きょうもいちにち、たのしいがっこうせいかつがはじまるよ!
* * *
放課後。
特別棟の屋上に通じる階段の踊り場。人通りが皆無の場所で、俺は電子タバコの煙をゆっくり吐いた。電子タバコの煙──蒸気は煙草の煙とは違いすんなり散って消えていく。俺の目の前から消えていく煙に物足りなさを感じた。
だが俺は肺を煙でガツンと満たすのが目的でもなければ、ながらで吸うようなチェーンスモーカーではない。ニコチン無しでもリラックスできるし、リラックスできれば気持ちの切り替えもできる。どこぞのニコチン中毒の女教師とは違うのだ。この動作さえ忘れなければ以前のようにメンヘラ女子化して頭が馬鹿になることはないだろう。多分。
では、何故こんなところでひとり気持ちの切り替えをしているのか。細かな日付など覚えていないが今日が"その日"なのだとなんとなく感じていたからだ。
強めのメンソールの煙を吐くと、脇に置いていたスマホが鳴動した。誰からの着信かも確認せずに電話に出る。
「はい比企谷」
「雪ノ下です。奉仕部へ相談をしたいという人が来たから、戻ってきてもらえる?」
「わかった」
通話を切り、上着を羽織り部室へ向かう。
部室で筋トレを始めた時は「鬱陶しい」と追い出されてしまったが、代わりとして奉仕部に相談があったときにすぐ連絡が取れるようにと電話番号とメールアドレスを交換した。メッセンジャーアプリを使えれば手っ取り早いのだが、この時代ではLINEは配信されていないし、雪ノ下はガラケーなのでWhatsAppも使えない。なかなか不便なものだ。
部室の前まで戻り、戸に手をかけひと息つく。メンソールの香りがまだ吐息に混じっていた。
「入るぞ」
言いながら戸を引いた。中にいる雪ノ下と目が合う。
「悪い、待たせた」
「別に。待ってないわ」
デートで待ち合わせたカップルのようなやりとりをしてから(やだ、私自意識過剰すぎ!?)、雪ノ下の向かいにちょこんと座る女子生徒に視線を向ける。するとその女子は肩まで伸ばした明るい茶髪を揺らしながら仰け反った。そのバストは豊満だった。
「あぃっ?えぇっ!?ヒッキー!?ヒッキーなんで!?」
「俺はここの部員なんだよ」
言いながら、部室の壁際に積まれた椅子をひとつ持ってきて、雪ノ下の隣に腰を下ろす。雪ノ下が口を開こうとしたところでもう一度腰を上げ、壁際から長机を一つ持ってきて俺たちの間に置いた。
改めて、長机を挟んで頭頂部から若干右の位置にお団子を結んだヘアスタイルの依頼者の方に身体ごと向き直った。雪ノ下雪乃も大概な美少女だが、この依頼者も雪ノ下とはまた違ったタイプの美少女だ。丸みのある小顔。くりっとした大きな目。高くはないが筋の通った小さい鼻。喋るときに大きく開く艶のある形のいい唇。そしてなにより、俺が部室に来てからほんの僅かな時間の間にコロコロ変わる表情は見ていて飽きない。そしてそのバストは豊満だった。結構モテそうである。
「由比ヶ浜さん。悪いけど彼にも自己紹介をしてもらえるかしら。依頼内容はそれから訊くわ」
「あ、うん」
「いや、同じクラスだから顔と名前は知ってる。大丈夫だ」
なんなら顔と名前以外も知っているが。
「え゙っ?あたしヒッキーと喋ったこと無いけどあたしのこと知ってるの?なんで!?」
「喋ったことない人をヒッキー呼ばわりしてるのはどちらさんだ」
「ううっ、たしかに」
ツッコミを入れると由比ヶ浜結衣は困ったようにはにかんだ。こいつは雪ノ下とはまた違うベクトルでいちいち可愛い。油断ならないやつだ。
「でもヒッキー、ここだと普通に喋るんだね。クラスだと全然喋るとこみないから」
「喋る人も用件も無いからな」
「え?人はいるよね?なんで喋らないの?」
「きみはぼっちに対する理解が足りないね」
そんなやり取りをしていると雪ノ下が口を挟んだ。
「あの、用件を……」
俺たちは家庭科室に来ていた。由比ヶ浜がクッキー作りを練習したいというので協力することになったのだ。誰のためのクッキーで何のために練習するのか知っている身としては若干面映ゆいが、それはおくびにも出さない。
俺たち三人は由比ヶ浜が作ったクッキーを凝視している。……クッキー?高密度に圧縮された灰の塊が転がっている。謎の禍々しさを感じる。
以前、フロントに運営させていたペット霊園の火葬炉にバラして袋詰めにした死体を放り込んだ時のことを思い出す。物言わぬ死体が物言わぬ燃えカスになったのを見ても特に何も思うところは無かった。なのにこれはどうしたことだ。食材が焦げカスになっただけなのに、この俺が恐怖している。マジでこれを食うのか?
