「あたしもなんか本読みたい!」
俺と雪ノ下が本を読み始めるや否や、由比ヶ浜が椅子の上に立ち吠えた。俺は机に突っ伏すふりをしながら、短いスカートの中を覗くべく目線の位置をずらした。
「いきなりどうしたんだよ。ワナビオタクの毒に中てられたのか?」
「中二は関係なくって!なんかちょくちょくゆきのんとヒッキー、二人で本のはなしで盛り上がってるじゃん。なんかそういうの、いいなあっていうか。あたしも混ざりたいなって」
ワナビオタクも中二も材木座を差す言葉だ。誰も材木座を名前で呼ばない。これは所謂陰口悪口に該当するのかもしれないが、当の本人も変な名乗りをしているので何の問題も無い。 由比ヶ浜がこちらに向き直るとスカートがはためいた。視界の端にピンクが流れた。凝視したいのをこらえ、なんでもないふうを装って続ける。
「別に盛り上がってた記憶も無いけどな。でも一緒に本のハナシをしたいってんなら、なんか貸すぞ。雪ノ下だって由比ヶ浜でも読めそうなのを適当に貸してくれるだろ」
「あたしでもってなんだ!馬鹿にすんなし」
由比ヶ浜が身振り手振りで怒りを表現するたびにスカートが揺れる。視界にピンクが混ざる。
「由比ヶ浜さん。貴方が読書を習慣付けたいというのなら私も協力するわ。でもまずは椅子から降りなさい。品の無い行為だし、何よりその男が下劣な視線を向けているわ。部員が劣情を向けたり向けられたりするのは正直気色が悪いわ」
「うわわっ!?ヒッキー覗いてたの!?キモい!サイテー!変態!ばか!キモい!」
「そうだな。本を読んでればお前の語彙も増えるかもしれない」
由比ヶ浜はスカートを押さえ、椅子からぴょんと飛び降りた。その時に、また、おパンティーが見えた。
俺は由比ヶ浜のピンクを脳裏に刻み込んでから視線を本に落とした。
パンツをチラ見しただけなのに勃起している。我ながら童貞くさい。肉体が童貞だと精神も童貞になるのだろうか。
由比ヶ浜がぷりぷり怒りながら雪ノ下に俺の文句を言っていたが、雪ノ下は文句を聞くのが面倒くさくなったのか話を戻した。明日の部活に読みやすいものを一冊持ってくるという。俺も一冊持ってくることにして本の続きを読みだした。
部室に沈黙が戻った……なんてことはない。うう~~とかむう~~とか唸りながら由比ヶ浜が俺を見てくる。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。(えなりかずき)
翌日、俺と雪ノ下は由比ヶ浜の為に本を持ってきた。
雪ノ下は川端康成の『伊豆の踊子』を含む短編集を(荒木表紙ではない)、俺は馳星周の『走ろうぜ、マージ』を。
「あー!ゆきのんのこれ知ってる!国語でならったやつだ」
「教科書に載ってるから小難しい話だと思う人がいるけれど、そんなことないわ。さくっと読めるし、解説も三島由紀夫が書いていて、それだけでも読み応えがあるの」
小学生並の感想を言った由比ヶ浜に雪ノ下は説明してやった。
その後、雪ノ下と由比ヶ浜は適当に雑談してから本を読みだした。部室に静かな時間が流れる。雪ノ下が本を読んでいるのはいつものことだが、由比ヶ浜のそれは新鮮な光景だった。
「ヒッキー、どしたの」
「知的だなと思って見てた」
「へへー、そうでしょ」
茶化してへそを曲げられても馬鹿みたいなので、思っても無いことを口にしたのだが、由比ヶ浜は上機嫌で眼鏡をクイッとする仕草を見せた。その仕草がすでに馬鹿みたいなんだが。
由比ヶ浜は熱心に『伊豆の踊子』読んでいた。下校時刻に雪ノ下が解散を告げるまで読んでいたが、読むペースは俺や雪ノ下と比べるとどうにも遅い。本を読むことに慣れていないのだ。
雪ノ下はそんな由比ヶ浜を微笑ましく見ていた。
午後九時ごろ。
