※この作品はR-18です。

名前のない物語   作:三枝 月季

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 時系列的に術陣営の描写は前話からほんの少し戻ります。


六月二十日 転機

 時は聖杯戦争の只中、嵐の前の静けさのような、梅雨の晴れ間の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八千夜に召喚されてからというもの、キャスターが心身の危険を覚える事は少なくなかった。最初の夜も、突然の来客も、主の隠し事も、どれも恐ろしかった。

 

 だから、それに比べれば現状の問題は些事ではあったのだ。

 

「ごめんくださーい」

 

 とは言え、想定外の事態である事には変わりはないのだが。

 

「――……可笑しいなぁ、指定の時間なのに」

 

 結界を通してもたらされる情報が、キャスターの網膜に映し出した像は、一人の青年の形をしていた。

 

(――……恐らくは、宅急便の方なのでしょうが)

 

 その出で立ちと聖杯から与えられた知識から、件の人物が配送業者である事は察せられた。問題は八千夜を起こすべきか否かである。

 

 昨夜の激しい雷雨と夢見の悪さから、寝直す。と言い残して寝室に消えた主を目覚めさせる勇気がキャスターには湧かなかった。それは、八千夜を慮ったからでもあるし、新たな地雷を踏む可能性を前に保身に走った為でもあった。

 

(時間を指定して届けさせた荷物という点は重要ですが……)

 

 八千夜の口からそのような届け物があるとは聞いていない。単に彼女が忘れているだけならばよいが、状況が状況なだけに最悪な仮定も浮かぶ。キャスター陣営の拠点は既にアーチャー陣営には知られているのだから、荷物を受け取った途端にこちらの牙城が崩される可能性はゼロではない。

 

 ただ一つ言えるのは、これが卑劣な罠であるとして、そのような手を使ってくるのは、アーチャーこと、アーラシュ・カマンガーではないだろう事である。それは彼の高潔さと技量からの推察でしかないが、まず間違ってはいないだろう。彼の武人にしてみればキャスター陣営は簡単に屠れる敵だ。いつでも倒せると目されているからこそ、束の間の平穏が保たれているのが現状なのだから。

 

 願わくば、そうして捨て置かれたままでいたいものである。聖杯戦争の参加者としては甚だ惰弱な姿勢だろうが、満足に戦えない事で損なわれる矜持など持たぬのが自分達である。弱さが招く不幸を憎んだところでどうしようもないのだから、弱いからこその強みを模索し、突き詰める事が肝要だろう。

 

 ゆえに懸念するべきはクラス、真名ともに定かでない。半人半獣の女のサーヴァントのほうである。彼女はその姿のとおり、得体が知れないのだ。あれだけ顕著な特徴を晒しているのに、その実態を掴む事は難しい。そして分からないという事ほどに脅威と恐怖を覚える代物もない。

 

「――……どう致しましょう」

 

 思わずと嘆息が言霊となって口をついて出る。その迂闊さに気付いた時にはもう遅かった。

 

「祢屋さん?」

 

 キャスターが術式に干渉している事を差し引いても、玄関扉を隔てた向こう側に居る人間は聡い手合いであったようである。こうなったら居留守を決め込むのも後々の八千夜の心象に関わろう。おかげで、キャスターの選択肢は一つに絞られた。

 

(――……はぁ、致し方ありません)

 

 震えながらも、キャスターは自身のクラスに恥じぬ、あらゆる魔術的防御策と認識阻害の術を講じたうえで、来客を出迎える事にした。

 

「祢屋さーん?いらっしゃいま――」

「――……はい」

 

 瞬間、恐る恐ると応対に出たキャスターに、青年が目を瞬かせた。

 

「……あ、えっーと。新しいメイドさん?日本語はお分かりですか?」

「…………はい、問題はないかと」

「あっ、じゃあ。こちらにハンコかサインをお願いします」

「……はい、ええと」

「あっ、ペンなら私のを」

 

 印鑑を探そうと視線をうろつかせたキャスターの目の前にスッと差し出されたボールペン。やおら、迅速な親切心に押されるようにしてサインを書くキャスターの指は震えた。

 

(……これもある種の聖遺物になったりしてしまうのでしょうか?)

