主な登場人物:マルチェロ、アナマリア(マルチェロの母)、オディロ院長、ニノ司教、ドニ教会のシスター
1
生家であるドニの屋敷を追い出されて10日ほど過ぎた頃、アナマリアはマルチェロ様をマイエラ修道院に預け、仕事探しに出かけるようになりました。ドニの屋敷へ戻るにしても、まだ時期が悪い、まずは他で働きながら機会を待った方が良いと、オディロ院長に説得されたからです。
今日は船着き場から船に乗り、ポルトリンクに来ています。
港町の宿屋の女将は、値踏みするようにアナマリアを下から上へ眺めました。
「うちは人手不足でね。大歓迎だよ。でも、あんたみたいな綺麗な人が宿屋の掃除なんかでいいのかい?」
「はい」
「住み込みできるかい? あんたみたいに若い人に来てもらえるなんてうれしいね。いつから働けるかい?」
「明日からでも」
「本当かい? そりゃ助かるよ。じゃあ明日の夕方までには来とくれ。あんたの住まいは?」
「ドニです」
「そうかい。ドニではどんな仕事を?」
「はい、ある方のお屋敷でお掃除をしていました」
「それならここの仕事にもすぐに慣れるよ。小さい宿屋だしね。ただ、忙しいよ」
「はい、大丈夫です。よろしくお願いいたします」
修道院へ戻ると、オディロ院長も喜んでくれました。
「そうか、アナマリア、よかったのう」
「はい、院長様のおかげです。ありがとうございました。早速明日から働きます」
「マルチェロのことは心配せんでいい、ここには孤児院があるでのう」
オディロ院長は女神様に親子の幸せを祈りました。
元来働き者のアナマリアでしたので、宿屋での仕事も熱心にすることができました。仕事に没頭することで他の心配事から意識を離したかったのかもしれません。
「アナマリア、仕事は慣れたかい?」
「はい。おかみさん。もう20日も過ぎましたし、だいたいわかるようになりました」
「あんた仕事が早いから助かるよ。今日はドニへお使いに行ってほしいんだけど、いいかい?」
「はい、行って参ります」
アナマリアは領主の屋敷だったらどうしようかと思いましたが、教会と聞いて安心しました。
「アナマリア?」
定期船を降り、マイエラ修道院をすぎて二股に別れる道の辺りで若い男が声をかけてきました。
「はい、なんでしょう? あら? この前宿屋にお泊まりの……」
「そう、よく覚えててくれたね。俺、ドニに行くんだけど、君は?」
「はい、ドニの教会へ」
男はそう、と言って二人は何となく並んでドニへ向かいました。アナマリアが教会で用事を済ませると、男は教会の外で待っていました。
「ポルトリンクへ戻るんだろう? 一緒に行かないか?」
男は紳士的でした。アナマリアは、セシリア様を一目でいいから見たいと思っていましたが、教会のシスターに、まだ領主を警戒しておいた方がよいと言われ、仕方なく諦めていたところでした。
太陽も傾きかけていたので、二人は急いでポルトリンクに向かいました。マイエラ修道院に寄る時間もありません。
マイエラ修道院を通りすぎ、橋を渡ってしばらく行った辺りで、男が急にアナマリアを森に引っ張って行きました。
「何をするんです!」
「黙れ!」
男は短剣で脅しました。
紳士的な態度の男にすっかり打ち解けて、アナマリアも安心して会話を楽しんでいたというのに、男は獲物を捕らえた狼のように豹変し、喉元に短剣を突きつけます。
「大人しくしていれば……」
「や、やめ……」
男はアナマリアを殴りつけ押し倒し、口を押さえ、乱暴にスカートをめくりあげました。アナマリアの脳裏に、領主に乱暴された記憶がよみがえってきました。男と領主の姿が重なります。
「あんたが、こんな身体だからいけないんだ。宿屋に来る連中だってみんなあんたを……」
アナマリアは必死で抵抗しましたが、男の膝がアナマリアの両足の間に入ってきます。
アナマリアは、男が自分の服に手をかけた瞬間、口を押さえている手を思い切り振りほどき、逃げようとしました。しかし男は予想していたのでしょう、素早くアナマリアの腕を捉え、短剣を振りかざして首筋にあてました。
