※この作品はR-18です。

新勇者バーバラの冒険   作:ランスロス・マッキ

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 大概の悪夢はどこかで途切れるものだ。
 しかし、魂に刻まれた悪夢は覚めることがない。
 バーバラの悪夢は続く。


夢④ 悪夢

 沈痛な表情で、バーバラは帰路についていた。

 傷めた腕を庇い、山道を登る足取りは重い。時折後ろを振り返り、未練がましく湖畔やダストの死体があるところを見下ろす。

 結局、駄目だった。

 崖から飛び降りて、殺したくない魔物を殺したのに、死なせたくない冒険者も死ぬ。

 どうすれば良かったんだろう。そんな後悔ばかりが頭の中を埋め尽くし、普段の明るさは欠片もない。

 

「人影があるぞ! あそこが水源か!?」

「は、はい……あの子はバーバラです! こっちで……間違いありません!」

 

 そんな途上、声がした。

 バーバラが声のある方に顔を上げると、追ってきていると信じていた冒険者達がいた。後ろには案内役として来た顔馴染みの村人もいて、こちらへと向かっている。

 山道を駆け降りた冒険者達は、バーバラの姿を認めると目を見開いた。体の至るところが黒と血に染まり、一目でただならぬ思いをしてきたと確信するものであった為だ。

 

「だ、大丈夫か。何があった!?」

「わたしは……大丈夫。でもダストさんが、魔物に……」

 

 バーバラは俯いて言い淀み、それ以上の言葉を続けられなかった。

 冒険者のリーダーであるガードは、バーバラの状態を見定める。

 黒色はイカスミ特有の匂いと質感だ。最低でもイカマンと戦ったのは間違いない。湖に目を向ければダスト特有の腐乱死体と紅に染まった光景がちらほらと確認出来る。

 

「……あいつが、イカマンと戦って負けたと?」

「ありえないわね。実力だけならこの中の誰よりも下だけど、それでも負けるとは思えない」

「死体はイカマンばかりだが、強い魔物が隠れていたというのは有り得るな」

 

 ガードの推測に対し、ソーサラー、ガンナーが各々の考えを返す。バーバラが憔悴した状態ではこれ以上の事は聞きづらかった。

 結局、ダストが悪癖を発動させた事とバーバラを保護出来たぐらい。今の時点では何もわからなかった。

 

「あいつが簡単に死ぬとも思えない。生き汚いし、子供だけ逃がした可能性も考えられる。ダストを探そう」

「バーバラちゃんはどうするの?」

「村の人に……って」

 

 ガードが振り返ると、村人は息を絶え絶えにして岩にもたれかかっていた。

 

「ぜーっ……ぜーっ……ぜーっ……み、皆さん、早すぎですよ……」

 

 バーバラが先行をしたと聞いて泡を食ったように急いだ結果、体力の限界が来ている。このままバーバラを任せても、無事に帰れるのか疑わしい顔色だ。

 

「置いていくの?」

 

 ソーサラーの問いかけに対し、ガードは天を仰いだ。

 

「…………全員行動で行こう。ゆっくりと」

 

 幾何かの休憩と説明を経て、ガードは隊形を切り替える。悄然としたバーバラは村人に預けて、彼等を守りつつ魔物退治をするという方針だった。

 

「ダストがやらかしたという事は残りは少ないんだろう。ただし、強い可能性があるから油断しないで行こう」

「「了解」」

 

 それらの話を、バーバラはどこか他人事のように聞いていた。

 この先にはダストの死体があるだけで、魔物も全員死んでいる。知っていても、言葉に乗せるのは全てを確定させてしまうようで言い辛く、彼等の為すがままに任せていた。

 今まで来た山道を戻る傍ら、村人の真摯な言葉が続く。

 

「バーバラ、こういう事はもうしないでくれ。皆心配したんだ」

「うん……ごめんなさい、アレスさん」

「あ、いや、冒険者になるなって言ってるんじゃないぞ。今は一人じゃなく、僕とか誰か大人の付き添いが必要なんだ。君を失ったら、君のお母さんに申し訳が立たない」

「……うん」

「……きっと辛い思いをしたんだと思う。でも何があったかは聞かないよ」

「…………」

 

 バーバラは無言で歩を進める。

 近づく度に、湖への、ダストの死が近づく度に、あれをもう一度見なければならないかと陰鬱な気分になる。頭の中は悔恨に埋め尽くされていた。

 だ(・)か(・)ら(・)、(・)道(・)の(・)途(・)中(・)に(・)あ(・)る(・)、(・)登(・)る(・)時(・)に(・)は(・)無(・)か(・)っ(・)た(・)横(・)穴(・)を(・)見(・)逃(・)し(・)た(・)。

 

「妙に静かだな……なにか、変だ」

 

 後ろのガンナーの声がやけに遠くまで響く。

 その言葉を聞いてバーバラは違和感に気づいた。空気がいやに粘ついている。先程までとは全く違う。足を進めるごとに、嫌な予感が強くなっていく。

 そして、次に聞こえたのは泣き声だった。

 

「痛ぇ痛ぇ痛ぇ……痛ぇよぉ…………! ああああああ……!」

 

 苦悶、悲鳴、そして時折の振動。

 なにか、巨大な生き物が蠢く音。

 それが切り立った崖の下から、響いている。

 

「……この下だな」

 

 リーダーが呟いたところは、バーバラが魔物兵を倒す為に落ちた場所だった。つまり、ダストの死体があるところに、悲鳴の主がいる。

 冒険者達はちらりと下を一瞥し、件の魔物が地面にのたうち回っているのを発見した。

 

「なんで、なんで俺がこんな目に合わなくちゃいけねえんだ! あああっ、痛え痛え痛え! だれかこの痛みを止めてくれえ! 静かにしてくれええええ!」

 

 魔物兵よりも遥かに巨大な猿が、暴れていた。

 その魔物は自分の頭を殴り、体を打ちつけてのたうち回り、苦悶の声を上げる。全身血に塗れ、だらだらと涎を垂らし、その赤い目は正気を保っているとは到底思えない。

 

「パワーゴリラ……かなり大きいから特別変異種か?」

「苦しんでいるのはダストがやらかしたのかしら」

「ここから先手必勝で仕掛けるぞ。生きてても鴨打ちに出来そうだ」

 

