剣豪小説を上下巻を一気に読み終えた俺は相反するいろんな感情で満たされている。高揚感。爽快感。虚しさ。喪失感。激動の時代のうねりが、登場人物たちの生き様と死に様が、ひと息に去来した。
俺は生前もこの作家の小説は読んでいたが、別ジャンルの作品ばかり読んでいた。移り変わりゆく時代に剣に生きた男たちの葛藤、立ち合いの迫力、すべてが濃厚だった。今までこのジャンルに触れずに生きていたことを後悔したまである。
そして窓から差し込む朝日を浴びながら時計を見て、またひとつ後悔した。一睡もしてねえ!
そして材木座のラノベも半分も読んでない。まあこっちはいいや。というかこんだけ読みすすめただけでも頑張ったよ俺。内容は全然覚えてないが。
日課の鍛錬をこなし、シャワーを浴びてから朝飯を作るためにキッチンに向かった。以前晩飯を作ると言って結局作らなかったときは小町に罵倒されたが、その後話し合い、週替わりで飯当番をすることになった。今週は俺が朝飯と晩飯を作ることになっているのだ。
普段はご飯orパン、適当な卵料理と適当なサラダで済ますのだが、熱の燻っている俺はひと手間加えることにした。
フライパンを熱している間に鶏胸肉を適当なサイズに切り分ける。フライパンが熱された頃合いに生卵を投入し、塩胡椒し半熟の目玉焼きを作る。その目玉焼きをスライスチーズを乗せたパンに乗せオーブンで焼く。その間に既に熱されたフライパンでチャッチャと鶏胸肉を焼き日本酒と醤油をサッとかけると、即座に水気が弾けた。朝から味の濃いものを食う気もないので味付けはこれで十分だ。
右手に持った菜箸で鶏肉を転がしながら、左手に持ったスマホで小町にモーニングコールをしてやる。我ながら器用だ。焼いた鶏胸肉を皿に移しオーブンから程良く焦げ目の着いたパンを取り出し適当に鰹節を散らしオリーブオイルをかける。冷蔵庫からレタスを取り出し、ちぎって鶏胸肉の更に盛る。これで十分だろう。
冷蔵庫から牛乳と野菜ジュースを取り出していると小町が寝ぼけ眼でやってきた。
「おはようお兄ちゃん」
「おう小町おはよう」
小町と二人で朝飯を食う。
両親は朝が早く既に出勤している。千葉に一軒家を建て子供二人を養う生活というのは大変なようだ。そんな汗水たらして働いて育てた息子なのに、殺人で逮捕された挙句ヤクザになってしまうとは、俺はなんて親不幸者だろうか。と言っても俺自身は生んでくれとも育ててくれとも言ったおぼえは無いが。
俺が人生を振り返っていると、小町がパンを咀嚼しながら喋った。
「お兄ちゃん、鶏肉好きだよね」
「そうか?」
「そだよ。お兄ちゃんが料理作るようになってから、大体鶏使ってるよ」
別に鶏肉が特別好きというわけではない。高タンパク低脂肪なので体作りをするうえで重宝しているだけだ。
「小町は鶏肉嫌いか?低カロリーだから太らないぞ」
「嫌いとかじゃないけど。つーか低カロリーでもこれしか食べてないってわけじゃないから。日ごろの生活次第でしょ」
「じゃあおやつ食べるのやめなさい」
「それは無理だよ」
う~んこの妹。
* * *
朝から自分の席で突っ伏して寝ていると放課後になった。よう寝たわ。
あくびをしてから伸びをするといろんなところがボキボキと鳴った。
授業を聞かずに寝ているくらいなら家で寝ていればよかった。義務教育じゃないんだから出席だけすることに意味があるなどとは思わない。
もう一度あくびをしてから、部室にいこうと席を立つと由比ヶ浜が寄ってきた。
「どしたのヒッキー。元気無さそうじゃん」
「ちょっと徹夜で本読んじまってな」
「あの変な小説みたいなやつ?」
「みたいなやつって、一応小説だろ。それ材木座に言ったら泣くぞ。というか俺は別の小説を読んでた」
「じゃあヒッキーあの変なの読んでないの?あの人感想欲しいって言ってたのにひどくない?」
「変なのとかあの人呼ばわりとかお前の方がひどいわ」
「やー、でもよかった。全然読んでないのあたしだけとかだったらゆきのん怒っちゃいそうだし」
「読んでないのかよ……。読んでないつったけど多少は読んだからな、俺は。部室行ったら材木座が来るまでにちょっとくらい読んどけよ」
部室に入ると雪ノ下はつまらなそうに分厚い原稿を読んでいた。こいつなんで今読んでるんだ。まさか……。
「あら」
「やっはろー!ゆきのん!」
「おつかれ。雪ノ下、今読んでるってことはそれ……」
