荒木町でタクシーを拾い、新宿通りを皇居方面に向けて走らせた。
「あ~~っと、麹町駅んとこで左折して。んで日テレ越えたとこの交差点で停めて」
指示した場所でタクシーが停まり、大和は金を払った。
「ほら社長、しゃきっとしてくださいよ。また奥さんに怒られますよ」
「ああ~~、くそ。俺としたことが……、大和さんに張りあっても勝てるわけねえのに、いつもこれだ……」
横で酔い潰れていた中年男を引っ張りだした。目が血走っており、足がふらついている。目を離した隙に路上に倒れこみ寝落ちしそうな勢いだった。
苛立った。こんな程度の低い間抜けが事業に成功し、若いタレントと結婚し成功者としてでかいツラをして生きている。憤りを覚えると同時に惨めさを感じた。こんな間抜けの機嫌をとって組の為にちまちまと使い走りのような仕事を貰う自分はなんなのだ。
かぶりを振った。不要な思考に脳の容量を割くのをやめ、間抜けの社長に肩を貸しマンションまで歩いた。
間抜けの社長をマンションの入り口まで送り届けると、大和は煙草を吸いながら四ツ谷駅に向かって歩きだした。時刻はまだ午後11時半。この時間なら電車はまだある。間抜けを千代田区のマンションまで送り届けてから、ドブ臭い神田川沿いにあるしけたアパートに帰ることを考えると、大和はまた惨めな気持ちになった。
「おや、
駅の手前で、典雅な北京語で名を呼ばれた。名以外は流暢な日本語で。そんな人間は一人しか知らない。
「
振り向いたら北京系の
大和程ではないが、陳は体格もよく、派手さは無いが仕立てのよいスーツをぱりっと着こなしている。眼鏡も装飾の無いシンプルな銀縁。短めの髪を横分け気味に流しており、大手商社に勤めていると言われても違和感がない風貌だ。歳は大和の二つ上だが、生気が漲っており大和より若く見える。
そのまま日本語で会話を続けた。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね。誰かの送迎ですか」
「ええ、そんなところです。陳先生もですか?」
「私は愛人を送ってきたところです。泊まっていけと言われたんですが、
八斬。
陳は親しみを込めて八斬と呼んだ。
人間を文字通り八つ裂きにする男に親しみを持つあたり、陳も相当な外道畜生であり、あまり一緒にいたくない類の人間だった。大和は陳の気分を害しない別れのあいさつを探したが、遅かった。
「そうだ。大和も一緒に来ませんか。マルコも一緒なんですよ。久しぶりでしょう」
「そんな、三人とも有名人じゃないですか。私のような小物が一緒しては場が白けてしまいますよ」
「何を言っているんですか大和。私たしは朋友でしょう。行きましょう」
眼鏡の奥、銃口のように黒く昏い眼が大和を見つめた。陳相手に改めて断りの言葉を入れる勇気を持たない大和は肯いた。
陳がタクシーを停め、乗り込んだ。
「区役所通りまで」
歌舞伎町。時代が変わっても日本最大の歓楽街であり続けている。そして日本最大の掃き溜めでもある。
「大和は岐藍連合の人間ですし、歌舞伎町は庭のようなものでしょう」
運転手の耳を気にしてか、陳が北京語で話しかけてきた。大学で学んだ中国語は北京語をベースに作られた
「岐藍連合といっても私は皆戸の人間ですから、歌舞伎町にはたまに飲みにいくくらいですね」
「なるほど。神楽坂だってなんでもありますからね。わざわざ出向く必要もないですね」
皆戸一家の事務所は神楽坂にある。それとは関係無しにお前らみたいな北京野郎が嫌いなんだよ、とは言えないので曖昧に笑った。
今時中国人などどこにでもいるが、大和は歌舞伎町に巣食う北京系が特に嫌いだった。
その金を持っている連中の中でも北京系は特にデカい顔をするようになった。雨後の筍のように湧いてきた地方中国人や不良外人と違い、昔から歌舞伎町を仕切ってきたという自負が連中にはある。それが大和には鬱陶しかった。
──俺はチャイマとおしゃべりするためにTUFSに進学したんじゃねえぞ。
陳がタクシーの運転手に万札を払い、降りた。大和も続いて歩く。
「今日はどんなお店にいくんですか」
「残念ながらお姉ちゃんのいるお店じゃないんですよ。遅くなると八斬はさっさと帰りたがるし、私も香水の匂いをつけて帰ると女房に怒られる。マルコは残念がりましたが」
「私もさっきまで飲んでいたので、その方が助かります」
比企谷は大井や渋沢とは何件でも飲み歩いたが陳やマルコとはそうしないらしい。
歩いて数分、陳が立ちどまり「ここです」と雑居ビルの一階を指さした。大和も知っている人気のラーメン屋だった。
「ここって九時には閉まりませんでしたっけ」
「それは勿論大丈夫ですよ」
陳は朗らかに笑った。ここは北京野郎の息がかかっている店ということだ。大和はげんなりした。
店に入ると比企谷とマルコは座敷席で餃子を食いながらビールを飲んでいた。
比企谷は白いジャージ、マルコは黒いツナギを着ていた。殴り込みでもいくような格好だ。
比企谷は大和たちを見るとジョッキを置き、言った。