筋トレを始めようとしたらスマホが震えた。メールが届いたようだ。
『今からヒッキーに借りたほんよむね』
由比ヶ浜から、文脈とは関係も必要性も感じない絵文字と一緒にメッセージが来ていた。「読んだら部活んとき感想くれ」とだけ返して筋トレを始めた。
翌日、由比ヶ浜は体調不良で学校を休んだ。
* * *
由比ヶ浜は二日続けて学校を休んだ。
三浦や海老名は心配しているのかやかましさは控えめだった。
「そう……由比ヶ浜さん、どうしたのかしら」
眼前にいる、冷血の擬人化のような女も由比ヶ浜のことを心配していた。
「慣れないことをしたから知恵熱でも出たんじゃないか」
軽口をたたくとじろりと睨まれた。
俺が来るまで読んでいた本を閉じ、雪ノ下は目を伏せた。
「こういうときってどうしたらいいのかしら」
「どうって」
「私、今まで友達がいたことがないから、その……」
「心配だけど、いちいち連絡とってもいいのかわからないわけだ」
「ええ」
雪ノ下の悲しいカミングアウトと、それに驚くこともなく当然のものとして受け答えする俺。悲しい二人だった。
「電話じゃなくてメールで体調訊くくらいならいいだろ。寝っぱで暇なら雑談相手だって欲しいだろ」
「でも由比ヶ浜さん、友達が多そうじゃない?」
「あん?」
「だからその、他の友達とやりとりしてる時に私が連絡を送っても、迷惑じゃないかしら」
「そう思うんならやめとけ」
雪ノ下は肩を落とした。それを見た俺は溜め息をついて言った。
「友達が多いつっても、みんながみんないちいち由比ヶ浜を心配するような仲ってわけじゃないだろ。お前が気にしてるなら連絡とりゃいい」
「……そうね」
言うと、雪ノ下はケータイを取り出し、画面とにらめっこを始めた。
長々と悩んでないで、はようてや。
* * *
六時前に起きて、柔軟をしてからランニングに出た。
最近は走るのも余裕ができてきたので距離を伸ばすことにした。
道中人とすれ違う。俺と同じようにランニングをしているやつや犬の散歩をしているやつ。馴れ馴れしくあいさつをしてくるやつには会釈だけ返した。
道中にあった公園に入り、ベンチに腰をかけた。ボトルポーチから水筒を取り出し、飲む。
立ちあがり軽く柔軟をし、走り出そうとすると声をかけられた。
「あれ、ヒッキー?」
振り向くと小型犬を連れた若い女が立っていた。明るい茶髪をおさげにして、素朴な顔立ちで目がくりっとしている。七分のTシャツにハーフパンツを着て、スニーカーを履いている。そしてその胸は豊満だった。
「……おのれ、
俺の芝居がかった台詞を受けた女は「あっ」と声を上げうずくまった。小型犬がぎょっとして彼女を見た。
「しまっ、スッピンだった!」
「冗談だよ冗談。わかってるって」
「ひ~~っ、み、みないで」
「減るもんじゃねえだろ」
「減る!精神力とか減る!」
「そうか。まあ元気そうだな、由比ヶ浜。安心したぜ」
そう言うと女──由比ヶ浜は俺に背を向けて立ちあがった。
「……心配、かけちゃったかな」
「そりゃまあな。雪ノ下なんて泣きそうな顔してたぜ」
「それは嘘でしょ」
俺は肩をすくめた。由比ヶ浜はこっちを見ていないが。
「ヒッキー、なんでこんなとこいんの?」
「見りゃわかんだろ。ランニングだよ。日課なんだよ。体力に余裕できたから足を伸ばしてみたんだ」
由比ヶ浜と話していると、犬が俺に愛想を振りまいてきたのでしゃがんで目線を下げた。頭や背を撫でてやる。舌をだらんと垂らしながら微笑んだ。
「……なんで休んでたか、きかないんだね」
「今訊くことじゃないさ。なあサブレ?」
首をわしゃわしゃ撫でてやると犬が「ひゃん」と小さく吠えた。
「えっ、ヒッキーなんで名前知ってんの」
あ、いっけね。
由比ヶ浜がこっちを向いた。
