JR本千葉駅についた。
安物の腕時計で時刻を確認する。針は六時二分を差していた。約束の時間は午後七時。だいぶ余裕がある。俺は西口を出て交番前の開けた歩道に向かった。待ち合わせの約束をしている
辺りを見回す。ラーメン屋。飯屋。ラーメン屋。飯屋。もうちょっと歩けばまたラーメン屋や飯屋があるだろう。俺は立ちどまり、目を閉じた。頭の中に声が聞こえてきた。
──八幡よ。ラーメンを食べるのです。本千葉は数多くのラーメン屋があります。本千葉に来てラーメンを食べないのは愚か者のすることです。
俺は声を無視して歩き出した。
ぶらついていると視界に入った雑居ビルの一階に喫茶店があるので入った。壁際、大きな窓に面したテーブル席に腰を下ろし、アイスコーヒーを注文した。若干距離があるが、待ち合わせ場所である交番前が見える。俺はショルダーバッグから
俺は時間に余裕があるなら待ち合わせには一時間早く着くようにしている。その間に周囲の地理を把握し、待ち合わせ場所が見える場所で見張る。ヤクザの頃の癖だ。堅気の高校生に必要な行動ではないが、家に居てもすることがないので結局こうしている。
本を読みつつ、時折コーヒーをすすりながら窓の外を眺める。そうしているうちに交番脇に俺の待ち合わせ相手が現れた。時計を見るとまだ六時半。うせやろ?俺が時間を間違えた……なんてことはない。単に彼女が早く来ているのだ。
俺はコーヒーをずぞぞっとすすりながら彼女を眺めた。七分袖の黒いTシャツに織部色のカーゴパンツ、いつもは下ろしている長い黒髪はポニーテールに纏められている。女子にしてはひたすらに無骨ないでたちだが遠目にもわかる長い手足と抜群のスタイル。間違いなく彼女だ。
コーヒーを飲み干し、勘定を済まして店を出た。街路樹のそばで煙草を咥える女性に足早に歩み寄り声をかけた。
「平塚先生、早いですね」
「え、比企谷?まだ30分前だぞ」
「そりゃこちのセリフですよ。俺は
「よ、余裕を持って行動するのは社会人の常識だからな!比企谷もわかってるじゃないか」
「さいですか」
やたらと顔の整った女教師は妙に落ち着きが無い。休日に男(生徒だけど)と逢うのに馴れてないのか、或いは共通の趣味を持つ男(生徒だけど)との会話に興奮しているのかは俺の知るところではないが。
平塚先生がこちらに
「どうした比企谷?」
顔を上げると平塚先生の顔がすぐそばにあった。学校と違って化粧はほぼしていないように見える。にもかかわらず切れ長の目はパッチリと大きく、二重もくっきりしている。鼻筋や頬も健康的に赤みの射した白。なんだこの独身女、ルックスの妖怪かよ。なんで公立高校の教師なんかやってんだろうな。俺はのけぞる素振りを見せた。
「あまり男子高校生に距離を詰めないでくださいよ。緊張とかしちゃうし意識もしちゃう」
「散々高校生らしくない言動をしておきながら何を言っているんだ」
「ちょっと斜に構えてるだけで健全な男子高校生ですよ、俺は」
俺が目を逸らすと彼女は「そういうことにしておくか」と笑い、歩きだした。
「どこいくんですか?サテンとか言われても腹ちゃぽんちゃぽんになっちゃうんですけど」
「どこって道場だろう。紹介してくれって言ったのはきみじゃないか」
「え?七時からなんじゃないんすか」
「今日は七時半から八時半がMMAスパー、九時から十時までがフリー練習になっているが、道場自体は開いてるんだ。みんな早めにきて着替えたりアップしているよ。入会してない比企谷は見学しかでないが、私の柔軟には付き合ってもらおうかな」