 

 そんな思考が頭を掠めたからだろうか、荷物の受け渡しを終えた青年が、朗らかに次の仕事場へと急ぐ姿を意識の外側で理解しながらも、キャスターは暫くの間、硬直していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、フジさんでしょう?」

 

 来訪者が去ってから、約40分後に起床してきた主は、あっけらかんとそう述べた。

 

「フジさん?ですか」

「宅配のお兄さん。藤巻?だか、藤丸?だか、確かそんな感じの名前の」

「お名前までは流石に……ただ、誠実そうな爽やかな印象の方でした」

「じゃあ、多分。フジさんだよ。ていうか、荷物が届く事すっかり忘れてた。ビックリしたでしょう?」

 

 ええ、まぁ。とキャスターが口にすれば。次は気を付けるね。と八千夜が眦を下げた。

 

「でも、ま。忘れていたのは不可抗力にせよ。渡す時まで隠しておきたかったのはホントなのよね」

「………それは、もしかして?」

「私のは勿論、お母様のでも貴女には合わないだろうから」

 

 そう言いながら、八千夜が箱から取り出したのは、オフホワイトの生地にターコイズブルーのペイズリー柄があしらわれたマキシ丈のワンピースだった。

 

「女同士とはいえ、目視でサイズを測るのは難しかったから、ある程度は胸元で調整が効くタイプのベアトップにしたんだけど、どうかしらね。取り敢えず着てみてくれる?」

「……あの、八千夜様。お気遣い?は嬉しいのですが、その、上手く状況が呑み込めていないと言いますか」

 

 身体にあてがわれる形で渡された服にキャスターは困惑する。本来ならば喜ぶべきなのだろうが、余りに唐突な事で、歓喜するより先に恐縮が勝った。

 

「キャスター」

「は、はい」

「悪いんだけど、時間がないから説明は後でもいいかしら?」

「……はぁ、構いませんが」

 

 キャスター越しに壁掛け時計を睨むが否や、慌ただしげに動き始めた八千夜に食い下がる事は憚られて、キャスターは頷いた。

 

「それじゃあ、20分後に。ちゃんと着替えておいてね!!」

 

 足早に階段を駆け上がる主の背を見送ってから、キャスターは手元の鮮やかな模様をなぞる。滑らかなその手触りに自然と頬が緩むのを感じながら、知らず、八千夜の厚意に自分はどれだけ応じる事が出来るのだろうか。と考えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 男が呑気に帰宅した気配を察知したのは、あたしがシャワーを浴び終えて、台所で水を飲んでいた時だった。だから、あたしはシンクに転がっていたガラスコップに水を注いで、それを玄関で靴を脱いでいる男にぶちまけてやる。

 

「金」

 

 それだけの文句で済ませてやろうとしているだけ、ありがたく思って欲しい。そう言外に滲ませて、びしょ濡れの男を見れば、奴は驚いた表情であたしを見返して来た。と同時に、薬の副作用でか、後頭部が痛む。おかげで一つ思い出した。男の家に連れ込まれた瞬間に奪われた唇の意味を。

 

「……なんで、君まで濡れてんの?」

 

 簡単な話だ。この男の持ち物を必要以上に使いたくないから。けれど――

 

「――……女だから?」

 

 男からの尤もな疑問に馬鹿正直に答える気にはならなくて、あたしはテキトーな事を言った。男の方も相手にするだけ無駄と悟ったのか、素直に金を渡してくる。前もって言われていた金額よりも幾分か上乗せされたそれを握って、あたしは男の脇をすり抜ける。そして扉を開けて外へと踏み出す刹那に一言添えた。

 

「……お兄さんさぁ、彼女が居るんでしょ?なら、もうこういう事は止めといた方がいいと思うよ」

「あ?」

 

 途端に引き攣る男の表情。これは最悪、殴られるかもしれないな。と冷めた気持ちで思った。

 

「だって、お兄さんの口は一つだし、痔持ちでもないでしょう?」

 

 洗面所に並んだ歯ブラシと、トイレにストックされた生理用品が何を意味しているか(・・・・・・・・・)なんて、考えたくもない。

 

「はぁ?」

 

 あらゆる意味で、この男とはこれっきりだ。

 

「じゃあね、お兄さん」

 

 今度は、出鼻を挫かれたかのように呆ける男に言うだけ言って、遮光カーテンに覆われた部屋から、日の当たる世界へと飛び出せば、少しだけ溜飲が下がった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「よし、準備は出来たわね?それじゃあ行くわよ!!」

「ええと、どちらに?」

 

 約束の20分から3分ほど遅れて、戻ってきた主から、水色とも薄緑色ともつかない絶妙な色味をした大判のストールを受け取りながら、キャスターは固まった。

 

「何処って、外に決まっているでしょう」

「なっ……」

 

