すこし我慢がきくようになって、おむつを脱いだばかり。尿意を感じてから出るまでに間がない。いつもは手元にナースコールがあるかなんとかなっているけど――
母はさっと動いて……しかし手にしていたのはナースコールではなく、そばに置いてあった空の尿瓶だった。
「出すわよ」
「えっ、ちょっと」
ぎこちない動きでは抵抗できなくて、俺はベッドに横向きに座り直らされ、あっという間にペニスは剥き出しになった。とっさのことに体が支えられなくて、倒れるように母の胸に頭が落ちた。晒されたモノに母のあたたかい手がそっと振れ、尿瓶の口へ導かれる。
「お、お母さん?」
「いいから。出しなさい」
優しい命令。一人部屋を与えられてしばらく、寝つけなくて両親のベッドにもぐりこんだことを思い出す。母は呆れたように、しかしどこか慈しむように「早く寝なさい」と、俺の背中をぽんぽんと叩いてくれた。
我慢ができない。
「出る――っ!」
排尿の音がちょろちょろとなる。羞恥心に震え、目をつむって母のやわらかさに包まれることしかできない。情けなさや、恥ずかしさや、いろんなものがこみあげて、小便を出しているのにずっと射精をしているような錯覚がした。
母は「大丈夫よ」とでも言うように、俺の背中をずっとさすってくれていた。
谷間から、むんと湿り気のあるような、濃い母の匂いを感じた。
「あら……」
用を足し終えて尿瓶を外すと、硬く勃起していた。かあっと耳が熱くなる。
「ちがっ……これは……」
「いいのよ。恥ずかしいんだもんね。わかるわ」
囁くように言うと、母はつつと指先で鈴口を撫でた。尿を切るためだとはわかっているのに、ビクンと反応してしまう。
「ごめん、なさい……」
尿瓶をわきにおいて、下着とズボンを穿かせて、起こしたベッドの背もたれに俺の体を預けてくれる母に謝った。するとすこし困った顔をして、
「なに言ってるのよ。あなたのおしっこの世話なんて、ずっとやってたことなんだから。これ、持って行くわね」
母は尿瓶を持って病室を出た。その姿がやけに、艶めかしく見えた。
翌日も母はお見舞いに来てくれた。いつもと同じように。昨日のことはなかったかのような母の顔を、俺はまっすぐ見られなかった。
「あら、これ……」
机の上にあった折り鶴を、母がちょいとつまんだ。その指先に俺の目は奪われる。俺のモノに触れた手……。
「あ……ああ、それ……リハビリで折ったんだ。まだぐちゃぐちゃだけど……」
「そんなことないわ。すごいすごい。ね、お母さん、これ貰っていい?」
「いいけど……そんなの、いるの?」
「いるわよ。宏樹が良くなっていく一歩なんだから」
母は折り鶴を机に戻すと、俺の両手をそっと持ち上げる。まだ自分では重たい両手を、母のほっそりとした両手は簡単に支えた。
「お疲れさま」
と、指の一本一本までを労わるように、いつもより長いキス。母のしっとりとした吐息と、湿った唇の間を指先の敏感な神経がとらえて、ごくりと生唾を飲んだ。
昨日の今日だった。指の腹に感じる、母の細い指。指の背に感じる、母のやわらかい唇。
俺の亀頭に、母が口づけをする――そんな妄想が頭に浮かんで、下着の中で勃起した。
俺の変化には気付かないように、母はいつもの「おまじない」をした。母が屈みこむように、俺の膝にキスをする。もっと上に……腰に……。口には出せない願望が渦巻いた。
額にキスをしようと身を寄せた母の腕が、硬くなった股間に、もどかしい強さで触れた。母はお構いなしにキスをして、唇を合わせる。触れるだけのキス。その短さが、刺激の弱さが、むしろ俺のそういう妄想をかきたてた。
母の吐息が鼻先をくすぐる。生々しい、においと温度。
両腕の自由があれば、今すぐにでも自慰をしてしまいそうな気分だった。
そんな邪な動機ではないが、俺は階段を一つずつ上るように、リハビリを進めていった。お盆を過ぎた頃には、車椅子に乗せてさえもらえば、どうにか一人で動けるようになった。腕の力がもう少し戻れば、歩行も始めようという話になった。
