主な登場人物:マルチェロ、アナマリア(マルチェロの母)、オディロ院長、ガルシア(聖堂騎士団団長)、カミーユ(騎士団員)
1
マルチェロ独白
逃げるようにして出てきた。
真っ暗な道を、僕たちは裸足で走った。
後ろを振り向いちゃいけない。悪魔のような男が見ている。
横も向いちゃいけない、魔物が牙を剥いている。
とにかく一番近いドニの町へ……灯りを目指して僕たちは走った。
母さんは何度も転んだ。その度に僕も転んだ。10回くらい転んだあと、母さんは僕を背負って歩き始めた。僕の膝からは血が流れ続けた。母さんは片足を引きずっていた。灯りはなかなか近づかない。僕と母さんのずるずるした歩みと短い呼吸の音が、暗い道に足跡をつけているようだった。
ようやくドニの町へ入った。僕は、母さんの背中から降りて、母さんに肩を貸した。
町の空気は、チクチクと細かい針になって全身を刺す。夜遊びに興じる人さえ、僕たちを見てひそひそ話をしている。僕たちはなるべく顔を上げないようにして教会へ急いだ。
真夜中の教会は暗くて、ひんやりして、女神様の像がうすぼんやりと明かりに照らし出されているだけだった。
僕たちはもう一歩も動けなかった。今はただ眠りたい。足も、腰も、背中も、肩も、頭も痛かった。目が霞んで母さんの姿もよく見えない。僕は倒れたまま母さんの手を探したけど、見つける前に眠ってしまった。
「困ったことになった」
「如何されたのですか、神父様」
「いや、夕べの……」
「あの親子のことですね」
誰かの話し声がする。ばあやと執事さんかな、僕は悪い夢を見ていたのかと、目を開けて辺りを見回した。
何も見えなかった。
僕のいるところは暗かった。そっと見上げると壁の上の方にキラキラした光が映っている。窓があるんだ。いったい僕はどこで寝てしまったんだろう……もう朝が来たのか。寝坊したら朝ごはんが無くなっちゃう、母さんを起こしにも行かなきゃだし、起きて……!
痛い、身体中が痛い、ずきずきして身体が動かない、どうしたんだろう?
「えっ? 領主様の?」
「しっ! 声が高い」
「申し訳ありません、でも、本当ですか? 本当なら……」
「本当だ。あの子が産まれた時、私は洗礼のために領主様のところへ行っている。セシリア様が抱いてらしたが、母親らしき女も見かけている。たぶん夕べの女だ」
「まあ。でもあのままでは……」
「ああ、しかし、もう屋敷の手の者が来るだろう。私は出掛けるから、知らずに泊めました、で通せ。あの親子にかまうなよ」
「でも、それではあまりに……」
「何を言っている? 領主の怒りを買ったら大変なことだぞ? 教会と言えど、何をされるか……」
「ああ、なんと哀れな」
「いいな、うまくやってくれよ」
領主様、セシリア様……、ああそうだ、僕は母さんとあの屋敷を追い出されて、ドニの教会に逃げてきたんだ。屋敷の手の者って……大変、逃げなきゃ、でも動けない。母さんはどこ?
