壮麗な白亜の宮殿。
汚れ一つなく磨き抜かれた大理石の柱はいと高く、丸天井に設えられたガラスの向こうからは初夏の陽光が差し込んでいる。
そして中央に敷かれた深紅の絨毯。その上を眩いばかりに銀色の光を放つ金属鎧を身につけた一団が靴音も高く進んだ。
彼らが足を進める脇には、不思議な光沢を放つ、しなやかにして動きやすそうな鎧を身につけた者たちが並ぶ。
皆一様にほっそりとした体形。そして頭部に着けているのは
ここはエイヴァ―シャー大森林内にある
その首都にある王宮。その中でも中央部にある玉座の間である。
その神々しさすら感じさせる空間。
しかし今、そこはひりひりとした緊迫感に包まれていた。
そこにあるものは緊張だけではなく、明確なまでの敵意である。
この場に迎えた
使節団が並ぶ絨毯のその先。
真白い象牙の玉座に腰かけるのは、やはり
「――であるからによって、我がスレイン法国は汝らが犯した罪の重さを理解し、そしてその罪に対し――」
「――もういい」
「……は?」
「もういいと言っている」
玉座の人物は
明らかに非礼。
通常の国と国との間柄でも、その行為は決して看過されるようなものではない。国家の威信がかかったものをないがしろにされたのだ。それこそ即戦争となってもおかしくはない。
それをけっして友好的とは言えぬ、それどころか明確なまでの敵対関係にある、ましてや異種族の代表に対して行ったのだ。
ざわめきが起こった。
劣等種族たる
人間至上主義に凝り固まったスレイン法国からの使節団の者たちは色をなした。
だが、そんな彼らの敵愾心を隠そうともせぬ様子を前にしても、玉座に腰かける
「王よ。人間の倫理の間では、望まぬ相手との性交渉を持つこと、それも監禁してまで無理矢理相手を求め、そして妊娠出産させることは忌むべきこととされているのですよ。まあ、
遠回しながらも痛烈な皮肉。
スレイン法国の一般国民こそ知らないが、さすがにこの場にいる使節団の者たちは、はるか遠い昔に始まったスレイン法国と
かつて
「あなたは、
立派な顎髭を生やした特使が、身に湧き出る憤りを隠せぬままに言いつのる。
だが、そんな苛立ちもあらわな者たちを前に、
「実に愚か」
吐き捨てるように口にされた、その答えに唖然とするスレイン法国の一同。
そんな彼らを冷たい目で一瞥した。
「そのような誰それと敵対するとか、そもそも自分がやられるかもしれないとかいう次元の話ではないのだ。ことの本質はお前らの理解できぬ、はるかいと高き所にある」
彼は視線を上にあげた。
その視線は虚空を睨みつつも、確固たる意志を見据えていた。
「自分の中にある強大な力、燃え盛る魂を信じる。信じて今を生きる。そうした時に一筋の光の道筋が見えるのだ。後はもうずっとそれに向かって突き進んでいくだけなのだ。己が意思の下に行われることに、それを妨げるものなど存在しない。他者の意など関係ない。如何なる相手との摩擦も敵対も恐るることなどない。すべて自らの欲するまま。それこそがすべてである。平和という怠惰、常識という思考停止の中に生きる者たちには分かるまい。本当に愚かな事だ」
ただ独りごとのように語られる、その相対する当事者からすれば怒髪天を突くような、実に身勝手な理屈。
当然ながら、スレイン法国から使節団として送られたこの場にいる者たちの心のうちに、絶対に許すべきではない、
しかし、それも
ならば、今、彼が言った言葉にスレイン法国が憤激し、今後も戦闘が続くというのは、そのための絶好の機会といえる。
実際の所、今回のやり取りに意味などない。
スレイン法国としては、
ただ、これはスレイン法国側の形式上の問題。
すなわち法国としては可能な限り平和的に物事を治めようとしたのであるが、悲しむべきことに野蛮な
一見、無駄なやり取りにも思えるが、あくまで他国との戦争という形となるため、そういった儀礼的なものが必要となる。
そのため、スレイン法国の使者が
しかし実際のところ、最近、スレイン法国内ではこの形式的ながら平和的な交渉を求める行為を悪用する困った問題も広まっていた。
彼らはあくまで敵対状態にある他国を訪れる特使である。いきなり攻撃を受ける、幽閉されて帰れなくなるなどの可能性はゼロではないが、これまでの経緯、実績からいって限りなくゼロに近い。
つまり使節団の者たちの安全はほぼ保障されているのだ。
そのため近年のスレイン法国では、国の有力者たちがこの使節団に親類縁者を送り込むことで、その者に
実に平和ボケも
彼らは帰って、いかに
そして彼らは敵対国への特使を務めたという肩書を一つ手に入れ、普段の生活に戻る、また新たなおいしい仕事を探して群がる。ただそれだけのことであった。
だが、この時、その使節団の中にいたとある人物。
スレイン法国内において、ある程度裕福な資産家の生まれであり、他の者らと同様、命の危険がある敵国への特使の任を立派に務めたという実績作りのために、少なくない金でこの使節団にねじ込まれた人物――ベリュースは、今の
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「――つー訳なんだよ」
そうベリュースは締めくくった。
「そうなんですか」と相槌を打ちつつ、ザックは薄く切り分けられたハムを指でつまみあげるとそれを口の中に放り入れた。
その横ではスタッファンがその見た目によらず――あるいは見た目通りなのか――上品にスプーンとフォークを使い、皿の上のベーコンエッグを丁寧に切り分け、そして音もたてずに口へと運んでいた。
彼らが食事しているここはエ・ランテルの宿屋である。
あの後、帝都を脱出した彼らはひたすら馬車を走らせた。さすがに馬を買い替えるほどの余裕はなかったため、ある程度、帝都を離れた後は普通の速度で移動したのであるが、幸いにして事が発覚し、追手が追いつくよりは先に帝国領を脱出することができたのだ。
エ・ランテルに戻ってきた彼らは真っ先に宿を決めた。値段的に中堅どころの、馬を含めた馬車を預かってくれる宿屋をとり、そこで馬を休ませた。
そうして彼らはようやっと人心地ついたとここ数日、部屋でのんびりとその体を休めていたのである。