「動くと刺すぞ」
男は低い声で脅します。冷たい短剣の先がちくりと刺さりました。
「いやぁー!!」
アナマリアの絶叫が暗い森に響き渡りました。
「何だ?」
「森の方だ」
誰かの声がしましたが、恐怖に震えているアナマリアは気づきません。
男は再びアナマリアを押さえつけ、乱暴に服を引き裂きました。
「きゃーっ!」
「どこだ」
「魔物に襲われているのかも知れない」
ちょうど周辺の見回りをしていた二人の騎士団員が、アナマリアの叫び声を頼りにやってきました。
「貴様、何をしている!」
男はあっという間に逃げていきました。放心状態のアナマリアは無事に保護され、騎士団員とともにマイエラ修道院へ行きました。
「また助けて頂きました。ありがとうございました」
「辛かったであろう、騎士団員が近くにおって本当によかった。今日はここで休んでいくがよい」
「……いえ、忙しいですし、届け物もありますので宿屋に戻ろうと思います」
「ではガルシア、アナマリアをポルトリンクまで送ってやりなさい。事情もきちんと説明して」
「承知しました」
団長のガルシアに伴われ、アナマリアはポルトリンクの宿屋に戻って行きました。
「アナマリア、大丈夫かい? 悪かったね、休ませてやれないで……。今日は大事なお客様がいらっしゃるんだよ。貸しきりでね」
「おかみさん、大丈夫です。すみません、ご心配かけて」
アナマリアは暴漢に襲われたショックも抜けきらないまま、気丈に仕事を続けました。
「そうそう、アナマリア、奥へお通ししたお客様、何でも身分の高い方でね。お忍びで南の大陸へ渡るそうだよ。悪いんだけど、お食事を運ぶのを手伝っておくれ」
アナマリアは女将に付いて給仕に行きました。
その客は地味な法衣を纏い、ギラギラと趣味の悪い宝石を身につけていました。
「おかみ、世話をかけるな。これはとっておいてくれ」
「まあまあ、このように、お気遣いには及びません」
女将は口では断りながらも、重たい銭袋を受け取っていました。
アナマリアはそのやりとりを見て見ぬふりをしていましたので、高僧がいやらしい視線を向けているのに気づかずにおりました。
夜も更けた頃、アナマリアのところに女将がやってきました。
「……アナマリア、悪いんだけど起きておくれ。さっきの、例のお客様にぶどう酒を届けてくれないかい? 今日は酒場の方がにぎわっててね。人手が足りないんだよ。そのかわり明日は休みをとってくれていいから……」
アナマリアは疲れ果てていましたが、仕方なく白いエプロンを付けて奥の客間に行きました。
「失礼致します。ぶどう酒をお持ちしました」
5時間前と同じ部屋であるのに、今はひっそりと暗く、中央のテーブルの蝋燭も消えかかっています。アナマリアはぶどう酒を置いて蝋燭を換えようとしました。
「換えずともよい。私がやろう。よい香りの蝋燭を用意してある」
奥から高僧が現れ、蝋燭を付けました。とたんに強いムスクの香りが漂い始めました。
「ぶどう酒の香りが解らなくなると思うかね」
アナマリアは、何と言ってよいかわからなかったので黙ってぶどう酒をグラスに注ぎました。
「では失礼致します。ごゆっくり」
アナマリアは丁寧にお辞儀をしました。ゆっくりと頭を上げると、高僧の姿がありません。何か気に障ることを言ってしまったかと思い、急いで部屋から出ようとしました。
扉の前に高僧がおりました。
「ぶどう酒を一杯だけ付き合いなさい」
高僧の小さな目がアナマリアを下から上へ舐めるように動きました。アナマリアは金縛りにあったように立ち尽くしました。
高僧に手をとられ、椅子につかされ、ムスクの香りの中でぶどう酒を無理やり飲まされ、同時に意識を奪われました。
「ほう、よく効くぶどう酒だな」
高僧が何か言ったようですが、もはやアナマリアは夢うつつの境地に入り、身体が解放されたことだけしか意識できませんでした。
2
「目が覚めたかね」
アナマリアは馬車に揺られていました。
「あっ?」