 上を取り相手は苦しんでいる。詠唱する時間と最大火力を出す状況を与えられて、相手はこちらに気づいていない。

 魔物退治の任務を請けた冒険者達は、各々が先手を取らんと準備を進めた。

 

「あ、ああ……」

 

 その後方、違う角度から猿の魔物を認めるなりバーバラは後ずさり、村人の手を引っ張った。

 予想外の力に引きずられて、村人は当惑の中で顔面蒼白なバーバラに問いかける。

 

「ど、どうしたんだバーバラ。あまり冒険者様から離れ過ぎると危ないぞ」

「だ、だめ……」

 

 人生で初めて入った本能(スイッチ)が、警鐘が、ひっきりなしに鳴り続ける。

 あれは、駄目だ。

 物凄く不吉なものだ。

 バーバラが全力で離れようとしている間にも、準備は整いつつある。詠唱を終えたソーサラーの周囲には魔法陣が展開されていた。

 

「それじゃ仕掛けるわよ。3、2、1……ゼロ!」

「喰らえ!」

 

 ソーサラーの合図と共に、最大火力の魔法と遠距離攻撃が発射された。

 無防備な魔物に必殺の一撃が突き刺さり、轟音と共に爆発が下を覆いつくす。

 

「動く影があったらもう一発だ。詠唱準備しとけよ」

「わかってる」

 

 落ち着いた様子でガンナーは次の弓を番え、ソーサラーは魔力を練る。二人の傍にいるガードも油断なく周囲を伺い、いつ何が来ても守れるように盾を構えている。

 まさしく人類精鋭。冒険者はかくあれと言うべき姿。だが――――

 

「……げへ」

 

 爆炎渦巻く崖下から、笑い声が響く。

 

「げへへへへ……! いる、いるぞぉ……! 上かああああああ!?」

 

 直後、猿の魔物は跳躍して崖に手足をめり込ませた。巨大な爪と指でもって岩を割り砕き、断崖絶壁を強引に登る。

 

「ここから登って来るつもり? 馬鹿ね、もう一発喰らえ!」

「いい的だな!」

 

 再度の爆撃と矢が、魔物を襲い、再度の爆炎が上がる。

 だが、猿の魔物は魔法を一切気にせずに崖を登る。力任せの一撃が岩に潜り込み、瞬く間に駆け登っていく。

 

「魔法防御が高いのか…………っな!?」

 

 ガンナーが二の矢を放ったところで、異常があった。

 その矢は猿の魔物の目を正確に射貫くはずだった。ところがその少し手前で、何かにぶつかったかのようにひしゃげて、逸れた。

 

「あり得ん! そんな、まさか……!」

 

 ガードは驚愕に目を見開いた。

 こんな弾かれ方をしたのは見た事がない。だが話には聞いていた。

 このパーティーは元々魔王に抗する為に集められた者達である。だから事前に一つの警告があった。

 魔王、魔人とはまず戦うな。あらゆる攻撃を弾く無敵結界があるから、勝ち目がないと。

 

「……っ下がれ下がれ! もう来るぞ!」

 

 もう魔物はすぐそこまで登っている。後衛を腕で制して下がらせて、ガードは盾を構えた。

 

「げへへへへ……げへへへへへへへ! に、人間だあああああ! おかわりだあああ!」

 

 慌てて距離を取った崖から、魔物――否、魔人が姿を見せた。

 血走った赤い眼に、人一人を易々と丸飲みにしそうな口に尖った乱食歯。見る者を威圧する巨躯が冒険者達をねめつけ、嬉しそうに、実に嬉しそうに口唇を広げる。

 

「おーおー、ひー、ふー、みー、よー、ごー……まだまだ少ねえよお! こんなんじゃすぐに終わっちまうじゃねえかあああ! でも来てくれてありがとなあ! げひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 

 程なくしてランスの新魔人と判明し、人類を幾度も苦しめる災厄――魔人DDが、冒険者達の前に現れた。

 魔人DDは、魔王ランスが戯れに生み出した存在である。

 魔人となって以降、DDには常に拷問のような痛みがついて周り苦しむ事となった。ただ、人間を食っている時と、暴れている時だけはその痛みが解放される。その結果、DDは苦痛から解放される為にのべつまくなしに暴れ続ける事になった。

 今ある状況は、これから人類が幾度となく味わうありふれた一日に過ぎない。

 DDの瞳に囚われたバーバラは首を振り、少しでも離れようと懸命に村人を引っ張る。

 

「ば、バーバラ。大丈夫だ、冒険者様がきっと……」

「むり……むりむりむり!!! あれはだめ!」

 

 警鐘がやかましく、全力で鳴り響く。

 今まで会ったものとは格が違う。ただ『死』があった。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。勝ちの目どころか痛痒(ダメージ)を与えられる気が全くしない。

 その視線だけで、命の蝋燭が瞬く間に削れるのが実感出来る。

 

「逃げよう! 逃げ、逃げて!」

「そ、そうだな。ここで僕達がいても足手纏いだろうからな……あっ!?」

 

 バーバラのただならぬ様子に気圧されて、逃げようとした村人の足が震え、岩に足を突っかけて転ぶ。

 

「ぐ、ぐぅっ……!」

 

 打ちどころが悪かったらしく、村人はそれだけで膝を抱えて蹲る。

 

「お、起きて、速く……!」

 

 もう時間は無い。戦闘はもう始まっている。

 

「ぎゃはははははは! いいぞ! いいぞ! 俺を暴れさせろおおおおおお!!!」

 

 余波だけで岩が砕ける火力の暴風が、ガードを襲っていた。

 

「ぐっ……う、うおおおおおっ! こ、これは……!」

 

 ガードは天才的な盾捌きでもって逸らし、躱し、懸命に耐えている。それでも爪が掠るだけで鎧が砕け、まともに受けなくても脚から退がり、時折接する地面にヒビが入る。

 後衛の二人も懸命に援護しているが、魔人は全く気にしない。

 果たして冒険者達はあと何分時間を稼げるのか、という問題でしかなかった。

 バーバラが視線を落とせば、息を荒くした村人が――まだ立ち上がれていない。手足が震えて、腰が砕けている。

 

