トータル・イクリプス ファーイースタンフロント 作:ロートシルト男爵
「……んっ」
頭蓋に鉛の詰まったかのような気怠さの中、
俺は目を覚ました。
枯葉舞うアスファルトの上に座ったまま自分の姿を見る。
身に纏っているのはいつもの
頭に被っているのは正統派がよく身につけているようなデカいシルクハットだ。
帽子を脱いで頭部を触る。
おかしい。
かつてブリヤートで負傷した時に出来た後頭部の手術痕が無くなっている。
念のため左手、下腹部も見てみたが義手であった筈の左手にはちゃんと血が通っているし、教官時代撃たれた筈の腹からも手術痕が消えている。
「…痛っ!」
アラスカの一件以来、普段寝る前にそうするように義眼を取り出そうと瞼の中を触った瞬間俺は思わず痛みに飛び上がり、自分の身体全てが生まれたままの健康な状態に治っている事に気づく。
しかし…何故なのか……ここはどこで、俺は誰なのか…。
街を見渡す。
灰色のソ連型アパート群。正教会。キオスク。吸い殻や向日葵の種殻が乱雑に吐き捨てられたアスファルト。
どれも見慣れた我が祖国、ソ連邦の原風景だ。
遠目に見える煉瓦造の建物にはキリル文字とヘブライ文字で「ビロビジャン 」と書かれた看板が打ち付けられていた。
ビロビジャン …間違いない。俺の故郷た。
どうなっている……?
今まで生きていた世界では、もうこの街はBETAによって滅ぼされた筈である。
なのにどうして…。
俺はとりあえず何も分からぬままあれこれ考え込むのをやめ、最寄りのキオスクへ立ち寄る。
「シャウルマを。あとプリマをくれ」
「あいよ」
俺がキオスクの窓を叩くと、恐らく年金暮らしの太った婆さんが明らかにだるそうな目でこちらを睨み、所望の品を投げつけるように渡してきた。
「あの〜お客さん?何だいそれは」
「何って、ルーブル札だろ?」
「違う違う。そんな端金寄越すんなら帰っとくれ」
「何?一体幾らだ?」
「しめて3000ルーブルって所だねぇ…」
「3000⁈」
「仕方ないさ。お前さんだって昨今の不況くらい知ってるだろ?連邦は崩壊、エリツィンの「ショック療法」とやらで今や国中がハイパーインフレさ」
「連邦が…崩壊?婆さん!何を言っている?」
「おや、本当に何も知らないようだねぇ…。立ち振る舞いや身なりを見るに外国人…ってわけじゃなさそうだけど……まぁいいさね。シャウルマはまけといてやるよ。タバコの分だけ払っておいき」
「幾らだ?」
「2000ルーブルさ。さ、行った行った」
俺は財布から決して安くはない額の札を取り出して渡し、老婆に追い返される形でキオスクを去った。
暫く歩き、路上のベンチに腰掛けて手元の、レンジでチンされてまだ暖かいシャウルマに齧り付く。
「っ……⁈」
口に広がる、明らかにソースの物ではない嫌な酸味と辛味と苦味。そして妙な獣臭さ。
腐っているのか、もしくはあまり考えたくはないが食用でない肉を使っているのか、「これは食べてはならない」と舌が警告するがままに俺は口内の物を吐き出して暫く嗚咽した。
「……っく…何なんだ」
口直しに先程買ったプリマを開封して咥え、マッチで火を付け、紫煙を吐きながらもう一度周りを見渡す。
やはり、どこからどうみてもビロビジャン 。俺の故郷だ。
ただ、俺が幼少期に見た時よりも、幾分か建物の数は多い。それに、建物の壁にはうざったらしい共産党のプロパガンダポスターの代わりに海外製品の広告紙が至る所に貼り付けられている。
「おいオッサン。タバコ一本恵んでくれや」
暫く街を見渡していると、3人の若者が近づいてきた。
格好は全員丸刈り。ある者は草臥れた背広に革靴、ある者は海外製の3本線入りジャージにスニーカー。
皆一様に
「……
俺が先程買ったプリマの箱を若者達に渡してやると、各々はそれを咥え、火を付け始めた。
「
「
「ああ。任期満了だ。去年までチェチェンに居た」