ちなみに今、この部屋でゆっくりと食事を楽しんでいるのはベリュース、ザック、スタッファンの三人のみである。
クレマンティーヌは着くそうそう、体を休めることなくあちこち歩きまわっていた。今日も
「それで、……その巫女姫とかいうやつを襲おうと考えたんですか?」
ザックの言葉に、ベリュースは「おう」と胸を張った。
「まあ、人外とはいっても王様とかいう立場にある奴の話聞いてたらよ、俺も何か出来るんじゃないかと思ってな」
「そんでやった、『出来る何か』が女襲うことかよ」
聞いていたスタッファンが「まあ、たしかに巫女姫とかいうお偉いさんを狙ったのは凄いがな」と言いながら、突っ込みを入れる。
「いやー、これまでそれなりに地位や立場利用して下働きの人間とか、法国の任務ついでにつまみ食いとかはしてたが、さすがに国にたてつこうなんて考えた事もなかったからな。でも、その権威とやらに盲目的に従わなきゃいけないのか? 本当に大切なのは自分の意思じゃないかと思ってな。そんでいっちょう、普段から裸に薄着一枚とかいう姿晒してて、見るたびに犯ってやりたいって思ってた巫女姫を狙おうとしたのよ」
言ってベリュースはグラスにつがれた白ワインを一息に飲み干した。
そして酒臭い息を吐きだしながら、「でもまあ、あとちょっとのところで失敗したんだけどな」と自嘲気味につぶやいた。
「まあ、でも失敗したとはいえ、良かったじゃないですか」
ザックが言う。
「その巫女姫とやらを犯るのは失敗したとはいえ、なんだかんだあっても、こうして生きてるんですし」
「まあなあ、失敗の一つや二つあっても、命さえありゃあ、何度だって挑戦できるからな」
スタッファンもそれには同意した。
その言葉に、ザックはうんうんと頷く。
「そうっすよ。失敗は成功のもとっていいますし。それに人生、挑戦すべきことは一つじゃありませんしね」
言ってザックは手のひらを上にあげる。
「ドンマイ!」
その声に他の二人も椅子から腰を浮かせる。
「ドンマイ!」
「ドンマイ!」
声をあげて、互いにハイタッチし合った
誰だって失敗は嫌なものだ。
失敗はしない方がいい。
だが、失敗もまた経験になる。失敗からも学ぶことが出来る。全ての経験は無駄にはならない。
時には打ちのめされることもある。時には挫折することもある。
だが――だが、生きてさえいれば、再起することは出来るのだ。
「そうだな。よっしゃ、じゃあ少し落ち着いたら――また女レイプしに行こうぜ!」
「おう、さすがにちっと警戒が強くなってきてるみたいだが、また行商人とか襲ってボコボコにしてやろうぜ」
「ええ、ちょっと路銀も少なくなってきてる事ですし、連中が溜め込んだ金を奪ってやりましょう」
各々の前に並べたショットグラスに蒸留酒を注ぐと、グラスを持ち上げ、「乾杯!」と一息に飲み干した。
皆、喉を焼く程にきついアルコールを味わいながら、仲間同士の熱い絆を確かめ合った。
そして、酒のもたらす心地よい酩酊と並べられた食事、その美味に舌鼓を打ち、大いに盛り上がった。
そうして笑いあっていると、バンと音を立てて宿屋の扉が開かれる。
ノックもなしに開かれた扉。そこに立っていたのは、フード付きのローブに身を包んだクレマンティーヌであった。
彼女はずかずかと部屋の中へと入ってくると、ザックの手にあったワイングラスを引っ掴み、中の赤色の液体を一息に呷った。
ぷっはあと声をあげて、息を吐くクレマンティーヌ。
そして、彼女はにやりと笑みを浮かべ、突然の登場にきょとんとしたままの男どもに向かって言った。
「あんたら、これから外に出て女襲うよ」
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「ねえ、ちょっと見せてくれない」
猫なで声で頼むクレマンティーヌ。
その声に「もう……」と困ったような、しかし本当には困っていないような声をあげるエンリ。
やがて彼女は仕方ないなと、薄茶色のスカートの中へと手を突っ込んだ。
そして、やや大きめの臀部に食い込むパンツの両端に親指を入れ、するすると下ろしていく。
一見、場末のストリップ劇場かと思しき情景。見ていたベリュース、ザック、スタッファンから歓声が上がる。
さすがに男たちから投げかけられた興奮の声に、思わずその手が止まってしまう。
「ちょ、ちょっと、やっぱりこんな人前でっていうのは……」
「えー、いいじゃん。ね、お願い」
なおも顔の前で手をすり合わせ、頼みこむクレマンティーヌ。
友人である彼女に、そこまで頼まれるとどうしても嫌とは言えない。エンリは顔を赤くしつつも、さすがに男たちの欲情の表情を目の当たりにはできず、くるりと後ろを向いてそのパンツを下までおろした。
その仕草はかえって彼女の丸い尻を男らの前につきだす形になり、再度歓声が上がる。
足の先を通し、脱ぎ捨てた下着を傍らに立つ木の枝にかけ、エンリはその厚手のスカートの裾をつまみ上げた。
そして、そろそろと上にあげる。
息も荒く見つめる男性陣。クレマンティーヌはその後ろで、にやにやとした笑みをその顔に浮かべ眺めている。
ふくらはぎ、膝、太ももとゆっくりとその柔肌が外気に触れていき、やがてその恥毛に覆われた股間があらわになった。
ヒューと口笛が吹かれる。
これまで家族を除けば人前に晒したことなどない秘部をまじまじと見られ、なにやら身体が熱く火照っていくのに対し、みっしりと生えた陰毛が夕暮れ時の涼し気な風にさらされ、その恥部にひんやりとした感触を覚えた。
それを見たクレマンティーヌは言った。
「んーと、それ、手入れとかしないの?」
言われたエンリは首をひねった。
「手入れ?」
「うん。普通、そこの毛ってある程度は剃ったりしたりするもんだけど」
その言葉に、エンリは羞恥を覚えた。
友人である彼女が言うなら、それが普通なのだろう。
正直言って、エンリはこういった下の事には
これまで彼女が暮らしてきたカルネ村には同年代の同性というものが少なかった。また村を訪れる行商人等の中に女性は少なく、かと言ってごくたまに訪れるエ・ランテルではあか抜けた感のある街の女性たちとは上手く話せなかった。
そんな状況下において、エンリが相談できるのはせいぜい母くらいであったのだが、実の親にそういった事を聞くのは
