ㅤ包丁がまな板を叩く音が規則正しく台所に響く。朝方特有の寒さと薄暗さが辺りを包み、手元を照らすのは小さな明かりだけだ。
ㅤ切り終わった長ネギを端へ寄せ、隅に置いてあった油揚げに手を伸ばす。それを再び包丁で切っていく。再び一定のリズムを刻む音が始まる。
ㅤ俺の耳に届くのはその音だけ。普段ならば、隣で野菜を洗う音だったりが聞こえるのだが、今はない。
ㅤそれもそのはず、今朝はいつも一緒に料理をしている桜がいないのだ。別に、どこかに出掛けている訳ではなく、まだ時間が早いから起きていないだけだ。
ㅤだから今は一人で静かに朝食を作っているのだが、いつもとは違って心が弾んでいた。それにはちゃんと理由がある。そしてその理由は、俺がこうして一人で台所に立っている理由とも共通していた。
ㅤ今日は三月二日。
ㅤ──俺の一番大切な女の子、桜の誕生日だ。
「お、おはようございますっ、先輩」
ㅤ慌ただしい足音をたてながら、桜が居間へやってきた。
ㅤ焦った様子の朝の挨拶に、持っていたフライパンを置いて振り向きながら答える。
「ああ、おはよう。桜」
「ごめんなさい、先輩!ㅤ朝ごはん、先輩一人に作らせてしまって……」
「別に謝ることないぞ。俺が勝手に早起きしただけなんだからさ」
ㅤ今の時間は午前六時近く。桜が起きる時間としてはいつもと同じだ。寝坊したわけでもなし、桜が謝る道理はない。
ㅤそれでも真面目な桜はこういう時、自分に非があるように感じてしまうのだ。
「い、いえ、今からでもお手伝いします、先輩!」
ㅤそう言って、桜はそそくさと台所へと入ってくる。いつの間にかエプロンを着けていて、手伝う気満々といったところだ。
「いや、本当にいいんだって。もうほとんど作り終わって、後は皿に盛り付けるぐらいしかやることないし……」
「でしたら、それを私がやります。先輩に全部任せてしまったんですから、それくらいはやらせて下さい」
ㅤぐっと拳を握って、気合いの入った様子で桜は言った。そして俺の返答を待つことなく、俺の横を通り過ぎて準備を始めようとする。
「ま、待てって、桜。今日は朝メシ食うヤツは他にいないんだから、ゆっくりしてろって──」
「え?ㅤ他に食べる人がいないって……」
「あ……」
ㅤそんな桜を焦って止めようとしたせいで、つい口が滑った。
ㅤ案の定、桜は皿を取りだそうとしていた手を止めて、俺に向き直った。
ㅤ一瞬、誤魔化すべきか迷ったが、いずれわかることなのだからとやめた。
「ああ、えっと……うん。今朝はみんな来ないんだ」
「え……それは、どうしてですか?ㅤみんな何か用事があるとか……」
「いや、違う。俺が頼んだんだ。今朝は俺と桜の二人にしてくれって」
「え、えっと……せ、先輩、それってもしかして……」
ㅤ桜も薄々感付いたのだろう。僅かな期待の籠った眼差しを俺に向けて、その理由を確かめようとしている。
ㅤ俺はそれにすぐには答えず、桜に背を向けて台所の隅に置いてあった細長い箱を手に取った。そして桜の方へ向き直り、少しの緊張と共に小綺麗にラッピングされたその箱を差し出した。
「──桜。誕生日おめでとう。これ、ささやかだけど俺からのプレゼントだ」
ㅤ俺がそう言った後、桜は少しの間俺とプレゼントを交互に見ていた。その表情は、何が起こったのかわからずに戸惑っている様子だ。
ㅤだが、少しすると状況を飲み込めてきたようで、たどたどしい口調で確認するように言った。
「あ、あの……いいんですか……?ㅤ私なんかに、こんな……」
ㅤそう言う桜の顔は、嬉しさと不安が混ざった、複雑な色をしている。それを安心させようと、出来るだけ優しく答える。
「私なんか、なんて言うな。好きな女の子の誕生日を祝うなんて当たり前だ。だから桜、どうか受け取って欲しい」
「先輩……」
ㅤ桜は俺の言葉に、ほんの少しだけ躊躇うような表情を見せた。それは、俺からの祝福に応じていいのか否か迷っている様子だ。