 それは、女が顔に薄化粧をほどこし、身なりを整えている時点で、読めた展開ではあったが、覚悟を決めるには早急だった。

 

「まっ、お待ちください。マスター。そ、外に出るなんて聞いていません!!」

「そりゃあ、そうよ。言ってないもの!!言っていたら貴女。どんな手を使ってでも回避したでしょう!?」

 

 淀みない足取りで玄関へと向かう八千夜の背に、キャスターは必至に追い縋る。

 

「当たり前です!!何故、自らリスクを高めるような事をしようとなさるのです!?」

 

 そうして、八千夜の指先がドアノブへと伸びるより先に、なんとか身体を扉の前へと滑り込ませて訴えれば、流石の八千夜も目の色を変えた。

 

「――ッ!!たまには外の空気を吸わないと気が滅入るでしょう?あと、単純に食料が尽きるから買い出しをしなきゃいけないの!!私が飢えたら貴女も道連れなのよ!?」

 

 キリリと光るその瞳の中には呆れと怒りがないまぜになっていた。だが、キャスターとて引けない。八千夜の苛立ちがキャスターの強情さによって高められたものであると理解して尚、引けなかった。キャスターは臆病だが、それ故の胆力がある。乾いた唇を噛んで濡らせば出てくる言葉に困る事はない。が、しかし。お互いに気持ちが高ぶっていたからだろう。事はそう容易には収まらなかった。

 

「先程の宅配業者に頼んで食料を送って貰えば宜しいではありませんか!?」

「却下!!私が老婆ならともかく、健康なうちは身の回りのことは自分でやらなきゃ」

「そのお考えは素晴らしいとは思いますが、今は非常事態なのですよ!!どうかお聞き届けくださいマスター!!」

「マスターはやめてって言っているでしょうッ!!」

 

 瞬間、双方共に感情を爆発させて肩で息をする。そのまま、何度目かの呼吸で示し合わせたかのように長い息をついた。

 

「……取り敢えず。これだけは理解してもらいたいのだけれど、私は貴女に嫌がらせをしたくてこんな事を言っているのではないのよ」

「……はい、それは、勿論。理解していますが」

 

 やおら、綺麗にまとめられたハーフアップの頭を掻いて八千夜が切り出した。すると、その瞳がいつも通りに澄んでいる事に安堵したからか、珍しく熱くなっていたキャスターも、いつものように、ともすれば、いつも以上にしおらしく首肯する。

 

「……確かに、今になって思えば。いきなりだった事は悪いと思っているし、声を荒らげた事に付いても謝罪はする。でもね、私だって怖くないわけじゃないのよ?」

「…………………………」

「…………私は貴女を嫌っているわけではないし、信頼していないわけでもない。でも、貴女は悲観的なわりには自信家だわ」

 

 自分では気付いていないのでしょうけれど。という部分だけ視線を逸らして八千夜は続けた。

 

「要するに、屋敷に籠っている事が本当に最善と言えるのか?という話よ。貴女の護りはそう断言できる程に堅牢なの?本当に?」

「それは――」

 

 思いがけず、言葉に詰まる。先ほどのキャスターが憂慮した事と同じような懸念を八千夜は持ったのだろう。ただ、ある種の誤魔化しで問題を先送りにしたキャスターとは違って、八千夜の視点はシビアに先を見据えている。

 

「――……そ、れは」

 

 尤もな指摘だった。真実、攻め込まれた時にどれほど耐えられるのかは、その時になってみなければ分からない。

 

 すると、静かに動揺するキャスターを一瞥して八千夜は話題を逸らした。

 

「……貴女が私の行動に枷を付けたくなる気持ちは分かる。ただ、それは私だって同じなのよ。だから、その、なんていうか、上手く纏まらないのだけれど――」

 

 雑念を取り払うように頭を振って、八千夜は言葉を絞り出す。そうして放たれたものは正しくキャスターを黙らせた。

 

「この戦争中、淡々と時を浪費しているようではきっと駄目だと思うの。命がけの生活の中で無為に心を摩耗させるのではなく、全力で生きているという自負を持って日々を過ごせたなら、何かが変わる。そんな気がするの」

 

 どんな結果になるとしても、悔いが残るのは嫌じゃない?と苦笑する八千夜。

 

 キャスターは感じ入るように目を伏せて、ゆったりと進路を開けた。

 

「……分かりました。それほどまでに仰られるのであれば、致し方ありません」

「――……いいの?」

 

 自分で説得しておきながら、不思議そうに見上げてくる視線に、キャスターは静かに答えた。

 

「はい、私の負けです」

 

