暗雲垂れこめる夜の間中、降り荒いでいた雨風と稲光のような戦火は、夜明けと共に落ち着いた様子だった。その事実を、キャスターは窓辺から射し込む陽光にて認知する。杖先で揺れるランタンの柔らかな明かりを精神的な支えに、宵闇の中で文字を追っていた彼女は、束の間、安堵したかのように息を吐いた。
パタン。と手元の本を閉じて、それを定位置へと戻せば、英知を集めた書物が金の背文字を光らせる。キャスターの背より高い書棚に隙間なく並べられたそれらは、どれも厳粛な面構えで、壮観だった。
歴代の祢屋家の頭首が蒐集してきたのだろう蔵書の数は、膨大と形容して差し支えない。少なくとも、本を保管する為だけに大部屋を一室、誂える必要があったのは事実なのだから。
(祢屋一族は確かに、栄華を極めた人々なのですね)
書庫を巡りながら思いも巡らせる。代々に渡り、血と権威を繋ぎ続ける。それがどれほど尊く、得難き事か。かつて、王朝に仕え、後宮に籍を置いていたキャスターだからこそ、偲ばれるものがあった。
(八千夜様は幸せなのでしょうか?)
余計なお世話だと言われるかもしれないが、やはり、キャスターには気がかりだった。ただし、その憂慮は主の身を純粋に案じたと断じるには、多分に自身の感傷を投影している向きもあった。
(――……おや?あれは)
そんな最中、物思いに耽っていたキャスターの視界の端に一枚の芸術が映る。額に入れられているわけでもなしに、埃っぽい書庫の最奥に安置されたその絵画には、布が被されてあったが、何の偶然か、今はそれが半分ほどズレており、そこに描かれている人物と目を合わせる事が出来た。
赤みの強い茶の髪と、仄かに濁った緑の瞳はそのままに、油彩画の主の姿は随分とあどけない。少なくとも10年は前の姿だろう。その後ろには父親と思われる男の姿も描かれている。以前、彼女が話していた通り、少女の母とでさえ親子ほどに歳が離れている。というその初老の偉丈夫は、まだ幼い娘の父親としては確かに、些か枯れた男と言える風貌をしている。
「…………」
目視で確認が取れた情報はそれだけ。しかしながら、その構図を鑑みるに、件の絵画が当代の祢屋家を描いたものであろう事は察せられた。ゆえに、キャスターが引っ掛かったのは、その絵画が何故、館の中心に飾られる事なく、このような寂れた場所に置かれているのかという謎。
親族たちが如何に彼女ら母娘を厭うているにしても、ここはそもそも、彼女達の為に建てられた館であるはず。であるならば、人目をはばかる必要などはないのが道理。だと言うのに、この絵画は何者かの手によって
「――……ッ」
瞬間、自身の考察に思わずと喉が鳴った。
(――ああ、なんてことでしょう)
唇からは震えた息が零れる。取り返しのつかない事をしてしまう。と分かっているのに、止められない自分の欲望が恐ろしい。ともすればそれは、死の恐怖にも並び立つ。
(ッ、そうです。いけません。こんな事をしては――)
葛藤の合間にも指先が布地に触れる。そして――
※※※
――その都には女がいなかった。
いや、正しくは若い娘の姿だけがない。そして、その事が関係しているのか、その男の顔色も優れなかった。端正なつくりながら、深い皺と疲労感が滲むその容貌には、どことなく、誰かの面影が宿っているようにも見える。
「――……
「……ああ、分かった」
空が白み始めると共にかかった静かな声に、この国の宰相は都を眺める目を細めて、低く重苦しく呟いた。
景色は、本のページが風でめくられるように理不尽に移り変わる。
「――……ヒッ、王よ、我らが王よ!!どうかッ、どうか!!お慈悲をッ!!」
この世の贅を凝らして建立された宮殿の中でも、一際、輝かしき後宮の最たる不可侵領域。本来であるならば、国の誇る最上級の美女たちが、王の寵愛に夜毎、嬌声をあげる場であるはずのその空間には、絹を裂くような悲鳴がこだましている。
「連れて行け」
「い、嫌、いやあッ、放してッ!!