ますます持って、普通の女性とはかけ離れた暮らしである。
自分はそんなに女性としての常識からずれていたのかと、エンリは羞恥に頬を赤くした。
衝撃を受けた様子である彼女に、クレマンティーヌは優しく言う。
「まあまあ、べつに知らなくってもいいよ。むしろ、私の前でそれを見せた分、良かったじゃん。他の人の前でそれ見せて恥かくよりはさ」
なるほど。確かにそうだ。
友人である彼女の前でならまだいい。これが別の人間、例えば恋人の前で知らずにこのみっしりと生い茂った陰毛を晒していたらと思うと……。
そんなことを考えたエンリの脳裏をよぎったのはどういう訳だか、薬の原料を取りに時折カルネ村を訪れる、昔からの友人であるンフィーレアの顔であった。
エ・ランテルではその技術や魔法の腕を称賛され、あれこれ噂されるほどの才能の持ち主らしいが彼女にとっては、面と向かって話した時にやたらと汗をかいたり、言葉をどもってしまったりと、いささか頼りない――言い方を変えれば保護欲をかきたてられるところのある人物である。
なぜ、ここでンフィーレアの顔が浮かんだのか、エンリ自身ですらはっきりとは分からなかったのだが、とにかく彼にここを見られる前でよかったと安堵の息を吐いた。
そんなエンリに、更にクレマンティーヌは言葉をつづける。
「じゃあさ、せっかくだから練習もしようか。セックスの」
「え、ええーっ! ちょ、ちょっとさすがにそれは……」
その提案にはさすがにエンリも反発の声をあげた。
いくら友人である彼女の提案だとしても、それはさすがにやりすぎではなかろうか。
……友人?
そういえば、この目の前の……たしかクレマンティーヌという名の友人と自分はいつ知り合ったのだろうか?
こんなにも親密な感情を覚えるのだから、昔からの知り合いなはずだが……どういうわけだか、どうしても知り合ったきっかけが思いだせない。
何か心の中に奇妙なものを感じ、悩むエンリ。
だが――。
「だいじょぶだいじょぶ。私を信じて。ね、初めてでいきなり恋人とか結婚相手とかとやって失敗したら困ることになるよ。ぶっつけ本番でやるより安心だって」
だが、いまだ納得しきらないのではあるが、自信ありげにその豊満な胸を叩くクレマンティーヌの姿に、友人である彼女がそこまでいうのなら、間違いというわけでもないだろうし、その方がいいのだろうという結論に至った。
下半身をあらわにしたまま、ごろりと仰向けになる。
彼女の前へ先ほど歓声を上げていた男が一人歩み出ると、カチャカチャと音を立ててベルトを外す。せわし気にズボンをずり下げ、その股間をさらした。
それを見たエンリは思わず、嫌悪の声を漏らした。
男の股間に屹立する、あまりにもグロテスクな物体。
見るからに醜悪な、そのそそり立ったものに自分の唾をなすりつけている男。その気色の悪さに顔を引きつらせる彼女に向かって、友人であるクレマンティーヌは再度「大丈夫だから」と彼女を安心させるよう声をかける。
その声に、むりやりに嫌悪感を抑え込んだ彼女の上に、鼻息も荒いベリュースが覆いかぶさる。
そして、今だ誰も受け入れたことのないエンリの秘部に、その肉棒がねじ込まれた。
「ん、ぐぅ。ちょ、ちょっと、きつい…………って、え? な、なに!? い、痛いっ! い、いや、ちょっと、なにこれ!!」
処女膜が強引に突き破られる痛みに、エンリは悲鳴をあげた。
そしてあらためて辺りを見回す。
自分の周りにいるのは下卑た笑みを浮かべる男が三人。
離れた場所で嘲りの笑みを浮かべる、同じ女性として気恥ずかしさを覚えるような衣服を身に纏った女が一人。
そして――彼らから少し離れた場所に無造作に転がっている、緑の肌を持つ者たち。
それは彼女を姐さんと呼んで慕う、かつてあの偉大にして心優しき
その息絶えた姿を見たとき、突如、これまでの記憶が脳裏によみがえった。
エ・ランテルでの一連の仕事を終え、カルネ村へ帰る途中であったエンリとゴブリンたち。
やや日が傾きかけてきた頃、先行していた
警戒しつつも声をかけたところ、下使いのような男は馬車の車輪か車軸が壊れて困っていたようだった。
見過ごすことも出来ず、とりあえず見てみようとしたエンリ。
そんな彼女に男たちが襲い掛かった。
エンリを守ろうと隠れていた草むらから飛び出したゴブリンたち。
瞬間――馬車の中から飛び出した肌もあらわな女が、瞬く間にゴブリンたちを殺していった。
ゴブリン達は自分たちが食い止めている間に逃げるよう、エンリに叫んだ。
その声に逡巡したものの、カルネ村に残してきたネム、そして他のゴブリンたちのためにも生きねばと、
瞬間、(ああ、自分はきっとここで死ぬんだ)という思いが全身を駆け巡ったが、その予想に反し、彼女の心を支配したのは絶望でも悲嘆でもなく、自分の肩を刺したスティレットにしたたる血を払い捨てている、その女性に対する友誼の気持ちであった。
股間に走った破瓜の痛みにより、スティレットに込められていた〈
必死で自らの上にのしかかる男から逃れようと試みるも、他の男たちが彼女の腕を抑えにかかる。
「暴れんじゃねえよ。せっかくだから楽しめよ」
にやにやと笑いながら、エンリの股の間に身体をねじ込み、身体を動かすベリュース。
弱者を虐げることを喜びとしているその顔に、かつてのあの光景――騎士らしき姿をした男たちが村を襲い、村の人々を、そして父も母も殺されたあの時の記憶がエンリの脳裏にまざまざとよみがえってくる。
刹那、エンリの心のうちに生きているだけで次々に襲いくる理不尽、そしてあの時何も出来なかった無力な自分に対する怒りが燃え上がった。
次の瞬間――エンリの左腕を抑えていたザックの身体が弾き飛ばされた。
あたかも暴れ馬の体当たりでも受けたかのように吹き飛ばされ、ゴロゴロと地面を転がる。
「はあっ!?」
驚愕の声が響く中、自由になった腕をエンリは振り回す。
片腕を抑えていたスタッファンは慌てて、そちらの腕も掴み、自らの体重で押さえつけにかかる。
しかし――。
「このおっ……!」
気合の声と共にエンリは自らの腕を持ち上げた。
すると、なんということだろう。スタッファンのでっぷりと太った身体が宙を舞った。