ㅤしかし、ややあって桜は自分の中で何かを決めたようにそっと目を閉じた。それがどんな決断なのか少しの不安はあるが、俺は桜の口からそれが語られるのを待つ。
ㅤそして互いに無言の時間がほんの少し流れた後、桜はまぶたをゆっくりと開けた。
「──はい、ありがとうございます。とても……とっても嬉しいです、先輩!」
ㅤそうして、ぱっと櫻の花が咲くように屈託のない笑顔を見せながら、桜は素直な感謝の気持ちを伝えてくれた。
「自分からみんなに頼んでおいて言うのもアレだけど、二人だけっていうのもなんだか寂しいな」
「そうですね。いつもがちょっと賑やか過ぎるくらいですから、余計にそう思っちゃいます」
ㅤ隣に座って一緒に朝食を取っている桜は、少し困ったような顔で答えた。
ㅤその首には、先程俺がプレゼントしたネックレスがかけられている。派手なものではなく、銀色のチェーンに櫻の花びらがあしらわれているもの。
ㅤそんな見た目からもわかる通り、それほど高価なものではない。あんまり高いものだと桜は遠慮してしまうだろうし、何より金銭的な問題があった。
ㅤそれでも桜はとても喜んでくれた。「一生大事にします」なんてことを満面の笑みで言われて、こっちの方が照れてしまったくらいだ。
ㅤその後は、結局桜に押し切られて二人でテーブルに料理を並べて、そして今談笑しながら朝食を食べている。
「……でも、たまにはこういうのもいいですね」
「え?」
ㅤ桜は一度箸を持つ手を止めて、呟くように言った。その顔は正面を向いているから、俺にはよく読めない。
ㅤそのまま、きょとんとしている俺に、桜は俺の方を向かないまま続けた。
「だって、今朝だけはいつもと違って私だけが先輩とお話できるじゃないですか」
「ん……まあ、そうだな。いつもは藤ねえがバカみたいなこと言ったり、遠坂がからかってきたりするから、ずっと桜と二人で話すってことは無いよな」
ㅤ桜の言葉には特に深い意味も無いと思って、ぱく、と焼き鮭を口に放り込みながら答える。
ㅤだが、その認識は間違いだった。桜は突然こちらを向いて、少し怒ったような口調で言った。
「そうですよ!ㅤ藤村先生はいいとして、先輩はいつも姉さんと仲良さそうにしてるんですから!」
「さ、桜?」
ㅤずい、と身を乗り出してくる桜。それに驚いて固まっている俺には構わず、桜は畳み掛けるように続ける。
「姉さんが何か言うと先輩はすぐに言い返して、それをまた姉さんがからかって、ってことの繰り返しで私と先輩がお話する時間なんてほとんどないんですよ?」
「そ、それは、すまない……」
ㅤ桜がなぜこんなにまくし立ててくるのか、いまいち掴めないまま流されるように謝る。
ㅤすると、桜はさっきまでの勢いは鳴りを潜めてポツリと言った。
「……だから私、姉さんにちょっと嫉妬しちゃいます」
ㅤそうして桜はまた正面を向いてしまった。その表情は少し赤く染まっていた。
ㅤそこまで言われて、ようやく俺にも桜が怒っている理由がわかった。本当、自分でも少し呆れるくらいに鈍感だ。
「……悪い。俺たち、恋人同士なのに桜にそんな風に思わせるなんて、それはダメだよな。これからは、なるべくそうならないようにする」
「はい、そうしてもらえると嬉しいです……」
ㅤ桜は再びこちらを向いて、少し恥ずかしそうな口調でそう答えた。その反応を見て、怒ったりしても結局いつもの桜だと安心する。
ㅤだがその反面、桜も以前と変わったとも感じる。俺の家に来初めの頃はもちろん、それから少し経った頃もこんな風に素直な気持ちを言うことは多くなかった。
ㅤそれが今では、少しずつだけれどこうして正直に話してくれている。学校の方でも段々と社交的になってきていると、遠坂も話していた。
ㅤその変化が俺は素直に嬉しかった。だがその分少し怖くなったりもしたのだが、そんな部分も含めて全部桜だ。
ㅤそうして、何となくいい雰囲気になったところで、俺はいつ切り出すべきか迷っていた話題を出すことにした。