厳とした命に、粛々と職務を全うする使用人。やおら、引きずられるようにして寝室を後にするは、理不尽を前に泣き喚き、髪を振り乱して暴れる若い娘。
(ああ――)
「私たち女がいったい何をしたと言うのですか!!」
深刻な諦観に占められた空間に、投げられるのは呪詛のような問い。しかして、怨嗟にも似た切実な糾弾に返るのは、痛いくらいの静寂のみ。だが、きっと彼の王ならば、こう返すのだろう。という言葉を思い浮かべる事は容易かった。
何もしてはいない。ただ、女は女である。それだけで罪なのだ。と
そんな愚考が真に迫る程に、この国は変わってしまったのだから。
「――……馳せ参じましてございます。陛下」
回廊の先へと消える刹那に、女が残した残響。それを振り払うようにして、宰相は重厚な扉の前で臣下の礼を取る。
「入れ」
「は……っ」
すぐに返った許しに、割れた声で応じて寝室に踏み込んだ宰相は、強張った面持ちで己が主君を仰ぎ見た。
「――陛」
「宰相よ」
「ッ、はい」
瞬間、言葉を絞り出そうとして遮られた宰相の喉が引き攣る。それに気づいているのか、いないのか、国王は泰然と己が臣下を睥睨した。
「次は心身ともにマシな者を連れてくるがよい」
「――……お気に召されませんでしたか」
「よく啼く女は好むところだが、瞳ばかりを濡らしているような女では、愉しめぬだろう」
しばしの沈黙。宰相は静かに答えた。
「――……畏まりましてございます」
深く傅いたその瞳は暗く、陽光に照らされているにも関わらず、帳が降りたかのようだった。
*
目が覚めた瞬間、哀しい悪夢を見ていたのだ。と思う時がある。例え、仔細を忘却した後であっても、横たわる身体には、確かな余韻が重苦しくのしかかっているのだ。
「うぅん」
決して爽やかな覚醒とは言えないが、それゆえに目は冴えてしまっている。その事実を前に起き上がる気持ちには到底ならず。私は緩慢に寝返りを打った。そうして、意識を切り替える意味も込めて、同居人の存在を確認しようと、乾いた喉から掠れた声を上げる。
「……キャスター?」
湿気で淀んだ空気に呼び声は霧散する。返答がない。という事は此処に彼女は居ないのだろう。いや、もしかしたら。こちらからは姿が見えないだけで、すぐそこに潜んでいる可能性も無きにしも非ずだ。どっちにしろ、私にそれを確認する手立てはないのだけれど。こと、隠密に置いては彼女に軍配が上がるのだから。
「――!!」
と、そこで私は思わずと胸元をまさぐった。首に下がる銀の鎖を辿った先に、目的のものがある事を確認してから息を吐く、安堵というには多分に自嘲的な吐息だった。
「意味なんかないのに」
誰とはなしに呟いて、自問する。彼女の場合、
(問題は、いつまでソレに縋っていられるか?なわけだけど……)
天井の木目を睨みながら、指先で弄んだ金属の硬い冷たさに、急かされるようにして、私は跳び起きた。
***
「――……スター、キャスター。何処にいるの?居たら返事をして頂戴」
「――ッ!!は、はい!!」
何処からともなく、掛かった呼び声に我に返る。布地をつまんでいた指先を離して立ち上がり振り返るのと、八千夜が本棚の影から姿を現したのは、ほぼ同時だった。
「――……姿が見えないから、
「……申し訳ありません」
キャスターと視線を交錯させた八千夜が破顔する。対するキャスターは自身の身体で背後の絵を隠すように立ちながら、気圧されたかのように深謝した。
その様子に八千夜は逡巡するように視線を逸らして問いかける。
「……何か、
瞬間、キャスターの肩が微かに震えた。八千夜はその狼狽を知ってか、知らずか。ただ、手持ち無沙汰なのを紛らわそうとするかのように、本棚に指を這わせている。軌跡を描いた分だけ溜まっていく指先の埃。それを、誕生日ケーキのろうそくの灯火に錯覚させるような軽やかさで吹き飛ばして、目を細める。
「…………あ、ええと。八千夜様を襲ったサーヴァントについて、何か手掛かりになるような情報がないかと……」
