俺がぼそりと呟いたのが耳に入らなかったのか、平塚先生は俺に視線を向けることも無くからりと戸を開けた。
その教室の端には机と椅子が無造作に積み上げられていた。それ以外は2-Fと特に違いは無い。
だがその空間には彼女がいた。俺が見知った、かつては憧れもした少女──雪ノ下雪乃がいた。
差し込む西日を後光のように背負いながら、文庫本を読む雪ノ下雪乃がいた。
県内有数の進学校の総武高校でも一際偏差値の高い国際教養科の生徒。その国際教養科でも更に一際目立つ存在。総武高随一の美少女であり、校内一の優等生。設定過剰すぎて笑える。
まだ年端もいかないような小娘のはずだが、差し込む光が端正な顔立ちに陰影を落とし、妙な色気を醸し出していた。黒いはずの長髪は西日の反射で黄金に輝いており、物憂げに本に視線を落とすその
彼女は本に栞を挟み閉じ、こちらに向き直る。一瞬だけ色気を感じてしまったが、よくよく見ると年相応のあどけなさが残る小娘だ。
「……平塚先生。入るならノックくらいしてほしいのですが」
「ノックしても君は返事をした試しが無いじゃないか」
「そうですか。それで、その、先生の後ろから私を睨みつけている人は?」
雪ノ下雪乃は平塚先生から俺に視線を移して質問を投げた。
「彼は比企谷。入部希望者だ」
「なにっ」
雪ノ下に意識を持っていかれていた俺は、咄嗟のことだったのでタフの雑魚モブみたいな反応をしてしまった。
「さっき話しただろう、罰を与えると。ここでの部活動を命じる」
「罰っていうのは、その子と同じ部で過ごすことですか。奉仕活動を命じると言われましたけど、彼女の小間使いでもしてやればいいんですかね」
俺が顎で雪ノ下雪乃をしゃくると、本人がむっとした表情で俺を見返してきた。平塚先生は俺を無視し、雪ノ下に語りかける。
「というわけで彼はなかなか性根が悪く、人を遠ざける傾向にある。彼の孤独体質の更生をしてくれ。それが私の依頼だ」
誰が孤独体質か。ヤクザ生活の中でシノギについて考えるようになってからは人付き合いを大切にしているぞ。金や有意義な情報を産む人間に限るが。
「……まあ、構いませんが」
「では、あとのことは頼んだぞ」
それだけ言って、俺を連れてきた国語教師は教室から出て行ってしまった。
部屋に残されたのは俺と雪ノ下雪乃の二人のみ。
雪ノ下がベラベラとお喋りを好む人間じゃないことを知っている俺は、教室の端に積み上げられた椅子と机を動かすと廊下側の壁を背にしてどかりと座り、腕を組み目を閉じた。平塚先生が俺をここに連れてくるまで、雪ノ下は読書に集中していたのだ。わざわざ話しかける必要も無い。雪ノ下も俺に話しかけようともせず、本に視線を落とした。
無言。
静かな空間で、思索にふける。何について考えるかなど、決まっているが。
何故俺は生きているのか。何故俺は高校生に戻っているのか。何故高校生活の中でもここからなのか。
何故。何故。何故。なぜなぜづくしだ。
勿論考えても何もわからない。死んだ人間は生き返らない。それは20年近くに及ぶ極道生活の中でイヤというほど思い知っている。なのに何故俺は生き返っているのか。いや、過去に戻っているのだから生き返ったというのは違うのか?
