主な登場人物:マルチェロ、マロウ(騎士団員・語り手)、フロレル(孤児院出身)、ニノ大司教
「メモしたものを早急に準備しろ。カミーユ殿が手を回してある。ともに行け」
朝一番に団長室を訪れた私に、マルチェロ団長は一枚の羊皮紙を示しました。
私は、薬草の畑の世話をジャンとジュールの双子の騎士団員に頼み、急いで準備をします。
修道院の外では、古参の騎士、カミーユさんが馬を準備して私を待っていました。
私たちは、まずパルミド、西の大陸の商人のテント、リブルアーチからオークニス、サザンビークへ渡り、ベルガラックと5日かかって品物を集めました。
「カミーユさん、手回しが大変でしたでしょう?」
「そうなんだ。マルチェロが何をしたいのかが、半分しかわからん」
カミーユさんは騎士団最年長。マルチェロ団長が全幅の信頼を置いている騎士団員のの一人でした。
そのカミーユさんが「半分しかわからん」と言ったのもうなずける気がします。団長の指示したものとは……。
パルミドの闇商人から手に入れる世界の骨董品、西の商人のテントでも同じような流れ品の骨董品。リブルアーチの職人による対の花瓶、オークニス特産のヌーク草のお茶、サザンビークバザーの流れ品である珍しい装飾品、ベルガラックカジノで景品とされているドレス……このような、お金持ちが欲しがりそうな各国の特産品。
それから、武器や防具。質素倹約できている修道院ではあまり新しいものを持つことはできないのですが、予備としてのレイピアを50振り、弓矢を50張り、そして騎士団員それぞれに合う武器を用意することになったのです。
各国の特産品……これらはおそらく上級職のかたがたへのご挨拶の品物。口はばったい言い方をすれば上納品です。賄賂、ととられても仕方のないほどの値の張る品物ばかりでしたが、これは直接マルチェロ団長に要求されたものなのです。私がサヴェッラに同行した後、各教会のかたがたから書簡で請求されました。理由はわかりませんが、団長は、黙ってそれらを準備させたのです。
カミーユさんは、これらの品々を見て「何故こんなに大量に」と眉をひそめていましたが、私には、大量の武器や防具の方が疑問でした。マルチェロ団長が副団長の頃より行っていた改革で騎士団の人数が増えておりましたが、もう落ち着き、武器や防具も既にずいぶん増やしてあるのです。カミーユさんは、「マルチェロが留守の間、騎士団員がふらふら遊びにいかないように、手入れをさせる物を増やしたんだろう」と笑います。……違う。ふらふら遊びにいかないようにさせるには、訓練メニューや教義を増やせばよいこと。道具の手入れなど……団長がそのような遠回しなやり方を選ぶとは思えません。
カミーユさんとマイエラに戻ると、団長は副団長に新しい武器類を託し、ご自分は装飾品の配達の手配をなさいます。そして、殊更に高級な品物が数点、団長室に残りました。
「明日、サザンビーク郊外の貴族の所へ出向く。同行するように。畑をまた誰かに……、いや、しばらく他の者に管理をまかせておけ」
「了解しました。……何日くらいお出かけになりますか?」
「わからん。……何故だ?」
団長は翡翠の瞳を私に向けました。私は、このところの団長の顔色のお悪いことを、思いきって申し上げることにしました。
「過労気味かと思われます。お食事も少なくおなりです。眠りも浅いのでは?」
「ふ……。かなわんな、お前には」
団長はすっと力を抜いて、椅子の背もたれに体を預けました。顎は上を向き、両手がだらりと下ろされます。団長のこんな姿を見たことのない私は、ぎょっとしてしまいました。
「夜、眠れんのだ。何か……薬湯などはあるか?」
「もちろんございます。休息が何よりの薬ですが。……一番よいのはお仕事を半分にして下さることです。……もう少し、他のかたにお仕事を回してもよいでしょうか?」
「ああ。任せる。騎士団のこともアラン副団長とマリオンに任せよう。孤児院はマリオンとメルソー、教会のことはサンソンさんに」
「承知いたしました。一日お時間いただけませんか」
「駄目だ。出発は明日。それは曲げられん。したがって明日朝までに振り分けておいてくれ。それから、お前はしばらく私に同行だ。畑仕事以外の仕事があれば、それも誰かに管理させておけ」
