主な登場人物:マルチェロ、マロウ(騎士団員、語り手)、フロレル(孤児院出身)、
「行ってくる。必ず戻る」
マルチェロ団長は気丈におっしゃり、ゆっくりした足取り迎えの馬車に乗り込みました。
「本当に大丈夫なのか? マルチェロは……」
そう言ったのは私と一緒に見送りに出ていた古参の重鎮、カミーユさんです。彼は人一倍団長のお身体を心配していました。
「応急処置しかできませんでした。痛み止めの薬をお持ちいただいています。カミーユさんには、明日の昼、船着き場までのお迎えをお願いするように言いつかりました」
「……マルチェロのヤツめ。俺がうるさく言うのがわかっている。俺が馬車を牽くのかよ」
カミーユさんは、馬の調子を見てくると言って、厩舎へ向かいました。
私は来客用の部屋を目指します。フロレルさんの様子を見なければなりません。
あわてていたため、手当ての道具箱をガチャガチャと扉にぶつけてしまいました。フロレルさんをびっくりさせてしまったかもしれません。
ノックをしなおしてそっと入った部屋で、フロレルさんは寝台に横たわったまま、静かに窓の外を見ていました。
「おはようございます……お加減はどうでしょうか。まだ右肩が痛みましょう」
「マロウさん…マルチェロ様は…」
フロレルさんは音もなくこちらを向きました。血の気のないお顔の中で、ブルーグレーの瞳だけが色をにじませます。
「ゴルドに行かれました。ニノ大司教と……」
「ああ、終わったんですね……やっと……」
「はい。団長もそう言っていました」
フロレルさんの笑顔に花が咲きました。本当に穏やかに笑うかたです。儚げな白い鈴蘭のように。
フロレルさんの傷は、最も酷い部分を除き、8割がた治っているようでした。
「ねえ、マロウさん、私はいつまでここにいていいのですか?」
「団長がゴルドから帰ったら相談します。団長は明日戻られますので、ご心配なさらずにごゆっくりお休み下さい」
ふっと、わずかな生気を帯びた唇が、小さく笑いました。
「ありがとう……。ゆっくり眠らせてもらったのに、また眠いです」
「薬に、眠くなる作用がありますから。そのせいでしょう」
フロレルさんはゆっくりと視線を天井に移しました。
私は消毒液を染み込ませた布で、少しずつ傷の周りをぬぐいます。硬く、しこりになってしまった部分は癒しを与える薬草の塗り薬を塗り込みます。
白く、薄い皮膚は、もう傷つくところがないくらいに腫れ、裂け、変色していました。
今回もお二人の身体には、血液や体液の他に薬品の臭いがありました。どんな薬品なのかわからないので、いの一番に消毒しなければなりませんでした。お二人の血液以外のものを徹底的に洗い清め、消毒しました。そこまで処置をし、マルチェロ団長がフロレルさんを抱き抱え、私が団長に肩を貸してこのマイエラに帰ってきたのです。
マイエラに戻ってきたのは早朝。それからお昼まで団長の手当てを続け、団長には眠っていただき、午後中かけてフロレルさんの治療をし、一夜明けて今に至っています。
……もう、こんなことは終わりだ。団長はとうとう世界中に認められた。ようやく法皇様のお近くに侍ることに。
騎士団員も皆、そわそわとして喜びを隠せないでいる様子でした。しかし、フロレルさんに終わりはまだ訪れないのです。
フロレルさんの傷が語ります。それぞれの傷がどんな行為によってついたのかと……。
……高位にある者たちが、こんなに美しい若者をなぶった。無抵抗の、美しい天使を。
……団長は自らの意思で御身を差し出した。でもフロレルさんは違う。いつの時も、慰み者として、見せ物として……。
……腹立たしい。悪魔の所業ではないですか。いつまでこんなことが続くのです?
「マロウさん、私は幸せです……」
私はぎょっとしました。
一晩中、人のおもちゃにされ、身体中に傷を受け、それも一歩まちがえば死もやむを得ないという状況で……幸せなのですか? 何故?