「――――ッ」

 

 本能が伝えている。

 今すぐ逃げろ。さもなければ死ぬ。

 理性が、少女の心が悲鳴を上げている。

 目の前の人を見捨てるのか。またあんな事を味わうのか。

 

「お、俺の事はいい! どちらでもいいから逃げろ!」

「そんな事出来るわけないでしょ! バリア!」

「逃げる時は全員でだ! 何とか隙を作って……!」

「ぎゃはははははははははは!! 弱っちい癖に凌ぐなオイ! 痛くねえ! 痛くねえぞ! そうだもっと頑張れ! ぎゃははははははははは!」

 

 戦場の悲鳴と、魔物の笑い声が聞こえる。

 足下には、顔馴染みの村人がいる。

 一瞬、バーバラは足を止めて手を伸ばそうとして、

 

『汚かろうが生き残れ。死んだ奴が負けだ』

 

 本能が、誰かの声を蘇らせた。

 

「――――ッごめんなさい! 逃げて! 逃げてええええ!!」

 

 涙を流しながら、バーバラは全力で逃げだした。

 

「ぎゃはははははははははははははははは!!! ぎゃはははははははははは!!」

 

 魔物の笑い声を背に受けながら。

 少しでも遠くへ行こう、少しでも遠くに行こうとバーバラは駆けた。

 後の事はもう分からない。

 

 

 

 

強圧

 

 

 

 

 バーバラはがむしゃらに逃げ続けた。

 肺をはち切れんばかりに酷使して息は荒く、それでも限界を超えて全力で走り。

 腕の痛みも、時折無茶な行動で脚や頭に岩との切り傷が出来るのも無視して脚を動かし。

 どこまでも遠く、半ば転びながら崖を駆け抜け、山を駆け降り。

 森の中の枯れ枝を無理やり突き抜け、血と汗を張り付かせながら走った。

 あの化け物が追っている気がする。嫌な予感が全く消えない。次の瞬間にはあの剛腕に捕らえられる幻想が見える。その恐怖を振り払うように痛みを無視して逃げる。

 生き残りたくて。死にたくなくて。狂気を孕んだ魔物の視線。見捨てた冒険者、知り合いはどうなっただろう。そんな思考をする余裕すらかなぐり捨てて、前へ、前へ、前へ――

 

 気づいた頃には、バーバラは村のすぐ傍まで戻って来ていた。

 駆け抜け、駆け抜け、駆け抜けて――村の入り口に、不安そうな村長が見えた。

 

「バーバラ、無事じゃったか!」

 

 せわしなく右往左往していた村長はバーバラを認めると、ほっとして腕を広げた。

 

「…………っマスドじいちゃん!」

 

 バーバラは村長の胸に飛び込んだ。村長は頭を撫で、服に血が付着するのも構わずに身体の傷を確かめる。

 

「おお、おお、可愛い顔が台無しになって……膝も、腕も……でも、よくぞ生きて帰って来た。儂はもうそれだけでいいんじゃ……」

 

 村長は深く息を吐き、膝をついてバーバラを愛娘であるかのように優しく抱きしめた。

 

「ごめんなさい……うっ……うえぇっっ……うえ゛ーっ……」

 

 優しい態度に絆されて、バーバラの緊張の糸が切れていく。

 助かったという安堵と日常が目の前にあり、年頃相応の涙を流す。

 

「おうおうおう、怖かったのう、辛かったのう……でももう安心じゃ。冒険者様がきっとやってくれるじゃろう」

 

 村長はぐずるバーバラを受け入れ、あやすように背中をさする。

 村長としては村人に対して公平であるべきなのだが、バーバラに対しては時が経つほどに駄目になってしまった。なんとかしてこの子供を笑顔にしようと思案してしまう。

 

「まずは治療と風呂じゃな。儂の家には世色癌や飯があるし、食べれば元気も出るじゃろう」

 

 村長は柔和な笑みを浮かべて立ち上がり、バーバラの手を引いた。

 

「うん……ぐっす……」

 

 手を引かれながらバーバラは恐る恐る、後ろを振り返る。

 静かな枯れた森林が広がるばかりで、いつも通りだ。異常は何もない。道を歩けば勝手知ったる石造りの家屋が並び立ち、煙突から白煙が昇る。

 行き交う人々も平和そのものだ。おかしいのだけはバーバラだけだ。村人はバーバラの姿を見るとぎょっとして、次々と心配して声をかけてくる。

 

「バーバラ、大丈夫? やんちゃだからって危ないことはしちゃ駄目よ」

「お、帰って来たか! 後で売り物にならない農作物があるから、受け取りに来てくれ」

「なんか臭いぞー! 洗ってから遊ぼうなー!」

 

 バーバラは作り笑いを浮かべて「大丈夫」と相槌を打ち、彼等の顔を眺める。

 村民はみなバーバラに優しく、答えを聞くと穏やかな笑みで笑いかけてくる。

 バーバラを取り巻く周りの人に、彼女を嫌う人間は一人もおらず、困難となるのは貧乏だけだ。

 今日もいつもと変わらず、幸せな日常がある。

 

(そうだよね。大丈夫、なはず……)

 

 何一つ変わらない光景を小さな安堵に変えて、大きな不安を覆い隠す。息がいつまでも荒いのは、走り続けたからだと思い込む。

 手を引かれてる内に、寒村の中では少し大きい村長の家へと辿り着いた。

 

「ささ、食卓にお前の好きなヘルマンパンが一つあるから、齧って待っておれ。儂は世色癌を取ってくる」

「うん……」

 

 そう言われて村長の家の扉を開こうとした、時だった。

 軽い振動を、感じた。

 

「―――――」

 

 ほとんど確信をもってバーバラは後ろを振り返った。本能は絶えず身の危険を伝え続けている。やはり逃げられなかったのだ。

 振動が幾度も続き、森の木を割り割いて、巨大な生き物が姿を見せた。

 

「…………ぎゃはは」

 

 魔人DDが、村まで追って来ていた。村の入り口に、迫って来る。

 

「ま、魔物だああああああああ!! 魔物が、出たぞおおおお! あああああああああ!!」

 

