※この作品はR-18です。

DQ8 マイエラのきょうだい   作:ぽんぽんペイン

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トロデーンが不思議な力によって呪われたらしいという話を聞き、マルチェロは世界のことを知るためにニノに与することを決意します。
主な登場人物:マルチェロ、オディロ院長、ニノ大司教、フロレル(マイエラ孤児院出身)


決意

1

「今年もまた騎士団入団希望者が来たぜ。金持ちそうなのはいねえな」

ククールと仲の良いメルソーが、騎士団宿舎の窓から中庭をのぞいて言いました。中庭でマリオン他、数名の騎士団員が願書を受け付けています。

 

「どれだ? あー、親と一緒のヤツは金持ちだ。キョロキョロしてるヤツは冷やかしだな。友だち同士みたいなヤツらは、なんか勘違いしてる」

「へえ。ククール、見ただけでよく解るなあ」

「まあな。オレも随分、人を見る目ができてきたってわけだ」

 

「おい、何をしている! 上からのぞくなど品位に欠けるぞ。窓を閉めろ!」

「すみません……」

通りがかったマルチェロに叱られ、二人は肩をすくめます。

「ククール、明日の入団試験では剣の相手をしろ。メルソーは筆記試験の添削だ」

 

翌日の騎士団入団試験も無事終わり、今年度は15人の見習い生が誕生しました。

 

「また、人数の多いことで」

ククールもメルソーも、いつまでも下っ端として甘えている訳にはいきません。ククールは主に剣、メルソーは主に教義の指導に当たり、忙しい日々を送っていました。

 

* * * * *

 

「マルチェロか……?」

「はい。院長様、薬湯をお持ちしました」

マルチェロが院長の館を訪れたのは、短い冬が終わりを告げる頃でした。

 

「すまんのう。……わざわざお前さんが運んでくれるとは、何かあったか?」

マルチェロは、寝台の院長を抱き起こし、薬湯を手渡しました。このところ臥せっていることの多くなったオディロ院長でしたが、マルチェロの姿を見ると、嬉しそうに笑顔を見せました。

 

「トロデーンという国が、一夜にして滅んだそうです」

「なんじゃと?」

トロデーンはマイエラより北の大陸。トロデ王を拝した歴史ある王国でした。

「どういったわけか、まだ噂にしかありませんが、城にはイバラが生い茂り、まやかしにあったように人がいなくなったと」

「市民はどうじゃ?」

「城下の者は恐れおののき、トラペッタから出るものはおらず、リーザスやオークニスなどに親類縁者を頼るなど、他国に避難したものもいるそうです。城の入り口は閉ざされ、周辺には魔物が住み着き、近づく者はいないそうです」

「噂と申したな、マルチェロ」

「はい。カミーユ殿が聞いたものです。……真実はわかりません。」

院長は、真実……と小さく口にした後、薬湯をゆっくりと飲み干しました。

 

「他国のこと。いたずらに騒ぎ立てぬように皆に目を配っておくれ。アスカンタもあの状況、サザンビークが何かしらの動きを見せぬ、とも言えぬ。トロデーンとサザンビークには昔からのつながりがある。それが今一時的にでも途切れたとなると……いや、サザンビークは慢性的に財政が厳しいはずじゃ。無茶なことはせんと思うが」

「念のため、事情を探りますか?」

「いや、その必要はない。お前さんはマイエラを守ればよい。何も心配せんでよい」

 

マルチェロは、オディロ院長の言った諸国の事情を同じように危惧していました。アスカンタの管轄下にあるこのマイエラ。アスカンタの脆弱性により、サザンビークからの進行があるやも知れぬという不安は、昔からあったものでした。

一方のサザンビークは、トロデーンと姻戚関係を結ぶ予定があることが数代前から言われています。サザンビークの王太子チャゴスとトロデーン王女のミーティア。この二人の婚約は産まれた時から決まっているということは、わりと広く知られていました。

 

トロデーンは北の世界に君臨し、緯度のわりには気候に恵まれ、さまざまな資源を持つ豊かな大国。また市民に開かれた王室でありました。

それに対し、サザンビークは砂漠地域を抱え、更に地形は山がちであり、農林業などは盛んではありません。食料は各国からの行商人によってもたらされ、外国人が多く訪れます。また、世界最大のカジノであるベルガラックが管理下にあり、都会的な大国です。しかし産業は少なく、国力の割には貧しさの見える国でした。

 

それゆえ、サザンビークにとっては、是が非でもトロデーンと姻戚関係を結びたい。物資の出入りがこれまでとは違うものとなり、更に豊かになるであろうと。

 