 拙くとも心の籠った言葉を前に、語り部として嘘を並べる事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「え、何あれ。今日は雨降ってないよね?」

 

 そんな囁きが耳に届いたのは、あたしがあたりめ(・・・・)とさきいか(・・・・)を見比べていた時だった。優柔不断なせいで、いつの間にかコンビニの込み合う時間と重なってしまったのかもしれない。レジが込むのは嫌だなぁ。なんて、呑気に思いながら顔を上げれば、やはりというか視線の先には三着のブレザーが並んでいた。一目で同世代だと分かるそれを一瞥すれば、ひそひそ話をしていた少女達が分かりやすく狼狽える。

 

(くだらない)

 

 すぐに興味を失くしたあたしは、視線を外して目の前の問題へと向き直る。侮辱されたのだとは思わなかった。だから傷付く事もない。寧ろ、安堵さえ覚えるほどだった。けれど――

 

「……あの、良ければ使って?」

 

 突如として、目の前に差し出された花柄のハンカチには虚を突かれた。思わずと眉を上げて相手を見返せば、彼女は言葉もなく面食らったようだった。奇妙な沈黙が流れる中、彼女の連れが焦ったように彼女を呼ぶ声が滑稽ですらある。

 

「――……リツカ。じゃあ、リッちゃんさんだ」

「え?」

 

 ハンカチを差し出したまま固まっている彼女の、頑なな善意を呑み込むように笑って見せる。相手が相手ならあたしも躊躇いを持つ女ではない。

 

「ありがとう。気を遣ってくれて、でもあたしならへーき」

 

 言いながら、さきいかを籠へと投げ入れれば、彼女の視線も釣られたように逸らされた。その目線の先、つまり、籠の中にはさきいかの他にもいろんな商品が入っている。菓子パンに、飲料水に、生理用ナプキン、そして、タオルハンカチ。

 

 やおら、あっ、という言葉が少女の唇から漏れ出た。あたしは自分の口角が卑しい程に吊り上がるのを感じた。

 

「じゃ、そういう事で」

 

 会釈するように少女に囁いて、その脇をすり抜ける。連れの二人にも笑いかける事で道をあけさせて、会計へと向かった。

 

「ごめんなさぁい、おっきいのしか持ってなくって」

 

 赤く表示された金額に、スカートのポケットから万札を取り出せば、新人らしい男性店員がもたつきながら、おつりを返してくる。

 

「ありがと」

 

 受け取ったそれを、またポケットへと戻す。自動ドアを抜ける前に一度振り返れば、あの子達が飽きもせずにあたしを見ていた。

 

 バイバイ。と口パクをしながら軽く手を振れば、おずおずと手を振り返して来る。目を細めてそれを見て、自動ドアを抜けた時には、もうあたしの表情筋は活動を終えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

 扉を開けるとドアチャイムが澄んだ音色を奏でる。緑と茶を基調とした落ち着いた内装と、陽光を取り込む造りが魅力的な店内は、梅雨時の貴重な晴れ間と昼食の時分である事も相まって賑わっていた。

 

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

「ランチの予約をしている祢屋です」

「ランチでご予約の祢屋様ですね。テラス席へのご案内となりますが、よろしいですか?」

「ええ、お願いします」

 

 盛況な店内のざわめきを裂くように八千夜達へと声を掛けた店員は、忙しさを微塵も感じさせない柔和な応対で店の奥へと導いてくれた。ホテルのラウンジのような雰囲気の空間を抜けた先、大きな硝子窓を隔てて中庭に相当する場に設けられたパラソルの下、店員のエスコートに従って腰かける。

 

「直ぐに、お料理をお持ちします」

 

 八千夜達が着席したのを見届けた店員は一礼の後に颯爽と立ち去り、残された二人は口々に感嘆を溢した。白い紫陽花なんて初めて見た!!とはしゃぐ八千夜に対して、キャスターは、その花の本当の名を呑み込むように、同調する言葉を並べた。

 

「人気のお店なのですね」

 

 テラス席のガーデニングの美しさは無論の事、窓ガラス越しの店内の様子を眺めながら呟けば、八千夜も同じように視線を動かして首肯する。

 

「そうみたいね、お料理が楽しみだわ」

 

 しかし、その言い方に軽い引っ掛かりを覚えて、キャスターは疑問を口にした。

 

「行きつけのお店ではなかったのですか?」

「ええ、前から知ってはいたけれど。来るのは今日が初めてよ?」

 

 それがどうかしたの?という風に八千夜が小首を傾げれば、キャスターはいつもの通りの落ち着いた様子で答えを返した。

 

「……いえ、ただ、八千夜様は素敵な場所を知っていらっしゃるのだなと思いまして」

「前にテレビで見たことがあってね。私が動ける状態だったら、一人でも来ていたかも知れないわ」

「え?」

「だから、貴女は気兼ねしないで、私の我が侭に付き合って頂戴ね!!」

 

 そう言って八千夜は心の底から楽しいというような笑顔を浮かべる。だからきっと彼女は自身の失言には気付いていないのだろう。

 

(私が動ける状態だったら?)

