トータル・イクリプス ファーイースタンフロント 作:ロートシルト男爵
ロシアの大衆食堂は安くて美味しく、レパートリーも豊富なので現地に行った際はぜひお試しあれ。
作中に出てくる料理は筆者が留学中によく食ってたメニューです(プロフは旨いぜ)
アラスカ ユーコン基地
いつもと変わらぬ殺風景な廊下を、覚束ない足取りで歩く俺。
紅の姉妹との一件の後居室に戻った俺は事後の気怠さに引きずられるままに居眠りをしていたらしい。
時刻は1700。本来の予定なら課業が終わり、国旗に正対している頃だ。
「…飯でも食うか……」
人類が掲げる剣の切っ先たる衛士に安息日など存在せず、365日24時間勤務が基本である。
つまり飯を食うことも寝ることもクソを放り出すことも仕事の内に入るのだ。
故に休みが与えられようと喫食は欠かさず、8時間の睡眠はきちんと取らねばならない。
俺は鳴き始めた腹の虫を鎮めるべく、営内の
「
廊下の曲がり角を進んだ所で、聞き慣れた声に呼び止められた。
「……何の用だ。同志サンダーク」
イェジー・サンダーク中尉——クリスカが身を委ねた上層部の人間に、奴の名も入っているに違いない。
俺は嫌悪感を顔に出しながら奴の敬礼に答礼する。
「なんだとはご挨拶ですな。同志少佐。先程は、お楽しみだったようで——」
気づいたら俺は卑屈な笑みを浮かべて「先程の顛末を見ていたぞ」と仄めかすサンダークの胸倉を左手で掴み、右手を腰の合皮製ホルスターに収められたマカロフにかけていた。
「私は貴様をッ……貴様を誤解していたようだ……まさかあそこまで人でなしだったとは!彼女に…クリスカにあんなことを‼︎」
「……少佐、どうか落ち着いて、銃口を外してもらえませんかな」
「黙れ!その二足三文、二度と抜き差しできぬようにこの場で撃ち抜いてやろうか⁈」
俺がマカロフの照星をサンダークの喉元からズボンのジッパー部に移動させると、眉ひとつ動かさなかった奴も流石にたじろぎ、唇を開いた。
「……ビャーチェノワ少尉に手をかけていたのは、私ではありません。おそらく、彼女達の調整を担当する研究員達の仕業でしょう」
「……その話、嘘じゃないな?」
「ええ、彼女達の海馬——記憶を直接操作出来るのは彼らだけですから」
「…糞野郎共め……全員殴り殺してやる」
忘却——それは人間に与えられた災難にして最高の能力。
何を覚え、何を忘れるかを不作為に取捨選択することで人間は苦しい境遇に置かれた際に楽しかった思い出に浸り、辛い記憶を忘れることで明日を生きることができるのだ。
故に、記憶を第三者に操作されるということは人間性そのものの喪失を意味するといっていい。
極東では並ぶ者の居なかった熟練の衛士たる俺すらも上回る彼女達の驚異的な戦闘力はそうした人間らしさと引き換えに得られたもので、BETAに勝つという目的の為には手段を選ばず平然とそうした非人道性を発揮できるのが、俺たちの住むこのソビエト連邦だ。
「いやはや……あのシュトラハヴィッツ中将と共にウクライナ戦線を生き抜いたあの英雄、アブラム・ローゼンフェルドの子息がここまでの博愛主義者だったとは……聞いて呆れますな」
「黙れ!親父は関係ないだろ‼︎この場で撃ち殺すぞ‼︎」
俺の親父——アブラム・アーロノヴィチ・ローゼンフェルドは兵役時代ドイツ駐留ソ連軍の戦車兵で、1970年代のウクライナ戦線でワルシャワ条約機構軍の一員として当時の東ドイツ陸軍第1戦車軍団と共に戦い抜いた。
当時の東独軍を率いていたアルフレート・シュトラハヴィッツ中将はBETAの大群に立ち向かう中全滅しかけた親父の部隊を救い出し、パレオロゴス作戦等で数々の武功を挙げ、そして自国軍への戦術機導入を検討したことでも知られている。
尤も彼はその後東ドイツの体制とその行く末を憂いて体制批判とクーデターを画策して78年当局に粛清され、83年には落とし子たるカティア・ヴァルトハイムことウルスラ・シュトラハヴィッツによってその意志が達成されたことから我が国に於ける彼の評価は二分されるが、少なくとも命がけでBETAから祖国を救おうとしたその志を疑う者はなく、親父を含めソ連人でも彼を評価する者は少なくない。
尤も親父はその戦いで心身共に故障してからはひたすら
