1
部屋の中では手元で私がペンを走らせている音と後ろで静かに紙をめくる音だけがあった。
静かでまったりとした時間に一石、パタンという音、それに続けてベッドのスプリングがキィと言い衣擦れとともに小さな足音がトテトテと少し離れた後ろからすぐ背後に移動する。それに気が付かないフリをして文字を書く手を止めないで日課の日記をつける。昔から三日坊主で日記なんてもってのほかだった私も、今回は珍しく一ヶ月以上続いている。
後ろで気配が左右に揺れる。
「おにーさまっ」
か細い腕が首の周りを囲んで小さな手が鎖骨を撫でる。右の肩にちょこんと頭がのっかり、首筋をショートヘアが撫でる。くすぐったい。ただでさえくすぐったいその上に声の振動が身体の表面を、耳の奥を揺らす。
「ねえ、お兄様。今、こうして私が同じ部屋にいるのよ。それなのにお兄様は何をしてるの」
私は黙って肩の上にある頭に手を伸ばす。小さな頭だ。
優しく指先を動かすとふにゃけた声を出す。
「うにゅ~。お兄様、今ちゃんとドキドキしてる?」
「してるよ」
「でも、昔のお兄様だったら平然と頭を撫で続けていられなかったでしょ。私が抱きついただけで何も考えられなくなってたんだから」
「ねえ、フランちゃん、どうしたの?」
「なんだか、こうしているのも慣れちゃったかな~って、このままどんどんトキメキがなくなっていくんじゃないかって思って。少し寂しいわね」
「トキメキって……」
「これから私達どうなるのかしら。そのうち結婚とかして……、こどもとか、できるのかしら?」
「そういえば吸血鬼って、スカーレット家は結婚とかどうなってるんだ?」
「さあ、知らない」
気のせいかも知れないがその声には多少の不満が混じっているように聞こえた。
それにしても、これからのことなんてまったく考えていなかったなあ。結局、このままここに居ついているけど──、でもここにいるしかないのか、フランちゃんの眷属なのだから、少なくともそうである内はフランちゃんのそばに居ていいはずなのだ。
「そろそろ時間だからお風呂に入ってくるわね。じゃあね、お兄様」
もうそんな時間か。相変わらず時間の経過が早く感じる。
「じゃあ、またあとで」
「あとでね」
強めにドアの閉まる音がして、フランちゃんが退出した──。
ここまで書いて今日は日記帳を閉じた。
2
次の日、パッチェ先生のいない図書館。比喩でもなんでもなく正真正銘の赤い髪をした悪魔の誘惑に遭う。
大体私はその手の本にはなんら興味のない至極紳士的で健全な青少年だったはずなのに、あのサボり性の小悪魔(実名?)といったらこんなものを私に押し付けてくるなんて──。流石悪魔だけあるなあ!
というわけで昼間、そんな禁書を押し付けられるなんて予想するはずもなく、無防備で無垢な私は悪魔の放し飼いにされている知識の森へ足を踏み入れてしまったのである。
図書館に入ってすぐに私は本棚の端の方にある、最近入荷されたばかりで未整理の本が無造作に詰め込まれたコーナーへと向かう。ここの図書館は不便なことに本棚に名札が付いていなくて分かりづらいのだが、色々な種類の本が納められていて混沌としているのはこのコーナーだけである。
さて、新入荷の本棚の前に到着して私の望みの本があるかどうか端から順に見ていく。紅魔館の住人は毎月一定数のリクエストを出して、一本棚単位で本が入荷される。外の世界で一般に出版されている本や、希少な魔術書や呪術書などの外の世界で言うところの奇書なんかも多く入荷される。それで私は有名筋のライトノベルの新刊を注文したので今日はそれを読みにきたということである。
しかし、本棚を二周三周ほど検分してもその本は見当たらなかった。
「あれ? 確かに頼んでおいたはずなんだけどなあ」
後ろに黒い影が忍び寄る。
「お探しのブツは、これでしょうか」
突如として視界に入り込んだのは、やたら甘い桃色としっとりとした肌色で埋められた大判の……漫画本だった。
「なんですかこれは?」
努めて棒読みで答える。気持ちカタカナで喋っているくらいの気持ちで。
「何って、ナニですよ。あなたが前に注文した本じゃないですか~」
「私が注文したのはライトノベルの新刊です」
「えっ、おかしいですね。そんな本は注文になかったはずですよ。あなたが注文した本は確かにこれです」
いかにもわざとらしい様子で対応する低級悪魔。
「こんな本を注文した覚えはないです」
「またまた照れちゃって~、男の人なんだから何かと入り用ってことは分かってますから。大丈夫です。他の方には内密にしてますので」
「やめてください。私は純粋なんです。こんな破廉恥な本は知りません」
「そうですか。でも、あなたの好みの本ですよね」
ついに私が注文してないことを認めたな。だったらそれは私の本じゃない。どうしてそれを私に押し付けようとするのだ。
「パチュリー様に内緒で入手するのが大変でした。だ、か、ら、ぜひベッドの下まで持って行ってください。この」
まずい、こいつ本のタイトルを読み上げる気か。先程から一切躊躇せずにその本をつきつけて来るあたり、さてはこいつ淫魔の類いだな。
「やめろ、これは健全な話っ──」
私の静止も聞かないで小悪魔、もとい淫魔はむしろ声色を上げるようにしてそのタイトルを読み上げる。
「『ドキッ、近所の仲のイイJSを家に上げたら、実は淫魔で逆レイプされちゃった』」
あーあ、何も伏せられてないじゃないか。こいつ、健全でピュアな恋愛物語になる予定のものを──、その一言で台無しじゃないか! せめて伏せ字くらい使え!