驚愕の表情をその顔に浮かべたまま、地面に叩きつけられるスタッファン。
そのごく普通のやぼったい村娘にしか見えない少女が、肥え太った男を腕の力だけで弾き飛ばすというありえない光景に、彼女の奥に自身をさし込んでいるベリュースもまた呆気にとられた。
そんな彼の胸元に少女の拳が叩きつけられる。
「げはっ!」
鎧の上からの一撃であるが、それはおよそ人間のものとは思われなかった。それこそ猛獣の突進かとでもいうべき衝撃に、叫び声をあげて後ろに吹き飛ばされるベリュース。その股間のイチモツが宙でぶらんぶらんと揺れた。
ずしゃりと音を立ててひっくり返った鎧姿の人物。
その様を見て取り、エンリは足を震わせながらも立ち上がった。
そして、一歩踏み出した瞬間――。
「はいはい。駄目よそれ以上は」
――激痛が走った。
耳に聞こえてきた言葉を理解するより早く、エンリの膝が崩れ落ちる。
クレマンティーヌに背後より、いまだ股間より滴る鮮血が赤い筋となって垂れる太ももを刺し貫かれると同時に、いったいどういう訳か身体に力が入らなくなってしまった。
先に払いのけた男が慌ててエンリの下へ走り寄り、膝をついた姿勢のまま身動きが取れなくなっている彼女の身体を押さえつけた。
その身に走る痛みと、自分の意思に反して力の入らぬ手足に歯噛みするエンリ。
彼女の視線の先で胸を強打され、息が出来ずにのたうちまわっていた男は肥満体系の男に助けられ、ゴホゴホと咳をしながら立ち上がった。そして抵抗など出来ないと思っていた相手に逆襲された怒りにつき動かされ、自らを助け起こしてくれた仲間の手を乱暴に振り払い、傍らに置かれていた鞘から剣を抜き取る。
そして、「てめえ!」と叫びながら、彼女に向かって飛びかかった。
なすすべもなく、鋭い切っ先が柔らかな腹部に突き刺さる。
痛みを感じるより先に、その身に伝わった衝撃にエンリは後ろにひっくり返った。
仰向けに倒れ伏すエンリ。
そんな彼女に対して、ベリュースは激情にかられるまま馬乗りになり、二度、三度と剣を突きたてた。
まるで現実離れしたような感覚と共に天を見上げるエンリ。
もはや苦痛はほとんどない。
代わりに身体の末端から凍りつくような冷えが急速に這いあがってくる。
男が剣を突き刺すたび、引っこ抜くたび、己が身より溢れでた鮮血が辺りに撒き散らされていく様子を、まるで人ごとのようにぼうっと眺めていた。
「……はぁ……」
エンリは微かに息を吐くとともに――その意識は闇に包まれ、途切れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ふわふわとした感覚をエンリは感じていた。
それはまるで乾いた干し草の山の上に身を投げた時のような、あるいは湖の中でその身がぷかぷかと浮かんでいた時のような、そんな重力から解き放たれたような不思議な感覚。
いったいなぜ、自分がこうしているのかさっぱり分からなかった。
ただ柔らかにして暖かな感覚に包まれ、穏やかな
しかし――。
――ふと胸元にぬるりとした感触を覚えた。
実に億劫ながらも目を見開いて、胸元に目をやると、そのささやかなふくらみの上に転がっているのは、ガラスの小瓶。
その横倒しになった容器の中には青紫色の液体が微かに残っていた。そして、それらの大半は容器の口から流れ落ち、エンリの丈夫だが飾り気のかけらもない茶色い服の上に一見、毒々しい染みを作っている。
それを見たとき、エンリは今の状況を理解した。
この不思議な色合いのポーション。
これは間違いなく、今日、エ・ランテルへ薬草を届けにいった時に、あれこれと新成果を語り倒していたあの友人――ンフィーレアの作ったものに違いない。
おそらく自分はあの男に刺され、死にかけたのだろう。
その後、どういう訳だか、死にかけていた自分にンフィーレアの作ってくれたポーションがかけられたらしい。
おかげで命は助かったという訳だ。
こうして横たわっている間にも、胸元を中心に体中の痛みがみるみるうちに消えていく。
ああ、それだけ幼馴染の作ったポーションは凄いことがよく分かる。かつて村を救ったあの人からもらったものは、一瞬で痛みも傷も消えたほどだった。さすがにあの偉大な方の持ち物と比べるとそれほどではないようだが、それにしても効果の発揮具合が通常のものとは格段に異なることは、ポーションに詳しくない彼女とて理解できた。
万が一、何かあった時のためと言われ半ば強引に持たされたのだが、そのおかげでこうして命永らえることが出来たとは……。
このポーションを渡された時のンフィーレアの顔を思いだす。
そして、その直後のやり取りも。
それらを思い返した時、エンリは自分の胸中にあるものにようやく気がついた。
――そう。そうね。
ずっと近くにありすぎて、ずっと一緒にいるのが当たり前すぎて、これまで理解していなかった。意識していなかった。
――でも……。
それはエンリの胸の中にあったほんの一欠片。
それまでは自分のことながら、気がつくことは無かった。
だが、己のうちにそれがある事を意識すれば、それは見る見るうちに大きくなっていった。
――でも、私は……ンフィーレアが好き。
エンリの脳内に、これまでのンフィーレアとの思い出が、走馬灯のようにグルグルと回る。
村に薬草の買い付けにやってきた、薬師であるという両親に付いてきた少年。
年が同じくらいであったエンリと、親たちの商談の間、そのあたりを遊んでまわった。
丘の上にある岩に腰かけ、自分もいずれ父や母の跡を継いで薬師になるんだと語ったあの顔。 希少な薬草を取りに冒険者と共に向かった先で
引き取られた祖母の下で薬師としての経験を積み、ついに一人前と認められたのだと語った時は実に誇らしげだった。
そして、つい先日のこと。
カルネ村を謎の騎士風の男たちが襲い、そして自分の両親が死んだことを告げたとき、彼は我が事のように歯を噛みしめ、湧きあがる憤りと、どうしようもない
そうして、しばらく何かを言いあぐねるように懊悩の表情を浮かべた後、彼は決意したように言った。
『エンリ……エ・ランテルで暮らさないか?』
その言葉には虚をつかれた。
これまでカルネ村で暮らしていた自分が、エ・ランテルという都市で暮らす?