ヤンキー三人を叩きのめしてから一週間後。俺は平塚先生に声をかけ、彼女の通っている格闘技ジムを見学させてもらうことにしたのだ。
平塚先生の半歩後ろを歩いていると、彼女は立ちどまり「ここだ」とビルを指差した。一階と二階に跨るようにして『MMA 柔術 キックボクシング 太田道場』の看板が掲げられている。
平塚先生が挨拶をしながら入って行ったので俺も続いて入った。広い空間に既に何人かがおり、ウォーミングアップやマススパーをしていた。彼女はすれ違う人全員に愛想よく挨拶をしており、彼女が声をかけた人も愛想よく声を返している。
「おっ、静ちゃん、若い男連れてるね!彼氏?」
「学校の生徒ですよ生徒。ぶちのめしますよ」
妙齢のおばさまとけたけた笑いながら会話している。学校では気取った笑みや皮肉めいた嗤いしか見せないので新鮮だった。俺がきょろきょろ見回していると坊主頭の厳ついオッサンが近付いたきた。眉は薄く、垂れ目。耳は変形し潰れており首も太い。当然のように身体は分厚い。絵に描いたような柔術家だ。歳は30代後半だろうか。人相を見取っていると渋いバリトンボイスをかけてきた。
「ヅカちゃん、その子かい?」
「こんにちは
「比企谷八幡といいます。今日は宜しくお願いします」
俺が頭を下げて自己紹介すると太田とかいうオッサンはいきなりハグをしてきた。
「ヒキガヤくんか、宜しくね。太田です」
不意を衝かれた俺が固まっていると「なるほどね」と呟いて離れた。何がなるほどなんだ……。
平塚先生が着替えに行った(二階が更衣室と休憩所になっているらしい)ので壁際に一人で突っ立ってアップやマススパーをしている人たちを見ていた。見るからに格闘家然とした身体つきの20代の男。体型維持の為に通っている感のある40代の男。フィジカルの増強こそがセルフマネジメントの証と勘違いしてそうな小洒落シンサイ刈りの30代の男。パッと見、格闘技には興味無さそうな地味な女。俺と歳の変わらなさそうな若い男や女……
「驚いた?」
バリトンボイスのした方を向くとさっきの太田がいた。
「ウチ結構いろんな人が通ってんだよね。職業や年齢もバラバラ。勿論本気でプロ格やってるのもいるけど」
「女の人も多いんですね」
「最近はボクササイズとかも浸透してるからね。それにほら、あそこに居る子。ナオっていうんだけど、ウチの顔の一人でね。女子格団体ヴァルキュリアのフライ級日本チャンピオン」
「日本チャンピオン!?」
「女子格はマイナーだけど、それでも彼女のネームバリューがあるからウチに来たって子も多くてね。おかげで女子クラスが作れるようになったよ」
俺みたいなオッサンと組むのに抵抗ある子も多いからよかったよ、と太田が笑ったところで俺は口を開いた。
「でも驚いたのはその、なんていうか、みんな和気あいあいというか楽しそうっていうか。もっと殺伐としてるもんなんだと思ってました」
俺はヤクザ時代に飼っていたゴロツキ集団──格闘技団体・
「勿論世の中にはそういうジムや道場もあるよ。でも俺は体育会系のシゴキがしんどかったし理不尽だと思ってたからね、そういうの抜きでやれたらいいなあと思ってこの道場を始めたんだ」
「……ここの人たちが楽しそうなのは太田さんの人柄によるものなんですね」
「なにより優しく楽しく愛想よく、てのがないと今時商売として成立しないってのもあるけどね。すぐ辞められたり人が増えなかったらおまんまの食い上げだ」
そう言って太田はケラケラ笑ったが、その目には攻撃的な光が見えた。
「つっても勿論優しくしてばかりじゃないよ。なんたって格闘技だ」
住み分けができていた。