「そんな不安そうな顔をしないで比企谷くん。私も一緒に食べるから」
「なにお前。自殺が趣味なの?」
軽口を叩くと、眉を寄せながら睨みつけてきた。この発言はどうやらお気に召さなかったらしい。
「自殺ってなんだし!いいよ!そこまで言うなら自分で食べるから…………ォ゙エ゙ェ゙ッ!」
由比ヶ浜は自分の作ったクッキー?を何個かまとめて一度に頬張り、数回咀嚼したところで流しにかけより、口からもんじゃ焼きを作成した。無茶しやがって……汚ねぇな。
「ちょっと、由比ヶ浜さん大丈夫?無理をしては駄目よ」
雪ノ下は言いながら左手を由比ヶ浜の左肩に置き、右手で背中をさする。ああ~~微笑ましいんじゃあ~~。でも自作したクッキーを食っただけで"無理"って結構酷い物言いですよ。
雪ノ下は蛇口を捻り、もんじゃ焼きを水で流しながら続ける。
「由比ヶ浜さん、貴方思いつきでなんでもかんでも混ぜ込むからいけないのよ。ちゃんと後のことも考えて行動するべきよ。何事にも正しいやり方というものがあるわ。見本を見せるからそれを参考にしてちょうだい」
「うう~、わかったよ雪ノ下さん…」
雪ノ下は涙目の由比ヶ浜の奇行をやんわりとたしなめたのち、クッキー作りにとりかかった。ボケッと見ているのも暇だし、俺もクッキーを作るべく動き始める。雪ノ下だけでなく俺までクッキーを作り始めた光景を、由比ヶ浜は口を半開きにしたままポカンと見ている。アホ丸出しだが顔がいいから許されるみたいなところがある。
ボウルを何個も使い自分のクッキー生地を練りながら、視界の端に雪ノ下を捉える。手際よく作業を進めている。俺ももたついているつもりは無いが、あの調子なら俺より早く出来上がるだろう。丁度いい。俺のクッキーができあがるまで時間を繋いでもらうことにしよう。
実際、俺のクッキーが焼こうかという段階にかかるタイミングで雪ノ下のものが焼きあがった。その香ばしさには俺も注意力を奪われそうになった。
「どうぞ由比ヶ浜さん。食べてみて」
「お…美味しいっ!すごい!」
おっかなびっくり食べ始めた由比ヶ浜は、そのまま何個も食べる。太るぞ。
「ほんと美味しい……雪ノ下さんすごい」
「ありがとう」
由比ヶ浜の素直な感想に、雪ノ下は微笑む。
「でもこれは特別なことなんて何もしてないの。レシピに忠実に材料や分量、手順を守っただけ。きっと貴方にもできるわ。レシピを守って正しく作れば」
「レシピ通りか~……でも隠し味とかさ、そういうのあった方が……」
由比ヶ浜の妙ちきな拘りに雪ノ下が眉尻を動かしたところでオーブンが鳴った。前座は終わりだ。部屋住み時代の俺が練り上げた、甘いものに飢えた懲役帰りのオッサン達の胃と心をガッチリ掴んだ必殺兵器を拝ませてやる。
「隠し味の効いたクッキーが食いたいならこれを食え。俺が本当の隠し味ってやつを体感させてやりますよ」
得意げにそう言いながら俺は焼きあがったクッキーを皿に移し、二人の前に置いた。
「こ、このこうばしさはいったい……!?」
「成程…そうきたのね」
二人はそれぞれの偏差値を感じさせる反応を見せながらクッキーを口へ入れる。
「……!?」
由比ヶ浜が目を限界まで見開きながら更に二つ三つとクッキーを食べていく。お前さっきも雪ノ下のクッキー沢山食ってただろ。そんなに食うと帰ってから晩御飯食えなくなるぞ。
「どれもおいしい!すごい!いくらでも食べれちゃう!なにこれ!?」
「この完成度……想像以上ね」
ガハハ!雪ノ下から高評価とったぞ!