たしかに両親がいなくなり、まだ幼い妹のネムを抱えての農村生活は楽なものではないだろう。 だが、自分に出来ることは畑や家畜の世話などの野良仕事くらいだ。農業とは無関係な街で、まったく知識も経験もいかせなさそうなエ・ランテルで、いったいどうやって暮らせばいいというのか。
未来の見通せぬ提案に不安と困惑の表情を浮かべたエンリに対し、ンフィーレアは慌てて言葉をつづけた。
『い、いや、エンリ……つまりさ、その……ぼ、僕と一緒に暮らさないか……?』
『え?』
『だ、だからね……え、ええと、つまり……エ、エンリ! け、結婚しよう!』
『…………ええーーっ!』
突然の告白。
頭の中が真っ白になる中、どういったやり取りをしたのかも定かではないが、とりあえず返事は保留というかたちで、その場をおいとましたのだ。
あの時のンフィーレアの緊張した表情。
そして、それを告げられた時の自分の感情。
――ああ……なんでこんな簡単な事に気がつかなかったんだろう。
好きな人に好きと伝えるだけ。
ただそれだけで、万人が幸せになれるのに。
――ンフィー。
……愛しているわ。
倒れ伏したまま、そんな事を考えていたエンリ。
怪我の度合いがよっぽどひどかったのか、痛みはあらかた引いたものの、まだその手足は自由に動かすことはかなわない。
そうして横たわったままの彼女の耳に届いたのは、下卑た男たちの声。
「ああ、よかった。こいつ、息してます。このポーション効いたみたいですよ」
「おお、そうか。ふう、助かったぜ」
「お前が言うなよ。いくら腹立ったからって、あんなにめった刺しにしやがって。下手すりゃ死んでたところだぞ」
「いや、だってよ。この女、俺のこと、思いっきり殴りやがったんだぜ」
「だからと言って、やり過ぎだろ。久しぶりの女だってのに。いつもは俺が殺しちまうと文句言うくせによ」
「まあまあ、いいじゃないですか。危ないところだったものの、ほら、こうしてこの女は生きてるんですし」
「おっとザック、いいこと言ったな。だろ、スタッファン。結果オーライさ。実際、こいつは死んでないんだしよ。今回の事はこれからに生かせばいいんだ」
「それをお前が言うなよ。とりあえず死んでないからいいけどよ」
「そうっすよ。もしもを考えるのも大切ですが、まず考えるべきは今でしょう。それにもしうっかり殺してしまっても、次から殺さないようにすればいい事じゃないですか」
「そうそう失敗は成功のもと。失敗なんていくらしてもいいんだよ。それで次から注意するようになって、成長すればそれは意味がある失敗だったって事さ」
「だから、お前が言うなって。……まあ、別にいいけどよ」
「そうっすよ。ドンマイ!」
「ドンマイ!」
「ドンマイ!」
言って互いにハイタッチし合うベリュース、ザック、スタッファンの三人。
そんな三人を横目に、クレマンティーヌはエンリの持っていたポーション瓶を、その服の上にかけられた液体の毒々しい色を難しい顔で見つめていた。
クレマンティーヌがエンリに目をつけたのは偶然だった。
ポーションの補充のため、彼女は薬師の工房が立ち並ぶ区画へと足を運んだ。独特の臭気が漂う一角を見回し、さてどの店に行こうと品定めしていると、とある店の裏手に一台の馬車が停まっている事に気がついた。なにやら二人の人物が話しているらしい。
なんとはなくそちらの方へ歩いていき、こっそり様子を窺うと、どうやら近隣の村からポーションの原料となる薬草を運んできたらしい特に目立った特徴もない村娘ともう一人――こちらはさすがにクレマンティーヌもその顔を知っている、このエ・ランテル随一と知られる薬師リイジー・バレアレの孫にして、その薬師としての腕前も祖母譲りと将来を嘱望され、さらにはどんなマジックアイテムでも制限なく使用できるという
興味が湧いたクレマンティーヌはいったい何を話しているのだろうと、そのまま聞き耳を立てていると、なにやら少女の家族が村を襲ってきた騎士たちに殺されてしまい、今は生き残った妹と村で生活しているのだとか。
騎士と言われて、帝国の騎士がわざわざ王国領内にやって来て暴れるはずはないし、呆れるほど馬鹿な王国の貴族といえど、さすがに自国の村の襲撃まではしないはずだよなあと考えていると、ふとある事を思いだした。
そういえばスレイン法国で、帝国の騎士を装った連中が暴れることで王国戦士長ガゼフ・ストロノーフをおびき出し、始末しようという計画があったことを。
自分が直接指名されたわけでもないのであまり真面目に聞いていなかったのだが、ガゼフ・ストロノーフ暗殺の任を誰がやるかでもめていたはずだ。
本来ならば漆黒聖典がやるのが最適なはずなのだが、たしかどこかで漆黒聖典の大半を動員する重要任務が重なったため、別の部署がやるとかいう話になっていたはずだ。
すると、もしかしたらあの少女の村は、その計画に巻き込まれたのかもしれない。
そのことに思いいたったクレマンティーヌであるが、まあ、どうでもいいかと頭を切り替えた。
もはやクレマンティーヌはスレイン法国とは関係ない。あいつらが何をやっていようが、自分に火の粉が降りかからなければ問題ない。
それにそもそも、ガゼフ・ストロノーフが死んだという話なぞ噂ですら流れていないのだ。おそらく暗殺計画は失敗したのだろう。
そうして、スレイン法国の誰が担当したのかは知らないが、実にお粗末な話だとクレマンティーヌはひそかに鼻で笑っていると、何やらンフィーレア・バレアレの方はやたらと緊張した様子でつっかえつっかえ言葉を発した。
『い、いや、エンリ……つまりさ、その……ぼ、僕と一緒に暮らさないか……?』
『え?』
『だ、だからね……え、ええと、つまり……エ、エンリ! け、結婚しよう!』
『…………ええーーっ!』
その言葉に、隠れて聞いていたクレマンティーヌも思わず「はあっ!?」と声をあげてしまった。幸いにして、極度の興奮および混乱状態にあった当の二人は気がつかなかったようだが。
――いったい何をこいつはいきなり発情して、そんな事を言っているんだろう。
生クリームたっぷりなケーキにこれでもかと言わんばかりにハチミツをぶちまけたかの如き甘々な展開に辟易していると、そのエンリと言われた少女は突然の告白に狼狽えながらも即答は避け、ひとまず返事は保留とするようだった。
だが、その保留にするための理由というのが、村にいる妹の意見を聞いてからというのと――。
『ええっとね。実は今、カルネ村にはゴブリンさんたちがいてね。皆とも相談してみないと……』
――ゴブリン!