アナマリアは薄物のドレスを着せられていました。隣を見ると、いやらしい小さな目をしたゆうべの高僧がおります。高僧はアナマリアの手を取り、撫でながら言いました。
「心配せずともよい。わしはニノ司教。そなたを身請けした。これからはわしの別邸で暮らすがよい。アナマリアとか申したな、そなたは素晴らしい。わしの自慢の、最高の尼僧として仕えるがよい」
ニノは小さな目をアナマリアの胸元に向け、ドレスをはだけさせました。
「なっ?」
アナマリアは舌が痺れて何も言えません。身体も動かすことができず、ニノのされるがままになっていました。
ニノはドニから東、山岳地帯のふもとの別邸にアナマリアを囲いました。
「そなたの肉体は罪だ。このまま下界を歩くことは許されぬ。女神様に慈悲を乞うのじゃ。わしは女神様にかわり、そなたの肉体の罪を清める」
ニノはそのようなことを言い、毎晩アナマリアの身体を好きにしておりました。アナマリアは暴力こそ受けませんでしたが、何か薬物を飲まされ、乱れ、いつも意識は虚ろでした。
「アナマリア、ドニに用事ができた。わしについてさえおれば、女神様もお救い下さる。馬車で待っておれ。馬車からわしの勇姿をしっかりと見ておるのだぞ」
アナマリアが連れて行かれてから、10日ほどたった頃でしょうか、ニノは普段より高級な法衣をまとっていました。アナマリアはいつにもまして露出の多い、高級娼婦が着るようなドレスを着せられて、豪華な6頭だての馬車の奥へ押し込まれました。アナマリアは、ニノに身体をまさぐられている間、ドニの奥方様のことを考えていました。
ドニの教会に到着すると、シスターが出迎えました。
「馬車は教会にとめておけ。話はつけてある。……それから、一応見張っておけよ。まあ、逃げようにも、あのドレスでははしたなくて馬車から出られまい」
ニノは御者にそう告げると、馬車をおりて行きました。
町の全住民が集まっているのでしょうか、たいそうな賑わいです。馬車の中まで人々のざわめきが聞こえてきます。アナマリアは懸命に身体に力を入れ、窓のカーテンごしにそっと外を伺いました。
しばらくすると、よちよち歩きの子供の手を引いて、領主が現れました。領主はうやうやしくニノにお辞儀をします。ニノは小さな子供の頭を撫で、領主一家を伴って教会に向かいます。見物人が一行の足元に花を撒き、行く道を祝いました。
アナマリアは必死で目を凝らしました。大柄な領主の後ろに、輝く銀髪がちらちらと見え隠れしているのです。
「お…くさ…ま」
喉の奥からしぼりだした声は、御者にも聞こえないくらいの小さなものでした。、
一行は教会に入って行きました。程なく、教会のシスターが馬車に近づいてきて、業者に言いました。
「ニノ様はもう一度領主様のお屋敷に行かれます。屋敷での祈祷がすみ次第お戻りになられます。その間、お連れの方に教会でお休み頂くようにと。ご身分の高いかたと伺っております。こちらのマントをお使い下さい。お身体がすっぽりと隠れます。お顔が見られないように、フードもおかぶり下さいませ。合図致しますので、教会の裏に馬車をお寄せ下さい」
アナマリアは、あの教会に奥様がいらっしゃる、ほんのわずかな距離なのにお会いできないなんて、と、悲嘆にくれました。
教会から再びニノと領主一行が出て来ると、今度は奥方様の姿がはっきり見えました。奥方様はククール様をしっかりと腕に抱き、女神様のような笑みを浮かべていらっしゃいました。
馬車のすぐそばで見物している女たちの話し声が聞こえてきました。
「まあまあ、ククール坊っちゃん、安心してよく眠ってらっしゃるよ」
「本当にねえ。美しいこと。女神様と天使様だねえ」
「領主様もすっかり人が変わられて。ククール坊っちゃんを自慢して歩かない日はないよ」
「今日は1歳のお祝いだろ? なんだか偉いお坊様を呼んで、奮発したもんだね」
「ああ、変われば変わるもんだよ」
「セシリア様は相変わらずお元気ないようだけどねえ」
「そういえば、あの親子、どうしただろうね……」