「嬉しいこと言ってくれるな。ちなみに由比ヶ浜、これ基本的な味付けは全部同じなんだぜ」
「えぇえっ!?」
由比ヶ浜が偏差値という概念の存在しない優しい世界の住人になりそうだったので、俺が仕込んだネタを説明しようとすると雪ノ下が先に言った。
「緑茶よね」
「ああ。ただ入れる茶葉の砕き具合を変えたりつなぎを卵と牛乳、サラダ油とオリーブオイルでわけただけだ」
「それだけ?味も食感も色合いも全然違うよ?」
コイツ、まだ食ってやがる。
「由比ヶ浜さん、隠し味というものは得てしてそういうものよ。奇抜なことなんかしないでほんのひと手間を変えたり加えたりするだけ。すべては基本的なことができてこそなのよ」
雪ノ下が幼子を諭すように優しく語りかける。さっきからやたら基本通りとかレシピ通りとか繰り返しているが由比ヶ浜はそれを正しく受け取るのだろうか。それだけでわかれば苦労はしないが……。
だが由比ヶ浜は溜め息をついて肩を落とす。どうやら雪ノ下の言葉を『基本的なことができるようになれば自分の感覚でアレンジできるようになる』ではなく『基本的なことすらできない自分は向いてない』と受け取ったようだ。
「うう~でもこれヘコむよ~。雪ノ下さんはわかるけど、ヒッキーにすら遠く及ばないなんて……あたし女子力っていうか、こういうの才能無いのかな」
「俺に負けてヘコむって失礼だろう。いや俺ここまでできるようになるの結構頑張ったからな?」
そう、頑張ったんだ……。部屋住みは修行であり苦行だった。
俺がぼやいていると雪ノ下が由比ヶ浜の肩に手を添えた。なんかこの人さっきから自然にボディタッチしてない?それとも女子高生ってこんなもんでしたっけ?
「その認識は間違っているわ由比ヶ浜さん」
「えっ」
由比ヶ浜が可愛い顔に似合わないタフの雑魚モブのような声を発したが、雪ノ下は微笑みながら続ける。
「何事にも初めてはあるわ。大事なのはそこからの継続性よ。その道は私にもあったし、そこの目の濁った彼にもあったはずよ。むしろ彼はその道が大変すぎてあんな目になったのかもしれないわ」
そのdis必要あったか?否定はしないけど、アメリカのギャングスタラッパーなら報復で殺してるぞ。
雪ノ下はそのままあれやこれや語り続ける。もうお話だけでおなかいっぱいじゃないかとも思えたが、由比ヶ浜は意外にも真面目な顔で聞いている。校内でも一目置かれている女子が自分と真剣に向き合っていることに、由比ヶ浜なりに感じることがあるのだろう。
自分ばかり喋っていることに気付いたのか、雪ノ下は「んっ」ひとつ咳払いをした。
「ごめんなさい、私ばかり喋ってしまって。話ばかり長くなってしまったわね」
「ううん、ありがとう雪ノ下さん。あたしこういうの、向いてないっていうか、キャラじゃないって思ってたから周りの友達にも相談できなくて……全然ダメダメでも、馬鹿にせずに付き合ってくれて、うれしかった」
由比ヶ浜が珍しく言葉を選びながら気持ちを伝えているのを聞いてはっとする。ぼんやりと雪ノ下の話を聞き流していたらいつのまにか二人だけで世界が完結していた。由比ヶ浜が「友達」と言った時に雪ノ下の微笑みが揺らいだような見えたが、気のせいだろうか。俺が女子高生二人の世界に入れずにいると由比ヶ浜がこちらを向いた。
「ヒッキーもありがとね。今日は付き合ってくれて。あたし、もうちょっと頑張ってみるよ」
そう言って莞爾と笑った。
男子にそんないい笑顔をほいほい見せるな。俺が思春期男子なら惚れて告白して振られるまである。いやだ、振らないでくれ……。
由比ヶ浜の笑顔を直視できなかった俺は曖昧な返事を返し、下校時刻が迫っているのを確認してから片付けを始めた。一緒に片付けようとする二人を手で制し、帰宅を促した。俺は整理整頓大得意おじさんなんだ。二人はゆるゆりしててくださいよ。
片付けも終わり家庭科室を戸締りし、職員室に鍵を返しにいくと部室の鍵を返しにきた雪ノ下がいた。目が合い軽く会釈する。
職員室を出てから、ならんで昇降口まで歩く。