「私に八つ当たりがしたいのでしたら幾らでどうぞ。しかし上からの処分と、ご自分もまた既に貴官の軽蔑する方々の同類であることをお忘れなく。では」
颯爽と去ってゆくサンダークの後ろ姿を見送りつつ、俺は行き場の無い怒りを鎮めるべく力が入りっぱなしの人差し指を用心金からゆっくりと外した。
営内の食堂。ここもまたアメリカにあるソ連だ。
料理は美味くもなければ不味くもない大量調理可能なメニューばかり——それでも食材には恵まれているのか、食肉不足に喘ぐソ連本国の食堂に比べればまだ質もレパートリーもマシだ。
「ドライフルーツのコンポートとプロフ。サリャンカと
「あいよ」
カウンターの向こうの婆さんに一通りの注文を伝えると、俺の持つ真っ赤な盆の上に乱雑に盛られた品々が乗せられてゆく。
ナイフとフォーク、スプーン、紙ナプキンはセルフサービスなので忘れずに取ってゆく。
少しカロリーオーバーな気もするが古来よりパイロットの飯は盛りだくさんというのが通例だ。
日々の体力錬成と戦術機の操縦で目の前の皿分は余裕で消費できる。
余談だが、ソ連式食堂のこのカフェテリア形式の注文方法は嫌いではない。
聞いた話によれば成立したのは雪どけ時代、フルシチョフ書記長の訪米以降で、アメリカのビュッフェを参考にしたらしい。
それまでの食堂といえば怠け者だらけのソ連の例に漏れず注文してからウエイターが飯を届けるまでの時間が、飯を食い始めてから食い終わるまでの時間を上回るという有様だった。
それに比べれば食べる側にとっても待ち時間がなく、出す側にとってもわざわざ客のテーブルに寄る必要がないので、非常に合理的なシステムだ。
この時刻になると、飯を食いにくる整備兵や衛士達で食堂はごった返す。
俺も食いっぱぐれぬように適当な席に座り、琥珀色をしたコンポートを一口啜ってからスプーンでプロフをすくい、口に運ぶ。
まずくはない。パラパラの米を咀嚼する度クミンと羊肉の脂のきつい風味が口内に広がり、食欲が進む。
細切りの人参と微塵切り玉葱、レーズンも米に適度な甘みを与えている。
ボルシ同様、プロフもまたウズベク風、カザフ風、トルクメン風と国や地域によって作り方や具が異なるし、各家庭によっても異なる。
原隊で同期だったウズベキスタン出身の衛士は「人参を先に炒めるか後に炒めるか」に非常に拘っており、食堂でプロフが出る度「実家と味が違う」と文句を垂れていたのが懐かしい。
お袋の味…か……。
ふと思い出す両親のこと。
幼少期より身体が弱かった俺はよく母親の作るチキンスープに助けられたし、ハヌカ祭の際には親戚一同が集まる中母親が丹精込めて作ったラトケスやブリンツを食うのが楽しみでならなかった。
今はもう戻らない過ぎ去りし日々。
貧しかったが平和だった幼き日々。
あの日のように皆が笑って過ごせるよう、俺たちは戦っているのだ。
「あっイサークさん!」
「隣…同席していいか?」
ふと聞き慣れた声を聞いて振り向くと、そこには予想通りイーニァとクリスカの姿があった。
各々ジャム入りピロシキや黒パン、グラス入りの紅茶の乗った盆を手にしている。
「…あ、ああ。構わない。座ってくれ」
俺が着席を促すと、2人は俺を挟むように座り、各々の盆をテーブルに置いた。
先程あれほどの事があったというのに、イーニァは身体の疼きがとれてすっきりとしたのかけろりとしている。一方クリスカはやはりあれだけ俺の上で乱れただけあってやや気恥ずかしそうに俯いている。
「お前ら、それで足りるのか?駄目だぞ。肉や野菜も食わないと。免疫力が下がる」
「え〜、お肉きらい」
「こらこら。好き嫌いは良くないぞ。俺が子供の頃はよく父さんに叱られたものだ。あれを食えこれを食うなとな」
「お父さん…とは何だ?」
気まずさを紛らわすための小言を言いかけてハッとした。そう、こいつらには父や母といった概念が理解できないのだ。
「クリスカ。わたし知ってるよ。イサークさんみたいなフツーの人はね、おとうさんとおかあさんからうまれてくるんだよ」
「イーニァ…俺、話したっけ?自分の両親のこと……」
「ううん、でも知ってるよ。だってわたしにはわかるもん。ほら」
イーニァは制服のポケットから何かを取り出し俺に手渡す。
無造作に畳まれたスケッチブックの切れ端を広げると、俺は目を見開いた。