意味ありげなその動作に、キャスターが杖を抱きしめ、おずおずと答えれば。八千夜は、ふぅん。と相槌を打ってから続けた。
「それで?収穫はあったの?」
問うているにしては、然したる興味も期待もしていないような声音だった。居心地の悪さにキャスターは更に身じろぐ。
「……彼のサーヴァントの姿、獣頭半人のモチーフを見た時にまず思い浮かんだのは、四大文明が一つ、エジプトの神々でした」
「ええ、サプタハという名の夭折した神王については、前に貴女から聞いたのを記憶しているわ」
そう語りながら歩き出した八千夜の背中が、軽やかに本棚の奥に消える、キャスターは返答しながら、その背を追った。
「……はい、ですから、別の見方をしてみようかと思いまして」
「別の見方?」
「……彼のサーヴァントの肉体は女性の形をしているように見受けられました。なので、ひとまずは、そちらの線で絞ってみようかと……」
「女性の神王……クレオパトラとか?」
唐突に八千夜が歩を止めて振り返る。その双眸が陽光に煌めきながら、キャスターを見上げていた。彼女特有の濁緑を帯びた茶の瞳。優しく、どこか悲しい。神秘的ですらあるその色味に見つめられれば、全てを吐き出してしまうしかないような心持ちになる。けれど、それは死の恐怖からではない。今、キャスターを苛んでいる不安は、もっと清らかな、抗いがたい何かだった。
「……確かに、女性の神王と言えばクレオパトラ七世や、ハトシェプスト、セベクネフェルなどの方々が有名ですが、サプタハ王の後に即位したのも、タウセルトという女王であったとされています」
「じゃあ、可能性が高いのはタウセルト?」
「……そうですね。サプタハ王の治世の頃より、後見人として政治の実権を握っていた女性であるとも目されていますから、
「なら、彼女は、
「……あくまでも可能性の範疇を越えませんが、有り得ない話ではないかと、ただ――」
やはり、どちらにせよ。功績を残した偉人と言うには、些か地味な方々かと思います。とキャスターが告げれば、八千夜はどこか憐れむような視線をキャスターへと注いでいた。
「…………ねぇ、
悲し気な、けれど、この上なく優しい彼女の瞳に、サーヴァントは、自分は、どう映っているのだろう。他人を喜ばせるのも不安にさせるのも、同情を誘うのも恐怖を抱かせるのも、相手を立てたままに、己への寛容を得る事も、キャスターの専売特許の処世術だ。そうして、相手の感情を揺さぶって操って、自分に有利に働くように。ただ、それだけに苦心した
「………………そう、ですね。なんと申しましょうか」
しかし、そうやって対する相手は、真の意味で味方とは言えない事にも気付いていた。主人と奴隷ではなく、思いが対等に交錯し得た時にこそ、信頼というものは誕生する。けれどそれは、誰とでも成り立つものでもなければ、容易な代物でもない。そんな恐れから生じたキャスターの
「………そもそもが、サーヴァントとは究極の幻想のようなものです。たとえ、その存在が厳密には
諦観ゆえか、安心ゆえかは判然としないが、紡がれた言葉は震えのない静かな声音だった。
「つまり、
柳眉を顰めて八千夜が言う。困惑の形に歪んだ表情は貪欲なまでに
「と言うよりは、
「じゃあ、例えば。口裂け女とかの都市伝説もサーヴァントに出来ちゃうってこと?」
「……はい、恐らくは。どれほどの確率があるのかはまでは、分かりませんが」
殆ど断言しながらも、確証の不透明さに語尾を弱めるキャスター。八千夜は苦悩の表情を浮かべたまま、視線を遠くへと移した。
「……そう、何となくではあるけど、分かったわ」
この世のどこかにある真実を見定めようとするかのように、八千夜は目元を厳しく寄せる。淡い陽光に照らし出され輝きを増すその瞳、不思議な引力に満ちたそれ、キャスターの胸に去来する感傷。もしかすると、自分は死を恐れるだけではなく、この少女が持つ危うい魅力に抗せず、此処にとどまっているのではなかろうか?