「それじゃあ、桜。今日は二人でデートしようかと思ってるんだけど、いいかな」
「デートですか?ㅤはい、いいですよ」
ㅤあれ。もう少しびっくりするかと思ったのだが、桜はさも普通のことのように返事をした。
ㅤ今まで俺たちはそういうことをしてないから、桜は驚くものだと予想していたのだが。
ㅤだが、僅かな無言の時間が流れた後、突然桜が声をあげた。
「ええっ!?ㅤで、で、でーとですか!?」
ㅤだが、そこまで驚くとは予想していなかった。テレビのニュースキャスターの声すらかき消すそれに、少したじろいてしまった。
「あ、ああ。さすがにプレゼントがそのネックレスだけっていうのもアレだし、二人でどこか行くのはどうかなって思ったんだけど……もしかして、イヤだったか?」
「そ、そんな、イヤなんてことありえません!」
ㅤ凄い勢いで首を振りながら、全力で否定する桜。そして、ふと目を反らしたかと思うと、ぼそりと付け加えた。
「……でも、その……心の準備が全然出来ていなかったというか……突然今日、で、デートに行くなんて言われたら、びっくりしちゃいます……」
「う……それは悪かった。でも前日に言ったらサプライズにならないかなって思ってさ」
ㅤ正直、そこは迷ったところだった。さすがにここまで驚かれるとは思っていなかったが、前もって伝えておいた方がいいというのは理解していたから。
ㅤでも桜を驚かせたいという気持ちもあったから、結局は秘密にしておいた。そのおかげで、うろたえている可愛い桜を見ることもできたから、この選択も悪くなかったんじゃなかろうか。
「確かにそれはそうですけど……」
ㅤ「うう……」と唸りながら桜は軽く頭を抱える。どうやら、桜にとってデートというものは俺の想像以上に緊張するものらしい。俺たちは既にキスや、それ以上のことを普通にしているのだからデートなんて今更という感じなんだけれど。
ㅤいや、でもデートをするって普通の恋人らしいことだ。そういう意味ならば、桜がここまで緊張するのもわかる気がする。
「……はい、わかりました。せっかくの先輩からのお誘いなんですから断る訳にはいきません。私、デート頑張ります!」
ㅤ俺がそんなことを考えていると、桜は意を決したように強気で言った。ちょっと無理しているようにも見えるけど、とりあえず桜が応じてくれたことに安堵した。
「うん、ありがとう。桜」
ㅤと、デートに行くことが決定したのはいいのだが、その後桜はずっと緊張しっぱなしだった。朝食を食べている間、俺が何か話しかけてもまともな返答が返ってこなかった。
ㅤそうしてぎこちない朝食の時間が終わると、桜は「支度をしてきますっ」と言い残して自室へ駆けていった。それを見送った後、俺の方も準備を始めた。
「お、お待たせしました、先輩」
「おかえり、桜。早かったな」
ㅤ桜が身支度を終えて再び居間にやってくるまでには、二十分もかからなかった。いつもの桜の私服に、洒落たショルダーバッグ。それと、あまり濃くはないが化粧もしている。
ㅤしかし早いのはいいのだが、言い出しっぺの俺がまだ準備を終えていない。片付けや昼食のための弁当を作ったりしていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。
「じゃ、俺も支度してくるよ。バスの時間もまだまだ余裕あるし、桜はゆっくりしててくれ」
「はい。えっと、バスってことは新都に行くんですか?」
「うん。あそこの大きなデパートなら色々見て回れるからいいかなってさ。それとも、桜は他に行きたいところはあるか?ㅤせっかくだから桜の好きなところに行くのが一番いいと思うんだけど……」
「い、いえ……今日は先輩にお任せします」
「ん、わかった。それじゃ、着替えてくる」
ㅤそう言ってエプロンを脱いでから居間を後にする。
ㅤやはり、行く場所を最初から決めておいて正解だった。最善は桜のしたいようにすることなのだけれど、彼女はそういったことに対する望みを持っていない。