「キャー! もう、ナニ言わせるんですかっ!」
「あんたが勝手に読み上げたんでしょうが!」
まったくどうしたくれるんだよこれさあ。せっかく本の内容とかには触れずにいたってのに。
「それになんですかこの本は、いったいこれのどこが私の好みだっていうんですか。色々と不健全すぎます」
「あなたの性癖って、毛も生えていない幼女に色々管理されることじゃないんですか?」
「なんですかその色々危険な性癖は」
「違うんですか?」
「違います」
「じゃあ、なんで妹様の奴隷なんてやっているんですか」
……。
「正確には奴隷じゃありません眷属です。それに、私がフランちゃんの眷属をやっているのは純粋な恋愛感情です」
「でも本当は?」
「その手には乗りません」
「恋愛感情なんて所詮性欲の形が変わったものでしょう」
「それは流石に酷いですよ」
まったく。そんなことを言う人が現実に居るだなんて……。大体女性のほうがそれを言うのもどうかと思う。そんな身も蓋もないことを言っていて悲しくならないのだろうか。
「それでは、私は本当にそんなものには興味がありませんので」
ということで、無理矢理にでも小悪魔を巻いて自分の部屋へと真っ直ぐに逃亡するのであった。
が、だがしかし。
私は真に小悪魔が、もといこの場所が幻想郷であるということを失念してしまっていた。具体的には奇跡も魔法もあるということを忘れてしまっていたのだろう。
ああ、なんてことだろうか。私がやっとの思いで自分の部屋に逃げ帰ってきたというのに、あの憎き図書館の淫魔の手があろうことか先回りをしているだなんて!
といった具合に大袈裟に言ってみたってこの奇妙な状況は何ら変わらない。
ここは私の部屋。
そして私は部屋に一人。
私の机。
その上にあるやたら表紙に肌色の多い本。
あの噂に聞く、目下思春期男子の間で盛んに行われているエクストリームスポーツ(アンサイクロペディアによる)「エロ本隠し」なる競技の参加者に仕立て上げらてしまったようだ。
誰かが来る前に早くこの本を人の目につかない場所へ。
取り敢えず大定番であるところのベッドの下か、いやまて冷静に、こういうときこそクールなれ──。
この部屋はそれほど広くない。置いてある家具もベッドと机、洋タンスくらいか。
どこにエロ本を隠す?
ここで私は机の裏、より正確に言うなら机の天板の裏側である。この場所は隠すのにそれほど多くの難易度が要求されない。そして普通机の裏なんて誰も見ない! なんて完璧な理論なんだ。そうと決まったら早速カモフラージュだ。
誰もいないのにわざわざ素知らぬ顔をして、裸の幼女に馬乗りされている表紙の本を……本を。
と思った矢先、なんとこの机の裏には先客がいた。あつらえたかのように黒い封筒のような入れ物が張り付いていた。
いいか、クールになれ。
封筒の中には何も入っていないように見える。いったい誰がこんなものを、という答えはあさっりと見つかった。封筒の中には一枚の紙切れだけが入っていた。
『何かと入り用でしょう? 小悪魔』
そう、私は小悪魔の手のひらの上で転がされているだけなのかもしれない。まさか本の隠し場所まで予測されているなんて。こうなったら別の場所に変えるか、普段の私ならそうしたかもしれない。だが、ここはあえて奴の手のひらに乗っかってやろうじゃないか。
てことでそのまま封筒の中に本をインサートする。
ふう、なんだか一仕事終えた後みたいだ。
そして、まるで狙いすましたようなタイミングで来客。背後でドアが開く音。集中しすぎて廊下を歩く足音に気づかなかったようだ。危ない危ない。
「おにーさま!」
来客はフランちゃんでした。
「どうして机の下になんているの? 地べたに座ったら服が汚れるわよ」
「ああ、そうだね」
おっとお、慌てて立ち上がる私。
「まあ、別にいいのだけど。パチュリーが呼んでたわよ」
「そうなのか。さっき図書館にいなかったけど」
入れ違いになってしまったのかな? まったくパチュリーには困ったもんだよ。そのせいで私は小悪魔と一対一で対峙して、あげくエ
「図書館に行けばいいのか?」
「うん。さっきはいたよ。早く行ったら?」
「じゃあ行ってくるよ」
フランちゃんの方から話を終わらせようとするのを少し珍しく思いながら、急かされるまま部屋を出る。よくよく考えると妙なことだが、私の部屋にフランちゃんが一人残されたままで(つまり私と一緒に部屋を出たわけではなく)、パチュリーが居るはずの図書館へ向かったのだった。