考えてもわからないことを考えても仕方ない。では俺は今後どうしたらいいのか。どうするべきか。この人生。この命。どう使うべきなのか。
今度は高校を退学にならないように過ごすべきか?だが俺にはあの時の行動に悔いは無い。もし同じような状況を迎えたら同じように行動するだろう。むしろより早く殺してしまうだろう。まだ何も起きてないが、今から探しにいって殺したって構いやしない。
ここで高校生活自体は別にやり直したいわけではないことに気付いた。決して満足して過ごしたというわけではないが。正直もうどうでもいいのだ。
では悔いが残っているのはなにかと考えた場合、ヤクザとして生きてきた中にある。獄中で病死してしまった兄貴分。ゴロツキにリンチされて死んだ、兄弟盃を交わした信服の友。そいつの仇討ちで5人ぶち殺し逮捕された、死刑待ちのもう一人の兄弟分。
俺の今後の行動次第では彼らを救えるのではないか。だが彼らの結末を変えるためにはもう一度ヤクザとして生きていかねばならない。ヤクザ人生を思い返す。しんどいことやつらいことばっかりだった。灰色の高校生活などとは比にならないほどつらかった。目が気に入らないと先輩たちに折檻を受けたペーペー時代。金のためにあちこち飛び回り組筋と揉めて大怪我をしたことも一度や二度ではない。死にかけたことだってある。やり直したところで、彼らを助ける前にちょっとしたボタンのかけ違いで俺が死んでしまう可能性の方が高いのではないか。
それに少年院にも刑務所にも行きたくない。オリ暮らしで得た出会いもあるし、そこの人脈でシノギを作ったこともある。だからといって同じように懲役に行こうなどという気は微塵もわかない。ネットのネタでサラリーマンより囚人の方が自由があるというが、自由どころか人権すらない。地獄だ。
同じ人生をやり直すためにもう一度同じように生きるのは、無理だ。
「……やだな」
思わず声に出してしまった。
「流石にそれは失礼ではないかしら」
突然雪ノ下に不快感のこもった声をかけられ、俺は思考を中断し目を開けた。
「ん?」
「平塚先生に連れてこられたところを見るに、あなたも入部には乗り気ではないのでしょう。でも先生に説得されてしぶしぶあなたを引き受けた私を目の前にして不満をいうのはちょっと神経を疑うわ」
どうやら俺の「やだな」をこの部活動に対しての意見だと受け取られたようだ。しかしお前こそしぶしぶってそれ言うか……。とりあえず釈明することにする。
「誤解だ。平塚先生に書かされた課題で、ちょっと将来のことについて考えてたんだ。でも明るい未来が見えてこなかったから、それについての不満が出てきたんだよ」
「たしかに、貴方の言動や目付きから察するに、あまり真っ当な人生を歩めそうにないわね」
俺の言い訳をまるっと信じたわけでもないだろうが、初対面の人間に対してなかなかに失礼な意見だ。流石氷の女王と呼ばれていただけのことはある。や、俺が勝手に呼んでただけだな。心の中で。
だが彼女の言葉は正しい。前科二犯のヤクザになった挙句、手榴弾を放られて死んだ。仮に生きていても今後更に逮捕され実刑を受ける可能性だってある。「あまり真っ当ではない」どころかクソ以下のクソだ。否定できる言葉は持ち合わせていない。
でも雪ノ下、それを言うならお前の人生も大概だったぜ。とは言う気にもならなかったので無理やり話題を変えることにした。
「しかしお前、初対面の人間に対してなかなか失礼な意見を言うな」
「雪ノ下よ。雪ノ下雪乃」
「あん?」
「私はさっき先生からあなたの名を聞かされたけど、あなたはそうではないでしょう」
そうだった。その程度のことすら気付かないなど、俺の脳味噌は芸術的な程に皺が足りていない。もし聞いてもいないのに名前を呼んでいたらストーカー扱いされていたかもしれない。つってもこいつは元から有名人だったけど。
「あと、初対面の女子をお前呼ばわりするのも失礼だと思うわ」
「ごめんねぇ、雪乃ちゃん」
ちゃん呼びしたら訝しげな視線を向けられた。その目は間を置かずに侮蔑の色を宿した。残念ながら、女子に嫌な顔を向けられるのは俺にとってはご褒美ではない。俺は芝居がかった動作で肩をすくめた。
「……いきなり知らない人がやってきて無遠慮な態度を取られたら、誰だっていい気はしないものだと思うけれど」
雪ノ下は若干の間を空けて答えた。知らない人と言ったが、こいつは俺のことを知っている。高校の入学式の日、俺をはねた車に乗っていたのがこいつだ。彼女自身に非は無いとはいえ、入院させてしまった人間がいきなり自分の空間に現れ、自分に文句を言ってきたのだ。どんな心境だろうか。今更事故のことなどどうでもいいので、それには触れずに自己紹介をする。