フロレルさんの次の言葉を待っている私を、色づいたブルーグレーが見つめ、唇がまた小さく笑いました。
「……騎士団に憧れていました。騎士団の宿舎でマルチェロ様と過ごしたかった……」
私は肩の膏薬を張り替えます。
「マルチェロ様をずっとお慕いしていました。物心ついた時から。ご自分に厳しく、努力を惜しまない、あのかたに。私は、養子になど行きたくなかった。私のように非力な男では騎士団に入れなかったでしょう。それでも、修道士としてマイエラにいられるのであれば、と望んだのです」
私はフロレルさんの体を起こし、背中の火傷を手当てします。
「……私とマルチェロ様の再開は、どういうわけか歪んだ欲望のるつぼの中でした。マルチェロ様をサヴェッラでお見かけした時、私の胸は苦しいほど高鳴りました。でも、ご一緒にいたのがニノ様でしたので、一瞬で地獄に落とされた気持ちになりました」
フロレルさんを再び寝かせ、全身の小さな傷を呪文で消します。
「……私のような仕打ちを、マルチェロ様も……」
フロレルさんの嗚咽が耳に入ります。私は天使の涙を見たくありませんでした。
「……マロウさん、あなたは……マルチェロ様が何を……」
「フロレルさん、もう少しお休み下さい。お昼にまた伺います」
私はそれ以上、フロレルさんの口から聞きたくありませんでした。天使の懺悔は女神に宣うもの。私もマルチェロ団長も、もう女神に懺悔などするつもりはありません。
団長が選んだ道……それは決して振り返ることのできないイバラの階段……もう登り続けるしかないのです。
私も、カミーユさんも、マリオンさんも、それはわかっています。
団長は、私たちを置いて独りで行くおつもりです。
ここからは、独りだと。私たちは、帰らぬ団長をずっと待っていなくてはならないのです。それでも、やはり団長室にいるマルチェロ団長の姿を思い浮かべてしまいます。
団長がゴルドへお出かけになった日の夜のことでした。深夜に修道院の扉が開きました。
「すみません、連れが怪我で。……騎士団長……院長さまに会わせてください」
「旅のおかた……ククールさん!」
なんということでしょうか。ククールさんが傷だらけでこのマイエラに現れました。あの旅人と共に。
「どうしたんです? 魔物ですか? 不意打ちにでも?」
「はい……」
お連れのかたに支えられたククールさんは意識がないようでした。
旅人のお名前は確かエイトさん……。ククールさんを支える彼もまた、怪我をされていました。
手当てを申し出ましたが、エイトさんも回復術が使えるとおっしゃっいました。それに、回復術はククールさんもかなりの力をお持ちです。私は消毒液や布などを用意し、お二人を来客用の部屋へご案内しました。
終始うつむくエイトさんでしたが、しっかりとククールさんを支えて歩きます。
……大丈夫、ククールさんはやわなかたではありません。……でも、ククールさんが団長のなさっていることを知ったら……。
私は、ククールさんに殺されてしまうかもしれません。団長のお帰りを待っている今は、死ぬ訳には参りません。ククールさんを団長に会わせるわけにはいきません。
「……団長……院長がおりましたらお泊めできなかったかもしれません」
冷たい言い方をしてしまいました。しかし、団長の邪魔をする者は、たとえ誰であろうと許すつもりはありません。ええ、たとえ誰であろうと。
運命が団長とククールさんを繋いでいます。しかし、このエイトさんは……。もし、ククールさんが団長を見捨ててしまっても、私は団長に付いていきます。団長が私を「要らぬ」とおっしゃるまでは。
ククールさんはよい旅のお仲間に巡り会いました。マイエラから飛び立ち、広い世界に立たれたのです。今は、団長のことをわずかばかりでも忘れる時があるのでしょうか。
お二人を来客用の部屋へ案内した後、私は中庭に出ました。月の青白い光があたりを照らしています。
月は世の中に平等に光を投げかけます。
善にも悪にも。
オディロ院長をあやめた男は、月の方へ消えて行ったそうです。
……神は罰を与えたもう。しかし、月は罰を与えず。ただそこにあるのみ。
……私たちは女神に許しを請う。それは女神が罰を与えたもうから。