……団長、一体これから何をなさるおつもりですか? しばらく私を同行させるなど……。これが平時であったならば、私は心も踊り、喜んで団長のお供をしたのでしょう。ですが、明日からの出張は何か暗いものが待っているようにしか感じられません。
団長は、姿勢を正すと、一瞬、私の目を見て、それからゆっくりと立ち上がりました。
「……お前には面倒なことをしてもらわねばならない。もし嫌になったらいつでも申せ」
「嫌に……? 団長殿のご命令ならば、この身に代えましても……」
……そう言うのがやっとでした。私は不安の波に飲み込まれそうです。団長がこれから何をするのか、皆目見当がつきません。ただ、団長のお覚悟だけは痛いほど伝わってくるのでした。
翌日、団長と私は馬車で出かけました。各国をまわって集めた品物のうち、高額な方から5品ほどを乗せて。御者を務める私は、せめて団長に少しでも眠ってもらおうと室内にハーブの香りを用意しておきました。
サザンビークの貴族のお屋敷は、小さめのサヴェッラ大聖堂のようでした。
……例の、ニノ大司教のお屋敷でした。
「マルチェロ、何故、断らなんだ? 法皇様の警護など! 身の程をわきまえろ!」
ニノ大司教の罵声は、隣の控えの間におります私にもはっきりと聞こえてきました。続いて、何かを叩く音。
「何じゃと? 今、何と申した? ……うむむ。そうか、そうかの。……よろしい。そんなことで……わしが喜ぶと思ったか? マルチェロよ……よいな、全員だぞ、絶対に断るな……」
続いて団長が何か言ったようですが、よく聞き取れません。
そして、バン! と激しく扉が開き、屋敷中に響き渡るような足音をさせて誰かが出ていきました。
ニノ大司教は出て行ってしまったのでしょうか。団長はどうされたのでしょうか。落ち着かない気持ちの私がいる控えの間に、団長が入ってきました。その翡翠の瞳は暗く、サザン湖の底のようでした。
嫌な予感にこの身が震えます。
「……。今夜、この屋敷に泊まる。お前はこの控えの間から出るなよ」
「はい、団長殿」
「私が戻ったら、何も聞かずに命令に従え」
「了解しました」
「質問はなしだ」
「承服致しました」
団長はすぐにまたどこかへ行ってしまわれました。冷たい無表情の中、瞳に鋭い力はなく、やるせなさが宿っているように見えました。
時は過ぎ、私は控えの間で出された夕食をとり、女神への祈りを続けていると、日中、ニノ大司教が大層な声を張り上げていた隣の応接の間に、誰かやって来たようです。
2、3人ほどでしょうか。酔っているのでしょう。皆、声が大きく饒舌で、時折下卑た笑いが響きます。
人の数は増えていくようでした。そして出て行く者も。
人々の話に上がるマルチェロ団長の名前。しかし団長がそこにいる様子はありません。話の内容もはっきりとは聞こえません。
私は、我慢できず、壁に耳をつけました。
「……どうでしたかな? あの男は」
「ああ、見事なものだ。あの身体……」
……身体? まさか……団長の身に何か?
「屈強な男だ。だてに騎士団長を務めているわけではなさそうだ。だが、20回目の鞭で、思わず身体がよろめいた。それでもしっかりと両足を踏ん張って、あの盆の上に踏みとどまった」
……鞭? 20回も打たれたのですか? 盆とは何です?
「ああ、あの水盆! ニノ殿も悪趣味だ。あんなバランスの悪い水盆の上に立たせるなんて」
「貴殿、まだ見ていないのだろう? あの地下室は、普段は女を仕置きしているのだ。パルミドやアスカンタの別宅にも似たような部屋があるが、やはり、ここが最高だ」
一体、地下室で何が……。
「ほう……。して、一体何人のかたがこれを?」
「あの男の法皇警護に反対した者全てだ」
「まさか! それでは世界中の教会管理職のほとんどではありませぬか!」
「ははは! 確かに、世界中が反対しましたがね!」
……団長が法皇様の警護役についたことは、教会関係者にはやはり歓迎されていないのですね。
それは、わかります。わかりますが、何故、団長が折檻のような仕打ちを受けねばならないのです?