健康や体型維持の為に来ている連中。生活の中で競技として格闘技をやっている連中。格闘技を生活の中心に据えている連中。
平塚先生は最初の連中の一人だった。打撃、組技、寝技。いろいろ技を繰り出している。流れ、弾ける汗が眩しい。揺れる胸に目がいく。仁徳天皇に血液がいく。
スパーに区切りがついた。平塚先生は相手に一礼をして壁際に移動し、座った。休憩している先生を見ていたら俺の視線に気付き手招きしてきた。周りの人の邪魔をしないようにささっと歩み寄る。ウェアが汗で躰に張り付き艶めかしいボディラインがくっきりと浮いていた。俺が中腰になるのは先生が座っているからだ。ほかに理由は無いぞ。
「見ていてどうだ、比企谷?」
「みんな楽しそう……ってだけじゃなさそうっすけど、アツさはビシビシ感じます」
「だろう?」
平塚先生はニカッと歯を見せて笑った。少年のような笑顔。エロい躰とのアンバランスさがそそる。
「ありがとうございましたー」
八時半。ウォームダウンと着替えを済ました平塚先生と道場を出た。駅に向かって歩き出す彼女についていく。
「これから他道場の人たちも来てフリー練習するんですよね?出稽古的な。帰っちゃっていいんすか」
「高校生を夜遅くまで連れまわすわけにもいかんだろう。学校の先生的に考えて」
ヘアゴムをほどきながら歩く彼女は、案外ちゃんとした答えを返してきた。
「わざわざ俺のために先生まで帰らんでも……。帰れってんなら一人でも帰りますよ」
「あとな、行きたいラーメン屋がってな。ラストオーダーが九時だから最後までいたら間に合わない。それに若い客ばかりで私一人だと入りづらいところだから、付き合ってもらうぞ」
高校生を夜遅くまで連れまわしたらいかんだろう。学校の先生的に考えて。付き合うけど。
駅を通り過ぎ5分ほど歩いた地点、黒とグレーでシックに塗装され建物の前で先生が止まった。洒落た店構えをしているが、どうやらラーメン屋らしい。香ばしさが漏れ出ている。
「ここだ。入るぞ」
先生に続いて暖簾をくぐった。客層は若い女や男女の二人組。成程、先生が一人で来たがらないわけだ。
カウンターに座ると店員がメニューを一つ渡してきたので受けとり、先生と見ることにした。身を寄せてきた先生の髪がふわりと広がり、シトラスの香りに鼻腔をくすぐられた。ほのかに混ざる汗の匂い。ウェアを脱いでボディペーパーで躰を拭き、制汗剤やスプレーを使う平塚静を想像させられてしまった。
「おい、決まったのか」
「え、ああ、でえ丈夫です」
平塚先生が顔を覗き込んできた。不意を衝かれ童貞のようにどぎまぎしてしまった。何も大丈夫ではない。メニューをチラ見し、「鶏白湯の塩とビールで」と注文する彼女に続いて鶏白湯の醤油を頼んだ。ちなみに、店内のカップルでビールを頼んでいる女は彼女のほかにはいない。そう、カップル。
「俺は彼氏代わりですか」
「や、そういうんじゃないんだが。なんとなく一人では入りづらくてな」
「まあわかりますけどね。ラーメン屋なのに外も中もなんか洒落てて、男一人でも入りづらいし」
「だろう。評判はいいんだが、なかなか手が出せなかった」
照れながら小さく笑う彼女。年相応の淑やかさと少女のような恥じらいが同居していた。
彼女ばかり見ていてもしょうがないのでメニューの説明書きに視線を落とし、道場の話をする。
「あの道場、結構大きかったすね。もっとチンケなジムを想像してました」
「そうだろ。実を言うと私も行くまではそう思っていた。五年前までは別の場所で小さい道場をやっていたらしんだが、私は三年前入ったクチだからな、その頃のことはよく知らんが。……と」