……月光は人の心を照らす。月は罰を与えない。しかし、許しもしない。
女神から離れれば、私たちは誰かに許しを請わなくてよいのでしょうか。自らの行動、決断、全て自らのものとなり、報いは自らに課して報いなければならないのでしょうか。
明け方、ククールさんとエイトさんは、黙ってマイエラを去りました。きっとお仲間のところへ戻るのでしょう。
団長は、世の理不尽を変えて下さいます。不当な搾取、人権の侵害、はびこる汚職などをなくして下さるに違いありません。
……ククールさん、今は見守って下さい。
「おはようございますフロレルさん、朝食です」
「ありがとう……」
消毒液の臭いを消すために、ドアを少し開けておきます。
「宿舎の窓は、みんなはめ殺しなんですね。厳しい訓練から逃げ出さないようにでしょうか」
そんな冗談を言いながら、フロレルさんは食事を口に運びます。
「訓練は厳し過ぎて、逃げ出す体力はありません。もっとも、夜遊び常習犯のククールさんは『部屋の窓開かねえんだよな~』と文句言って、いつも堂々と正面からお出ましでした」
ククールさんらしいですね、とフロレルさんは目を細めました。
朝陽が天使の頬をオレンジに染めています。私は、胸が痛くて仕方がありませんでした。望みを叶えるために歩き出した団長。偶然とはいえ、修羅場の供をして下さったフロレルさん。彼の今後を思うと、心臓が幾千もの針で突かれるようでした。
正午過ぎ、約束通り団長はマイエラに戻られました。まず、フロレルさんの部屋へ向かわれます。この優しさは団長だけの優しさ。か弱き者への慈愛の心。
「マルチェロ様、お帰りなさいませ……」
「うむ。……どうだ? 傷の具合は」
「おかげさまで、もうほぼ回復致しました。ありがとうございました」
「もう少しここにいれば良い。ゴルドでお前の主に会った。治り次第帰すが、かなり重症だと言ってある。お前の主はマロウの腕をかっているからな。あっさり承知したぞ」
団長の言葉を聞いて、フロレルさんの顔がぱっと華やぎました。
「ありがとうございます。マルチェロ様……。私などのために……。……春の大聖祭の前までに帰ればよいと言われております」
「大聖祭? あと10日ではありませんか」
「はい、マロウさん、そうなんです。……マルチェロ様、どうかそれまではここに置いて下さい」
「勿論だ。心配するな」
フロレルさんは少し頬をバラ色に染めました。同時に全身のこわばりがすうっと消えました。フロレルさんの特効薬はマルチェロ団長のようですね……。
その日夜になって、私は団長室に呼ばれました。
重苦しいオークの扉を開けると、カミーユさんとマリオンさんの姿がありました。団長が法皇様警護役としてサヴェッラでお勤めなさる間の修道院の仕事について、お二人と細かい打ち合わせが行われていました。
「……では、サヴェッラへは俺が同行、カミーユさんは残ってアラン副団長の補佐ということだな」
「そうだ。カミーユ殿、アランをしっかり育てて欲しい」
「任せろ。免罪符関連はマニュアル通りにして、一切の例外を認めんのだな」
「免罪符を求められない貧しい者には、来館記念の配布用にその場で少し祈りを込めるようにする。また、その件はサンソン修道士に頼んである。騎士団はそこは何もしなくて良い。管理はサンソンさんに全権を任せてある」
「わかった。財務はどうする?」
「副団長のアランに任せるが、マリオンが戻るまでは、帳簿の付け方などを覚えておけと言ってくれ」
カミーユさんは「了解した」とおっしゃいながら、あれこれと書類を分類しています。
「で、マルチェロ、サヴェッラにはどのくらいいるのだ?」
「わからん。だが、そう長くはない。サヴェッラの承認を受け、大聖祭の間は向こうにいる予定だ。大聖祭が終わったら、一度マイエラに戻らせてもらえるように願い出るつもりだ」
「マルチェロ、マイエラ修道院院長の職と騎士団団長の職はそのまま持っていられるんだな?」
「ああ。法皇様の警護職は専属だが、常駐ではない。万一、法皇様が私に常駐をお望みになれば……」
万一、法皇様がマルチェロ団長をお側にとお望みになれば……? マイエラには戻らない……?