 いち早く近くにいた村人が大声を上げ、逃げる暇も与えられずにDDに捕まった。

 

「ぐへへへへ……!」

 

 ごきゅりと、水と肉が弾けて砕ける音が響き――男の上半身が、丸飲みにされた。

 残った下半身からシャワーのように血が噴き出し、DDの顔を染め上げる。その血すら逃さぬように大きく口を開けて、血を浴びる。

 DDは陶酔するように目を細めると、

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 人間どころか、地面すら振動するような咆哮が轟いた。

 多くの村人はそれによって恐慌に陥り、多くが腰を抜かし、中には失禁する者まで出る。

 そんな中でDDが見ていたのは、バーバラだった。

 

「げへ、げへ、げへへへへへへへへ……!!」

 

 DDは四つ足を駆使して前に進み、瞬く間に距離が詰まる。

 家よりも大きい魔物が石を、家屋を削り飛ばしてバーバラに迫る。

 

(ああ、だめだったんだ……)

 

 バーバラは却って冷静になり、諦めと共にDDを眺めていた。

 速さも力も比べ物にならない。そんな魔物が自分に向かってきて逃げられる目など存在しない。死は避けようがないと本能も匙を投げた。

 せめてその時が穏やかでありますようにと心の内で祈り、膝が崩れる。

 呆然と死を受け入れたバーバラにDDが迫り――通り過ぎた。

 

「…………え」

 

 轟音が、後ろで起こった。

 体当たりの一撃で村長の家は粉砕され、DDはその中へと手を突っ込む。

 

「う、うわあああああああああああ!?」

 

 はたして、中にいる人間が取り出され、

 

「いっただくぜー! ぎゃは、ぎゃはははは!」

 

 また、一口で乱雑に噛み千切られて血が吹き出る。

 

「…………なん、で」

 

 この時、バーバラは手を出されなかった。DDはバーバラを見ていたのに、無視して家屋を壊しに行った。死を覚悟していたのに、外された。

 DDはバーバラの前に立つと、嬉しそうに血塗れの歯を見せて鼻頭を近づける。

 

「スンスン……ああ、くっせーなあ、お前。食う気はしねーが、お陰で追いやすかったぞぉ……」

「にお、い……?」

「そうだ! 魔物の血に、人間の血に、なんでもかんでもついてて覚えやすい! 暴れてたら一匹いなくなったから追ってみれば、まさかこんなにいるとこに案内してくれるとはよぉ!」

「――――ぁ」

 

 どれだけ逃げても、無駄だった。

 距離は関係ない。匂いを消すところから始めなければならなかったのだ。

 むしろ、なお悪い。だってここは――

 

「ありがとよおおおおお! お礼にお前を食うのは最後にしてやるぜ!! どこへだろうと逃げろ逃げろ! ぎゃはははははははは!!!」

 

 DDはあらんかぎりに笑い、バーバラを無視して別の場所に飛び移った。

 狙いはバーバラではなく、その周囲にいる人々――力無き、村人達。

 

「来たぞ! 逃げろ、逃げろおおおおおおお!」

「パパ、ママ―ッ!」

「やめっ、あがああああああああっ!?」

 

 腕の一振りで、肉が飛び散り、大量の肉塊が出来上がる。逃げる者から追われてひしゃげ、殺される。そして時折噛み砕く。

 

「あ、あああああああああ……!」

 

 吹き飛んだ子供は、バーバラと背丈を比べた友達だった。

 食われた主婦からは、衣服の縫い方を教えてもらった。

 殴られて臓物が散らばった男からは、作り過ぎた食事をご馳走になった事がある。

 皆、皆、皆知っている。バーバラの幸せな日々の中で、築いた友人が、世話になった人が、次々と死んでいく。

 その光景は自分の死よりも、恐ろしいものだった。

 

「わ、わたしのせいで……! ああ……!」

 

 激甚たる後悔と罪悪感に襲われ、バーバラは頭を抱える。目を閉じる事は許されない。

 今度こそ正真正銘自分が悪い。あそこで死んでいれば、逃げていなければ村人は死ぬ事は無かった。バーバラは大好きな人達をまとめて道連れにする行為をしてしまった。

 死と破壊の暴虐はどこまでも続く。DDは村から離れようとする村人から追われ、あっという間に追いつかれて肉塊となり果てる。どれもこれも、みんな、みんな知り合い。

 これだけ死を振りまかれて、最後なのが確定していて、それでもバーバラは逃げられない。DDが匂いを覚えている。

 DDが最初に挨拶に来たのは、礼として残す理由は、バーバラを苛めたいがためであった。

 その鋭敏な嗅覚でもってバーバラの匂いを覚え、全てが終わった後に絶望に染まった少女をデザートとして頂く。ちょっとした娯楽だ。

 バーバラも理解してしまった。だから放置されるという状況が確定して、阿鼻叫喚の地獄絵図の渦中においても動けない。

 バーバラに選択肢は存在しない。そんな選択肢は用意されていない。

 どれだけ考えても死は避けられないと、悟ってしまった。

 

「ぎゃはははははははははははははは!! 痛みが、痛みがねえぞおおおおおお!!」

 

 周囲の家屋を壊す音、知り合いが肉塊となり果てる光景、逃げ惑う人々、消える命――

 

 

 これだ。

 これが不幸な少女、バーバラのいる世界。

 弱肉強食で、弱ければどこまでも奪われるルドラサウム世界。

 この世界は、バーバラが手にした温もりを勝手な都合で奪い続ける。

 

(どうしてこうなったの……どうして……)

 

 初めは、魔物退治に同行したかっただけだった。

 冒険者として働く夢を持ち、少女らしい憧れを抱いて見に行った。

 それが村を滅ぼす決定的な破滅に繋がる事になる。

 走馬燈のようにこれまでの日々が浮かんでは消える。

 優しかった日々は、日常はもう戻ってこない。迷子になった時に手を引いてくれた村人も、一緒に遊ぶ同世代の友達も、優しい人達も残らず――

 

「お、おかあさん……!」

 

 そこで、バーバラの脳裏に母親の顔が浮かんだ。

 村の離れに住んでいる母親。毎日懸命に働いて、手を赤くして働いて、寒い時は毛布を譲ってくれた、優しい、唯一の肉親。

 彼女だけは、もしかしたら助けられるかもしれない。いや、助けなければならない。

 絶望で曇っていた心に、喝が入った。

 