「トロデーンが無力となると、サザンビークはトロデーンを併合するでしょうか?」

「いや、それはないであろう。主なき城を強奪することは許されん。恐らくは、サヴェッラが介入することになろうのう」

「サザンビークが強行するということはないでしょうか?」

「ないはずじゃ。万一、トロデ王他王族が見つからず、市民も暴動にでもなるようなら、一時的にサヴェッラの管理下に治められ、のち、サザンビークのものとなろう。故に今、サザンビークは行動を起こす必要はないのじゃ」

 

マルチェロは、何やら思案げに下を向きました。

オディロ院長は、「マルチェロや、何も心配せんでよい」と言い、マルチェロに支えられながら寝台に横になりました。

 

 

マルチェロが院長の館を辞し、一人になった院長は、マルチェロに「何も心配してはならん」と言えば良かったと思いました。世界情勢についてあまり深く考えさせたくはありませんでした。院長は祈ります。どうか、あの子が道を誤らぬように……と。

 

 

一方、団長室に戻ったマルチェロは混乱していました。

 

──何だ、この胸騒ぎは……。一夜にして国が滅びるなど、あり得ん。調べるべきだ……。しかし院長様に探索を禁止された。……違う、そんなことではない。そんなことでは……。

 

マルチェロは、何かが足音を立てて自分の背後に近づいてきているのに気づいていました。それは、振り払おうとすればするほど心をざわつかせ、最後はククールの姿になって襲ってくるのでした。

 

 

──早く、あの男を追い出さなければ。言い様のない不安に飲み込まれてしまう……。

 

 

「団長どの、書簡です」

トロデーンのことがマルチェロの耳に入ってから1月ほどたったある日のことでした。マルチェロの元にある書簡が届いたのです。

 

「……マルチェロ殿をサヴェッラにご招待致したく、ここにご案内申し上げます……。お迎えは……」

マルチェロは、署名が書簡の差出人と違うことに気づきました。

 

──差出人名は恐らく偽名。署名の人物……何故、オディロ院長様を飛び越えて私に直接……。

 

マルチェロは、書簡を持って院長の館に向かいます。この時、忍び寄る足音はすでにマルチェロの背中にぴったりと張り付いておりました。

 

2

マイエラ修道院のオディロ院長は、高齢のため、修道院の仕事のほとんどを聖堂騎士団長にまかせておりました。

加齢による気の弱さからだけでなく、院長は本当にマルチェロを信頼していました。

 

院長は、隠居が許されるならば隠居し、マルチェロに院長の地位を継がせようとも考えています。

──それには、世の理をもっと知らねばなるまい。もっと早く、法皇に目通りしておくべきだったか。

 

ある日のこと、明るい日差しの下、院長はマルチェロを呼びました。院長は、今日は体調が良いということで、マルチェロが散歩に付き添うことになりました。2人は川沿いの薬草畑を歩きます。

 

「のうマルチェロや」

「はい」

院長は歩を止め、ゆっくりと空を見上げました。マルチェロもそれに倣います。

 

ツバメでしょうか、音もなく空を切り、院長の館の方へ飛んでいきました。

雲ひとつない青空。

あまりの無垢に、マルチェロの心が痛みます。

 

──曇りのない瞳で天使が自分をのぞきこむ。空いろの瞳が私の瞳に映りこむ。無垢は容赦ない。待つこともしない。穢れない純真は、人の複雑な心理に即座に流れ込む。私は、それに耐えられん。

 

マルチェロはそれと気づかれないように、視線をそっと院長の館へ向けました。

 

「今年もツバメが巣を作ったのでしょうか」

「そのようじゃ。毎年やってくるあのツバメらは、毎年同じツバメではないのじゃろうな」

「はい……」

 

──院長はすでに書簡に目を通された。私宛ての書簡。司祭以上の教会上級職の会議に、なぜ私が……。

 

「のうマルチェロや」

「はい」

院長はマルチェロに支えられ、切り株に腰をおろします。

 

「お前さんは素直でよい子じゃ。わしの愛し子じゃ」

「ありがたき幸せにございます」

「いつまでも、側にいておくれ。わしはもうそれほどは長く生きられん……いや、いいんじゃ、お前さんは何かにつけて『長生きしてくれ』と申す。じゃが、わしはお前さんより長く生きるつもりはない。わしが一生涯最後の望みはのう、マルチェロ、お前さんやマイエラの者たちに看取られて逝きたいということなんじゃ……よいよい、弱気になどなっておらん。人間誰でも死ぬ。わしは幸せのうちに死にたいのじゃ。……歳をくえばくうほど、欲が出てきて困るわい」