「……大きな声じゃ言えないけど、メイドはどこか行っちまって、マルチ……あの子は修道院に入ったそうだよ」
「本当かい? 領主様がメイドを探してるって話を聞いたけど?」
「違うんだよ。領主様じゃなく、……ほら、執事の……」
「しっ! 声が高いよ」
女たちの噂話はひそひそ声になり、何も聞こえなくなりました。
アナマリアは、自分の噂など意に介さず、「セシリア様がお元気ない」の言葉に胸が張り裂けそうです。
「マントを……」
御者に言われ、アナマリアは大人しくマントをかぶり教会に入りました。シスターは、まさかこの女性がアナマリアであることに気づいていません。下を向いたままで言いました。
「お疲れでございましょう。この部屋でお休み下さいませ」
それから2時間ほどたった頃でしょうか、ニノが教会に入って来ました。
「お疲れ様でございました」
シスターが迎えると、ニノは酒臭い息を撒き散らして言いました。
「少し休む。連れはどこにいる?」
「よくお休みでございます。こちらへ……」
シスターが案内すると、アナマリアはまだ眠っているようです。上掛けからドレスの裾がはみ出ていました。
「ああ、もうよい、下がれ」
ニノはシスターをうるさそうに追い払い、法衣を脱ぎ捨ててアナマリアにのし掛かりました。
「アナマリア……?」
思いがけずぺしゃんとした感覚に、ニノは少々飲み過ぎたかと思いました。黒髪をすいてやろうと手を伸ばすと、アナマリアの髪はニノの指を抜け落ちていくではありませんか。ニノは上掛けを剥ぎ取りました。
「なんだ、これは!」
そこにはアナマリアはおらず、丸めたマントがドレスを着ていました。頭の位置にはアナマリアの物と思われる髪がバッサリと切られて載せられています。
「どうかなさいましたか?」
外からシスターが声を掛けます。
「いや、何でもない」
いくらなんでも、シスターに情婦が逃げたなどと言えません。マントとドレスを乱暴にまとめて、馬車へ投げ込みました。
「探せ! まさか下着で歩き回れるはずがない。まだ遠くに行っていないはず。絶対に人に知られてはならん」
御者は密かに辺りを探しましたが、ドニの地理をよく知らない者に見つかるわけがありません。
惜しい、あの身体は惜しい。こんな夜に出歩いたら魔物に食われてしまう。もし人に見つかったとしても、そいつの物になってしまう。ああ、惜しい……。ニノは、アナマリアをドニへ連れて来なければ良かったと思いました。
「仕方がない。こうなったら関わりはなかったことにしろ。どちらにしても、あのままではいずれ……」
3
「お…くさ…ま」
奥方様の部屋のバルコニーにたどり着いたアナマリアは、窓ガラスを引っかきました。風の強い晩でした。アナマリアの意識は朦朧としていましたが、意識が少しでも戻る度に窓を引っかきます。
夜が最も深くなった頃でしょうか、奥方様は不快な音にとうとう目を覚ましました。部屋の灯りはとうに消え、月もなく、暗闇の中にキーッと小さな音が聞こえます。枝でも引っ掛かっているのでしょう、と窓際へ近づきました。
「……アナマリア? ……アナマリアなのね!」
闇にうごめく、愛しい女の姿を見間違うことはありませんでした。奥方様は、複雑な事情を全て包み込むように、アナマリアを抱きしめ、無言で涙を流しました。奥方様はアナマリアの身体を丁寧に拭き、小さな傷一つ一つを消毒し、清潔な服を着せ、朝まで優しく抱きしめました。
翌朝。
「奥様、お疲れのことと思いますが、朝食のご用意ができました」
「ああ、ばあやさん、今朝は要りません。疲れましたのでもう少し寝かせて下さい」
奥方様は扉の向こうのばあやに答えます。アナマリアがいることを絶対に知られてはなりません。ばあやは、ではまた参ります、と言い、階下へ行ったようでした。
「おくさ…ま」
「アナマリア、かわいそうに。言葉が出ないのですね」
アナマリアは力なくうなずきました。奥方様は、屋敷にいたときのアナマリアとは様子が違うとすぐにわかりました。何か、欝とは違う病気になっているのかもと。