「…………ッ!」

 

 バーバラは歯を食い縛って駆け出した。

 まず来るのは井戸。凍るような冷たさの井戸水を汲み上げて頭から被る。寒さが堪えるが、多少は匂いがマシになるはずと考えた。

 DDの視線が家とは反対方向にあるのを認めると、息を殺して家に向かった。

 半ば森に面する村の外れには、一軒のあばら家がある。隙間風が吹き付け、今にも崩れそうな年季の入った小さな石造りの家。それがバーバラの家だ。

 バーバラは転がり込むように駆けこむと、家の扉を開け放った。

 そこには母親がいた。生きていた。今の状況を良く分かってないしく、呑気に訝しんだ。

 

「バーバラ、そんな血相変えてどうしたのよ? もう少し落ち着きをもって……」

「おかあさん! 魔物がっ、魔物が来たの!」

「…………はぁ? ちょ、ちょっと……!」

 

 もう母親よりもバーバラの方が力は強い。強引に腕を引っ張るバーバラに逆らえない。

 そうして母親は、家を無理やりに引き出されて、

 

「……っひ!?」

 

 大型の猿が暴れ回っている姿を認めてしまった。

 それだけで一般人である母親は目に涙を溜めてしまう。指し示そうとする指も震え、DDを指しているのか村を指しているのか分からないような有様だった。

 

「あ、あああああああああ…………! な、なんなのよあれ!?」

「わかんない! とにかく逃げよう!」

 

 バーバラは有無を言わさず森の奥へと引っ張る。

 バーバラには僅かばかりの時間は与えられていた。最後に食うと言った以上、DDはあの虐殺が終わるまでは村を離れないだろう。

 その間に、母親を逃がす為の努力をする時間としてはあり得る。

 

「……っう、うう。こんなのばっかり! やっと平穏な暮らしが出来てたのにぃ……!」

 

 母親が泣き言を漏らすが、それはつまり村から逃げる覚悟を決めたという事でもある。バーバラは腕を離して、少しずつ早く走ってで母親を引き離し始めた。

 

「はやく、はやく逃げよう! こっちこっち!」

「ちょ、ちょっと待ってよ……! あんた私より速いんだから……!」

 

 距離が離れる。

 泣き腫らした母親の足取りは覚束なく、自分の子供を前に泣き言を漏らす姿は無様そのものだ。

 森が、枯れ枝が深くなり、母親の影が遠くなったところでバーバラは叫んだ。

 

「このまま行けば村があるから! そこで待ってるからねー!」

 

 そうしてバーバラは本気で駆け出し、見えなくなったのを認めると、木の陰に身を潜めた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……! はぐれちゃ意味ないでしょうが……!」

 

 程なくして、母親の荒い息遣いが通り過ぎ、遠ざかるのを聞いて、起き上がる。

 

「――――ごめんなさい。おかあさん」

 

 遠ざかる母親の影に頭を下げて。

 バーバラは踵を返して、村へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 村は、静かになっていた。

 あれだけ上がった悲鳴も、もう聞こえない。バーバラの靴音だけが、やけに遠くまで響く。

 

「………………」

 

 結局、誤魔化したとしても一時的なものでしかない。バーバラが自分の匂いを嗅げば、血の匂いがする。鋭敏な嗅覚を持つ魔人が本気を出せば、たちどころにバーバラの居場所は露見する。

 仮に母親と一緒に逃げたとしても、次の村で迷惑をかけるだけだ。まとめて母親まで死なせてしまう。それだけは避けたかった。

 つまりこれからやる行動は、自分の死は織り込み済み。母親を救う為の特攻だった。

 被った水のせいで身体はいよいよ冷え、震えが止まらない。歯の根が合わないのはこれから魔人に相対する恐怖もあるだろう。

 村に入れば、青い家屋の天井に血の朱が見える。おびただしい赤色の液体が、大地を染め上げている。場所によっては、散らばった腸や脳の残骸と思わしき柔らかいものがあった。

 イカマンの時の方がまだ可愛気があるような惨状だ。スケールが、素材の数となった死体の数が違う。ただ、一つ気になるのは大量の人が死んだという痕跡はあれど、死体は一つもなかった。

 バーバラは村長宅の角を、ゆっくりと曲がった。

 

「あ、あああああああぁぁぁ……!!」

 

 そこにあったのは、巨大な肉塊。魔人DDの非常食。

 全てが人間で――バーバラの知り合いで構成された団子のようなもの。

 顔が、腕が、骨が、肉が、滅茶苦茶な膂力でもって圧縮され、押し潰された奇形。村長が、友達が、世話になった人が、バーバラが過ごした全てが一つどころに詰まっている。

 苦悶と、空洞となった目と、潰れた脳漿と、骨と肉で詰め込まれた幸福だった日々。

 

「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 

 バーバラは巨大な肉塊に手を当てて、冥福を祈る。

 幼い心は罪悪感で一杯で、ただ謝ることしかできない。

 たった一つの愚かな過ちで、バーバラが好きな全てはぐちゃぐちゃに潰れてしまった。

 生き残れば勝ちと言われた。本能に従って逃げた。その結果が、これだ。

 この地獄こそバーバラの出発点。彼女が歪まざるを得なかった光景。

 これ以降、バーバラは幼い頃の記憶を意識して思い出す事をやめてしまった。彼等の顔は夢の中にしか現れず、意識して忘れようとしてしまう。そうしなければ彼等の死に顔が、血の張り付いた顔が、首だけとなった虚ろなものが蘇る。

 もう、この世界が好きだと二度と言う事はなくなった。子供の頃の想いと願いは、この時を境に封じられたのだ。

 

 夢なら醒めて欲しい。

 現実でも、夢で見る時でも何度祈ったか分からない。

 だが、悪夢は終わらない。やがてバーバラは嗚咽を止めて立ち上がる。

 死ぬ前に、やるべき事が残っていた。敵はすぐ近くにいる。

 

「へへへ……へへへへへへ……たーっぷり作ったなぁ。これで3日は持つだろぉ……」

 