その言葉を耳にしたクレマンティーヌの脳裏に、ここに来る前、この街における知り合いであるズーラーノーンの幹部カジットから聞きだした情報がよみがえってくる。
『このエ・ランテルの近くにカルネ村というごく普通の農村があるのだが、今、その村にはゴブリンの群れが住みつき、村の人間たちと共存しているらしい』
その話を聞いた時、眉唾だと思った。
ゴブリンは知能はあるが、そんな人と共に暮らせる存在ではない。
奴らを従えるには力を示さなくてはならない。奴らは自分より強いものに服従はするが、常に寝首をかこうと試みる。ほんの少しでも弱みを見せては駄目なのだ。
更には思考の概念自体もかなり異なっている。感謝や恩義といった観念は薄く、あるのは怒りと憎しみばかり。物を皆で分かち合い共存共栄するということなぞ理解できない。
彼らにあるのはただ強い者が弱い者から奪うというシンプルな原理だけだ。
それ故、彼らは
だが、そんな存在が、人間と共に暮らしているという。
最初、カジットから聞いた時はあり得ないと鼻で笑った。
しかし、当のカルネ村から来たらしいこのエンリという村娘は、ゴブリンが村にいることを事実として語ったのだ。
それを聞いたクレマンティーヌはがぜん興味が湧いた。
ゴブリンが住むという村、カルネ村ははたしてどんなところなのか? ぜひ見てみたい。
それとこのエンリという娘もちょうどいい。自分の連れであるベリュースらも当面は街で大人しくしているつもりであったようだが、最近はさすがに暇していて、そろそろ誰かを襲おうかと話していたのだ。
おそらく、この少女はこのあとカルネ村に帰るのだろう。
ならば街の外で待ち伏せするなり、逆に追いついて襲うなり、色々と都合がいい。
そう考え待ち伏せしてエンリを襲い、そして隠れ潜んでいたのは予想外であったが彼女の護衛をしていたゴブリンたちをも打ち倒したのである。
――こいつがゴブリンを従えていたあたり、その村にゴブリンがいるってのも本当みたいね。人と暮らすゴブリン……ずいぶんと楽しそうな事になりそうだわ。
それにしても、この変な色のポーションは何なのかしら? 青紫色のポーション? 聞いたこともないけど。
……ん? 普通の青いポーションより赤みがかったポーション? それって……。
「すいやせん、クレマンティーヌさん!」
思考の海に浸っていたところを不意に声をかけられ、ハッとしたクレマンティーヌ。
顔をあげると、少し離れた所でザックが彼女に手を振っていた。
考え事をしていたところを呼びかけられ、少し驚いてしまったのをバツが悪く感じた彼女はそれを誤魔化すようにやや不機嫌そうな声をあげた。
「なに、したのよ!」
「あ、あの、この女がまた暴れ出したんでちょっと手を貸してもらえませんか!」
見れば、
その四苦八苦する男どもの実に情けない様子にクレマンティーヌは、「はぁ」と大きなため息をつくと、大騒ぎしている彼らの許へと歩みを進めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
このとき、ザックが声をかけなかったら、クレマンティーヌがそのままもう少し思考を進めていたら、その後の結果は変わっていたかもしれない。
クレマンティーヌはスレイン法国の、それも六色聖典の一員として、隠された歴史の真実に触れることの出来た人間である。
この世界において、普通に流通しているポーションは青い色をしている。
それはポーション製作の工程において、どうしても青く変色してしまうためだ。
伝説にある赤いポーション。いくら時をおいてもまったく劣化しないといわれる、まさに理想形たる神のポーション。それを作り上げることが、全ての薬師の目標である。
だが、世界中の有能無能な数限りない薬師が数百年にも及ぶ創意工夫を重ねても、それはいまだ達成できていない。その為、薬師の間では神の血は青いのだという冗談まで広まっている。
だが、そこには隠された真実がある。
赤いポーションはたしかに実在する。
そして、それは何なのかというと、まさに神のもたらしたポーションのことである。
薬師の間で伝わる伝説のポーション。『神の血』と呼ばれるもの。その正体はスレイン法国の六大神、ならびにそれに匹敵する存在、一〇〇年ごとにこの地に降臨するとされるプレイヤーなる者たちが保有していた、異世界よりもたらされたポーションをさすのだ。
今、エンリに使ったンフィーレアが作ったポーション。
それはわずかではあるが赤みを帯びている。
何故、この治療薬の流通、研究が盛んなエ・ランテルにおいて街一番の薬師の家の者であるとはいえ、いまだ年若く、それこそ若輩と言ってもいいンフィーレアが完全な赤ではないにしても青紫色の、わずかながらも赤みがかったポーションを作っていたのか。
その鍵となる人物。
それもクレマンティーヌは聞き及んでいた。
『漆黒』のモモン。
これもカジットから聞いた話だが、しばらく前、このエ・ランテルにふらりと現れ、冒険者となった謎の人物らしい。常に素肌をさらすことなく、漆黒の
そいつのおかげで、エ・ランテルでの活動がしにくくなったとカジットは愚痴をこぼしていた。
そして、そのモモンであるが、なにやらバレアレ家の工房によく顔を見せているのだそうな。
町一番の有能な冒険者。
町一番の腕を持つ薬師。
付き合いがあっても、なんらおかしくはない。
むしろ、接点がないとしたら、それこそおかしいと言わざるを得ない。
だがこの世界の真実の一端を知っている人間が、全ての情報を総合的に考えれば、別の可能性にも辿りつく。
突然現れた強大な力を持つ謎の人物と、彼と付き合いのある人物が赤みがかったポーションを作っていたという二つの事実。
そこから推測されるのは、すなわち六大神と同格の可能性もあるプレイヤーの存在である。