それは2日後にわかりました。
「うっ、あっ、ください、あの、あっ」
アナマリアは目を白黒させて懇願します。大声を出しては屋敷の者に気づかれてしまいますので、苦しみに耐えに耐えていました。
奥方様は世間知らずではありましたが、学のある方でしたので、薬物中毒ではないかとすぐに想像がつきました。
何か対策を練らないと……。奥方様は一刻の猶予もないと思い、ご自分が使っている弱い精神安定剤をアナマリアに飲ませ、領主が出掛けるのを待ちました。
「ばあやさん、執事のエメットはどこ?」
「は、はい、只今」
奥方様が執事を呼ぶ時は、財務などに問題があるときですので、屋敷中に緊張が走りました。
「ばあやさん、ククールをドニで遊ばせてちょうだい。すぐにね」
「はい」
ばあやを表に出す時は、使用人に問題があるときですので、使用人全員が解雇を覚悟しました。
「エメット、マイエラ修道院に参ります。馬車を出して下さい。オディロ院長様にお会いします。目立たぬように」
エメットは緊張しました。変装していたとは言え、マイエラ修道院に騒ぎを起こしに行ったのは自分なのですから。
馬車はすぐに修道院に到着しました。
奥方様は、エメットに、あなたはお祈りをなさい。礼拝堂から出てはなりません、と厳しい口調で言い渡し、オディロ院長に面会を申し出になりました。
聖堂騎士団長のガルシアがすぐにやってきて、奥方様は院長室に通されました。
「オディロ院長様、お助け下さい」
奥方様は、院長の静かな目を見た瞬間に、全てを包み隠さず話そう、この方におすがりしよう、との想いに満たされました。女神様の代理人に初めて会えた気持ちでございました。
院長は、アナマリアはポルトリンクの宿屋で住込みをしていると思っていたので、大層心配しておりました。
「アナマリアをここへ連れて来ることはできないかね?」
「秘密裡にしております。衰弱も激しく、水しか受け付けません」
奥方様は涙を堪えておっしゃいました。
「残念ながら、このマイエラ地方によい医者はおらぬ。話はドニの領主に筒抜けになってしまうであろう。それだけは避けねば、セシリア殿も辛い思いをなさるかも知れぬ」
「オディロ様、わたくしはどうなっても構いません、アナマリアをお助けください……どうか、どうか……」
「では、セシリア殿がご病気ということにして、聖堂騎士団長のガルシアを医者に扮して派遣いたそう。ドニの教会には連絡しておくゆえ、そのシスターと共に伺いましょう」
「ありがとうございます。なんとしても命を助けたいのです」
「お話を伺うと、短期間でかなり重症になっているようですな。つらい治療になるかもしれませんぞ」
奥方様は気丈に振る舞っておいででしたが、院長の優しい眼差しにとうとう涙をこぼされました。奥方様のサファイア色の瞳からは、泉が湧き出るようにあとからあとから涙があふれ出し、薄紅のドレスを濡らします。
「セシリア殿はお優しく、誠に強いおかたですな。共に神の愛し子を助けましょうぞ」
ガルシア団長はオディロ院長の命を受け、3日に一度、ドニのシスターと共に屋敷を訪ねるようにしました。しかし、薬物は容易に体から抜けず、アナマリアは一向に回復の兆しを見せませんでした。
ある日、ドニのシスターがオディロ院長を訪れました。
「オディロ様、私にも責任があるかもしれません……。あの夜、屋敷を追われた二人にオディロ院長を訪ねるように勧めたのです。領主が追って来ることを恐れ、教会から追い出してしまったのです」
「いや、あなたに責任はない。もっとも、あのままドニの教会にいる訳には参らなかったじゃろう。よくぞ、わしの元へおくって下された。ニノ司教のような者にすがらず良かったと思う。マルチェロは元気じゃ。アナマリアをともに救いましょう」
「実は、アスカンタにおります私の母は、医術の心得があります。どうにかアナマリアを連れて行かれないかと」
「それはよい。なるべく早く連れて行けぬものか……」
「はい、ですが、アナマリアの様子が気になるのです」