「母さん……」
声は出た。
「母さん? どこ?」
僕は思いっきり体に力を入れて起き上がった。
「気がつかれましたか?」
さっきの話し声の人だ。僕の近くにいる。
「母さんはどこですか?」
「大丈夫ですよ。……ごめんなさい、場所を移って頂けますか?」
ああ、追い出されるんだ、ここも。
「はい、解ります。ご迷惑はかけられません」
だんだん目が慣れてきて、シスターの法衣が青だということがわかった。
「旅のかたをお泊めしたのです。迷惑ではありません、……でもごめんなさい」
僕は立ち上がって、裏口から外に出た。辺りがざわついている。
「北へお行きなさい。マイエラ修道院に。オディロ院長様のお導きをお受けなさい。私にできることはそれだけです。本当にごめんなさい。早く! 走ってお行きなさい!」
シスターはそう言って、胸のロザリオをしっかりと握った。
また走らなきゃ。
でもとてもじゃないけど走れない。母さんはまだ片足を引きずっている。僕たちは北を目指した。できるだけ早足で、北へ向かう。夕べ降った雨のせいで地面が冷たくなっている。僕たちは水たまりに足を取られながら転ばないように気をつけて歩く。日が昇ってくるとどんどん熱くなって汗が流れる。でも足元が冷たいから僕は体の力がどんどんなくなっていくような感じがしていた。母さんもはあはあと苦しそうな息をして歩き続ける。遠くにかすんで見えていた建物がはっきり見えてきた。きっとマイエラ修道院だ。石橋の冷たさが全身を震わせる。
教会の入り口に誰かいる。きっと教会の人だ。そのお坊様は僕たちをいぶかしそうに見る。僕は少し怖かったけれど、息を整えて、言った。
「オディロ様にお会いしたいのです」
「なんだね? 君たちは。怪我をしているじゃないか。そのなりで礼拝堂に入ってはいけない。オディロ院長様はお忙しいのだよ」
「お願いします、行くところがないんです、お導き下さい」
僕はさっきのシスターの言葉を真似た。「助けて」じゃ、きっと追い返されただろう。お坊様は、少し困ったような顔をしたけれど、「いらっしゃい」と言って、大きな扉を開けてくれた。
扉の中は礼拝堂だった。なぜか僕の中に怒りに似た感情がわいてきて、女神像を見ることができなかった。いけない、女神様に恨み言を言おうとするなんて……。
お坊様は、礼拝堂にしつらえてある小部屋に案内してくれた。僕たちはほとんど倒れ込むようにしてそこへ入った。しばらくして、青い騎士服の大柄なおじさんがやって来た。
「私はマイエラ修道院聖堂騎士団団長のガルシアと申す。オディロ院長様がお会いになるのでついてきなさい」
ガルシアさんは礼拝堂の奥、噴水のある中庭の更に奥の建物に僕たちを連れて行った。らせん状の階段を上がると、綺麗なステンドグラスの窓のある丸い部屋があった。そこで小さなおじいさんが僕たちを迎えてくれた。
「オディロ院長様です」
僕は、院長様を見るなり泣いてしまった。どうしてかわからないけれど、院長様の目を見たら涙があふれてきて止まらなくなってしまったんだ。院長様は優しく僕を撫でて下さるから、僕はもっともっと涙がこぼれ、部屋の床に水溜まりを作ってしまった。
ガルシアさんは燭台の乗ったテーブルに小箱を置いて部屋を出ていった。
「手当てをしようのう。そこへお座り」
僕は母さんと並んで寝台に座った。院長様の手が傷の近くにかざされると、痛みがすうっと引いた。温かい血が送り込まれたような不思議な感覚だった。膝の血も止まっている。母さんも不思議な顔をして、引きずっていた方の足を曲げたり伸ばしたりしていた。院長様は小箱からビンを出して傷を拭いてくれた。その後包帯を母さんの足首に巻いた。母さんの顔から痛みがひいたように見えた。
「少しはましになったじゃろう? しばらく休むといい。わしはいつでも居るから、話したいことがあればいつでも……」
「院長様、いつまでもはいられません、きっと。……どうかお導き下さい。話を聞いて下さい、お願い致します。母を助けて下さい」