私のみならず、カミーユさんもマリオンさんも、書類整理の手を止め、団長を見ました。団長は私にちらりと視線を向け、ゆっくりとご自分の書類整理を続けました。
「……その時は、また考えよう。私のような身分のない者を、かの法皇様が召し抱えるとは思えん。法皇様がいくら人徳者でおありでも。身分制度が根底からひっくり返るようなことは、たとえゴルドの女神像が地に崩れ落ちたとしても、あり得ん。私が新たに法を作るならば別だがな」
そうとしても、身分制度とは利用しがいがあるぞ、ははは! と、冗談めかして高らかにお笑いになりました。そして、私の近くにいらしておっしゃいました。
「さて、約束だ。お前をサヴェッラに連れて行く」
「用意はいいか?」
いよいよ今日はサヴェッラへ出発する日です。
湿気の多いマイエラには珍しい、抜けるような青空のもと、私たち4人は馬車へ乗り込みました。
先にアスカンタのお屋敷にフロレルさんを送る予定でしたが、フロレルさんのご主人様もサヴェッラにお出ましになるというので、私たちが直接サヴェッラへお連れすることになりました。
「……私までありがとうございます」
フロレルさんは、夕べからずっと恐縮しっぱなしでした。
長い睫毛がしっとりと揺れています。
「なに、ついでのようで却ってすまなかったな。お前の家の馬車のほうがランクが上だろうから、気分が悪くなったらすぐ言えよ」
マリオンさんがにこやかに笑い、手綱をとります。今日は私も御者台につきました。清々しさと、一抹の寂しさがないまぜになった複雑な気持ちを抱えて。
「おい、大丈夫か?」
「私ですか?」
馬車が動き出してすぐ、隣のマリオンさんが言いました。
「ここは尻が痛くなるぞ?」
「大丈夫ですよ、マリオンさん。……フロレルさんにはマルチェロ団長とゆっくりお話をして頂きたい。孤児院時代の昔話など……」
マリオンさんは、そうだな、と穏やかに言って、空を見上げました。
ひばりがくるりと院長の館を巡り、高く飛び去って行きます。美しい歌声を残して。
船着き場からサヴェッラ行きの船に乗りました。船は大聖祭に向けてたくさんの参拝者であふれています。にぎやかな船旅。フロレルさんは終始笑顔を絶やすことなく、団長と寄り添っておられました。
やがて、天を目指しているようにそびえ立つ巨大岩の上、法皇様の館が視界に入ってきました。サヴェッラです。
団長とフロレルさんはどうしているだろうかと見ると、甲板の隅で、フロレルさんは団長に祈りの言葉を頂いていました。フロレルさんは団長の紡いだ詩編を何度も繰り返しました。
……お別れを惜しんでいる。これが最後かもしれないと、お二人とも感じているよう……。
船を降りると、フロレルさんのお迎えが来ておりました。
「お世話になりました。マルチェロ様……マリオンさん、マロウさん」
「元気でな、フロレル」
「フロレルさん、もし、私で力になれることがあったら、また修道院をお訪ね下さい。ご連絡頂ければ、私の方から参ります。どうか、お身体大切に」
フロレルさんは、ありがとうございます、ありがとうございます、と頬を伝う涙を拭いもせずに何度も言いました。
「フロレル、達者で。無理をするなよ。……お前に再会できて、良かったと思っている」
「マルチェロ様……」
天使の涙は、次から次へと惜しげもなく溢れ出し、陽の光を取り込んでキラキラと舞い落ちます。
……女神よ、この世を見ているならば、貴女は天使にどれだけの苦悩をお与えになれば気が済むのか、答えをお聞かせ下さい。今、私には、貴女と貴女の名の元に集う非道な輩とが天空と地とにありながら、同じ回廊を流れているように思えます。貴女がたは、マルチェロ団長を愚かと笑う。フロレルさんを哀れと笑う。私は団長を信じます。人の言葉を信じます。私は貴女を信じない。たとえ、貴女がゴルドの像の姿で目の前に現れても、魔物の姿で現れても。私は人の命を信じます。命ある限り、団長に付いていきます。マイエラを守ります。