「と言うと?」
「はい。アナマリアは全く食事を受け付けず、何より生きようという気力が見られません。セシリア様が側にいらっしゃる時は穏やかなのですが、席を外されると苦しみ出して、薬物を欲しがります。セシリア様の弱い安定剤を飲ませるのですが、それもだんだん効かなくなっています。今セシリア様と離したらどうなるかと思うと……。アナマリアを移すことを提案しましたら、セシリア様もそれはお嘆きになって……」
もう少しこのまま様子をみよう、ということになり、シスターはドニへ戻っていきました。院長はその姿を見送りながら、マルチェロに会わせてはどうか、と考えました。しかしシスターの話では、アナマリアは子供がいることももうわからない状態だと。院長の思いも複雑でした。
──アナマリアの命をつなぎとめているのはマルチェロではない……しかしあの子はまだ母を待っておる……わずかな可能性として……しかしまた、自分が母に必要とされていないとも感じておる……だが、命には代えられん……奇跡を信じてみるかのう。
このとき、院長も、シスターも、奥方様さえ、アナマリアとマルチェロ親子の再会がこんなに早く実現することになるとは思っておりませんでした。それはこの日から10日ほどで訪れたのです。
「院長様、ドニより急使です」
夜半から降り続ける雨は、夜明けとともに雷を伴って激しさを増していました。
騎士団見習いのマリオンがシスターを連れて院長室へ駆け込んで来ます。
「おお、シスター。アナマリアに何か?」
「アナマリアが急変いたしました。もう領主が何と言っておられません。騎士団長様にお助け頂きました、礼拝堂へ運んでおります」
「マリオン! マルチェロを礼拝堂へ」
院長はそう言い付け、シスターと礼拝堂へ向かいます。
「院長様! こんなことになってしまって」
「セシリア殿、よくぞ連れて来て下さった」
アナマリアは奥方様の膝にしっかりと抱きしめられ、力なく横たわっていました。
「女神様にお祈りしました、まだ連れて行かないで下さいと!」
「うむ、大丈夫じゃ。女神様は慈悲深いおかたじゃ」
奥方様の祈りの言葉と院長の「大丈夫じゃ」と繰り返す声は、女神様の元に届く前に雨音が吸い込んでしまうのではないかと思われました。
礼拝堂の扉が鈍い音を立てました。
「奥様?」
「マルチェロ!!」
マルチェロ様は尋常でない奥方様の様子にうろたえました。
「なぜ、奥様が?」
「マルチェロ、ごめんなさいね、わたくしに勇気がないばかりに……」
「マルチェロや、お前の母じゃ。声をかけてあげなさい」
マルチェロ様はふらつきながら静かに近づきました。
「……母さん? どうして?」
アナマリアは薄く目を開いていましたが、視線の先はマルチェロ様ではありません。
「アナマリア、アナマリア、愛しているわ。行かないでちょうだい。わたくしをおいて行かないで!」
奥方様は美しい銀の髪を震わせて涙を流し続けます。その間もアナマリアの目は奥方様から逸らされることはありません。アナマリアは自分の命の灯が消えかかっているのを、すでに悟っているようでした。少しやつれたものの、表情は穏やかで、慈悲をたたえた女神像にさえ見えてきます。やがて、頬に一筋、涙の道を作り、黒曜石のような瞳は永遠に閉じられました。
そのままアナマリアはマイエラ修道院で荼毘に付されました。
そしてその葬儀の後、オディロ院長とセシリア様はつぎのような約束を交わしました。
「わたくし、セシリアは長男マルチェロと今後何の関わりも持たないことを誓います。また、アナマリアに関する一切の事柄を封印することを誓います」
「セシリア殿、まことに辛い誓いをたてていただき申し訳ない」
「いえ、全てはマルチェロを守るためです。それがアナマリアに対するわたくしの罪滅ぼしになるとは思えませんが、今のわたくしにできることは、院長様の仰せに従うことだけでございます」
「女神様のご加護が末長くあらんことを……」
「……最後にマルチェロを見せて下さい。遠くからで結構です」