僕は院長様の法衣の裾にすがって必死で言った。院長様は、ふむふむ、では聞こう、とおっしゃって胸のロザリオを両手に包んだ。
2
「……やはり、ドニの領主の家の者じゃった」
「では噂は本当なのですね? 使用人に子を産ませ、正妻に子ができたからと母子を追放したと言うのは」
「耳に入ってくる話は、どれが真実かはわからぬ。じゃが、あの母子が行き先がなく、このままでは路頭に迷うことは事実じゃ。ガルシア、いたずらに噂が広まらぬよう団員たちに目を光らせておくれ。大切なのは、あの者たちのこれからの人生じゃ」
「承知いたしました」
「ともかく、身体が回復するまではわしの客人ということにしようのう。食事などは、すまんが、お前さんか、そうじゃ、見習い生のマリオンにでも頼むとしよう」
こうして、アナマリアとマルチェロ様はマイエラ修道院で静養することになりました。オディロ院長は、毎晩二人の部屋を訪ね、二人のために祈りの言葉を紡ぎました。
二人が修道院に駆け込んでから5日ほど経った日のことです。院長室にガルシア団長が呼ばれました。
「今日はなにやら騒がしかったが?」
「はい。実は、ドニの住民でしょうか、例の二人がここにいると嗅ぎ付け、酔って大声で色々なことをわめき散らしまして。ドニの領主は人でなしだなどと……」
「そうであったか。して、町の様子はどうじゃった?」
「はい、領主は息子を自慢して歩いているそうです。昨日は酒場であの二人のことを尋ねた者と喧嘩になったそうです」
「ふむ……。マルチェロが屋敷に戻ることは難しいのう。母親が戻ることはまず無理だと思っておったのじゃが」
「マルチェロはまだ8歳です。母親と離すのは……」
勿論オディロ院長も、親子が共に暮らす道を模索しておりました。
「そうじゃのう……。ところで、二人の身体の具合はいかがじゃろうか。わしはもうほぼ回復したと見ておるが」
「はい、私にもそう見えます」
「では、今後のことを考えることにするかのう。明日、もう一度二人の話が聞きたい。朝食が済んだらアナマリアを、昼食時にマルチェロをここへ呼んでおくれ」
「かしこまりました」
ガルシアは、院長はなぜ二人一緒にお会いにならないんだろうかと思いながら、院長室を辞しました。
ガルシアが騎士団宿舎二階の団長室に向かう途中、団員たちが誰かの部屋に集まってひそひそ話しているのが聞こえてきました。昼間の騒ぎのことでしょうか、時々、領主とか、メイドとか言っているのが聞き取れます。
「おい、噂話に惑わされるな。院長様もそう仰せだ」
「あっ、ガルシア団長。違うんです。噂でなくて」
「噂でなくて何だ? あの二人のことは院長様がきちんとお導き下さる」
いえ、そうではなく、と、騎士団一の情報屋であるカミーユが言いました。
「今日、修道院に来た男、あれはドニの領主の家にいる者です」
「何だと? 確かか?」
カミーユは、聖堂騎士団員になりたての頃から少々素行の悪い、まだ15歳の少年でありました。美少年でありながら、不思議と目立たず、態度も紳士的なために15歳には見えないほど大人びていて、酒場に行けば様々な情報が勝手に入って来るのでした。
「すみません、こっそり酒場に出掛けたとき、あの男を見かけていたんです」
カミーユは、ちょくちょく修道院を抜け出してドニに遊びに行きます。ですから、乱暴な領主のこと、マルチェロ様のこと、セシリア様に子が産まれたことなど、あらかたのことは知っておりました。
「それがどうかしたのか?」
「ええ、その男、執事だと思うんです」
「何、執事だと? そんな人間がなぜ昼間から酔ってあのように? いや、あの男、身なりが貧しかったぞ。領主の家の執事であれば、あんな姿ではあるまい」
「だからおかしいと思ったんです。酔っている風でしたが、取り押さえた時、酒臭くなかったんです」
「そうか? カミーユ。俺は酒の臭いがしたと思ったぞ」
口を挟んだのは副団長のアーネストでした。
「確かに酒の臭いがしました。でも、それは服に染み付いたもの。本人から発したものではないです。間違いありません」
