね!」
そう言うと今度こそ、振り切るようにルーシェが走りだした。今度は脚を止める事もなく、そのまま真っすぐ森の外へと向かって一直線、全てを振り切るように外の世界へと向かって―――旅立った。最後までその姿が振り返る事はなく、立ち止まることもなかった。彼女は今、この瞬間に私たちの庇護から離れ、一人の冒険者としてこの巣から去ったのだ。
またいつか、疲れた日には安らぎを得る為に帰ってくるだろう。だけどそれはここに留まる為ではない。今、ルーシェの世界はこの森の外へと向かって開かれた。彼女は今、この瞬間にこの世界の住人に、本当の意味で成ったのだから。
「……」
「……」
その姿が森の外へと消えて、街道に出たのを理解しても、しばらくそのまま、住み慣れた家の前で立っていた。アベルと共に無言のままルーシェの旅立ちに思いをはせて立ち尽くしていた。これで私たちは、その役割を終えた。いや、父と母の役割は永劫終わる事はないだろう。だが彼女を育てるという人生最大の大仕事はついに終わってしまった。その達成感と安堵が胸を包み、
同時に寂しさが胸を満たした。
「あーあ、終わっちゃったわね」
「そうだな……良き日々だった」
本当に、楽しい日々だった。
子育てに右往左往する日々。何を食べさせたらいいのかを調べて、今までやってこなかったことに手を伸ばして。会いに来たがっていたマギーホアや他の連中を追い出して。ルーシェに一つ一つ大事なことを教えてその情緒をゆっくりと育んで。
本当にここまで、長い道のりだった。
男としてのアイデンティティを捨てきれなかった自分が、女になって子供を授かってそれを育てて見送って―――本当に、一つの人生を駆け抜けた、という感触がここにあった。
「ふぅ―――これでもう、人生に悔いはないわね……」
目を閉じて、静かに呟いた。
「良し―――私のエンディングを始めに行きますか」
ルーシェが見えなくなった事で、母親から一人の女に戻る。役割は終わって、後はこの世界の未来は彼女次第だ。だけどこれは元々私の物語であり、私が主役だった世界だ。だとしたらそれにはそれで、相応しいエンディングがあるはずだ。これで自分の人生が終わってしまうのは、ちょっと許せない。
次の主人公を見送って静かに消えて行くエンド。
ファック、ファック、ファック! である。
「はぁ……やれやれ」
此方の内心を完全に見抜いているアベルは楽しそうにやれやれ、と呟くと家へと戻って行く。呆れ半分、しかしどことなく嬉しそうに見える姿に笑みを零しながら、自分の手へと視線を戻す。この体は今、三超神との約束を果たし、そしてその結果行ったことによって消えかかっている。ここにあるのはもはやウル・カラーと言う女の搾りかすの様なものだろう。だがそれでも、ウル・カラーと言う女である以上、静かに退場するという事は絶対に許されない。
そう、いつだって自分勝手に、派手に、我儘に生きてきたのだ。
だったら退場する時だって、そうでなければならない。誰の記憶にも鮮烈に、強烈に、しかし劇的に楽しく残るような奴でないと自分の物語のエンディングには相応しくない。
だとしたら人生の最後にやる事なんて決まっている。
着ている、家服に手をかけ、それを一息で脱ぎ去るように引きはがす。その代わりに魔法によって一瞬で身にまとうのは黒い衣装―――どことなく魔王の姿を思わせる黒い服装は過去に暴れまわる時に袖を通していた物。
もう、二度と俺、と自分の事を呼ぶことはできないが。
「
ウル・カラーのエンディングをここに開始する。
震えろ世界、これがこの世で一番好き勝手やってきたドラゴンの姿だ。
エンドロールが終わり、タイトル画面が出るまで主役は変わらない。