「ええ、あんまり読んでないわ」
「まじか~~」
三人とも読んでないとか流石に材木座が可哀想だろう。でもいいか別に。材木座だし。
「読んでないとは言っても多少は読んだわ。それにこう言ってはなんだけど、最後まで読み進めてもあまり感想は変わらないと思うわ」
「だろうな。クソしてからケツ拭くくらいにしか使えねえ」
「ヒッキーきたない!」
「たしかに汚いわね。これで拭いたらインクがつくでしょう」
「ゆきのんまで……」
「お前は少しは読め。クソ拭き紙扱いする権利も持てんぞ」
由比ヶ浜はむぅっと唇を尖らせて雪ノ下の隣に座り、中身の入っていない軽そうなペラッペラの鞄から材木座の原稿を取り出した。折り目の一つもついてねえ……。
俺も自分の椅子に座り材木座の原稿を続きから読み始めた。やっぱこれ読むのキツいわ。
顔を顰めながら読んでいると材木座が来た。
「では感想を聞かしてもらおうか」
そう言いながら椅子にどかりと座った。クソえらそうに腕組なんぞしており、その顔には自信が満ちている。こいつ……。こんなもんを人に読ませといて、何故そうも自分の能力に、いや自分の生命に微塵の疑いも抱かないんだこいつは。
そんな材木座に対して正面に座る雪ノ下は素直に謝罪した。
「ごめんなさい。実は、まだ半分ほどしか読めてないの」
「なんとっ!?我が
「だってつまらないんだもの」
「はぎっ!?」
材木座が喋っている最中に雪ノ下が斬って捨てた。
「つまらないだけでなくて、読むのがとても苦痛なの。罰ゲームだとしてもあんまりよ。まず日本語としておかしいもの。文法も滅茶苦茶だし」
材木座が言い訳をするが雪ノ下はそれを斬って捨て、ひたすら駄目出しを続ける。あれだけ自信に満ちていた材木座の顔からどんどん生気が失われ、俯き土気色になっていく。いかん、死ぬ!
「雪ノ下、その辺で」
「それもそうね。この様子ではもう何を言っても頭に入らないでしょうし。少し休憩してから再開しましょう」
えっ、まだやるの。材木座が帰りたそうな目でこちらを見ている。俺は目を逸らした。
その後、雪ノ下が残りすべての駄目出しを述べる頃には日が茜色に変っていた。
「では、次は由比ヶ浜さんね。私が長々と語ったせいで遅くなってしまって申し訳ないのだけれど、手短に進めましょう」
「う、うん。わかった」
虚ろな目で床を眺める材木座をよそに、雪ノ下は由比ヶ浜にも書評を促す。どうせそんな注文出さなくても由比ヶ浜は長々とした感想なんて言わないだろう。全然読んでないのだから。材木座が視線を床から由比ヶ浜に移した。”この朗らかな女子ならば辛辣は意見を言わないのではないか”という期待が透けて見えるが、その期待はやめた方がいい。
「え、えーっと……難しい言葉をたくさん知ってるね」
材木座の瞳から感情が抜け落ちた。そこに在るのは材木座義輝の形をした虚無だ。
由比ヶ浜おまえ、その感想はもう材木座の書き上げた世界も物語も関係無いだろ……しかし他に褒めるところが無かったんだろう、わかるぞ。
「じゃ、じゃあヒッキーどうぞ!」
「一言だけかよ、おい……」
由比ヶ浜は逃げるように席を立ち、俺にその椅子に座るよう促してきた。嫌だなあ、今あいつの正面になんか座りたくなんだが。
俺はしぶしぶその椅子に座る。由比ヶ浜の熱が椅子に残っており暖かかった。
「は、八幡。お前にならわかるだろ……我の描いた世界が……ライトノベルの地平が……」
材木座は力なく言葉を投げかけてくる。俺は深く溜め息をつき、気持ちを整えた。俺も一端のヤクザだ。いくら材木座が哀れでもここでイモ引くわけにもいかない。
「材木座。ソープに行け!」
「は」
由比ヶ浜以上に作品に関係の無いことを言われた材木座は固まった。
「材木座よ。俺はなにも関係のないことを言っているんじゃないんだぜ。お前は自分の作品を読んだことがあるか?推敲して、一発抜いて、また推敲をして、また一発抜いて。心を落ち着かせて距離をとって自分の作品を読んだことがあるか?無いだろう?」
俺に一気にまくしたてられた材木座は言葉を探すように視線を虚空に向ける。背中に女子二人の視線が刺さるのを感じる。構わず俺は続ける。
「材木座。お前の作品は童貞だ。お前という童貞の意志が、欲求が、ラノベの形を持ってこの世に産み落とされた童貞の権化だ。童貞の悪いところが凝縮していて醜く臭い。それがお前の作品だ」
「は、はちまん。それをいうお前もどう──」