のらりくらり他人の言葉をかわし、どんな場にあってもうまく立ち回るカミーユが、はっきりと主張するのは珍しいことでした。
「カミーユがそこまでいうなら本当だろうな。しかし何のために……」
ガルシアが考えこんでしまったので、皆も口を閉ざしました。
「まあいい。あまり詮索するな。一般人の女と子供だ」
そうですね、と、煮え切らないまま話が終わり、皆それぞれ部屋に帰って行きました。
3
「院長様、アナマリア殿をお連れしました」
「ガルシアか。ご苦労様。お入り」
ガルシアに連れられてやって来たアナマリアは、肌つやもよく、すっかり健康になったように見えました。
「では私はこれで……」
「ガルシア、マルチェロはどうしておる? 母親だけ連れて行かれて不安がっていないか?」
「いえ、聞き分けよく、書物を与えたら熱心に読んでおります」
「そうか。ならば安心じゃ」
ガルシアが退出したので、院長はアナマリアに椅子をすすめました。アナマリアは黙って掛けました。
「アナマリア、修道院は暗くてさみしいじゃろう」
「いえ、そのようなことは。皆様にご迷惑かけられません」
なかなか常識的なことを言う、と院長は思いました。
「アナマリア、お前さんはいくつじゃ?」
「24歳です」
「マルチェロはいくつじゃったか?」
「ええと、7、いえ、8歳でした」
「ずいぶんしっかりした子じゃな。感心じゃ。お前さんがきちんと教えたのかの?」
「あの、いえ……」
院長はわかっていて質問を続けます。
「本が好きなようじゃな。文字も上手い。礼儀作法も子供らしくないほどきっちりしておる。屋敷の者が教えたのかのう?」
「はい。そうだと思います」
やはり、我が子と離されていたんじゃな、と院長は思いました。
「これからは親子二人で生きて行かねばのう」
院長のその言葉に、アナマリアはっとして顔を上げました。
「二人で……」
そう言うと両手で顔をおおい、しくしく泣きはじめました。
「住み込みで働けるところがあればよいが」
オディロ院長はさらりと言いましたが、アナマリアはさらに激しく泣きじゃくりました。
「すまぬ、すまぬ。泣かなくてもよい。どこか行きたいところはあるのかな? お前さんはどこの生まれかな?」
院長は、アナマリアがパルミドから流れてきたことも知っていて聞きました。
「ドニから離れたくありません。旦那様に拾って頂きました。奥様に優しくして頂きました」
「恩があるというのじゃな」
院長は、アナマリアが屋敷を追い出されたこの状況をわかっているのかどうか疑問でした。アナマリアはうつろな黒い瞳を院長に向けて力なくうなずきます。
「戻りたいのかの?」
院長はまさかと思いましたが、尋ねました。
「はい。帰りたい。奥様のおそばで暮らしたいです」
院長がこれまでに聞いた奥方様の噂は、美しいが情が薄いというものでしたので、アナマリアの言葉から本当の奥方様の姿が見えてくる気がしました。
「しかし、マルチェロをなんとする?」
院長は、アナマリアにも言いましたが、マルチェロとともに住み込みで働ける、貴族か役人の家にメイドとして入れないものかとずっと思っていました。二人ともよく働き、性格もおとなしく真面目でしたので、どこへ行ってもやっていけるだろうと。しかし、アナマリアを見るにつけ、どうにも扇情的な容姿ばかりが目につきます。まだ24歳、これでは悪い人間に利用されかねません。誰かよい人はいないものか、と院長は思いました。アナマリアをきちんと正妻として迎えてくれるような。しかし実際、きちんとした身持ちの固い人物は、メイドあがりで子連れの女を嫁に迎えることなどまずないと思われました。
母子が離れてしまいますが、アナマリアをシスターとして尼僧院入れ、マルチェロをマイエラの孤児院に入れるのが第二に良い選択だと院長は考えていました。しかしそれはマルチェロが納得しない。あの子が母を必要としているらではない。アナマリアを一人にしてしまったら「母は何をするかわからない」と言いそうだ、と思ったからです。