そこに思い至れば冒険者モモン、そしてバレアレ家のリイジーとンフィーリアには近づかない方がいいと結論づけたであろう。
そして当然ながら、すでに襲ってしまったとはいえ、そのンフィーリアの友人らしい、というか結婚を申し込まれていたこのエンリ、および彼女が住んでいたカルネ村ともかかわらない方がいいというところに帰結するのも必然である。
そもそも先に彼女が考えた通り、ゴブリンが人間と共存することなどありえないのだ。
ならば、そのあり得ないはずの事が起こっているカルネ村に、世界の条理から外れた存在であるプレイヤーの影を感じる事は容易であっただろう
しかし、いかなる運命の悪戯か。
クレマンティーヌの頭の中で固まりかけていた思考の糸は、かけられたザックからの声によってほどけ、形となることは無かった。
今、彼女の頭の中は、結婚を申し込まれた直後に不幸のどん底へ叩きこまれ、恋人の名前を喚き叫びながら抵抗する、哀れな女性をいたぶり弄ぶ事でいっぱいであった。
そのわずかに掴みかけた真実は彼女の掌をすり抜け、昇り始めた月夜の闇に霧のように消えてしまったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ルプスレギナ! お前には失望したぞ!!」
室内に響いた叱責の声。
偉大なる主の怒りの言葉に、言われた当のルプスレギナの他、同席していたシクススやナーベラル、そして天井で護衛の任についていたエイトエッジ・アサシン達もその背をびくりと跳ねさせた。
そんな彼らの怯えを理解しつつもアインズは、なぜエンリがエ・ランテルに来ることを報告しなかったのか、エンリが冒険者組合に依頼しようとした東の巨人や西の蛇等とはなんなのか、さらに問いただした。
それに対してルプスレギナは「それは……」と口ごもるばかり。
その普段の飄々とした態度とはかけ離れ、あわあわと狼狽える彼女の様子にアインズは――骨である身であるため実際に息を吐いたのではなく、その真似をした程度だが――大きく息を吐き、噛んで含めるように、カルネ村の戦略的重要性を――思いつきのでっち上げだが――語り聞かせた。
曰く、カルネ村はこの世界における平和的な人間支配のモデルケースであり、
その場にいた者らは「おお……!」と、自分たちの仕える主のこの世のすべてを見通すかのような智謀の冴えに感嘆の声を漏らした。
その自らに向けられる称賛のまなざしに、上手く誤魔化せたという安堵以上に、少々むずがゆいものを感じつつも、アインズは今後の事を考えていた。
――さて、西の蛇に東の巨人か。
この前、森の賢王を殺してしまったから、トブの大森林内での縄張りが崩れたのだろうか?
……あれは失敗だったなあ。
ただのでかいハムスターかと思ったら、予想に反して結構強かったんで、ちょっと様子見で強めの魔法使ったらいきなり死んじゃったし。
まあ、良い毛皮が手に入ったとアウラが喜んでいたから、あれはあれでよかったかな。
とまれ、なんらかの手を打った方がいいか。
アウラにトブの大森林を支配させる? いや、守護者であるアウラをそんな任務で森に張りつけておくのはもったいなさすぎるな。その西の蛇だか東の巨人だかのどちらかを支配下において、そいつらに周辺の管理を任せてしまった方がいいか……。
エンリやネムの住むカルネ村に被害が出ないようにしないとなあ。
アインズの脳裏に、この世界に来て初めての知り合いとなった姉妹の姿が浮かんできた。
――……そういえば、ンフィーレアはエンリの事が気になっているようだったな。
アインズはエ・ランテルで知り合いとなり、そしてポーション研究に協力してくれている若い薬師の姿を思い浮かべた。
ンフィーレア・バレアレ。
あの金髪を雑に整えただけの、前髪で目がおおわれている、少年と呼ばれる頃合いをようやく脱した青年。そんな外見に加えて、柔らかな口調に穏やかな物腰のため、一見頼りなさそうに見えるがこれがどうして、その若さですでに第二位階魔法を習得し、また薬師としての腕も祖母であるリイジー・バレアレの名をけっして汚さぬほどたしかなものである。そしてさらに、その身に宿った
そんな彼であるが、一農村の村娘であり幼馴染でもあるカルネ村のエンリ・エモットに懸想しているようだった。
その事を知った時はアインズとて驚いた。
まさか、自分が初めてこの地に出てきたきっかけとなったあの娘と、この地におけるナザリックの地位固めと情報収集のために近づいた大都市の著名人とが知り合いだったとは、と。
彼と知り合えたのはまったくの偶然からだった。
冒険者組合を訪れ、最低ランクである銅の冒険者のプレートを手に入れたその足で、彼らは教えられた宿屋へと向かった。
そこで新入りいびりをしようとしたガラの悪い連中とトラブルになった際、そいつらのうちの一人を首根っこ掴んで放り投げたのだが間が悪い事にその先に、節約に節約を重ね、ようやく今日買ったばかりのポーションを眺めていたブリタという鉄級冒険者がいたのだ。
落ちてきた男に巻き込まれる形となり、せっかく買ったポーションを壊された彼女は弁償を要求してきた。
それで仕方ないとばかりに代わりとして、アンデッドである自身にとってはあまり使う必要もなく溜め込むままとなっていたユグドラシル時代のポーションを一つ渡そうとしたのだが――。
――残念ながら、それで丸く収まりはしなかった。
アインズが差し出したのは赤色の液体が入ったポーション。
そのような色のポーションをこれまで見たことがなかったブリタは、それで良しとしなかった。
そんなおかしな色をしたものではなく、ちゃんとしたポーションを弁償しろとさらに激昂して迫ったのだ。