院長は、ふおっふおっふおっ、と笑い、マルチェロを見つめます。

 

「マルチェロ、お前さんは綺麗に澄んだ瞳をしておる。わしはお前さんに随分汚いものを見せた……あいや、否定するでない。マルチェロ。綺麗な物だけを見て生きることなどできん。じゃが、我々女神に仕える者は、万物の中にある綺麗な物を探しておる。万物に女神は慈悲を与える。女神の加護を求める者には必ず、慈悲が与えられるのじゃ。さすれば、万物みな、汚れなき物なのじゃ……マルチェロ、この教えをねじ曲げてはならんぞ」

「はい」

 

マルチェロは一人、誓います。オディロ院長の言葉を胸に刻み、流されぬよう、取り込まれぬよう、百鬼夜行を縫い歩き、しかし身に余る栄誉を与えられぬよう、静かにマイエラに在ることを。そんなマルチェロの決心を院長は感じとり、女神に祈りを捧げます。

 

──この小さき愛し子に、永遠に慈悲を与えたまえ……我が身に代えて……。

 

ひばりが高らかに歌いながら、二人の頭上を一回りしていきました。

風がたてさせる音は、深くなり始めた木々の緑。そして耳に運ぶのは、騎士団のレイピアの音。

 

──そうだ。見習い生の稽古の時間だった。今年の見習い生は皆、真面目で良い者ばかりだ。剣の腕もすぐに上がろう……。

 

マルチェロは、幼い頃のことを思い出していました。あの時と同じレイピアの音。この音を聞くと、いつも初心に帰る自分を見つけるのでした。

 

「のう、マルチェロや」

「はい」

「お前さんの夢は何じゃ?」

「夢でございますか?」

突拍子もないことを聞かれ、マルチェロは困ってしまいました。

 

「夢じゃ。ああしたい、こうしたいとかあるじゃろう?」

夢……。そう言ったきり、考えこんでしまうマルチェロ。院長はその様子を楽しそうに眺めます。

 

「夢は……いつまでも、院長様とともにあることです。平穏無事な毎日を……」

マルチェロは言いながら苦しくて仕方があるませんでした。なぜかククールの顔がちらついて仕方がありません。

 

──あいつさえ。あの男さえいなければ!

憎悪がこみあげるのを、悲しい、と思うマルチェロ。

 

──私の心の平穏はいつ訪れるのか……。

 

「マルチェロ。愛せよ。汝の隣人を。ククールを。ククールはお前さんをその苦悩から解放してくれる人間じゃ。向き合わんで何とする。ククールは安らぎを求めておる。絶対的な存在を求めておる。ククールはお前さんを求めておる。もう少し優しくしてあげたらどうじゃ?」

「……お言葉ですが。……あの男が私を求めているとして……何故、私の望まぬことをいたすのか……。合点がゆきません」

「はっはっはっ! 反抗期じゃよ。遅めのな。ほっほっほ。愉快爽快!」

風がまたあたりの空気を動かします。随分気温が上がり、湿気の多いマイエラ地方も今日は高原のようでした。

 

「マルチェロや、お前さんはいくつになった?」

「26でございます」

「もうそんなになるのか。立派な大人じゃ。もう何処へ出しても恥ずかしくない。サヴェッラへ行くのじゃ。法皇には知らせておく。ただし、あの書簡の者には決して心を許してはならん」

「御意に」

 

オディロ院長はこの日、マルチェロに優しく何度も呼びかけていました。自分の呼びかけをどうか忘れないでくれるように、自分の言葉をどうか思い出してくれるように。

 

3

単身、サヴェッラを訪れたマルチェロは、書簡の差出人を探しました。その人物は、既に礼拝堂に入場していて、マルチェロが近づいていくとすぐに気づき、小さな体をできるだけ反らせ、威厳を見せつけました。

 

「しばらくぶりでございますな。マルチェロ騎士団長殿」

「この度は、このような上級職の皆様の会議にお呼び頂き……」

「よいよい。ところで、オディロ院長の具合は如何かな?」

「お気遣いありがとうございます。おかげ様で気候のせいか、このところは……」

「そうかそうか。それは良かった。さて、マルチェロ。実は貴殿の席はないのじゃ」

「は……?」

「すまんな。わしの従者ということで、控えてもらえないだろうか」

「申し訳ありません、お話の内容が私には……」

「すまん、すまん。よく説明していなかった。貴殿は騎士団長ではあるが、僧侶としての職を持たん。聖なる剣の職。どちらかというと兵士の立場じゃ。僧侶の職がないと参加できないというのを曲げさせられなんだ。あの法皇様も頭が固いことよ。しかし、伴の者ならば、一名、控えさせることができる。すまんな、マルチェロ。どうじゃ? 今は肩を並べることはできんが、わしの相談役として知恵を貸してはもらえんだろうか」

 

マルチェロは迷いました。もしかしたら、罠なのではないかと。しかし、この会議に参加したい、世界情勢がどうなっているのか知りたい。恐らく、話の中心はあのトロデーンのこと。サザンビークがどう出るのかを知りたい。そしてアスカンタは今、どういう内情にあるのか知りたい。王を拝さない、北の国はどういう統制をしているのか知りたい!