『桜はさ。この戦いが終わったら、何かしたいことはあるか?』
『えっと……ちょっと思い付かないです』
ㅤそう言って困ったように笑う桜を思い出す。控えめなその性格のせいではなく、自分のしたいことを桜はそもそも知らないのだ。
ㅤだから、少しずつでいいからそういうことを桜に教えてやりたいと思った。そうしたら、いつか桜も自分のために笑えるだろうと。
「よし、それじゃあ行こうか」
「は、はいっ」
ㅤ桜と一緒に歩くのに相応しい格好に着替えて、居間で座っていた彼女に声をかける。桜はびっくりした様子で即座に立ち上がった。
ㅤそれに苦笑しつつも、その緊張はデート中にゆっくりと解いていけばいいと思いながら、桜と一緒に玄関へ向かった。
ㅤ……なんて、呑気なことを考えていたのだが、現実はそう甘くはなかった。
ㅤ家を出てバス停へ行き、そこから乗ったバスに揺られながら新都へ向かうまでの間、桜はガチガチに固まってしまっていた。
「桜、あのさ、そんなに緊張しなくたっていいんだぞ?」
ㅤバスを降りて、駅前の停留所からデパートへの人通りの多い道を歩きながら、そっと声をかける。
「は、はい……ごめんなさい、その、先輩との初めてのデートだからちゃんとしなきゃって思うと、どうしても身体が固まってしまって……」
ㅤ桜は自らの表情を隠すように、少し下を向いて言った。
「ん……そっか。でも桜。最初から完璧なデートなんてできないんだから、変に気を使わないでいつもの桜でいいと思うんだ」
「そう、ですか……?」
「うん。それに、そうしてくれた方が俺は嬉しいよ」
「……はい、わかりました。それでも緊張はしちゃいますけど、努力してみますね」
ㅤ少し考えるような仕草をした後、桜は控えめに微笑みながらそう答えた。
ㅤしかし桜にそう言ったのはいいものの、本当は俺だってかなり緊張しているのだ。桜をリードしなくちゃ格好つかないと、精一杯虚勢を張っているだけだ。
ㅤ正直、化粧のせいでいつもよりも大人っぽい桜の雰囲気や、緊張を隠す時の何気ない仕草なんかで、俺の方がどきどきしているんじゃないかとも思う。
ㅤそれを悟られないように、桜とぎこちなくも笑顔で会話をしながら、ゆっくりとデパートへ向かった。
「桜、何か見たいものあるか?」
ㅤ様々な店が並ぶフロアを歩きながら、隣の桜に聞く。
ㅤデパートに着く頃には、桜は段々といつもの様子に戻ってきていた。それでも時々デートをしていることを意識すると、口調がたどたどしくなってしまうのだが、それはまあ仕方ないだろう。
「ええっと……そうですね……」
ㅤ桜は辺りのたくさんの店を見渡しながら少し考えてから、その内の一つを指差した。
「じゃあ、あそこのお洋服店なんてどうでしょうか?」
「うん、いいんじゃないか?」
ㅤ桜が指差したのは、小洒落たブティックだった。その隣には、より高価な物を取り揃えていそうな店があったが、それを選ばなかったのは俺の財布への遠慮からだろうか。
ㅤそうして店員さんからの「いらっしゃいませ」に軽く会釈をしながら、二人でその店へ入ってみる。
「わあ……いろんなお洋服がありますね、先輩」
ㅤ店内には、万人向けで無難なものから、少し際どいものまで、様々な種類の服が揃えられていた。桜は目を輝かせながらそれらを眺めている。
ㅤそんな桜がとても可愛いらしくて、ついどきりとしてしまう。
「そ、そうだな。桜に似合いそうなのもたくさんあるし、色々見てみようか」
「はい、先輩!」
ㅤそうして嬉しそうに返事をする桜と一緒に、俺たちはゆっくりと店内を回り始めた。
ㅤしかし、洋風選びは思ったより難航した。ただ単純に服を眺めている時は良かったのだが、試着してみようとなった時に困ってしまった。
ㅤ桜はあんまり着飾る方ではないし、俺も女の子の服を選ぶセンスなんて持ち合わせていない。要するに、どれを選んでいいのかわからないのだ。