「マルチェロは旦那様の子です。屋敷を出されるいわれはありません。私はメイドです。屋敷に戻って仕事をしたいんです。奥様にお会いしたいんです」
アナマリアの気持ちはわかりますが、今回のことがなくても、正妻の子とメイドの子が同じ家で領主の子として暮らすのは不可能に思えました。いずれ跡目相続問題につきあたることは自明のこと。その時までに兄弟に確執が生まれ、屋敷の勢力は二分されるでしょう。そのような問題は世界中どこにでも存在していましたが、救いを求めてきたこの親子をその渦中に戻すことは院長の本意ではありませんでした。
「アナマリア、親子仲良く、二人で暮らしてはどうじゃ? しっかりとマルチェロを育てて……」
「マルチェロはドニの子です。私は奥様のところに帰りたい」
いくら母子が離されていたとはいえ、これは根が深い、もう少し様子を見るしかない、と院長は思いました。
院長はアナマリアを部屋に返し、マイエラの情報屋カミーユを呼びました。
「噂でもよい、聞いたことを教えておくれ」
カミーユは今までに聞いたことを全て話しました。
マルチェロ様が生まれても領主は家庭をかえりみず、カジノ遊びに興じ、奥方様に乱暴を働いていたこと。かといってアナマリアを大切にするわけではなく、母子を離していたこと。マルチェロ様にはことさら冷たくあたり、暴力をふるっていたこと。マルチェロ様は領主と奥方様の子として、奥方様に世話をまかせっきりにしていたこと。教育は女中頭が行い、最近は執事と家庭教師がついていたこと。ククール様が生まれてからは領主は人が変わったようにククール様と奥方様の世話をし、家にいるようになったこと。
そしてアナマリアと奥方様は、並々ならぬ関係かもしれない、ということ。
*****
「マルチェロを連れて参りました」
「ご苦労様」
ガルシア団長はマルチェロ様と一緒に院長室に入りました。
「マルチェロや、おかけ」
「はい」
マルチェロ様は緊張気味でしたが、院長がベッドに気楽に腰かけたのを見て少しほっとした表情を見せました。
「マルチェロ、修道院は初めてじゃろ? 楽しいところではないし、むさ苦しい男どもばかりがうろうろして嫌じゃったろう」
院長はにこにこしながら、ちらりとガルシアを見て言いました。しかしマルチェロ様は真っ直ぐに院長を見て言いました。
「いえ、滅相も! 雨露をしのげるばかりでなく、三食の食事まで頂いていますのに、何のお手伝いもできず、大変申し訳ないと思っております」
ほほう、と院長は感嘆の声を上げました。
「ガルシア、なんと賢い子であろう? まだ8歳じゃ」
「はい、仰せの通りでございます。礼儀正しく、我が聖堂騎士団の見習いの者たちよりはるかにきちんとしております」
「マルチェロや、勉強は好きかの?」
「はい。私は知らないことがたくさんあります。修道院にはたくさんの書物があって、とても楽しいです」
「ほほう、そうか、そうか。感心じゃ。まだ8歳というに」
「院長様、私はもうすぐ9歳です」
「そうか、そうであったか」
院長は、わっはっは! と楽しそうに笑いました。そしてガルシアを退出させました。
「マルチェロや、お前さんは苦労してきたのう。母と共にの」
「いえ、苦労など……」
「母上は働き者じゃ。これからは二人で仲良く暮らしてはどうかの?」
「……」
マルチェロは様うつむいてしまい、返事をしませんでした。
院長室に騎士団の剣を合わせる音が入ってきました。レイピアの金属音は、幼いマルチェロ様の心に冷たく刺さります。
「院長様、私たちが屋敷を出されのたは、奥様に赤ちゃんが……ククールが産まれたからですね。私の母はメイドですから」
「そうじゃろうな」
「では、なぜ、私は産まれたのでしょうか」
マルチェロ様はぱっちりとした翡翠色の瞳を院長に向けて言いました。
「ククールが生まれて、旦那様はとても喜んでおいででした。毎日抱いて、あちこち連れて行って……。私がそうしてもらえなかったから、羨ましいというわけではありません。奥様も嬉しそうにされて……。奥様は私をとても可愛がって下さいました。奥様は、私の母をいつも気遣って下さって。屋敷を出される時も、奥様は旦那様に抗議して下さって……」