 

そんなマルチェロの欲求が、このサヴェッラへ来て初めて、自ら知りうることとなりました。

 

──私の夢は、世界を知ることだ。

 

マルチェロは、目の前の小男に頭を下げました。

「お供させて頂きます。どうぞ良しなに……」

小男は、ニタニタと品のない笑いを浮かべ、マルチェロの目の前に自分の持ち物を突きつけました。

 

* * * * *

 

「……トロデーンをわがサザンビークの管理下に治めることはできかねます」

サヴェッラ大聖堂では、各国の要人、上級の司祭、大司教が集まって、一夜にしてイバラの城となってしまった大国トロデーンについて話し合いが続いていました。

 

マルチェロは、数日前、オディロ院長が予想したような展開で話が進むのをじっと聞いておりました。ニノ大司教の控えとして同席を許されたマルチェロ。皆から向けられたの奇異の目にも全く臆することなく、ニノの後部で話し合いの成り行きを見守ります。

 

「サザンビーク大臣殿、何故じゃ? 姻戚関係を結ぶ予定もあるのじゃろう」

サヴェッラの重役に問われ、人の良さそうなサザンビークの大臣は少しも困った様子もなく、次のように言いました。

 

「……恥ずかしながら、今のわがサザンビークには、他国を吸収できるほどの余裕がありません。トロデーンに兵をおくるとすれば、国内の兵力が弱まります。それに、軍に持たせる物質が全く足りません」

 

──これは、サザンビークにトロデーンの始末をつけさせたいなら、軍備の援助をしろ、ということだ。

 

ほとんどの人の目がサザンビークの大臣に向けられている中、マルチェロは一人、アスカンタからの参加者を探しました。

 

──あれは大臣。そして司祭が二人。うち一人はカッサンドラだ。皆、特にどうする様子でもない。サザンビークの兵力が弱まったところを進行するつもりでもなさそうだ。

 

会場がざわついてきたところで、会議は翌日に持ち越されることになりました。

 

──ニノ大司教は何の発言もなかったが。思惑は……。

 

訝るマルチェロに構わず、ニノは席を立って他の教会関係者と話を始めます。マルチェロは慌てて後を追い、話が聞こえない程度の距離を保って控えました。

 

──ニノはアスカンタのカッサンドラとつながりがある。しかし今日は軽く挨拶をかわした程度だ。

 

マルチェロがあれこれ考えていると、ぞろぞろと会議参加者が大聖堂から出て行きます。

 

「おお、マルチェロ。待たせたな。今宵は法皇の館で晩餐がある。悪いが、お前は他の控えの者たちと一緒に宿へ行くように。明朝の会議にはまた同席を許す」

 

ニノは早口でそう言うと、マルチェロの前から姿を消しました。

 

「マイエラ聖堂騎士団長殿、こちらへ……」

サヴェッラの騎士団に案内され、マルチェロは他の付き人と共に、用意された宿へ向かいました。

 

* * * * *

 

「マイエラの騎士団長殿ですか?」

夕食の席で、隣についた人物が声をかけてきました。

 

「左様でございます」

「私はアスカンタの者です」

その人物は物腰やわらかく、品がよく、おっとりした話し方をする若い僧侶でした。

 

「ニノ様にお付きでしたね?」

「はい。貴殿は……」

「私は……」

少しうつむき、まだ幼さの残る顔が上がった時、誰かに似ている、とマルチェロは思いました。

「孤児院の……」

「マルチェロ様! 覚えておいでですか。嬉しゅうございます」

彼は、孤児院からアスカンタの貴族に養子としてもらわれていった者でした。

 

「元気そうで何よりだ。生活はどうなのか? 不自由ないか?」

「はい」

「そうか、それは良かった」

マルチェロより5、6歳ほど下のこの若者は、孤児院時代には薬草園などでよく働く、心優しい少年でした。学問が好きで、マルチェロと書庫で会うことがよくありました。

 