長い間軍隊にいると、同業者の匂いというのは感覚的に分かるものだ。
特に金のない若い奴は皆一様に汚い格好か変に粋がった格好で外に出てくるし、皆坊主が気になるのか安い帽子を被ってまるでシメジのように群れて街を練り歩く。
「チェチェン?カフカスか…まだあそこも滅んでなかったとなると……やはりここは俺の知ってる世界じゃないみたいだな…」
「さっきから何言ってんだ?オッサン。あ、タバコ返すぜ」
若者のうちリーダー格らしいジャージの男が俺にプリマの箱を返す。
中には申し訳程度にタバコが一本。他はごっそり抜き取られていた。
「……何のつもりだ?」
「ハッ!悪いな。でもよぉ…俺らにゃわかんだよ。オッサン、
(クソッ。ここでもユダヤ人かよ)
「待っててやるから最後に一本つけてけよ。オッサンにはなんの恨みねぇけど身包み剥がさせてもらうぜ」
いつのまにか背広男の方はポケットから巨大な二つ折りのハンティングナイフを取り出し、3人目の赤ジャージの男は背後に回っていた。
「……そうだな。もう一本だけ吸ってから考えさせてくれ」
「ああいいぜ」
俺はタバコに火を付け、一口吸う。
マッチの炎で葉が橙色に燃え始めたところで、俺は目の前でニタニタしている青ジャージの男の胸倉を掴み、その火を青い瞳に押し付けた。
ジュッ!と音を立てて火が消えるのと同時に、目の前の男は奇声を上げながら暴れ出す。
すかさず俺は金的蹴り、膝頭への前蹴り、鳩尾への膝蹴りを繰り出しくの字になった男の後頭部へ肘鉄を叩き込んで地面にねじ伏せる。
「⁈お、おいスタス!何やられてんだ⁈」
スタスと呼ばれた青ジャージ男の後ろでナイフを握っていた背広男は眼前で起きた事態に動揺し、急いで右手のナイフによる突きを俺に繰り出す。
俺はそれに合わせてそいつの右肩側に飛び込み、右手でナイフを持つ手首を極めながら左肘を頰に叩き込み、左脛で奴の右アキレス腱を刈って地面に押し倒し、そのまま胸を両膝で圧しながら上体を反時計回りに急旋回させて奴の右肩を脱臼させてからナイフを取り上げる。
「畜生…二人ともこんなオッサンに何やられてんだよ……こんな筈じゃなかったのに…」
俺が只管、足元で喚く背広男の顔面に断続的に突きを浴びせる様を見た3人目の赤ジャージ男は明らかに怯えきった様子でそう呟いた。
「ん?何してるんだ?早くかかって来いよ。お前らが仕掛けた事だろう?」
俺は潰れたトマトのようになった背広男の顔面から手を離すと、ゆっくりと赤ジャージの男ににじり寄り、血塗れの手でその胸倉を掴んだ。
「ひ、ひいっ⁈た、頼む‼︎み、見逃してくれ!」
「……見逃す代わりに少し答えてもらおう。まず、今は何年でここはどこだ?」
「い、今?た、確か1998年だ!」
「よろしい。で、この国の名はソビエト連邦で間違いないか?」
「ソ…ソ連だって?ち、違う。ソ連なんて国はもう無ぇ!ここはロシア、ロシア連邦だ」
「何?ソ連がもう無いだと?」
「あ、ああ。丁度7年前の冬、俺がガキの頃ににソ連は無くなった。ベラルーシもカザフもウクライナももう別の国だ。なぁもう良いだろ?とっとと帰してくれ‼︎」
「………」
俺は無言で手を離す。すると目の前の赤ジャージは目の前でアスファルトに倒れたままの仲間も見捨てて一目散に逃げ出した。
「やはり……ここは別の世界線なのか……じゃ、じゃあ俺は何者で、この世界で何をしていたというんだ?イサーク・ローゼンフェルド……」
鉛色の空の下、俺は肌寒い秋のビロビジャン を歩きながら思い当たる場所へと足を踏み出した。
イサークがもしオルタネイティヴじゃない世界線(1998年のロシア連邦)に飛ばされていたら……って設定のifストーリー。
(割と「帰ってきたヒトラー」に影響受けてます)
あの時代もあの時代で、なかなか大変だったようで…(当時を生きた人曰く)