「では中庭に控えさせましょう」
奥方様は、院長の後ろを静かに歩いて行きました。院長の館から短い橋を渡り、中庭に出ます。
噴水の向こうには、こちらに静かにこうべを垂れる一人の少年。ゆっくりと上げたその顔は、奥方様の見たことのない、成長した面差しでした。
奥方様は「どうか達者で」と小さくおっしゃり、雨に溶け込むような美しい銀の髪をなびかせて中庭を後にしました。
産みの母を亡くし、育ての母を失くし、マルチェロ様の心は、孤独という固いガラス瓶の中に入ってしまったようでした。しかも、内側からしっかりと鍵をかけて。同時に、憧れとも恋ともつかない奥方様への感情も、ガラス瓶の中に永遠に閉ざされました。これは間違いなく、マルチェロ様のはつ恋であったのでしょう。
4
「院長様……」
「マルチェロや、これからどうしたい?」
母親の葬儀から数日後、院長はマルチェロ様を院長室に呼びました。
マルチェロ様の瞳は力をなくし、その身体も一回り小さくなってしまったようでした。
「お前さんはかわいそうだと思う。9歳になったばかりだというのに親を亡くして。しかし、これは不幸ではないのじゃよ」
マルチェロ様は、院長から慰めの言葉をかけてもらいたかったのかも知れません、「不幸ではない」と聞いて少しびっくりしました。院長は、そんなマルチェロ様の心を静めるように、深いしわの刻まれた自分の手でマルチェロ様の冷たい手を包み、ゆっくりと話します。
「いやいや、幸せである、とは言えないからじゃ。人は幸福か不幸かの二つに分かれる訳ではない。お前さんの母親は確かに不幸だったかもしれぬ。多くの人が不幸だったと言うじゃろう。しかし、お前さんと奥方に看取られ、ああも穏やかに旅立ったことは不幸じゃと思うか?」
「わかりません。では死ぬことは不幸ではないのですか?」
「ちと難しいかのう。母御は短い人生を精一杯生きたのじゃ。身に降りかかる運命を受け入れ、耐え、そうして懸命に生きたのじゃ。何も悪いことはしておらん」
「私はどうしたらいいのでしょう。もうわかりません。生きる意味がわかりません」
「生きる意味などわからんよ。わしもわからん。ただ、ここにこうしていることは、女神様によって生かされている、ということじゃ」
「ますますわかりません」
「ドニへ帰りたいか?」
マルチェロ様は混乱していました。院長は母親を亡くしたばかりの9歳の少年に厳しい選択をさせようとしています。そのくらいの覚悟をさせないと、この真面目で賢い少年は道を誤ってしまうだろうと院長は考えたからです。
「……」
「ドニへ帰りたければそれもよい。お前さんは間違いなく領主の子であるのじやから」
「でも、あそこにはククールがいます」
「そうじゃな」
「あそこに戻っても、前のようにはいきません。メイドの子に家庭教師をつけてくれるなんて」
ああ、哀しいかな、この少年は自分のおかれている立場をよくわかっている、そして自分ではどうすることもできないことを知っている……。院長は少年自身の口から答えが出るのを待ちました。今、院長がこうしろ、と決めたらきっとこの子は何の疑いもなく従うであろう、しかしそれでは、成長し振り返った時に必ず疑念が生じる、「これでよかったのか」と。
「よく考えるのじゃ、マルチェロ。わしはいくらでも相談に乗る。騎士団の者や修道士の者と話すのもよい。但し、みな色々な考えがあるじゃろう。また、人の言葉は真実のみを語るものではない」
「……はい。……答えが見つかるまで、ここにいてもよいのですか?」
「客人じやからな。何もせずともよいが、気が向いたら礼拝の時間には礼拝堂に来なさい」
「わかりました。ありがとうございます。またご迷惑をおかけします……」
マルチェロ様は、再び院長の館を訪れるまで、眠るとき以外は礼拝堂で祈り続けました。
ニノ>この時はまだ地方の司教。地位と名誉とゴールドと女に目がない。
公式ではマルチェロがククールをとても嫌っていたので、二人の母は逆にしてみました。
次もマイエラ修道院での話が続きます。