 家屋の裏で、満足そうな声が聞こえる。

 人間を食い続け、痛みから完全に解放された魔人DDは腹をさすって、くつろいでいた。

 DDを苦しめる痛みは与えられた魔王の血から来る。その為に、魔王の血が満足するだけの破壊衝動を満たせば、ある程度は収まる。

 村一つを壊滅させ、胃の中がはち切れんばかりに人を食ってやっと……数時間ばかりだが、痛みの無い時間をDDは味わっていた。こうなったら、やる事は一つだ。

 

「ぐぅぐぅ。がぁぁ……」

 

 この間に少しでも寝る。

 魔人は食べなくても平気だし、寝なくても死なないが、生き物だから辛い事には変わりない。

 DDには痛みに苛まされるか、暴れるか、人を食うかの三択しかない。ほとんど寝る時間が存在しない魔人だった。だから血の衝動が収まった時に寝て、激甚たる痛みに起こされるのがこの魔人の生態である。

 後にこの特徴は人類に狙われ、あるいは本人も警戒するようになるのだが、今日までは、襲撃する相手がいるなんて夢にも思わなかった。

 無敵結界があれば全ての攻撃は弾かれる。だから虐殺の後に寝ても問題無いと思っていた。

 だから、DDの顔に落とされたナニカによって、のたうち回る事となる。

 

「……がぁ? がっ、がああああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 DDは鼻の奥がガツンと来るような刺激臭に叩き起こされた。

 生理的反応から目から涙が溢れる。両手を鼻頭に当てて転がる。

 臭い。臭い臭い臭い。魔物の血や、人間の血が馬鹿らしくなるような圧倒的な腐敗臭。塗り込まれた液状個体が鼻の中に入り、意識すら明滅するような感覚に襲われる。

 

「あああああああああああ!? な、なんじゃこりゃああああああああ!?」

 

 ありとあらゆる痛みを知るDDだが、この手の苦痛は一切経験が無かった。

 これは攻撃ではない。魔法でもない。この村限定の名物料理である。肉を塩漬けにして発酵させた郷土料理を、バーバラはDDに御馳走していた。

 攻撃は効くとは思えない。魔法も効くとは思えない。だけど匂いならば潰せる可能性がある。より強い香りが近くにあれば、効かなくなるはず。

 そんな子供の知恵が唯一有効と言える破壊兵器となって、DDを襲った。

 

「ふざけんじゃねえぞお! どこのどいつがやりやがったああああ゛!」

 

 手足をじたばたさせてのたうち回る。苦しみを紛らわす為の手のもがきが、家屋を破壊する。

 

「あっ……!」

 

 そして、その一撃がたまたまバーバラの近くに落ち、その破片だけでバーバラは遥か彼方に叩きつけられた。

 落着、瓦礫が次々と少女を襲い、建物の下敷きになる。

 

「声がしたぞおおおお! こっちにいるのかああああああああああ!」

 

 苛立ち紛れの蹴りが入る。

 崩れた家屋を砂の城のように吹き飛ばし――その破片の一つとなったバーバラは、10メートル近く飛ばされ、強かに叩きつけられた。

 

「―――――っぁ」

 

 その一撃だけでバーバラは半死半生となって転がる。体の至るところが出血し、鼓膜は破れ、口の中はズタズタで、口を開くのも辛い。

 結局、この程度だ。

 魔人相手にただの子供が出来る事なんてありはしない。安眠を邪魔して、不快にさせたぐらいでしかなかった。

 

「ああ、テメェか! 寝た後に食ってやるつもりだったが、そんなに早く死にたかったのか!」

 

 鋭利に尖った爪を向けて、怒りを露わにするDD。それに対してバーバラは口元に微かな笑みを浮かべた。

 死ぬのは怖い。怖いがやれる事は出来たという達成感はあった。嗅覚を潰したかもしれないし、相手を怒らせたから魔人はきっと自分を最期にして満足する。

 母親は守れたかもしれない。村人達の償いとしては相応しい。絶望の中の僅かな満足感だった。

 だが、それを見せたのは間違いだった。

 

「……気に入らねえ、気に入らねえなあ! なんだそんな顔は!? テメエ、誰の許しを得て笑いやがった!!」

 

 魔人の血は、魔王の血は鋭敏に察する。目の前の生き物は少し希望を持って死のうとしている。そんな感情は許さない。メインプレイヤーは絶望して死ぬのが仕様だ。それすら打ち砕いて殺せとDDに訴えかける。

 未だ聞かぬ嗅覚の中で、DDは周辺を見回し――――口唇を広げた。

 

「ぐひ」

 

 あれだ。

 

「……?」

「ぐひひひひ……運が良いな。おい、あっちを見ろよ」

 

 DDは指一つでバーバラを押し込み、体の向きを変えさせた。

 

(あ、ああ……! な、なんで……!?)

 

 バーバラの母親が、こっちに来ている。

 バーバラが命を賭して、地獄の中で唯一、誰よりも守りたいと思った人が……死にに来る。

 見たことのない必死な形相で、金切り声を上げて、前のめりになって――――

 

「死ぬのは最後にしてやるって言ったよなあ? いいぜえ、あいつやってからだな」

 

 DDが、わざとゆっくり動く。

 一歩、一歩と母親の距離を詰まり、その死が近づく。母親は恐怖に足が止まり、動けない。

 また、失敗した。

 指一つ動かず、囮も果たせず、見たくないものばかりを見せられる。

 

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! ああ、なんでこんな……!)

 

 DDが母親の近くに来て腕を振り上げて――――

 

「……があっ! 痛(・)ェ(・)!?」

 

 飛来物に当たって頭を抑え、背中を曲げた。

 

(…………え?)