「マルチェロ様にお目にかかれるなど、夢にも思いませんでした」

「私もだ」

「法皇様の晩餐は、何時ごろ終わるのでしょうか」

「さあ。私もこのような会議に参加するのは初めてだ。勝手がわからんよ」

時折見せる穏やかな笑顔が、ようやくマルチェロに表れました。若者は心底嬉しそうに、切れ長の目を少し細めてその笑顔を受け止めます。まるで自分の心に刻みつけるかのように。

 

食事を済ませ、マルチェロは若者と散歩に出ました。

 

「月が明るいですね。……院長様や、皆さんはお元気ですか?」

夜が静かに二人を包みます。

二人は、マイエラでの昔話や、好きな学問の話しに花を咲かせました。

 

「更に博がついたのだな」

「お恥ずかしい限りです。まだまだ知りたいことがたくさんあります。あのままマイエラにいて、もっとマルチェロ様と学べたら、と思うことがあります」

「貴族の家に入ったのだろう、好きなだけ学べよう」

「それが、そうでもないのです」

小さくため息をついた後で、マルチェロに向けていた目を法皇の館へ向けました。

 

「教会の仕事か?」

「はい。主に……祈祷です」

マルチェロの眉間のしわが深くなりました。

 

「なんということか……」

「マルチェロ様、どうか、ニノ様にはお気をつけ下さい。どうか……」

そう言うと、嗚咽をこらえながら、マルチェロの前に膝まづきました。マルチェロは彼を起き上がらせ、手を取ります。

 

「オディロ院長様のお言葉を思い出すのだ。私も、お前も、院長様の愛し子だ。そして、女神により、浄罪の……」

「違います! マルチェロ様、浄罪ではありません。私は、私は……」

マルチェロは、自分を見上げるグレーの瞳に、増悪を見た気がしました。それは、ククールが見せる増悪に似ていました。マルチェロが黙っていると、彼は一度強く目を閉じ、ゆっくりと開きました。再び開かれた瞳は穏やかで、忌のきわの母の瞳をマルチェロに思い出させました。

 

「マルチェロ様、いつまでも、私は……」

切れ長の目尻から、真珠のようにきらめいた涙が、つっとこぼれました。

 

「レオン! レオン!」

誰かが呼んでいます。

マルチェロは、木の影に彼をかくまい、しっかり抱きしめました。

 

「レオン! どこにおるのじゃ?」

声は少しずつ近づいてきます。

マルチェロは、すすり泣きの顔を上げさせ、小さな唇に口づけを落としました。

 

「マルチェロ様」

「フロレル……」

 

「レオン! レオン!」

声はもうすぐそこまで来ています。

 

「マルチェロ様やククールに、フロレルと呼んでもらうのが好きでした……ありがとうございました。本当に……。もう、行きます」

「フロレル!」

 

フロレルは女神のような穏やかな表情を見せ、マルチェロの前から消えました。

 

 

翌朝、大聖堂にはフロレルの姿はありませんでした。

 

前日と同じように、ニノから少し離れて歩くマルチェロに、どこかの司祭の会話が聞こえてきました。

 

「……レオンは素晴らしい……」

「ほう、レオンとはアスカンタの?」

「実はニノ殿に少しはずんで、紹介してもらった」

「そうですか。彼は今?」

「どこかで休んでいると思う……今夜は無理だろう」

「貴殿、そんなにも?」

「いやいや、レオンがあまりにも素晴らしくて、年甲斐もなく……」

クスクスといやらしい笑いを上げ、二人の司祭は離れていきました。

 

──ニノ、どこまでも下賤な男だ。フロレルの家ともつながっているとは……。

 

フロレルを助けたい、と思いましたが、彼はもう貴族の家の者。教会上層部に売られているとすれば、マルチェロに手出しのできることではありません。

 

──地位が! 地位があればフロレルを守ってやることもできたのに……。

 

身に余る名誉を得てはならない……そんな院長の言葉も、今のマルチェロには思い出すことはできませんでした。

 

運命の扉が今、マルチェロの前に現れたのです。

 

──その扉は容易に開く。自分が手を伸ばしさえすれば、雑作もない。

夕べフロレルが見せた憎悪、あれを私は受け止めねばならない。

女神の加護で汚れが消えるはずがない!

 

マルチェロはその扉に向かってまよわず歩き出しました。

 




フロレル>フロレルはミドルネーム。レオンが正式名。マイエラの孤児院出身で貴族に引き取られているが、慰み者にされている。マルチェロに憧れている。2章でも登場します。

サヴェッラの礼拝堂には会議室や控室がある設定です。

次はマイエラにドルマゲスが来ます。第一章最終話になります。
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