「……反ニノ派のかたも大勢いらっしゃいますからね。一部のかただけですよ、今日集まっているのは」
反ニノ派……? ニノ殿は大司教。いや、しかし……。私とて聖堂騎士団員。陰謀蠢く裏の世界のあることくらいわかります。が、マルチェロ団長がそこまでどっぷり浸かっておいでとは……。
そのまま耳を澄ませていた私は、聞き覚えのある名前に、全身がざわめきたちました。
「おお、子爵殿。やっと参られたか……レオン殿ももちろんご一緒ですね」
「恐れながら司祭様、レオンは既に地下へ伺わせております…」
「それは楽しみだ! では、お先に……」
司祭と呼ばれた男は、聞くに耐えない下品な笑いをし、応接の間から出て行ったようでした。
私は、小声になった彼らの声を聞き取ろうと、強く耳を当てました。
「……殿はレオン殿にご執心のようですな」
「はい。おかげさまでよくしていただいています。本当に、レオンを養子にして良うございまほした」
「レオン殿はマイエラの孤児院にいたのでこざいましょう?」
「はい。本当は、あのマルチェロを養子にしようと思ったのですがね。レオンのほうが手なずけやすそうだったので。一目惚れです」
「ははは、それで正解でござろう。マルチェロを養子にしたら、今の貴方はないかも知れませんな!」
「全く! 恐ろしい男です。しかしようやく、自分の立場をわかる日が来たのではないでしょうか」
「あの水盆から落ちるところは見物だ!」
「全くですな。……ニノ殿は、今日はかなり強い薬にしたとおっしゃっておりましたからね。身体の傷にも障るでしょうね」
「いやいや、本番は、その後。レオン殿との方が見物ですよ。女人のように着飾った彼を、あの男はどうするのか!」
「薬物の効果で悶え、目の前のレオン殿には指一本触れさせないで、結局レオン殿と同じ運命になるとも知らず!」
何です? 地下室で何が行われるというのですか!
だんだん、具体的ないかがわしい行為の話になり、私は壁から耳を離しました。
小さな窓を目指し、歩く私の足はふらふらとよろめきました。椅子を引きずって行き、わずかに射し込む月の光に祈りを捧げました。
……マルチェロ団長、どうぞご無事で。レオン……フロレルさんもどうか……。
深夜を過ぎても目が冴えた私は、とっくに姿を消した月に向かって祈り続けました。
白々と夜が明ける頃、控えの間の扉が開きました。
「団長殿!」
「ああ。待たせた」
団長は、奇妙な匂いを身体にまとわせたまま、私を避けるようにして備え付けの水屋に向かいました。
「身体を清める。少し待っていろ」
半時を過ぎ、柔らかな香りをまとって、水屋から団長が戻ってきました。私が作ったハーブの石鹸を使って下さったようでした。
「団長殿! 傷が……」
「何も聞くな!」
団長の身体は無数の傷がついていました。でも団長は「何も聞くな」とおっしゃる。……もともと、質問してはいけないというご命令でしたので、聞くつもりはありませんでしたが、あまりの傷の多さに、思わず口をついてしまったのでした。
団長は寝台にぐったりとうつ伏せになりました。
「傷の手当てを頼む。私の回復呪文では限界がある。……できるか?」
「もちろんです」
団長はうつ伏せたまま、腰に巻いていた布をご自分で外されました。初めて見る団長のお身体。その全裸のお姿は、とても痛々しいものでした。背中一面の傷……話に聞いた鞭の傷でしょうか。何か固いもので叩かれたような青い痣。最も深い傷が一つ……同じ場所を何度も打たれたのでしょう、右肩甲骨の下が深くえぐれていました。首周りは細いもので吊られたような赤い跡。
両腕にも鞭で打たれたような細長い赤い腫れが多数ありました。手首は重ねて縛られていたようです。太い荒縄だったのか、赤く擦れ、全体から血が滲んでいます。
引き締まった臀部は鞭の傷の他、全体が真っ赤になっています。そして秘部は真っ先にご自分で回復呪文をかけたのでしょう、目立つ傷はないようでしたが、念のため、毒消しの呪文を唱えました。
私は、傷の一つ一つに薬を塗り込み、急を要する裂傷には止血剤を加え、打ち身の痣には痛み止め効果の呪文を唱えました。
身体の向きを仰向けに変え、同じように手当てをしていきます。
これは……。
背中にもあった小さな無数の赤い痣。うっ血の様子が違うので、薬をどうするか迷っていたもの。時間の経過とともに赤が深くなっていき、団長の白い肌に紫の花を咲かせていました。
胸は十字に縛られていたのでしょうか…目も当てられぬような酷く食い込んだ細い傷。