ジョッキに注がれたビールが出てきた。平塚先生が申し訳なさそうに俺を見る。
「どうぞ」
「悪いな」
言うが否や彼女はジョッキを呷った。ごっごっと音を鳴らし、ビールを飲んでいく。ジョッキを宛がわれた唇、汗ばんだ首、上下する喉、ジョッキの中身が減るにつれて背を逸らすことではちきれそうに主張する胸を見ていた。
ジョッキの飲み干した彼女は「ふう」とひと息ついて俺を見た。
「あまりじろじろと見るなよ。恥ずかしいだろ」
「いいじゃないですか。減るもんでもなし、じっくりみせてくださいよ」
「独身女が酒を呷るのを見るのが楽しいか?いい趣味とは言えんな」
「ホモでもブス好きでも無いんで。隣に美女が居るのに知らんぷりするほうがどうかしてますよ」
「なんだ比企谷、口説いてるのか?」
「趣味どうこうと言われたから感想を言っただけですよ。先生なんだかんだで真面目だし、仮に生徒に言い寄られたところでどうこうなろうなんて思わんでしょ」
「ふふ。わかっているならいいさ。なんだかんだってのは余分だが」
彼女はビールをもう一杯注文した。そのタイミングでラーメンが出てきた。
「ふぅ~~、食った食った~~。美味かったな~~この店」
先に店を出ていた俺に続いて平塚先生が腹をさすりながら出てきた。おっさんか。
「先生、ごちそうさまでした」
まとめて金を払った女教師に俺は軽く頭を下げた。
「ラーメンくらいで真面目だな。しかし軽い気持ちで比企谷を連れてきたけどなかなか面白い発見があったな。見知った顔がいなくなった途端いきなり口説いてくるんだからな~」
「あんなん口説いたうちに入らんでしょ」
ジョッキ三杯(この女教師は結局三杯飲んだ)のビールで酔ったわけではないだろうが、彼女はえらく上機嫌で饒舌になっていた。
「まっ、比企谷が奉仕部を気に入ってるようでよかったよ。しかし比企谷、奉仕部の二人も同じように口説いてないだろうな?」
「口説いてねえし。……そもそもちょっと口説いたくらいで靡くような女でもないでしょ、二人とも」
「まあ、そうだが」
ラーメンが出てきてからは奉仕部の話をしていた。活動内容のこと、雪ノ下のこと、由比ヶ浜のこと。あと材木座がうっとうしいこと。彼女は俺が語る二人(プラスアルファ)の話を、興味深く楽しそうに聞いていた。雪ノ下が奉仕部部長になったのはこの人が雪ノ下に奉仕部を作らせたからだろう。由比ヶ浜に奉仕部に相談するよう持ちかけたのもこの人だったはずだ。やり方はいくらでもあるはずだが、生徒たちが交わり、悩み成長していくのを見守るのが彼女の喜びなのだろう。
成長もなにも俺は40手前のオッサンだが。10代の肉体に精神が引っ張られたように、些細なことで惑っているせいで実感が無いが。
「じゃあ比企谷、私はこっちだから」
「はい、今日はありがとうございました」
平塚先生が乗る電車が先に来たので見送る。発車間際、彼女が小さく手を上げ振ってきたので会釈で返した。彼女の乗った電車が視界から消えるまで見ていた。
発見。彼女はそう言った。それは俺も同じだった。以前はまるで知らなかった彼女の表情を今日の数時間で沢山見た。格好つけたところやみっともないところは散々見せられたが、30前の女の貌、努力の形に触れたのは初めてだ。改めて、いい女だ。
ボケッと平塚先生のことを考えていると俺の乗る電車が来るのが見えた。俺は乗車位置に足を向けた。白線の二歩手前で俺は立ちどまり、目を閉じた。
悶々としている。
平塚静とヤリたくて仕方が無い。
「サカリのついたガキだな、こりゃあ」
俺はかぶりを振り、電車に乗り込んだ。