長い間、白い天井を見上げていた。
音はずいぶん遠くから聞こえるようで、どこか世界の果てでまどろんでいる気がした。壊れた人形のようにそうしていると、視界に母が現れた。
垂れ目がちの二重を大きく見開いて、薄桃色のふっくらした唇をわなわなと震わせていた。どうしてか、すこしやつれているようだった。
そのほんのすこしの印象の違いが、母は美人なのだと感じさせた。
「宏樹……?」
俺の名前を呼ぶ涙声。ひくひくとまぶたが動くと、つーっと涙が頬を伝った。なぜだかそれを、俺は綺麗だと思った。
上手に呼吸ができないのか、しきりに息を吸いながら、
「宏樹? ねえ、宏樹?」と、母は繰り返し俺の名前を呼んだ。
返事をしようとしているのに、「どうして泣くんだよ」と笑いたいのに、上手く声が出ない。表情も動かない。喉からしぼりだすように「ぅあ……い……」とうめき声がもれるばかり。それでも母は、わっと声をあげて泣きながら、俺の頭を抱くように覆いかぶさって、しきりに名前を呼んだ。
「ああっ、良かった……宏樹……! 神様……ありがとうございます、神様……宏樹が……宏樹、ああ……」
母の後ろに人が立った。声をかけられた母は、ひときわ年をとった男の手をにぎりしめ「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返した。ぎこちなく視線を巡らせると、男は白衣をまとい、そのほかはナースの格好をしていた。
ここは病院なのか?
ようやく俺は自分が見知らぬ場所に寝ていることに気がついた。
それから、全身が重くてだるいことにも。起き上がろうとするのに、体が言うことをきかない。
落ち着かせるように母の肩を叩いた医者が、俺のことをのぞき込んだ。
「宏樹君、わかるかな。ああ、無理に喋らなくて大丈夫です。おはよう」
俺の必死な、しかしわずかな反応を見た医者は、「うん、意識もありそうだ」と、肯いた。
まだ霞がかった意識の中で、俺はあれこれと体を触られた。どうしてこうなったのかとかもわからず、何をされているのかもわからない不安な時間、母はずっと手を握っていてくれた。その手のぬくもりは、はっきりと感じていた。
やわらかくて、すべすべで、あたたかい。なつかしい手の感触。母と手をつなぐのなんて、何年ぶりのことだろう。
その後落ち着いてから、医者から事の経緯を聞かされた。
中学二年の春、俺は登校途中で交通事故に遭って意識を失ったらしい。それから一年近くも昏睡状態が続いた。冬のかかりにこの病院へと移って二ヵ月。先日ようやく意識が回復した。
医者は「ようやくとは言うがね、奇跡的なことだよ」と医者は笑った。
母はその説明の間もずっと俺の手を握りしめ、目からあふれた涙を何度も拭っていた。
いくつもの検査をしつつ、リハビリが始まった。医者が言うには脳や神経に異常はない。半年の間に弱った筋力を鍛え、関節をほぐしてやれば普通の生活にも戻れるという。
その言葉の通りに、俺は徐々にではあるが体の自由を取り戻していった。特に意識して使おうとするおかげか、まず声が戻った。それにしたってゆっくりと、上手く呂律の回らないところから、だんだんとではあるけれど。
海外勤務の父は、一度見舞いに来てくれた。仕事があるのですぐにまた日本を発ってしまったが、空港へ向かう前に病室へ来て、
「頻繁には帰って来れないからな。母さんを頼んだぞ」と、力強い握手をした。それは父なりの激励だったのだろう。母を支えるために、早く良くなれと言っていた。その言葉をはげみにして、俺はリハビリを頑張った。
母は毎日のようにお見舞いに来てくれた。
俺の好きなプリンを買って来て、
「はい、あーん」と口に運ぶ。
雛鳥のように開けた口にすべりこむ甘いプリンを、俺はごくりと飲み下した。以前であれば恥ずかしくて断っただろうけれど、ごく自然に食べさせてもらっていた。自分ではできないというのが一番の理由ではあったが、そうして世話を焼きたがる母に甘えるのも、今は親孝行の一つだという気がした。
医者は俺の回復を「お母さんの愛だね」なんて言って笑ったが、実際母はとてもよく俺の面倒をみてくれていた。
まだほとんど動けないときから病院へ来るたびに、腕や脚、指の一本一本までを動かして、筋肉や関節をほぐしながら、「すぐによくなるわ」と励ましてくれた。
一年も眠っていたせいか、そうして距離が近くなったせいか、目覚めてからというもの、母の印象が変わったような気がした。
どこがと言われれば難しい。病室のドアを開けて母の顔が見えると嬉しくなったり、丸椅子に腰かけるときに身をよじってスカートをおさえる姿にどきりとしたり、ふいに見せる微笑に目を奪われたり、石鹸や洗剤の香りが嬉しかったり……。
意識を失う前といえば世間並みの、口うるさいおばさんとしか思っていなかった。
父が海外に単身赴任してからは、いっそう小言が増えていた。今にして思えば、子供思いの優しい説教ではあったけれど、俺はそれをうっとうしく思っていた。
抵抗できない身になって、知り合いの一人もいない、日常から切り離された空間で、あらためて向かい合った母は美しくたおやかな、白百合のような女性だった。
お見舞いのプリンに、いつも洗いたてのパジャマに、そして病室へ入ってくるたび嬉しそうに微笑む姿に、俺は母の愛を感じていた。
プリンを食べ終えると母は俺の手を取って、小指から順に曲げ伸ばしをしていった。右手が終われば左手。そうして手首や肘を動かして、
「昨日より動くじゃない」と、自分のことのように喜んだ。
「おかしいよ、俺のことなのに」
俺がぎこちない苦笑をすると、母はくすりと笑った。
「バカね。自分のこと以上に大切なのが子供なのよ」
恥ずかしげもなくそんなことを言う。
きっと一年――母は不安だったのだろうと思えば、そんな態度をバカにする気にはなれなかった。感謝の気持ちはあるけれど、やっぱりむずかゆいような、変な感覚だ。
母は一生懸命に俺の体を良くしようと尽くしてくれる。全身の関節を動かし、筋肉を揉んだころには、うっすらと汗がにじみ、間近な俺には母の体温と、プリンよりも上品な甘い香りが感じられた。
「ふう……」
息をいれて前髪を分ける仕草には、とても四十手前のおばさんには感じられない若さがあった。
「それじゃ、おまじない」
そう言うと母は、俺の手にキスをした。それから肩や胸、膝など、体中に唇をつけ、最後に額、そして唇へ、わずかに触れるだけのキスをした。このごろ母の始めた、早く治る「おまじない」だった。
さすがに恥ずかしいと言ったのだけれど、母がいやに真剣なものだから我慢した。でもそうして受け入れてみれば、おろそかにはできない親子のスキンシップのような気さえしてくる。
不思議なのは、母はそういうものを一切信じない性質だということだ。朝の占いはもちろん、絵馬やお守りも「気休めなのにね」と笑っているような人だった。
それだけ俺が心配をかけたんだな。信じてもいない絵馬を書いたりしたのかもしれない。
ぶるり、と身震いをする。ナースコールを探したが、作業の邪魔だからと、母がベッドから離していた。
「お……お母さん、ナースコール」
「なに? どうしたの?」
心配そうに俺の顔を覗き込む。
「その、お……おしっこが……」