そうした口論の末、さすがにそれを見かねた宿屋の親父が、紹介状を書いてやるから薬師での店に行って、そのポーションを鑑定してもらえと言ってきた。
いいかげん、いつまでも店内で大騒ぎされていては迷惑であるし、彼としても赤いポーションなど初めて見たので、この謎の銅級冒険者が取りだした代物が何なのか興味があったのである。
そして、ブリタと共に足を運んだ先で、赤いポーションを見たこの街随一の薬師として知られるリイジー・バレアレと孫のンフィーレア・バレアレの反応は劇的なものであった。
伝説上のものと思われていた赤いポーションを前に興奮するリイジー。
身を乗り出し、出どころをあれこれ質問してくるンフィーレア。
まさかただのポーション程度でこんな事になるとはと困惑し、はたしてなんと答えようかと頭を悩ませるモモンことアインズ。
先刻の宿屋での扱いを始めとして、至高の存在であるアインズに対するこの地の人間の無礼なふるまいに爆発寸前なほどの怒りを抱え、殺気をあたりに撒き散らすナーベことナーベラル。
そして、何やら自分が放置されている事に、身の置き所がなく立ち尽くすブリタ。
しばしの狂乱ともいえる情景の後、とりあえず自分がはるか遠くから来た者であり、自分は薬師ではないため知っている事に限りはあるが、ともかく知っている限りの情報を渡すことでひとまず話は落ちついた。
リイジーやンフィーレアとしては、このポーションの情報を知るきっかけとなるモモンとの繋がりを焦って断ち切りたくはないし、アインズとしてもエ・ランテルの名士としてあちこちに顔が利くうえ、この世界の情報をふんだんに持っているであろう彼等とのパイプは維持しておきたかったのだ。
ブリタに関してはそれなりの金と、壊したのと同じポーションをリイジーが譲り渡すという事で話がつき、呆気にとられていた彼女はそれらを受け取ると、そのままふらふらと帰っていった。
そうして付き合いが始まった両者であるが、時と共に段々とそのつながりは深くなっていった。
アインズは上位物理無効化Ⅲがあるためにこの世界の者からダメージを受けることはないうえ、そもそもアンデッドであるためポーションを必要とはしない。
だが、このまったく未知の世界で足場を作るための情報源として、彼らは実に役に立つ存在だった。
そして、バレアレ家の両者にとっても、これまで知られていた薬学の常識とは全く異なる知識を持つ彼の存在は実に大きかった。彼から提供された知識は、アインズ自身が実際の薬草採取から精製までの具体的な事を知らなかったこともあり、断片的なものでしかなかったが、かえって彼らを奮い立たせた。
これまで聞いたこともない合成物の名前と効力から代替物を探り当て、様々な見たこともなく使用方法も分からない器具の実際の使用方法を試行錯誤する日々。それは知識の探求に身を捧げるものにとって、夢のような時間であった。
やがてアインズはモモンとして、エ・ランテルの冒険者としての確固たる地位を築いていった。
バレアレ家の二人は研究に勤しむ傍ら、ナザリックに欠けているこの世界の知識を提供していった。
当然ながら、親しく付き合ううちにあれこれと込み入った話も繰り返され、やがてモモンの正体はアンデッドであり、ナザリック地下大墳墓の主であることも伝えられた。しかし、彼らにとって相手が人間だろうがアンデッドであろうがそんなことは関係なかった。
もはや、そんな事などどうでもいいくらいに彼らの仲は深まっていたのだ。
そして、そんな世間話の間に、ンフィーレアの思い人が、かつて帝国騎士に偽装していた男たちに襲われていたところを助けた、あのエンリである事を知るに至ったのである。
――エンリとンフィーレアか。
上手くいって欲しいなあ。ンフィーレアの様子を見ていると、なんだか応援したくなってくるんだよな。初々しくて。若い奴の恋愛っていいよなあ。
……いや、ちょっと待て。俺もまだ若いはずだぞ。
おっさんと言われるほどじゃない……はず。
いや、恋愛とかに関しての経験値はないけどさ。
……まあ、実際にやった事はないんだけど、ペロロンチーノさんとかともそういう話はしてたし、そっち方面の知識もあるんだぞ。
なんだか虚しくなってきたので、アインズはそれ以上考えるのを止めた。
それよりは今後の事だ。
――ふうむ。
話は戻るが、西の蛇に東の巨人は気になるな。
こちらで調べさせるか。
いや、エンリがエ・ランテルまで依頼に来たということは、カルネ村でも動きがあるはず。下手にこちらだけで動くと、向こうの調査とバッティングする可能性もあるな。
じゃあ、ルプスレギナに……。
……いや、またそれで行き違いがあったら困るか。
うん、いっそ俺自身が一度カルネ村に行った方がいいな。
とにかく、森の中で異変が起きているらしいということを、エンリ達に直接、知らせた方がいいだろう。最近、エンリやネムにも会ってないしな。
アインズはそう考え、自らの判断に「うん、そうしよう」と頷き、立ち上がった。
そして皆の視線が集まる中、威厳のある声で告げた。
「私が直接、カルネ村に行ってみるとしよう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
規則正しい馬蹄の音が、風になびく草原に響き渡る。
やがて馬車はちょっとした小高い丘を越えた。
すると緑豊かな草原の向こうに、丹念に手入れされ、やや色づき始めた麦畑が風に揺らいでいるのが見える。
だが、そんな牧歌的な風景の中に明らかにそぐわない、周囲にとけこまない異様なものが存在していた。
それは、このような辺境の地には似つかわしくない、村を取り囲む、人の背丈の倍以上は優にある強固な塀。
馬車から身を乗り出し、それを認めたクレマンティーヌはにんまりと笑った。
「ふぅん。あれがカルネ村かぁ」