ㅤだが、そうして二人して困っていると、店員さんの一人が俺たちに声をかけてくれた。
「何かお探しですか?」
「ああ、はい。彼女に似合う服を探しているんですけど、どれが良いのかわからなくて……」
「でしたら、私の方でいくつか選んで差し上げましょうか?」
ㅤその提案は俺たちにとって、渡りに船といったものだった。桜に同意をとった後、俺はもちろんそれにうなずいた。
ㅤするとまずは試着室に案内されて、普段どういったものを着ているのかなどを聞かれた。そしてしばらくするといくつかの種類のものを見繕ってくれた。
「えっと、じゃあ着替えてきますね、先輩」
ㅤ桜はそれらを受け取って試着室のカーテンを閉めた。
ㅤそうして桜はその服をひとつひとつ試着していった。桜が普段着ているものと似た系統のものや、装飾の多いやや派手なもの、さらに露出度の高い攻めたもの。
ㅤ全て趣向の違うものだが、どれも桜に似合うものばかりだった。元々桜は綺麗だから何を着ても似合うのだろうとわかっていたけれど、やはり実際に着てもらうと桜の違った魅力が感じられて、俺も楽しかった。
「先輩、これはどうでしょうか……?」
ㅤそして最後に桜が着たのは、白いシンプルなワンピースだった。今までのものと比べると、地味な印象も受ける。
「あ……そ、それ凄く似合ってるぞ、桜」
ㅤでも、俺はそれがさっきまでのどの服よりも桜に似合っていると感じた。装飾が無い分、桜本来の魅力がより際立つからだろうか。
「あ、ありがとうございます、先輩。実は私もこれ、とてもいいなと思ってたんです」
「じゃあ、これ買おうか。すいません、これ頂けますか?」
「ちょ、ちょっと待ってください、先輩!ㅤ確かに素敵な服ですけど、その、結構お値段が……」
「ん?ㅤ財布のことなら心配ないぞ。俺、今日のために貯金してたからさ」
「そ、そうなんですか?」
「うん、だから買おう。桜だって欲しいだろ?」
ㅤそれでもなお渋る桜。節約志向な桜には少し贅沢だと感じてしまうのだろう。確かに決して安いとは言えない値段だが、誕生日だからそれくらいいいだろう。
ㅤだから俺は桜をやや強引に押しきって、そのまま購入した。
「先輩、良かったんでしょうか……私の服なのに先輩のお金を使わせてしまって……」
ㅤ会計を済ませて店から出た後、桜は申し訳なさそうにそう口にした。
「いいんだよ、桜。どうしてもって言うなら、これも誕生日プレゼントだと思ってくれればいい」
「で、でも、もうこのネックレスを頂きましたし……」
ㅤ桜は首元にかけられたそれを軽く触りながら言った。
ㅤそんな桜を納得させるため、少し恥ずかしいが俺の素直な気持ちを言うことにした。
「あー……その、俺がそれを買ったのはさ、桜が気に入ったからってのももちろんだけど、それを着た桜を俺が見たいからっていうのが一番っていうか……」
「せ、先輩……」
ㅤ桜も恥ずかしかったのか、表情を隠して顔を伏せてしまった。
ㅤそれでも、確かな親愛を込めて桜は言ってくれた。
「……でも、先輩がそう言ってくれるなら、私、ありがたく着させて頂きます」
「──うん、ありがとう」
ㅤそれから約一時間、俺たちはゆっくりと店内を見て回った。たまに照れくさくなるようなやり取りもして、付き合いたてみたいだなとも思ったりしながら。
ㅤそれでも桜はかなりいつも通りの調子に戻っていた。というより、いつもよりちょっと元気なくらいだった。自分の好きなものを見つけた時なんかは特に。俺の方も、そんな桜を見ているのが楽しかった。
ㅤそうして昼の時間が近くなり、公園にでも行こうという話になった。そこで桜が提案したのは、冬木大橋の下の公園だった。
「ごめんなさい、ちょっと戻ることになってしまって……」
「いや、いいんだ。ここなら眺めもいいし、弁当食べるのにはもってこいだ」
ㅤ老若男女、色々な人で賑わう公園内を歩きながら言葉を交わす。