「なんでって、菓子折り持ってきた時に言ってただろ。"うちのサブレを助けてくれてありがとう"って」
「……ヒッキー、その時入院してたんじゃないの?」
「小町に、妹に聞いたんだよ」
思いつきの釈明をする。
俺が雪ノ下の乗った車にはねられた時、現場に由比ヶ浜もいた。車道に飛び出したサブレを助けようとしてはねられてしまったのだ。直接礼も謝罪も言えず仕舞できてしまい、こいつがそれを気にしているのを知っている。
「しってたんだ」
「まあな」
「……ねえヒッキー」
「事故のことなら部室で話そうや。雪ノ下も交えた方が話が早い」
「なんで、ゆきのんが出てくるの」
「部室で話すっつったろ」
つっけんどんに言い放つと由比ヶ浜は俺と向き合うようにしゃがんだ。ハーパンがたわみ、ふとももがあらわになる。
「じゃあいっこだけ。なんであの本をあたしに読ませたの」
あの本──『走ろうぜ、マージ』は、サブレの死後、結衣がよく読んでいた。俺はペットの小説など読もうという気もないし集めてもいなかったのだが、これは好きな作家の作品なので持っていた。結衣はやはり読書家ではなかったが、表紙が犬なので読んでいた。初めて読んだ時は「サブレは幸せだったのかな」「もっとサブレのためにできたことはなかったのかな」などと言って沈んでしまったものだ。
「……さあ、なんでだろうな」
「ちょ、なにそれ」
俺は立ちあがり、「じゃな」と走り出した。由比ヶ浜が何か言って立ちあがったが無視した。
由比ヶ浜はあの本を読んで、自分が犬のために何ができるか思い悩んだのだろう。結果、学校を休んで犬と居る時間を増やした。そんなところか。
犬の悔いは飼い主の悔いだ。飼い主がしょんぼりしてたら犬だって楽しくないぜ、由比ヶ浜。
* * *
今日は由比ヶ浜が学校に来た。
周りの連中が由比ヶ浜に絡んでいく。賑やかな様子を横目で見ていた。
由比ヶ浜と部室に行くと雪ノ下が愛想よく出迎えてくれた。由比ヶ浜を。
「由比ヶ浜さん、もう大丈夫なの?」
「ぴんぴんしてるよ。心配かけてごめんねゆきのん」
「いいのよ、由比ヶ浜さん」
抱きついた由比ヶ浜に雪ノ下は微笑む。
いつもなら暑苦しいとかいって申し訳程度の抵抗をするもんだが。いやはや、いい眺めですね。流れで俺も抱きついてみようかしら……。
雪ノ下と由比ヶ浜がわちゃわちゃしていたがひと段落ついた。
俺は切り出すことにした。
「なあ雪ノ下」
「ヒッキー」
由比ヶ浜が口を挟んだ。なんだ、と顔を向けると目を伏せてゆっくり首を振った。事故のことを話すなというのか。
由比ヶ浜はおバカだが聡い子だ。朝から考えて、結論を導き出したのか。それとも単に察したか。
いいさ。お前がしないというならしないよ。
俺は目を閉じて背もたれに背を投げた。
「比企谷くん、なにかしら」
「なんでもない。気にすんな」
「それを言われて気にならない人はいないと思うのだけれど」
「それも人生だ」
「……何を言っているのかしら、この男は」
雪ノ下は眉間に皺を寄せながら額に手をやる。由比ヶ浜はそんな雪ノ下を見ながら微笑んだ。
由比ヶ浜があの車に雪ノ下が乗っていたという事実に辿りついたとして、話すのをやめたのはなんのためか。雪ノ下に気を使って?今まで触れなかったことを掘り返すのが怖い?
勿論俺には判らない。判る必要もない。
だが、事故のことを話さずに済んでほっとしているのは俺もだった。事故自体は今更どうでもいいのだが、それを話すことでこのぬるま湯のような空間がどうなってしまうのか。わざわざ居心地を悪くする必要も無い、そう思ってしまった。
いい歳こいて女子高生二人とボケッとしているこの時間に価値を見出してしまっている。まったく進歩の無い自分がおかしかった。