それとあわせて、退院の時期についても話が出た。母は一日でも早くと望んでいる。かいがいしい母の見舞いもあるし、リハビリは通院でもできる。医者は俺に「少しでも自分でできるように」と、車椅子での散歩を薦めた。
他人に運ばれずに病室を出るのは初めてだった。いくらも不器用にはなったが、両手は車椅子のタイヤを回すだけの力を取り戻していた。それでも、院内のスロープでさえ四苦八苦ではあるが。
行く当てもなかったが、とにかく人恋しいような気がして、俺はエレベーターを使って一階へ降りた。待合室のロビーは、ざわざわと人の声と足音に満たされている。そういう普通の景色も、ずいぶんと懐かしく感じられた。
邪魔にならないように遠くから眺めていると、廊下の向こうから小太りの男が歩いてきた。えびす顔というのか、満面に笑顔をはりつけている。のしのしと歩いている彼とすれ違う患者の中には、握手を求める人もある。医者であろうか。
「やあ、こんなところにいたのか」
背後からかけられた声に振り返ると、担当医がいた。彼は実に医者らしい白衣姿である。長い裾のポケットに両手を突っ込んでいた。
「ああ、先生。外って行っちゃ、ダメですか?」
「ダメ……とまでは言わないが、感心はしないな。君は忘れているかもしれなけど、外は夏だ。馬鹿みたいに暑いよ」
「まあ、そうですよね……」
日付の感覚があやふやだが、ちょうど尿瓶の事件があったころから、母は病院へやってくるときに、夏らしい白い服をよく着るようになって、外の暑さをうかがわせるように、汗をかいた跡があった。
不用心に母の下着は透けている。黒いブラジャーのヒモや、うっすら浮かんだパンティのシルエットを、俺はこっそり目で追った。
汗をよくかくせいか、近づくと強く感じる母の匂い。俺に触れた肌が、ペタペタといった。その冷たい汗の感触が不快ではない自分が不思議だった。
それどころか毎日毎日、筆先で亀頭を一撫でだけされたようなもどかしさを味わっていた。まさか病室で自慰に耽るわけにもいかないし、一人でトイレにこもることも難しい。まったく生殺し状態だ。
いっそ、母に頼めば……。
思い出して勃起しそうになるのをごまかすように医者に訊ねた。
「ねえ先生、あの人は――」
廊下の先に目を向けようとすると、小太りの男はすぐそこまで歩いて来ていた。医者は俺の横をすいと通りすぎ、
「先生、今日はどうされましたか」
「いやなに。ついでに寄っただけです」
先生ということは院長かなにかか、関わり合いのない医者か。いやでも「どうされました」なんて訊ねるということは……、議員かなにかだろうか。そういうものを直接見るのは初めてだ。
俺が物珍しそうに見上げていたのに気付いたのか、男は医者に訊ねた。
「この子は?」
「ああ、例の――」
「そうか、君が……」
男は元からの笑みをいっそう深くした。ぎゅっと心臓を握られるような緊張を覚えた。いかにも善人そうな彼の笑顔が、どうしてかひどく白々しく思えた。
医者と二言三言のやり取りを終えると、男は俺に向かって別れの挨拶を口にした。
「それじゃあ、また」
のしのしと日盛りの外界へ消えていった。
正面玄関の大きな自動ドアのガラス越しに、夏の眩しさが輝いている。広い駐車場の向こうは山深い。
診療報酬がどうとか、難しい理由で病院を転々とするところを、この病院がいつまでも面倒を見ると言ってくれたのだという。医者やナースは「当然のことをしているだけです」と、頼りがいのある笑みを浮かべた。なんでも宗教法人の経営する病院で、命であれ心であれ、ともかく人民を救うという、医療と宗教の根幹を旗印にしているらしかった。
そのおかげか、はたまた腕の良い産婦人科医でもいるのか、こうしてロビーでぼーっとしていると、たびたび妊婦の姿を見かけた。それも美人が多い……どころか、見間違いでなければ、いま俺とすれ違ったのは、アイドルあがりの女優だった。学校の友達にもファンがいて、このことを知ったら驚くだろう。
「いや……世間的に有名なのかな……」
母がうといせいか、芸能情報は一年前で止まったままだった。