美しく割れた腹筋が耐えられなかった程強く打たれた鞭の跡。
大切な部分にはそっと布をかけ、胸や腹部の傷を治療していきます。陰部を後回しにし、長い足を診ます。太ももは大層張っておいでです。水盆がどうのとか言っていましたから、何かバランスの悪い場所で懸命に立っておいでだったのでしょう。傷は治すことができます。でも、このような疲労からの痛み……筋肉痛の痛みは軽減することはできますが、疲労自体をなくすことはできません。筋肉を少し弛緩させられる程度で、だるさをすぐにとることはできないのです。筋肉の炎症を和らげる呪文のあと、足裏からふくらはぎ、太ももをマッサージしていきます。
「団長殿……」
「なんだ? 質問はなしだ」
「お願いをいたします」
「言ってみろ」
「よろしいですか」
言いながら、団長の膝裏に手を入れました。
「膝を立てます」
「お前に全てまかせる」
団長は膝を立てて下さいました。そして臆することなく膝を開いて下さいました。
なめらかな内腿の表面にもひどく縛られた跡と、紫になるまで吸われた多数の花。陰茎は細いもので縛られたような線がぐるぐるとめぐっておりました。私が触れても何の反応もなく、疲れ切っておいででした。念のため毒消しの呪文をかけると、しみたのでしょうか、僅かにふるりと震えました。
固く張りつめた全身の筋肉が、団長の忍耐強さを物語っていました。外的な痛みに耐え、内側からの解放を求める疼きに弛緩しまいとして、どれだけの力を使われたのか。
私は、最後にお顔の傷に触れました。ここの傷だけは、今すぐに治して差し上げたい……。私は、一つの傷も残らないように蘇生呪文を小さなシャワーのようにふりかけます。蘇生のパワーを細かく分断する力は、私の能力の半分ほどを一度に使ってしまいます。私はぐっと足に力を入れて集中しました。
光のシャワーの中で、団長のお顔は美しく甦りました。表面的な傷を治しただけですので、青ざめた表情はそのまま。つるりとした彫刻のようなお顔は、リブルアーチで見た作りたての女神像のようでした。
「終わりました。いかがですか?」
「……良くなった。痛みがほぼ消えている。……倦怠感だけだ。……腰が重い」
「……お休み下さい。それは休息しなければ取れないと思います。明日は……」
「明日もだ。ただ、夕暮れまで用事がない。……眠る時間はある。だが、眠れん」
団長はゆっくりと寝台から降り、簡易な夜着を手にしました。一糸まとわぬお姿。
今日この日、私は敬愛する団長の身体の隅々までを知ってしまいました。全て、余すことなく。
手負いの獅子が腹を出して治療を受けたのです。私の手によって、獅子は甦り、再び力をためようとしているのです。
私は感情を動かさないまま、団長の着替えを手伝いました。
団長のお覚悟を知った以上、私も自分を捨ててお仕えするまでです。
再び寝台に横たわる団長に上掛けをそっとかけ、ラリホーマを唱えました。
控え目なノックの音。
「どなたですか?」
マルチェロ団長が満身創痍で私の所へ戻られたのは明け方。治療を施し、ようやく眠りにつかれ、今は太陽光が斜めに射し込んでいます。朝食には早すぎます。
「マロウさんでいらっしゃいますね、お休みの所、申し訳ありません。入れてください。……フロレルです」
……フロレルさん!
私は弾かれたように扉へ向かい、そっと扉を開けました。
フロレルさんは、マルチェロ団長よりも酷いお姿で、部屋に入るなり倒れてしまいました。
「フロレルさん、大丈夫ですか?」
肩を貸し、どうにかフロレルさんを椅子に座らせることができました。
「……すみません、なかなか解放してもらえなくて……。つい、こちらに来てしまいました。……マルチェロ様、お休みになっていらっしゃるのでしょう? すみません。起こしてしまったら……」
「大丈夫です。日暮れまで、眠っておられます」
「えっ?」
「ちょっと呪文を……」
「ああ、やはり。そうでしたか、マロウさん」
「やはり?」
フロレルさんは、団長の連れである私が、どんな人間か噂になっていると教えてくれました。
「……以前、アスカンタのカッサンドラ司祭様に打ち勝ったと聞いています。マイエラに魔王の弟子がいると。かなりの豪傑という噂でしたのでね。まさか、こんなに愛らしい……失礼しました、華奢なかただとは……」
「人一倍身体が小さいですからね、私は。でも『魔王の弟子』だなんて」
「あなたとマルチェロ様が移動呪文で消えたところを見た人が何人もいたようですよ。……初めてお目にかかったあのサヴェッラで……」