見上げる大聖堂。このサヴェッラに初めて訪れた日が、遠い昔のように思えます。あの時、大きな尊敬と畏怖の中で、私は何枚ものベールを被ったままでした。しかし、今は違います。人が作ったこの世のしくみ、人が続けようとしているこの世の理を、この目で確かめます。何のフィルターもなしで。
「おい、難しい顔をするなよ、せっかくのサヴェッラ参拝だぞ?」
「あっ、すみません……。ところで、マリオンさんは大聖堂は初めてじゃないですよね?」
「ああ。何度も来ている。そろそろ大聖祭の警備の打ち合わせが始まるな。……お前と見物には行かれないが、いいか?」
「はい」
お二人ともお忙しいのは承知しています。もとより、一人で参拝する予定でした。
ところが、マルチェロ団長がおっしゃいます。
「いや、マリオン。打ち合わせは貴殿だけだ。私はサヴェッラの承認印を受けに法皇様に会う予定だ。私の荷物は法皇様の館へ運んでくれ」
「そうなのか? 解った。もう時間がないな、俺は行く。じゃあな」
マリオンさんは大きな荷物を抱え、法皇様の館へ向かいました。
「さて、行くか。約束だったからな」
私は団長の説明を聞きながら、大聖堂の参拝をしました。サヴェッラの位置付け、ゴルドとの違い、マイエラ修道院を含めた3大聖地について──。団長は丁寧に優しく説明して下さり、私は天にも昇る気持ちでその言葉の一つ一つを胸に刻みました。私たちの姿を見て、ひそひそと言葉を交わしている教会関係者もいたようでしたが、団長はそれを全て無視し、私に寄り添ってくださいました。
大聖堂の裏手に回ると、法皇の館へ続くトンネルが見えてきました。
「法皇の館は向こうだ。一緒に来るがよい。私はそのままここへ残る。マリオンもしばらくサヴェッラ滞在だ。お前は目立たぬ場所から移動呪文でマイエラへ帰ると良い。……どうしたのだ?」
「団長……」
団長は昇降盤に私を促します。でも、私は足を乗せずにいました。
「……上へ行ったら、もう団長はお戻りにならないような気がするのです」
「大聖祭の間は、法皇様の警護を勤めさせて頂くが、今後も正式に警護職を賜るかは、まだわからん。いずれにせよ、一度マイエラには戻る」
「本当ですか?」
「本当だ」
団長は、案ずるな、とおっしゃって、昇降盤に乗りました。
昇降盤は音もなく静かに上へ登っていきます。穏やかな光の中を、かなりのスピードで進みます。私はその眩しさと速さに目が眩みました。
……甘い香りがする……きっとバラだ。小鳥のさえずりが聞こえる……頭がだんだんはっきりしきた……身体が温かい……。
私は目を閉じていたようです。身体の感覚が先に戻り、温もりを感じながらゆっくり目を開きました。
「気がついたか」
……団長?
「もっ、申し訳ありません! っつ……」
「急に起きるな、めまいがしたのだろう?」
なんということでしょう、私は団長に抱かれて花園の中にいました。
マルチェロ団長が、私の髪を撫でます。
「お前の髪は美しいな」
私の髪は金髪。柔らかく癖があって、いつもあちこちに毛先が向いています。ふわふわと頼りなく広がるのが嫌で、いつも短く切っていました。このくしゃくしゃな短髪を美しいと言われたことなどありませんでした。
いつも12、3歳に見られ、誰からも子供扱い。今もこうして団長にお世話頂いていることに不甲斐なさを感じました。私が反射的に身を起こそうとするのを、団長の腕が優しくとどめました。
「無理するな。……本当によくやってくれた。お前のおかげで、無事にここまで来られたのだ。感謝している」
……それは、お別れの言葉でしょうか。
「あんな嫌なことはもうない」
……団長のお身体が傷つくことはもうないということですね。
「泣くな」
……団長は昔から、私の目をあまり見てくださらない。深い青ですから……。私もあまりはっきり目を合わせないようにしていたのをご存知ですか?
「……私は、女神に近づきたいのだ」
……存じ上げております。世界を変えたいと思っていらっしゃることも。
「頂点を見たいのだ」
……団長、人の頂点とは、神への道でしょうか?