 

 今の飛来物は、確かにDDに当たっていた。

 弓も魔法も全て弾いたのに、DDに痛痒(ダメージ)を与えた存在がいる。

 

「な、なんだぁ!? どこのどいつだぁ!?」

 

 魔人の無敵結界を貫通された。初めての経験に魔人は動揺し、ぎょろぎょろと目玉が廻る。

 高く、綺麗な靴音が響く。

 バーバラを乗り越えて現れたのは、一人の少女。

 肩までかかる輝くような金髪。宝石かと見紛うような翠玉(エメラルド)の瞳に整った顔立ち。シミ一つない白磁の肌。

 バーバラはこの姿を見た事がある。ヘルマン国民なら誰もが知っている。着る服を除いて、額縁に飾ってある姿見そのものだからだ。

 

「…………シーラ、さま?」

 

 メイド服姿の少女が、バーバラを守るように立ち塞がっていた。

 

 

 

 

 

悪夢を壊す者(シリアスブレイカー)

 

 

 

 

 

 少女が前へと進む。

 金髪を揺らして、迷う事なく、躊躇いもなく、大猿の魔人へと歩み寄る。

 その力強さは、常人を遥かに超えて――いや、人ではない。

 DDは魔人の本能から、ほとんど確信をもって『血』の存在を感じ取っていた。

 

「――テメェ、使徒か」

 

 DDの呟きに対する答えは無い。

 自明の理だろうとでも言うように、使徒はDDの前に立つ。

 目の前の存在は無敵結界を持っていないと分かるが、ではどうして目の前の存在が痛痒(ダメージ)を与えたのかがDDには分からない。若干の躊躇が近寄るだけの猶予を与えていた。

 

「何しに来たってんだよ! そんなに人間虐めるのがご不満か! どうなんだアアン!?」

 

 DDは足下に来た使徒に凄みを入れて、口を開く。

 次の瞬間には一息に飲まれるような構図だったが、使徒の動きに迷いはない。

 使徒はある方向を指差した。

 

「――――魔人DD、魔王様の命令よ」

「ッ!?」

 

 魔王の命令、と聞いてDDの体が強張った。魔人の本能が、従うべきだとDDを抑えつける。

 

「即刻、今すぐ、魔王様の下へ集え。さもなければ死ね」

 

 魔人は魔王の命令に従う。というか魔王の命令に違反出来るようには出来ていない。

 だが、その言葉を聞くや否やDDは地面を全力で殴りつけた。

 

「魔王の、クッソ野郎があああああああ! 俺様をこんな体にしといて! 命令だとおおおお!? しかもお前のような雑魚にかあああ!?」

 

 魔人となって以降、常に痛みに苛まされ、苦しむ事しかない。DDにとって魔王は怨敵であり、存在自体が逆鱗のようなものだった。

 一発ごとに、ヒビが入り、地が揺れる。涎が飛び、使徒の髪にかかる。そんな状況下でも使徒は微動だにしない。

 

「魔王様の命令は絶対。知っているわね?」

「ああ、そうだな……そうだろうなあ! 魔人は魔王に絶対服従、間違ってねえよ!」

 

 煮え滾る怒りでもって、DDは使徒を睨みつける。

 

「だが、使徒に命令される気はねえぞお! 俺達がそうであるなら、使徒は魔人に絶対服従だ! なんで俺がお前に命令されなきゃいけねえんだああ!?」

 

 DDは答え次第では……いや、答えに寄らずとも、拳を振り下ろさんと言うような剣幕だった。

 魔王の命令を笠に着て、居丈高に命じる使徒が気に食わない。

 

「大体魔王の命令だったとして、魔人の命令に使徒を使うわけねーだろ! オラ答えてみろよ! テメエに従う理由はなんかあんのか!?」

 

 DDの問いかけに対して、使徒は即座に答えた。

 

 

 

「私が知りたいわー!」

 

 

 

「……………………ハア?」

「だ、か、ら、私が知りたいのよ! あのクソボケ魔王はあんたを呼ぶ為に私に絶対命令権使ったの! その結果がこれ! なんで魔王は私に探させたのかしらね! きっと死なせたいんでしょーね!」

 

 よく見れば、目の前の使徒は泣いていた。気品のかけらもなく、涙を流して泣き叫ぶ。

 

「私だって、魔人なんかに会いに行きたくないわよ! 普通シルキィやハウゼルに頼んだ方がいいでしょ! でも『行け』って言われたら体が勝手に動くし! 全く自由が効かないし!」

 

 そう言う間も使徒の指はある一定の方向を指差したままだ。

 ここにいる使徒――ペルエレは微動だにしないのではない。

 全く動けないのだ。

 本人がどれだけ心で抗っても体は前に進み、大猿の前に立たせられる。勝手に居丈高な言葉が口から紡がれて、魔人の逆鱗に遠慮なく触れる。

 言うべき事を言い切った今、やっと首から上だけが自由になったという有様だった。

 半ばヤケになって、ペルエレは積もりに積もった不満を吐露する。

 

「どーせアイツの配下ってロクな事にならないと思ってたけど! これは流石にあんまりよー! あのクソ魔王、地獄の業火に焼かれて苦しみもがけー!」

 

 ペルエレの行動は、一見悲劇を防ごうと勇気を出して前に出た英雄的な勇者の行動に見えた。

 だがその実態は、絶対命令権に操られて悲劇に突っ込まれる哀れな操り人形だった。

 ペルエレの目の前に、DDの顎が、体を容易く砕く歯が広がっている。絶対的な『死』を前に、いよいよ感情の振れ幅がおかしくなったらしい。笑えてきた。

 

「うは、うはははははははははは! 死ぬ、死ぬ、死んじゃう! あーもうこんな人生なのね! 私の人生結局これか! こんなんばっかか! あははははははははは!」

 

 使徒になり、慰安婦になり、労役をして、人間達に疑われ、危ない橋を何度も渡り――使い走りで死ぬ。ペルエレの人生に安息はない。

 ペルエレはバーバラを助けに来たのではない。生贄が増えただけだった。

 ケタケタと壊れた笑いを漏らし、走馬燈を浮かべるペルエレ。だかしかし、ペルエレの命はここでは尽きなかった。

 

「…………」

 

 あまりに予想外な返答に気圧されて、DDは拳を振り下ろす機を逸した感がしていた。

 正直なところ、腹は膨れて痛いぐらいだ。人間なんて食べても美味しくないし、使徒を食べても同じだろう。

 虐めるのは好きだが、同じ魔王被害者では自分に重ねるところがあって腹が立つ。

 今の使徒の動きを見て、確実に分かる事は幾つかある。

 魔王は身内だろうが全く容赦しない。目の前にいるのはただの使い捨ての駒でしかない。潰しても何の意味もない。

 ただ、絶対命令権まで酷使してここまで強烈な命令である以上、あれは真実魔王の命令だ。

 ペルエレは即刻、今すぐと言っていた。身内に容赦しない魔王の命令を無視したらどうなるか。本隊から離れてかなりの時間が経っている。一刻の猶予もないかもしれない。

 