「陳哥、何故大和がいるんですか」
「四ツ谷で出くわしたから連れてきた。たまにはいいだろう。八斬だって同郷の友人じゃないか」
先程までとは違い、陳は尊大な態度で比企谷と話した。比企谷は「別に友人じゃないが」と肩をすくめた。
マルコは黙って見ていたが、けたけた笑うと日本語で喋り出した。
「いいじゃねえかハッチ。大和だってアミーゴだろうが。文句言ったら可哀想だろ。一緒にメシ食おうぜ。」
「別に文句があるわけじゃない」
マルコは浅黒い肌にウェーブのかかった黒髪、彫刻のように彫りが深く整った目鼻立ちといったラテン男の鑑のような風貌をしているが、日本生まれ日本育ちで流暢な日本語を使う。
陳が店長に声をかけつつ比企谷の隣に腰を下ろしたので、大和はマルコの隣に腰を下ろした。
「とりあえず拉面食べましょう。今週は洒落た西洋料理ばかり食べていたから、拉面欠乏症で死んでしまう」
陳は真顔でたわ言をほざいた。
その後は、最近出た新車が欲しいだの、若い女を狙っているだの、飼っている猫が食欲不振だの、どうでもいいことを話していた。ただの食事会のようだった。
「そろそろはおひらきにしますか」
陳が言うとマルコ以外は帰る意志を見せた。渋るマルコを比企谷が小突きながら店を出た。
店の前には型落ちの国産ミニバンと現行BMWの7がいた。ミニバンには比企谷の、BMWには陳の兵隊が乗っていた。マルコはそのまま比企谷が送っていき、大和は陳のBMWで送られることになった。
BMWがゆっくり都道305号を北上していく。
流れていく夜の新宿を見ていると陳が日本語で訊いてきた。
「大和の住まいは水道二丁目でしたっけ。神田川のすぐそばでしたよね」
「江戸川橋のとこのコンビニで降ろしてもらえれば大丈夫です」
眼前の悪鬼に住処を隠す意味などないが、それでも直接送られる気にはならなかった。
陳が運転手に北京語で話しかけると車の速度が増した。
高戸橋で信号待ちをしていると陳が口を開いた。
「大和は八斬の下にはつかないんですか」
「いきなりなんです?」
「皆戸は老舗で存在感があります。兵隊も多い。でもそれだけでは足らない。わかっているでしょう」
陳は大和の意志を確認するように言った。
「……大井のアニキがいなくなって一年。周りの俺たちを見る目が変わったのはたしかです」
「皆戸に唾を吐くと大井さんが出てくる。誰もが怖れていました」
陳は大井の名を日本語で言った。陳は親しくない日本人は日本語にさん付けで呼ぶ。
「やくざ稼業はおそれられて成り立ちます。岐藍連合理事の組を舐めているわけではないですが、大井さんのいない皆戸よりも、おそれるべき存在はいくらでもあります」
「だから俺に比企谷の威を借りろと?」
「泥船にしがみついているだけではどうにもならないでしょう」
銃口のような眼が大和を捉えた。身じろぎひとつすら躊躇われた。
泥船。大和も頭でわかってはいたが、
「大井さん同様、誰もが八斬をおそれます。日本のやくざも、中国人も、南米人も」
「比企谷は大井のアニキとは仲が良かった。だからって俺なんかを舎弟にはしませんよ」
「彼は外道だが、兄弟分の舎弟をむざむざ見捨てるような薄情者でもないでしょう。我々中国人が同胞に手を貸すようなものです」
それだけ言うと、陳は話は終わったと言うように窓の外に顔を向けた。
大和がBMWから降りると陳が言った。
「私もマルコもあなたを気にかけています。恩がありますからね」
大和は小さな事務所や物件を都合することができる。小汚いビルの一室を二束三文で手に入れ、それを人種問わずに三束四文で売っている。外人相手に足下を見ずに商売してやるヤクザは希少だが、単に大和はそうでもしないと稼げないというだけだった。若い時分に陳やマルコを相手にしたこともあったが、そんなものを恩に感じているとはこれっぽっちも思わなかった。
「八斬は大井さんにもあなたのことを頼まれているとは思いますが、私たちだって八斬を介して恩を返したい。沈没していくのを黙ってみているような不義理者ではないのでね」
比企谷は勿論、陳やマルコも睨みを利かせるのであれば大和のシノギに唾を吐いてくる人間はいなくなる。だが、組に忠誠を誓っているわけではないとはいえ、あっちこっちにシッポを振る人間を軽蔑している大和は自分がそうなるのに抵抗を感じた。
それ以前に、恩返しとはいうがそんな言葉を信じる大和でもなかった。陳やマルコがヤバくない話を持ってこないはずもない。日本の歓楽街に巣食う不良外国人の耳障りのいい話を真に受けるのは馬鹿のすることだ。
ヤクザになったばかりの頃の大和は、他人のもってきた儲け話に乗って痛い目を見たことは一度や二度ではない。カタギだろうがヨゴレだろうが、警戒心を解くと死ぬ。
「そうですね、考えておきます」
大和の返答に陳が満足そうにうなずくとBMWが発進した。
大和にできることはBMWを苦々しげに見送ることだけだった。BMWが視界から消えたあとも、大和はBMWが走り去った方向を睨みつけていた。