……ああ、そうだ。あの時は、控え室に数人の騎士団員がいて、移動呪文を使えると言ったら、驚愕に近い眼差しで私たちを見ていた。
「あの、フロレルさん、お時間は?」
「大丈夫です。夕方まで用事はありませんから」
やはり、今夜またフロレルさんも……。
「水屋をお使い下さい。応急措置ですが治療を致しましょう。そのあとはこちらでゆっくりお休み下さい」
私の申し出に、フロレルさんは涙を流して何度も礼をおっしゃいました。
水屋から上がったフロレルさんを、団長の時と同じように治療しました。団長とは比べ物にならないくらいの傷の数。焼けただれた跡もありました。
「……マロウさん、私やマルチェロ様が何をしているか、お聞きになりましたか?」
「いえ」
隣の部屋を盗み聞きしていたことは隠すつもりでした。
「そうですか……。では、私が何故、マロウさんの控えの間を訪ねたのかはお分かりになりますか?」
「それは……、団長が申したのでは。私は治癒呪文ができますから」
フロレルさんは、相当しみるであろう消毒にも、皮膚をわずかに緊張させただけでした。
「はい。その通りです。……私たちをご覧になれば解りますよね。酷いことをされていると」
「はい。耐え難い苦痛とお察しします」
「あなたは……どこまで知ってらっしゃるのか?」
フロレルさんがくっと眉をひそめると、ブルーグレーの瞳がじわりと濡れました。自然な色香がにじみます。私は思わず目線を外しました。
「……傷が語ってくれることだけです。フロレルさんとマルチェロ団長の受けた身体の傷のことだけを知っています」
「……それでいいのですか? マルチェロ様はそれでいいと?」
フロレルさんは肘をついて起き上がり、私を正面から見据えました。
「……どういうことでしょう?」
「マルチェロ様は、何故、こんなに傷つかなくてはならないのかをおっしゃらなかったのですか? あなたはお聞きにならないのですか?」
フロレルさんの熱い瞳からは、次々と涙が溢れます。美しい流れかただと思いました。たっぷりと目の縁に盛り上がり、やがて堰を切ったようにはらはらと流れ落ち、再びゆっくりとわき上がり、耐えきれず、溢れ出す……。
「何も聞くな、と申されました。私は、団長殿を信じています」
その御身を守りたいだけ……。
フロレルさんは、くっ、と顎を上げ、涙をこらえました。きつく閉じたその目尻から一粒、ひときわ大きな涙の珠が白い頬を伝います。
「……お気をつけて、マロウさん。マルチェロ様は、かなり際どいお立場。あなたの身も……」
「私は、危機に陥ると、恐ろしい術を発動してしまいます。……それはカッサンドラ司祭が見ています……。だから、団長殿は私を同行させているのでしょう」
ちっぽけな私でも、団長のお役に立てる。そのことが光栄であるのに、それ以上何を望むというのでしょう?
「多分、それだけではないはずです。あなたは……」
フロレルさんは、言葉を続けることをせずに、ゆっくりと目を閉じました。
睡眠を促す術をかけるまでもなく、フロレルさんは眠りに落ちました。
日差しが強まってきました。この屋敷も人の出入りの音がまた始まります。
屋敷のかたが三人分の食事を届けてくださいました。ここにフロレルさんもいると分かっているのですね。
お二人はまだ深い眠りについています。どうか、もう少し……。
昼ごろ、フロレルさんが目覚め、自分の主の元へお戻りになるとおっしゃいました。
「今夜……明朝、またお願いします」
そう言った彼の眼差しは、サヴェッラ大聖堂のステンドグラスより美しい。例えるなら、薄曇りの日に見る、穏やかな、広い海のようでした。どこまでも優しく、全てを受け入れてなお、何も責めず、憎まず。
人の姿をした天使だ、と私は思いました。
日暮れが近づいてきて、眠りの呪文の効果が無くなると、マルチェロ団長がお目覚めになりました。吐き気に耐えきれず、すぐに洗面所に飛び込まれました。
「団長殿……」
「ああ。着替えたら行く。私の帰りを待っていろ。……遅くなる。だが、必ず戻る」
……団長、信じています。必ず、帰ってきて下さい。
私はもう隣室の様子を伺うことはせず、ただひたすら、窓の外に向かって祈り続けました。
この夜、同じように地下室へ行かれた二人は、やはり同じように満身創痍の姿で私のところへ戻ってきました。
目的のために手段を選ばない主義のマルチェロ。法皇警護の職を教会上層部に納得してもらうために、ニノの力を利用しています。ニノは悪役担当です。