「……糞があああああ! あの魔王、いつか絶対ぶっ殺す!」

 

 結局、DDの苛立ちやストレスは全て諸悪の根源、魔王に向かった。

 DDは『非常食』を持ち上げると、ペルエレの指し示す方向へと地響きを上げて立ち去った。

 暴虐の影が、遠ざかる。

 振動と共に、『死』が離れる。

 

「あ、あ……助かったぁ~~!」

 

 絶対命令権の解除と共に、ペルエレはへたぁ~っと崩れ落ちた。

 

「ぐっす……ひっく……! 今度こそ、今度こそ死んだと思ったわよ……」

 

 本格的に魔王軍に所属して数日、ペルエレは散々に後悔していた。

 魔王は正気を失い、次々と都市を襲う。無茶ぶりと慰安婦の日々。次々と生み出される凶悪な新魔人。そして人間達の敵意と悲鳴。そんな地獄の毎日だ。

 今日はまだ魔王の調子が良い日だった。『俺』で話しているから平穏だと思った。

 ところが魔王ランスは『猿をあの辺りで探せ』というざっくばらんな無茶振りを飛ばしたのだ。 行方不明になって数日。どこにいるかもわからない魔人が見つかる訳が無い。そう高を括っていたら、見つけてしまった。

 素直に逃げてしまえばまだ見て見ぬフリが出来たかもしれない。ところが魔人のやっている事を見ていると頭に血が昇り、つい手頃なモノを投げてしまった。

 以降、絶対命令権が発動して死地に連れていかれた。ここまでするつもりはなかった。

 これからも、ありとあらゆる苦難をペルエレが襲う。史上最も最悪な職場にいる事に悩み、心の安息は訪れないだろう。

 

「『どこにも行くな』の次は『行け』。次は『死ね』の後に『生き返れ』かもね。ふふふ……あははは……!」

 

 使徒ペルエレは、魔王ランスの奴隷だった。

 傍から見てもみっともなく、泣き叫んでいるだけで、バーバラが今日見た人の中では一番駄目な類だ。勝手に泣き叫んで狂って笑ってまた泣く。大人らしさが欠片もない。

 だが、バーバラが考えても、死力を尽くしても、どうにもならないものを。

 ペルエレは拭い去って、まとめて助けてしまった。

 蹲る姿が、誰よりも輝いて見えた。

 

「はぁ……私も戻らなきゃ。ううっ、逃げたい」

 

 やがてペルエレは立ち上がり、周囲を見回す。

 血痕は至るところに付着し、家屋という家屋は崩れ、内臓は飛び散り、阿鼻叫喚の地獄絵図。

 だがその景色を見ても、ペルエレは自嘲するように、苦味の走った笑みを浮かべるだけだ。

 

「2人いるだけ、前よりマシね……」

 

 魔人の大声で気絶した母親と、満身創痍のバーバラ。2人を眺めて、ペルエレはバーバラに近づいた。ポケットの中から世色癌を取り出して、バーバラの口の中に流し込む。

 

「聞こえてる?」

 

 深緑の瞳がバーバラを見定める。ボロボロな状態だが、バーバラはなんとか頷いた。

 

「あんたの村は壊滅した。でもあんたは生きている。拾った命がある以上、頑張りなさい」

 

 その瞳はどこか、昔を懐かしむような色があった。

 ペルエレはヘルマンの地図を広げ、赤丸と矢印をつける。ランク・バウ、北大橋、キューロフ、ソロトイ……その道は、魔王の襲撃があった場所であった。ただ、矢印と丸はそこで止まらず、まだ襲来していない都市まで次々に書き込まれる。

 

「ポーン北あたりが比較的安全よ。魔王は過去の思い出を破壊してるの。自分の冒険をなぞるように進んでいるから、あのあたりは来ないはず」

 

 地図をバーバラの懐に置くと、ペルエレは立ち上がった。

 せめて礼を、そんな思いからバーバラは懸命に口を動かす。

 

「……あり、がとう。シーラ、さま……」

 

 その言葉に、使徒は目を逸らして頭を掻き、

 

「……私はシーラじゃない。使徒ペルエレ、人類の敵よ。今回の事は忘れなさい」

 

 そう言って、金髪のメイドは踵を返した。

 最後に地面に転がっていた赤(・)黒(・)い(・)何(・)か(・)を掴み、DDを追うように走り出す。

 

「ペル……エレ……」

 

 バーバラは霞む視界の中で、どこまでもペルエレの後ろ姿を目で追っていた。

 その背中に、憧れた。彼女のようになりたいと思ってしまった。

 心のままに過ごしているのに、人が救われている。強烈な魅力を感じてしまった。

 

 

 

 

 程なくして鬼畜王戦争と呼ばれる戦いが始まり、数多の人類精鋭は命を削る戦いをする事となる。この悪夢はそんな端であった、ありふれた一つの悲劇である。

 これは後にバーバラが姉と慕うようになる、使徒との出会いの物語。




 村娘 バーバラ lv9
 
 運が良かったから、ペルエレが止めてくれたから生き残れたと思っている。
 バーバラ自身がラッキーだったと考えている点は、割とこれ。
 血塗れの記憶ではあるが、大事な記憶でもある。
 憧れの人間がペルエレになっちゃったからドポンコツ待ったなしに……

 逃げる
 犠牲者

 使徒ペルエレ(変装)

 ヘルマン秘書から魔王軍に寝返った。
 シーラ冷たい凌辱済み。
 本物とは価値が全く違うが、模造品だって悪くない。
 ただのレモン。偽薬。ブラシーボ。

 不幸な少女バーバラの世界では暗すぎる。だからランス(ご都合主義)でぶっ壊す。
 これが筆者の二次創作。
 シリアス終わり。時は戻ってコメディへ。
 来週からポンコツ勇者の珍道中、はじまるよ。
 次回、一週間以内。暫くは平行作業で週1。
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