「さっき先生も言ってたが、二年F組の比企谷八幡だ。宜しくたのむ」
「さっき聞いたわ」
「…………」
ちょっと待ったが、雪ノ下は名前を名乗っただけでそのあとに言葉を続けなかった。会話する気ZERO。せめて「宜しくね、比企谷くん♡」くらい言えよ。俺の顔を見た雪ノ下は俺の言いたいことを読み取ったのか、小さく「ふふっ」と笑い、俺の目を見る。
「餌を取り上げられた犬みたいな顔になっているわね。もしかして私とおしゃべりしたかったのかしら?」
「話したかったというか、学校という社会性を育む場でコミュニケーションをぶった切られるとは思っていなかった」
「あら、あいさつもせずに難しい顔をしていきなり席についたのは誰だったかしら」
正論で殴られた。俺はお前に気を使って静かにしてやっただけだ、とは言えずに黙ったまま雪ノ下雪乃の顔を見る。
「そんなにじろじろ見てどうしたのかしら。もしかして一目惚れ?いくら私の容姿が整っているからってそういうのはちょっと」
「真顔でそれを言うのか。すごい自信だ」
「経験則に基いた意見よ。私、昔から整った容姿をしていたから。親しくもなければ面識だって無いような人からも好意を寄せられたことだってあったわ」
「おモテになって、うらやましい」
なんだったら高校卒業後、大学でもたいそうモテただろう。彼氏の一人や二人、本人にその気があればすぐにでも作れそうなものだがどうしていたのだろうか。
俺は少年院を出てからほどなくして組入りした。雪ノ下雪乃は暴排条例を気にする親に俺との関係を断つことを厳命され、組入り以降は結局死ぬまで会うことは無かった。
しかめっ面で話を聞く俺に雪ノ下は続ける。
「そういう貴方はどうなのかしら。このほんのちょっとの会話の間にじっとり汗をかいているみたいだけど、女の子との会話は苦手?馴れてないのかしら」
「お前の悪性に中てられて冷や汗かいてんだよ」
まじかこいつ。よろしく待ちの初対面の人間にこんなこと言うか普通。こんなに性根が歪んでいただろうか。アラフォーヤクザの俺が腹を立てる前にちょっと引いてしまった。コミュニケーション障害というかコミュニケーション傷害だな。俺よりこいつの方がよっぽど人を遠ざける性格をしている。
「ちゃんとあいさつしなかったのは悪かったよ。しかし随分と斬新な自己紹介のあいさつだな」
「自己紹介を長々とする必要なんて無いわ。ここは仲良しクラブでもなければ自分語りの場でもないわ。私の人と成りは今後の付き合いの中で貴方が勝手に判断していくでしょうから」
「今後付き合っていく中で勝手に判断するつってもな。平塚先生は奉仕活動を命じるつったけどヒーコラ言いながら二人でゴミ拾いでもすんのか?」
「奉仕活動イコール清掃活動とは随分と安直な発想ね。たしかにここは奉仕活動を目的とした部活だけれど、そういう類のものではないわ。もっと色々な可能性を考えてみたらどうかしら」
知っている。記憶はおぼろげで、穴だらけだ。だが彼女がそんなことのためにここにいるわけではないことを覚えている。
「じゃあ何をすんだよ。てか何がしたいんだ」
「平塚先生の言葉を借りるなら、自己変革を促し悩みの解決に努める……といったところかしら」
「先生の言葉ね。雪ノ下さんよ、あんた自身はどうしたいんだ?この部活で」
食い気味に言った。雪ノ下雪乃が結局何をしたかったのか。彼女は何を目的としてこんな部活にいるのか。奉仕部は俺と由比ヶ浜を加えてウダウダ続いていった。俺たちという不純物が居なかった頃、雪ノ下は何を求めてこんなとこにいたのか知りたくなった。現状親しくもない雪ノ下が俺に胸の内を話すとも思えなかったが、訊いた。
「そうね……」彼女は俺から目を逸らすと、そのまま窓の外を見るように身体ごと向きを変えた。「変えたい、のかしらね」
主語が無かった。何をどうやって、とも言わなかった。
だが俺は突如思い出した。人ごと世界を変える、だったか。おいおい、高校生活は覚えていなかったくせにこんな些細な会話は記憶しているとか、俺は雪ノ下雪乃の熱心なファンかなにかか?
雪ノ下は窓の向こうを向いたままだ。今どんな表情をしてそんなことを口走ったのだろうか。
俺の心でも読んだかのようにいきなりこちらに向き直り、俺の目を見て微笑み、告げた。
「奉仕部へようこそ。これからよろしくね、比企谷くん」
俺が二回りほども歳の離れた女子高生に惚れるようなイカレ野郎じゃなくてよかった。
そう思ってしまう程の、綺麗な笑顔だった。
気を付けてはいるのですがどうにも誤字脱字がちょくちょくあるようで……
ご指摘ありがとうございます。