「団長殿、団長殿は独りではありません。お帰りをマイエラでお待ちしております」
私は力をこめて、団長の腕から逃れました。これ以上、団長のお側にいたら、ルーラをかけてマイエラにお連れしてしまいます。団長はそれを望んではいないのですから。
「団長殿……」
私は、真っ直ぐ団長の翡翠の瞳を覗き込みました。最初で最後です。
はっとして団長の視線が揺れます。しかし、私はそれを許さず、強く見つめました。
……翡翠の瞳の奥にゆらゆらと沈んでいる激情の炎。私の青い瞳に映るそれを、団長は見ている。忘れないで下さい。本当にそれを写したい瞳を。団長の激情を受け止めるのは、私ではない、青い……サファイアの瞳。
団長は私にそっと口づけをしました。いえ、私にではない、私を通して見た、サファイアの瞳の持ち主に。
私は、団長と別れた後、一人で法皇の館を見学し、昇降盤を降りてもう一度サヴェッラ全体を見学しました。最後にと、再び大聖堂を訪れました。するとこの賑やかな大聖堂の中に、見覚えのある赤い騎士服。
ククールさんが旅のお仲間とやって来たのです。私は、いけないと思いつつ、様子を伺っておりました。
四人の旅人は静かに大聖堂の見学をしていました。女性ともう一人が小声で話していましたが、ククールさんとエイトさんは無言で見学しています。見学と言うほど、興味を持って見ていらっしゃるようではありません。なんとなく暗い表情でした。お二人は喧嘩でもされたのでしょうか。先日傷だらけでマイエラを訪れた時に比べると、態度がとてもぎこちなく見えます。
……ククールさん、もしかしたら団長にお会いになったのかも知れません。あのご様子では、団長との再会が胸踊るものとはならなかったようですが。
私は、この大事に団長がククールさんにお会いできたことを嬉しく思いました。
法皇の花園で口づけたことを思い出されたことでしょう。
私は、団長のためならば、どんなことも耐えられます。あの口づけさえ、形骸化して受けることに成功しました。あれは団長がククールさんに贈ったものです。団長が自ら閉じ込めた熱いその想いに、いつかお気づきになりますように。
私は、一人、マイエラに戻りました。
その日、なぜか一晩だけでいいから泊めてくれと言うククールさんがやって来ました。何か心配事でもありそうなお顔をしていましたが、私は直接お話しすることを避けました。今はマルチェロ団長のことを聞かれたくはありません。私は、新人の修道士にククールさんを案内するように指示を出しました。ククールさんは部屋からは出ず、明け方出て行かれたようでした。
一週間ほどして、ククールさんがドルマゲスを倒したと報告に来て下さいました。その時も古参の者に会わせず、新人の修道士に取り次ぎを頼みました。
扉のかげから様子を見ておりましたら、お仲間が行方不明なので、救出に向かうと言って、再びエイトさんと旅立たれたようです。私はククールさんの変化に驚きました。ククールさんは、オディロ院長様の仇をとっただけではありません。何か、大切な使命を見つけられたようです。
それでもまだ、ククールさんの心の中には団長がおられる。昔のままの──。
* * * * *
団長は約束通り、大聖祭のあと、マイエラにお戻りになりました。
そして、団長は、正式に法皇様の警護職にはつかない代わりに、法皇付きで3大聖地の治安を守る騎士団の長を任されることになったとご報告されました。
これは、サヴェッラを含む騎士団、各国より派遣される兵を統括するということ。世界の安全を守る職の長におつきになったのです。これまでこの地位についていたのは法皇様ですが、名前のみで、実際的な統括は、その下のサヴェッラの騎士団長と、サザンビーク、アスカンタ、トロデーンからの近衛隊等の代表が交代で行っていました。祭典の度にもめ、小さな小競り合いから、大きな事故まで、いつもいさかいが絶えません。
団長がこの役を仰せつかれば、きっと上手くいくでしょう。適任です。
「マイエラ修道院院長と、騎士団団長の職はこのまま私が勤める。法皇様のお達しだ。だが、そんなに目を配れるわけにもゆかぬ。院長の仕事はサンソン修道士とマリオンで、団長の仕事はアラン副団長とカミーユ殿に任せる。後継者をきちんと育ててもらいたい」
団長の帰りを待ち望んでいた騎士団員は皆、歓喜に奮えました。世界にお出ましになったマルチェロ団長。マイエラの今後も、明るい展望が開けた感があります。
「留守にすることが多くなる。しかし、私はこのマイエラを世界で最も厳しく、強く、慈悲深い修道院であることを誇りに思う。伝統を守り、軽々しく浮かれることのないよう、精進いたせ」
私たちは、団長のお言葉を胸に刻み、オディロ院長様がお元気であった頃のことを思い出し、日々暮らすことを目指しました。
団長は、外出が多くなりました。サヴェッラ、ゴルドの他、法皇様がご訪問される所のすべてにご同行なさり、マイエラから供を連れることなくお一人でお出ましになるのが常になりました。マイエラには戻ることは少なく、団長がどこで何をなさっているのか、もはや、修道院の誰も知らぬこととなりました。
大聖祭は勝手な設定です。次は最終話です。