ㅤそうして、川がよく見える場所のベンチを見つけて、二人で腰掛けた。二人の間に適度なスペースを空けて、そこへバッグから取り出した弁当箱を置く。
ㅤここまでは歩いて来たからお互いに腹ペコだ。そそくさと風呂敷をほどいて、弁当箱のふたを開けた。
「あ……おにぎり、ですか?」
「ああ、うん。その、何となくこれがいいかな、って思ってさ。桜は他のが良かったか?」
「い、いえ、そんなことないです。先輩が作ったものはどれもおいしくて大好きですから」
「そ、そうか。それはありがたい。……じゃあ、腹も減ったし食べようか」
ㅤちょっと照れくさくなってしまって、俺は少し強引に話題を変えた。
「はい、いただきます、先輩」
「うん、いただきます」
ㅤお互いに手を合わせて挨拶をする。そして、いくつかある内の一つを手に取ってかぶり付いた。
「やっぱりおいしいです。先輩のおにぎり」
ㅤ一口目を飲み込んだ桜は、二口目を口に含む前にそう呟いた。それは俺に向けての言葉ではなく、自然と口からこぼれたように聞こえた。
ㅤだから俺はそれには答えずに、そのまま食べ続けた。桜も結構空腹だったようで、俺たちの間にしばらく会話はなく、黙々と食べ続けていた。
ㅤしかし、おにぎりの残りが少なくなった頃、桜がふと口にした。
「先輩。これは単純な興味から聞くんですけど……」
ㅤ桜は食べかけのおにぎりを見つめたまま、一呼吸置いてから続けた。
「今日はどうしておにぎりにしようと思ったんですか?」
ㅤ目はこちらを見ていないが、その声は真剣だった。だから、俺は誤魔化したりせずに答えることにした。
「そうだな──桜は覚えてるかな。桜が俺の家に来て間もない頃にさ、初めて桜に教えたのがおにぎりだったから……何となくそれを思い出して、今日はこうしたんだ」
ㅤ昔を懐かしむように目を閉じて桜に答える。もう随分前のことだけれど、俺はよく覚えていた。
「──やっぱり、そうだったんですね」
ㅤふと桜にそう言われて、俺は目を開けてその顔を見た。
ㅤ桜の表情は、嬉しげに優しい笑みを浮かべている。
「やっぱり……って、桜、覚えてるのか?」
「はい、もちろん。忘れるはずありません」
ㅤ桜はとん、と背もたれに身体を預け、空を見上げながら優しい口調で続ける。
「最初はちょっとバカにしてる、って思いました」
ㅤそれを言われてちょっと罪悪感を抱いた。あの時も、もしかしたらそう思われてると心配していたから。
ㅤでも桜はそれすら楽しい思い出のように、目を閉じて言葉を続ける。
「でも、私が作ったおにぎりを先輩に食べてもらって、私、また先輩に自分の作ったものを食べて欲しいって、思えるようになったんです」
ㅤそうして俺の方へ向いて、ぱっ、と笑顔を咲かせて言った。
「──だから、先輩。それを覚えてくれていて、本当にありがとうございます」
ㅤそれが本当に幸せそうだったから、俺は少しの間何も言えなくなってしまった。
ㅤでも、俺の方も言わなきゃいけないこともあることを思い出した。
「いや、感謝するのは俺もだ。あれは俺にとっても大切な思い出だからさ。それを桜も覚えていたのが凄く嬉しい」
ㅤそうやってお互いの気持ちを告げた後、俺たちは何だか笑ってしまった。嬉しさと、よくわからない可笑しさ。
ㅤそうして一通り笑い合った後、俺たちは何気ない会話を交わしながらゆっくりと残りのおにぎりを味わった。
「おかえりなさい、士郎、サクラ。早かったですね」
ㅤ夕方近く、予定よりも少し早く家に帰って来た俺たちを出迎えてくれたのはライダーだった。
ㅤあの後、二人で映画館へ行ったりして、普通の恋人らしいデートをして俺たちは帰ってきた。本当はもう少し遅くなるはずだったのだが、一つ予定を変更したために帰る時刻が早まったのだ。
「ん、ただいま」
「ただいま。出迎えありがとう、ライダー」
「いえ。主を出迎えるのは当然の役目ですので」
ㅤ礼儀正しくライダーは答える。