「俺のハナシはしてねェだろバカヤロー!」
「びぃっ!?」
「比企谷くん、ちょっと落ち着きなさい」
野太い声で怒鳴りつけた俺は雪ノ下に窘められた。俺はひと息つく。
「材木座よ。童貞なんてものはビタビタに濡れ、汚れたシャツみたいなもんだ。早く脱いで乾いたシャツに着替えた方がいい。そうすれば気持ちが変わる。気持ちの変わったお前で、もう一度作品を書き上げてみろ。そうしたらもう一度読んでみるからよ」
俺の声が届いているのか、いないのか。材木座は椅子の背もたれに体重を預け、熱のこもらぬ瞳で天井を見上げていた。話をすり替えた挙句の人格批判という、ヤクザの常套手段により材木座の精神は摩耗し擦り切れてしまった……。
「また、読んでくれるか?」
下校時刻までたっぷり死んでいたところを俺に叩き起こされた材木座(雪ノ下と由比ヶ浜は触れるのも嫌がった。ひどい奴らだ)は、去り際にこう言った。
「お前、あんだけ言われてまだ懲りないのかよ。メンタル強いのか弱いのかどっちだ」
「たしかに耳良い感想はもらえなかったし、お前らほんと死ねって感じではある。だが我の作品に、世界に触れ意見を言ってもらえたのが初めてなのも確かだ。どんな感想であれ、馬鹿にせず読んでもらえるのは、やっぱり嬉しいよ」
そう言って材木座義輝は笑った。
馬鹿にしてないっていうか、するほどの中身が無かっただけなんだが~~?
背筋を伸ばし去っていく材木座を見送ると、二人の視線が俺に突き刺さってきた。
「ヒッキー。その、ああいうの、女の子の前で連呼するのはやめてよ」
由比ヶ浜がもじもじしながら注意してきた。うるせー。俺が誰で童貞捨てたと思ってんだ。
由比ヶ浜の横でガイナ立ちしている雪ノ下も俺を睨みつけながら言う。
「比企谷くん。私もいろいろ言いたいことはあるけれど、由比ヶ浜さんのに類する意見はこの際言わないわ」
「それ言ってるようなもんだろ」
「奉仕部の部員として人の悩みに向き合うのに、他人のエッセイや人生相談を剽窃するのは今後禁止よ。使うなら参考の一つと前置きをしてから出典を述べなさい」
驚いた。北方謙三の人生相談の有名なフレーズをそのまま使ったのがバレていたらしい。
「まあ、真剣な材木座に他人の言葉で答えたのは悪かったと思ってるよ。でもお前北方謙三読むのか。イメージまったく無いわ」
「北方謙三本人は正直好きではないけれど、救いの無い虚しさと命を燃やしきった達成感が混在する独特の読後感は好きよ」
「ああ~~、たしかに雪ノ下そういうの好きそう。ちなみに、雪ノ下が北方作品で一番好きなのはなんだ?」
「『独り群せず』よ」
「おまえそれ絶対タイトルから入っただろ……」
小説など走れメロスと羅生門以外には触れたこと無さそうな由比ヶ浜は俺たちの会話にまったく付いてこれていない。会話に混ざりたそうにチラチラ俺たちを見る由比ヶ浜。俺と雪ノ下は苦笑した。
* * *
あれから数日が経った。俺と材木座は相変わらず体育でペアを組んでいる。材木座はボロクソにけなしてきた俺とは組みたくないだろうが、他に組んでくれる相手もいないので仕方なく俺と組んでいる。そこは俺も同じだ。
柔軟体操で材木座と密着すると、じっとりしている。もういや。帰ってシャワー浴びたい。
「八幡よ。我はトラックに轢かれるのもアリかと思い始めた」
「いきなりなんだよ。この前のまだ凹んでるのか?自殺するほどのことでもないだろ」
「そうではない。貴様の言った童貞を捨てるということだ」
「は?」
なんで童貞を捨てるのがトラックに轢かれるのに繋がるんだ。
「正直我には自由恋愛で彼女を作るのは敷居が高い。しかしまだ高校生のこの身ではソープにも行けん。ならばどうするべきか。考えたのだ」
「ほう」
「異世界転生すれば我もモテまくりヤリまくなのでないかとな!異世界転生とくればトラックに轢かれるところからだろう!」
「異世界のヒロインはデブ専だといいな、材木座」
「あれ、八幡?もしかして我がトラックに轢かれるのアリだとか思ってる?冗談だよ?」
「いやいや、イケそうな気がする。試しに死んでみようぜ。見ててやるからよ」
「語気を強めて薦めるのをやめろ!」
キャラブレてんぞお前。
だが死んだはずの俺がこうして高校生活をやり直している。だったら死んだ材木座が異世界で蘇ったとしても何も不思議ではない。俺は身体の硬い材木座の背を押した。