「こ…これは……一体どうやって……」
クレヨンの拙いタッチで描かれているのはビロビジャンの見慣れた広場を歩く3人の人影。
左を歩くのはシルクハットにスーツ、長く伸ばした銀のもみあげといつもかけてる丸眼鏡が印象的な俺の父親——イブラギム・ローゼンフェルド。右端を歩くのは黒いドレスにブロンドの髪の母親——エヴァ・ローゼンフェルド。小さな頭にキッパを乗せ、親父と同じく長く伸ばした銀髪のもみあげを揺らしながら2人と手を繋いで朗らかに笑う子供——これは幼き日の俺、イサーク・ローゼンフェルド。
これはある日曜日、シナゴーグから帰る途中の俺だ。
正直当時の俺は両親に連れ回されトーラーを覚えさせられ、退屈な律法者の説教をじっと座って聞いているのが苦痛でたまらなかったし、当時の格好も学校へ行けば素行の悪いロシア人のガキにもみあげを引っ張られたりズボンを下ろされてズル剥けの竿をからかわれたりで、ユダヤ人の家庭に生まれた事を不幸に思っていた。
ただ、母は説法が終わったら「頑張ったご褒美」と毎回蜂蜜をかけた甘いパンやハルヴァを買ってくれたし、父はいじめられてボロボロになった俺の小さな背中を優しく抱きとめてくれたのが懐かしい。
既に自分でも忘れかけていた幼き日の記憶を、どうして目の前の少女は絵に描くことができるのか…。
「イメージ…っていうのかなぁ。時々頭にね、浮かんでくるの。イサークさんのちっちゃかった頃の思い出が。だからお絵描きしてみちゃった。じょうずでしょ?」
オルタネイティブ3——BETAとの意思疎通を目的として作られた第6世代型の人工ESPである彼女はこれまで見せてきたように他人の感情を色で読むことができるという。
しかし、相手の無意識下で眠っていた記憶を映像として描けるとは……。
「これ…くれるのか?」
「うん。あげる。気に入ってもらえたら嬉しいな」
「
「
「俺が——」
「少佐⁈」
気づいたら俺は両腕で2人の肩を抱き寄せ、2人の小さな頭を胸で抱きとめた。
2人の口から告げられるあまりにも不憫な身の上を聞いているうちに目の奥が熱くなり、俺は目尻から一筋の涙を流していた。
「俺が……お前達の父さんになってやる。だからもうそんな顔をするな。約束だ」
「イサーク…さんが…おとうさん?」
「ああ、クリスカも、悪い奴らにまた何かされそうになったら俺に言え。父さんがぶん殴ってやる」
「…あ、ああ……」
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。
マタイの福音書、11章28-30節。
俺は昔父が幼き日の俺にそうしてくれたように2人の肩を抱きしめ、軽く叩きながら昔繰り返し聞かされた聖書の一節を諳んじた。
もう寂しい思いはさせない。
いかに「家族ゴッコ」だの、「博愛主義者」だのと笑われようと、触れれば潰れてしまいそうな彼女達の心を支えてあげられるのはこの基地——いや、この世界に俺しかいないのだ。
ならばなってやろう。
彼女達の父親を。
演じてやろう。
彼女達の望む姿を。
俺の親父がかつて傷ついた俺にそうしてくれたように。
ふと耳に入るざわめき。
辺りを見回すと、食事を摂る衛士達や整備兵達、さらには調理兵までもが各々の手を止め、両手でイーニァとクリスカを抱きしめる俺を見つめていた。
どうやら俺が紅の姉妹を手籠めにしていると勘違いしたようで、ヒューヒューと口笛を吹く者やいやらしいにやけ顔を向けてくる者さえいる始末。
端的に言って、非常に気まずい。
俺は先程食事中のイーニァをいきなり抱きしめたことで頰についたブルーベリージャムを紙ナプキンで適当に拭くと、テーブルマナーも気にせず既に冷め切ったサリャンカをスープ皿から胃に流し込み、プロフやら肉団子やら卵やらをフォークでガツガツと頬張ってからコンポートで流し込んで目の前の皿を平らげた。
これでも極東の前線基地での勤務を経験した衛士だ。いつかかるか分からない召集に備えて早食いのスキルは磨いてある。
「
「え?でもまだご飯が——」
「持って帰って食え。さぁ」
俺は2人に冷めた紅茶を飲ませると、食いさしのピロシキやら黒パンを適当に紙ナプキンに包んで手渡し、二本の細い腕を掴んでそそくさと食堂を後にした。