ㅤしかし、魔眼殺しの向こうの瞳はいつもより優しげに見えた。
「ライダー、遠坂はもう来てるのか?」
「ええ、今は料理を作っている最中です」
ㅤ靴を脱いで床に上がりながら言葉を交わす。
ㅤライダーに言われて少し感覚を研ぎ澄ますと、いい匂いとあわただしく調理をする音が聞こえてきた。
「え?ㅤ姉さん来てるの?」
「もちろん。妹の誕生日ですから、はりきって台所に立っていますよ」
ㅤ桜はそれに驚きつつも、どこか嬉しげだった。
ㅤそうして居間へ向かおうとする直前、不意にライダーが言った。
「サクラ」
「ん、なに?ㅤライダー」
ㅤ振り向いた桜に、ライダーは優しく表情を綻ばせて告げた。
「──サクラ。誕生日おめでとうございます」
ㅤそして、いつの間に持っていたのか、装飾の施された小さめの箱を桜に差し出した。
ㅤ桜は俺の時のように戸惑った様子だったが、今度はそれを素直に受け取った。そしてライダーへ真っ正面に向き直って、嬉しそうに微笑んだ。
「──ありがとう、ライダー。私、とっても嬉しいよ」
「えっ?ㅤちょっと、あなた達もう帰ってきたの?」
ㅤ俺たちが居間へやってくると、包丁を持つ手を止めて遠坂は驚いた様子でそう言った。
「ああ、悪い。ちょっと予定が変わってさ」
「なに、どうしたの……って、あ、いいわ。大体わかったから」
ㅤ遠坂は俺が両手に下げていた買い物袋を見て、やれやれといった顔で言った。
ㅤ当初の予定では、映画館の後に商店街の喫茶店でゆっくりしようと思っていたのだが、桜がその隣でセール中の店に興味を持ったのだ。そこで予定を変えて、二人で買い物をしながら帰ってきた。
「姉さん、私もお手伝いしますね」
「え?ㅤそんな、いいわよ。今日はあなたの誕生日なんだから座ってなさい」
ㅤ桜はいつの間にか台所へいた。その身には既にエプロンを身に付けている。
ㅤそれに何だか既視感を覚えつつ、俺も桜に続いて台所へ向かう。
「別にいいんじゃないか?ㅤ桜は好きでやろうとしてるんだから」
ㅤかけてあった自分のエプロンを着ながら遠坂に言う。
「はい、お願いします、姉さん。私、姉さんと一緒にお料理するの、大好きなんですから」
「そ、そう……?ㅤなら、お、お願いしようかしら……」
ㅤ素直な桜の言葉に、遠坂は結構簡単に折れた。それに苦笑しながら、俺も台所に入った。
「ちょっと、何笑ってんのよ士郎」
「いや、別に何でもない。それよりもほら、桜と一緒に料理するんだろ?」
「そうですよ、姉さん。何か手伝えること、教えて下さい」
「う……そ、そうね。それじゃあ──」
ㅤそうして、俺と桜と遠坂の三人で料理を始めた。元々遠坂が作る予定だった分とは別に、俺たちも色々買ってきたせいで、かなりの量だった。
ㅤでも、俺はそこまで多くの作業には関わらなかった。というのも、遠坂と桜の二人が本当に楽しそうだったからだ。だから、俺は空いた鍋や野菜を洗う程度の役割に留めておいた。
ㅤそして料理も出来上がる頃に藤ねえがケーキと共にやってきて、いつもの賑やかな衛宮邸の様子になった。
ㅤそうやってみんなが揃ったところで、一人一人が桜に祝いの言葉を告げた。ライダーは静かに、藤ねえはやかましく、遠坂は若干の照れと一緒に、もちろん俺だって、みんなで桜の誕生日を祝った。
ㅤ桜はそれを受けて、こらえきれずに泣いてしまった。でも、もちろんそれは嬉しさからくる涙だ。それでも、精一杯は微笑んで、
「──ありがとうございます。私、本当に──本当に嬉しいです──!」
ㅤそう俺たちに告げてくれた。
ㅤ賑やか過ぎる程の騒ぎも終わり、みんなも帰った頃。風呂から上がった俺は、今日のことを思い出しながら就寝の準備をしていた。
「先輩、入ってもいいですか?」
ㅤ不意に桜の声が聞こえて顔をあげると、障子の向こうにその姿があった。
「ん?ㅤいいぞ。入ってくれ」
「はい、失礼します」
ㅤそう言ってゆっくりと障子を開けて桜は入ってきた。
「桜──」