「おつかれ」
「貴方こそお疲れ様。ごめんなさい、結局全部片付けを任せてしまって」
「普段部室の管理全部やってもらってんだしこんくらいいいって。由比ヶ浜は帰ったのか?」
「ええ。丁度バスの時間だったらしくて焦って走っていったわ」
由比ヶ浜の焦る姿を思い出したのか、雪ノ下は微笑ましいものを見るように笑った。
* * *
土日を挟んでからの月曜日。
由比ヶ浜からの視線をチラチラ感じつつ過ごしていたら放課後、という日々だった。「やあ!こないだはおつかれ!」なんて爽やかな会話をすることもなくチャッチャと部室に移動する。
寄り道せずに部室に直行したら既に雪ノ下がいた。定位置で文庫本を読んでいる。軽く声をかけると小さく会釈された。無視されなくなっただけいいですね。
俺も腰かけ、鞄から文庫本を取り出し読み始める。昼休みにメールが来たのだが、俺が筋トレのために部室を離れていいのは週二回、一時間ずつらしい。たしかに、筋トレの為に毎回場を離れているならなにしに来てんだって話だわな。かと言って筋トレをしてない時間はただこうして本を読んでいるだけだ。これはこれで何をしに来ているのかわからない。ただただ時間を浪費している気がしてならない。これでいいのかと不安になってくる。
「なあ雪ノ下」
「あら、どうしたの」
「この部活ってさ」
言いかけたところで戸をノックする音が聞こえた。雪ノ下が「どうぞ」と言いかけている途中で戸が開けられた。
「やっはろー!」
頭の悪そうなあいさつと共に由比ヶ浜が入ってきた。
「こんにちは由比ヶ浜さん」
「おう」
雪ノ下は愛想よく、俺は適当にあいさつを返す。
「雪ノ下さん、ヒッキー!こないだはありがとね!」
俺がやらずにいた爽やかな発言をさらっとこなしてきた。つよい。
言いながら鞄からピンクのリボンが結ばれたセロファンの小包を取り出す。
「でさ、これ!お礼にクッキー作ってきたんだ!」
「「うっ…」」
雪ノ下と俺でハモってしまった。由比ヶ浜が鼻歌混じりに取り出したものは相も変わらず禍々しい漆黒の結晶だった。俺と雪ノ下の視線が注がれたソレを雪ノ下に手渡し、由比ヶ浜は困惑気味の雪ノ下に色々話しかけている。先日のやりとりでどうやら雪ノ下に懐いてしまったようだ。微笑ましい。
「いやー、料理ってやってみると楽しいよねー。今度はお弁当とか作っちゃおうかなーとか。あ、でさ、ゆきのん一緒にお昼食べようよ」
「そ、それは構わないのだけれど。でも私はいつも部室で一人で食べているから。ここまで来るだけで移動に時間がとられてしまうわよ」
「いいよいいよーそれくらい。あ、それでさ、あたしも放課後とか暇だし。部活手伝うね。いやーもーなに?お礼、これもお礼だから?全然気にしなくていいから」
「ちょっと……近い」
雪ノ下に由比ヶ浜がぐいぐい迫る。
ゆるゆり空間に男は不要だ……。自販機でも行こうかとこっそり部室を出ようとすると「ヒッキー!」と呼び止められた。振りかえると眼前に暗黒物質が飛んできたので咄嗟に回し受けで弾いた。なんと!俺の空手は未知の物質すら防ぐレベルなのか!
「あ───っ!ちょっ!なにするし!!」
よく見ると暗黒物質ではなく、透明な袋に入れられた由比ヶ浜の焼いたクッキーだった。判断が難しいんだよ。暗黒物質見たことないけど。
「あ、悪い」
「悪いのひとことで済まされた!?ちょっとゆきのん~!ヒッキーひどくない!?」
「女子の手作りクッキーに対する反応ではないと思うけれど、気持ちはわかるわ」
「あたしよりもヒッキーに共感しちゃうんだ!?」
いつの間にかゆきのん呼びになっていた。雪ノ下は苦笑しているがそれをツッコむこともなく受け入れたようだ。
床に叩きつけられ砕けたクッキーを拾い外に出る。廊下に出ても由比ヶ浜のむきーっという可愛らしい怒り声と、雪ノ下の声量の割りによく通る澄んだ声が耳に入る。俺は二度目の高校生活で初めて穏やかな気持ちになりながら廊下を歩いた。
プレビューに目を通してて、ツナギの素材変えるってそれ隠し味とは違くねと気付きました。