「……神話の英雄や伝説の騎士、数多くの伝承や逸話などで長らく語られてきた英傑たちだって、実際に過去に存在していたか?なんて、確かめようがないもの。要はそういう話なのでしょう?」
淡々としながらも存外、深い響きで八千夜は語り出した。その堂々とした姿は、ともすれば、答えを得たかのような威風を孕んでおり、キャスターはそんな彼女の様子を固唾を呑んで見守る。
「実在の痕跡が一切ない遥かなる過去、私達はそんなあやふやなモノの上に生きている。でも、それも当然よね。私達が目にして触れられる現実なんて、所詮は薄皮一枚での出来事に過ぎないわけだし、いずれは私もあやふやな
刹那、虚空を睨んでいた視線を落として、八千夜は大仰に肩を竦めた。
「……八千夜様は、忘れられてしまう事を恐れるのですか?」
すると、侵し難い雰囲気に圧倒されるようにして、息をひそめていたキャスターが問う。問われた八千夜は、キャスターを視界に収めないままに、あっけらかんと答えた。
「ん~、どうだろう?分からないわ」
「分からない。ですか?」
「ええ。だって、誰かに覚えていてもらう。という事に
「……それは、どういう?」
両者の
「……要するに、覚えているか、忘れてしまうか。は
やおら、己が背に掛かった圧力を察してか、八千夜が言葉を噛み砕きながら、部屋の扉に手を伸ばす。
「それを寂しいとか、怖いとかはお思いにならないのですか?」
瞬間、彼女はドアノブを握ったまま、キョトンとした面持ちでキャスターを振り返った。それはまるで、此処にきて、キャスターの口から感情論が出てくるとは思わなかった。と言うかのような驚嘆であり、喜色だった。
「……そうね。まったく思わないと言えば嘘になるかもしれない。けど、考えたところで無駄な事には変わりないわ、だから、
「え?」
「私は
ふと、そこで言葉を切った八千夜は、扉の向こう側へと歩を進めてから、言の葉を次いだ。
「
くしゃりと歪む顔、笑顔と言うには多分にぎこちないそれに、キャスターの口が酸素を求める金魚の様に開閉する。そうして、キャスターが言葉を見つけようともがいている間にも、八千夜は畳みかけるように言葉を重ねた。
「それにしても、夜が明けるまでずっと、あんなかび臭いところに籠って、気が滅入らなかったの?」
新たな問いは、あからさまな話題の転換だったが、キャスターは敢えてその意を汲んだ。そうして、やはり先を行く背へと答える。
「……実を言うと調べもの以外の事もしていましたので」
「へぇ~、気に入った物語でもあった?」
「……そうですね。この国に伝わる古き良きお話などを少々、日本霊異記に、竹取物語。あとは、源氏物語なども」
そう口に出した瞬間、和気藹々とした空気が一転し、ピタリと八千夜の歩みが止まった。
「――ああ、あの話。私、苦手なのよね」
「――……え?」
如実に冷えた声音に鋭い気配を感じ、キャスターは背筋が凍りつくような緊張感に見舞われる。色を変えた視界の先で、ゆっくりと、八千夜が向き直る。そう長くはないその時が、キャスターには永遠にも思われた。
「――だって、何に飢えていたのか知らないけど、
振り返ると同時、清々しいほどの笑顔で告げられる。けれど、朗らかに弧を描くその瞳は、笑ってはいなかった。
結局、不穏な感じですみません。次回は剣主従について掘り下げが出来ればと考えているところです。また、保険としてR18警告タグを付ける予定でもあります。悪しからず。