マルチェロ様はしくしく泣き始めました。院長はマルチェロ様の側に行き、優しく背中を撫でます。
背中に暖かいぬくもりを受けながら、薄幸の少年は嗚咽をもらしてぽろぽろと涙を流しました。
「……院長様、どうして私は生まれたのでしょう。私が生まれたばかりに、母も、奥様も、旦那様も……きっと、ククールも、困っているんです。私は、生まれないほうが、よかったんです」
院長はマルチェロ様を抱きしめました。ひっくひっくとこみ上げながらも、マルチェロ様は懸命に言葉を続けます。
「私は、どこへ行って、どうすればよいのでしょう。母は、まだお屋敷に戻りたいと……。あそこにはもう居場所がないのに。私と母の居場所なんて、ないのに」
騎士団の剣の音が激しい訓練を物語っています。マルチェロ様は、ばあやの言った「七人の敵」のことを考えていました。
「よしよし、泣かずともよい。マルチェロや、この世に生まれないほうがよかった人間など一人もおらん。女神さまのお慈悲は身分、性別など関係なく皆に注がれているのじゃ」
「では私は何のために生まれたのですか? 母のためですか? 旦那様のためですか?」
「それはわからん。それは、お前さんが見つけることじゃ。しかし、一つ言えることは、お前さんは自分のために生きる必要もあるということじゃ」
「自分のために……ですか?」
「そうじゃ。いずれお前さんは生きる術を見つけるときがくるじゃろう。そして、お前さんのために生きる人も必ずや現れる。そういう人たちに囲まれた時も、自分を見失わないようにするためじゃ。自分のために、というのは、楽をしたり自分の都合のよいようにするということではない。いかに人々や世の中のために働ける人間になれるか、ということなのじゃ」
マルチェロ様が考えこんでしまったので、院長は「ちと難しかったかのう」と言いました。
「院長様、強いことはよいことですか?」
「そうじゃのう、人は皆、強くありたいと願うものじゃ。しかし、間違った強さを求める者が多いのじゃ。そして、ある者にとって利となる強さが、別の者にとっては利とならないことがおきる」
マルチェロ様はまた考え込んでしまいました。
「すまんのう、また難しいことを言ってしまった」
マルチェロ様は、院長が自分を一人前の人間として扱ってくれることをうれしく思いました。
「院長様、今はまだ院長様のおっしゃることがよくわかりません。ただ、私は強くありたいと思っています。間違った強さを求めないようにしていきたいと思います」
「ふむふむ、感心じゃ。お前さんは真っ直ぐじゃ。母御も安心じゃろう」
院長は、マルチェロ様にそう言いましたが、この親子の心の隔たりは大きく、共に暮らしていくのは苦労が多いだろうと思いました。
「母ともう少し話してみます。でも、母はいつもぼんやりしています。……病気でしょうか」
そう、それも問題じゃ、と思いました。何より、アナマリアはマルチェロと共にあることを願っていない。院長は目の前の利発な少年の翡翠色の瞳をしっかりととらえて言いました。
「マルチェロや、最も大切な強さとは何か解るか?」
マルチェロ様は、小首をかしげて「意志、ですか?」と尋ねました。
「意志、か。それも大切じゃ。しかしわしが考える最も大切な強さは、許すということじゃ」
「許す?」
「許可、という意味ではない。それは優しさの上に成り立つ。今は解らずともよい」
院長は立ち上がり、「部屋まで参ろう」と言いながら、マルチェロ様を促しました。
「マルチェロや、精進し、優しくあるのじゃ。よいな」
「はい」
アナマリアのいる部屋へ戻っても、幼いマルチェロ様の心には聖堂騎士団のレイピアの音と、院長の言葉が深く刺さったままでした。
アナマリア>マルチェロの母。黒髪、セクシーな見た目。子供っぽく素直な性格。
領主の屋敷とドニの町は少し離れている設定です。マルチェロは小さい時から利発で我慢強く真面目だったことでしょう。
次は、マルチェロの母がかわいそうなことになります。