 

 それは以前に彼女が言っていた。今は寛解しているという奇病(・・・・・・・・・・・・・)に関わる事なのだろか?だとしたら、その病状はキャスターの想像を超えている。あの時の八千夜の言を軽く捉えたつもりはないが、だからといって、過剰に重く受け止めたわけでもなかった。

 

(いえ、早合点はいけません。八千夜様の仰るところの“動ける状態だったら”の詳細が分からない以上は、私が判断できる事は何も――)

 

「わぁ~!!美味しそう!!」

 

 そんなキャスターの思考に割って入るように、タイミング良く運ばれてきた料理。途端、八千夜が小さな歓声を上げる。それに釣られるように微かな笑みを浮かべながら、キャスターは自身の後ろ暗い思考を振り払う。

 

 主の身に起きていた一方的な理不尽に、キャスターが触れるのは、まだ先の話であった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 猫はあたしと餌とを交互に見ながら葛藤している様子だった。身を屈めて、四肢を曲げて、草陰に隠れながら、金色の瞳であたしを見つめくる。その、食事の邪魔だ。と言わんばかりの視線。耐えきれなくなって、あたしは立ち上がった。

 

 大きく伸びをすれば身体が子気味よく鳴る。同時に、猫が更に奥へと隠れる音がした。

 

「ついてないなぁ~」

 

 あの男と寝てから、おかげさまで予定は狂いまくりだった。せめてもう一人くらいは相手をして資金を作るつもりだったのに。

 

(まぁ、羽振りが悪くなかっただけマシか)

 

 何より、女体の仕組みに文句を垂れたところでどうしようもない。痛む頭部にささくれ立つ心境を持て余しながら、あたしは歩き出す。何かを呼ぶ女の人の声が聞こえたのはそんな時だった。

 

「茶々~、茶々麻呂~?ご飯の時間よ~」

 

 声のしたほうを振り返れば、何処からともなく現れた小太りのおばさんが、手にしたエサ皿を揺らしながら草むらへと、声を掛けていた。

 

「みゃあん」

 

 と直ぐに反応が返る。甘えた声を出しながら自分の足へとすり寄るキジトラにおばさんは眦の皺を深くした。

 

「まったく、アンタはこれじゃないと食べないんだもんねぇ~他の野良はそんな贅沢言わないってのに」

 

 そんな文句を言いながらも優しい手つきで猫を撫でるおばさん。あたしは何だが居た堪れなくなって駆け出した。

 

 スーツに浮いたネクタイの色と左手薬指の銀。

 万人受けする美味と定員の営業スマイル。

 並んだ歯ブラシとストックされた生理用品。

 花柄の善意。

 猫の名を呼ぶおばさんと名前のついている猫。

 

 夢中になって走るのに比例するように頭の中に氾濫するもの。

 

(――ああ、世界はこんなにも愛で溢れている)

 

 なのに、なんであたしはこうなんだろう?

 

「あっ」

 

 瞬間、馬鹿みたいな驚嘆が零れた。傾いだ身体を守ろうと、本能的に前に出した手が少しばかり勢いを削ぐも、せいぜいがそれまでの事だった。

 

「いっ、たぁ~」

 

 爪が割れる。アスファルトに打ち付けた膝小僧がみるみると熱を持って痛んだ。立ち上がる気力が湧かない。

 

「――はッ、はは、あははは」

 

 地に四肢をつけたまま、あたしは笑った。多分、無意識だった。それ以外の感覚で生きていたのは、手の甲の感触しかない。

 

 誰からも愛されないあたしには、この世界は厳しすぎる。そして不幸とは重なるものだ。

 

 振り始めた雨が乾きつつあったあたしを濡らしていく。だからあたしは最初の一滴が温かかった事をすぐに忘れた。

 




今話に登場した“彼ら”が私達のよく知る“彼ら”と同一人物なのか、名を同じくする別人であるのかは皆様のご想像にお任せ致します。
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