ㅤそして桜は、昼間買った白いワンピースを着ていた。桜は少し照れた様子だが、やはりよく似合っている。
「それ、着てくれたんだな。──うん、やっぱり凄く綺麗だ」
「ありがとうございます、先輩。先輩にこれを頂いて、本当に良かったです」
ㅤ頬は赤いままだが、優しく微笑んで桜はそう言った。
「先輩、その……今日は本当にありがとうございました」
ㅤそしてそのまま桜はそう言って礼儀正しくぺこりとお辞儀をした。
「そ、そんな、別にそこまで礼を言われる程のことじゃない」
「いいえ、そんなことありません」
ㅤ桜は顔を上げてそう言うと、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。そして布団の上に正座して俺と向かいあう。
「今日はたくさんのものをもらいましたから。ライダーから、藤村先生から、姉さんから、そして──先輩から」
ㅤ桜は目を閉じて、さらに続ける。
「私が絶対にもらえなかったと思っていたものを、本当にたくさん頂きました。だから先輩──」
ㅤそこで桜は一呼吸置いて、そっと目を開けた。そしてちらりと俺の方を見て言った。
「私──先輩のこと、愛してます」
「さく──」
ㅤそのまま桜は俺に口付けた。頬に両手を添えて、優しく唇が重ね合わされる。
ㅤそして、その甘い接触がほんの少し続いた後、桜はそっと唇を離した。
「先輩……私、誕生日のプレゼント、もう一つだけ欲しいものがあるんです」
ㅤまだ互いの息がかかるぐらいの距離のまま、桜は言う。
「ああ……それは?」
「もちろん──先輩です。今ここで、先輩が欲しいです」
ㅤそうしてもう一度唇を重ね合わせる。今度は俺の方からも桜を求めた。
ㅤそしてそのキスはさっきと違って長く、深いものだった。そのまま俺は桜に押し倒されて、さらに激しく唇を求め合った。
「は……ああっ、せん、ぱい……んっ、ふぁ……あ、すき、大好き、です……っ」
ㅤ薄暗い部屋の中、月明かりに照らされた桜が俺の上で乱れている。でも、その姿は淫靡さよりも美しさの方が圧倒的に勝っていた。
ㅤいつもよりも多く「好き」や「愛してます」と甘い言葉をこぼしながら、その全てを俺の前でさらしている。それに応えるため、俺も馬鹿みたいに何度も愛の言葉を桜へ告げる。
「ああ……っ、さくらっ、すきだ……誰より、桜のこと……っ」
ㅤ互いの腰がぱちゅ、ぱちゅ、といやらしく音をたてて、性交は段々と終わりに向かっていく。もう俺も桜も何度も絶頂して、身体も心も限界まで愛欲で染まりきっていた。
「ひあっ……せんぱい……っ、わたし、あんっ、ふあぁっ……わたし、もうっ……」
「いい、ぞ……っ、さくら、また、いっしょに……っ」
ㅤ桜の身体を抱き寄せて互いに抱き合いながら、激しく腰を打ち付け合う。とっくに限界を越えて身体を染めていた快楽は、精神まで侵すほどに高まっていく。
「あっ……せんぱい、せんぱいっ……!ㅤいく、わたし、あ、あっ、ふああぁぁぁっ!」
ㅤそしてそれがお互いに弾けて、これまでで一番激しく俺たちは絶頂した。きゅうう、と俺を求めるように膣に締め付けられ、それに抗うことなく精液を解き放った。
「さくら……この、まま、全部、だすから、な……」
「はい……一滴のこらず、そそいでください、ね……」
ㅤ身体の方はもう限界で、朦朧とした意識で舌足らずな言葉を交わす。その間も、どく、どく、とこぼれる精液で桜の中が白く染まっていく。
ㅤそのまま俺たちは、甘い吐息を漏らしながら絶頂の余韻に溶け合っていく。それが、互いの気持ちが伝わってくるようで嬉しかった。
ㅤだから、二人でそのまま目を閉じた。この、幸せな状態のまま眠りたい。そう、言葉にせずともわかっていたから。
「せんぱい……あいしてます……」
「ああ……おれも、あいしてる、さくら……」
ㅤそして、「おやすみ」の代わりに愛を伝え合う。それでこれ以上ないほどに満たされて、二人で共に静かに眠りに落ちていった。