世俗から隔離された小さな集落にその神殿はある。
神殿は建物全てが白い大理石でできており、その床は塵一つ落ちていない。
それはいつも早朝から少女達が総出で掃除を行っているためだ。
もっとも、まだ朝日が微かに顔を出したこの時間ではその姿は見えない――はずだった。
何故か今朝に限っては、こんな時間にもかかわらず、神殿の前に三つの人影があった。
「それでは行ってまいります。カティア司教様、エリーさん」
そう言って穏やかな笑みを浮かべる少女に、カティアも満足げに微笑む。
「ええ。リナ、しっかりとお役目を果たすのですよ」
カティアはリナに気づかれないように、彼女を頭から順に確認していく。
さらさらとした赤い髪は、何の抵抗もなく風になびく。
いつも優しい微笑を浮かべる顔は、美貌と呼ぶにはいささか幼いが、少女らしい愛らしさに満ち溢れている。
眉目が整い、そして僅かに垂れた瞳がこの少女の心根の優しさを表しているようだ。形のいい鼻、それと健康的な淡い桃色の唇が小さな口を彩り、可愛らしさと共に微かな色気をかもし出す。
肌は白く、けれど生命力の瑞々しさに溢れていて、清楚な純白のローブから僅かに見える首元は、見る者の視線を引き寄せる。
一通り少女を確認し、カティアは満足気に微笑んだ。
「リナ。出発する前に、先輩であるエリーからあなたに贈り物があります」
今まで声を発することもなく優しく微笑んでいたエリーは、カティアの言葉に一歩前に出ると、リナに一冊の本を手渡した。
「エリーさん、この本は?」
手作りらしいその本の表紙は真っ白で、題名は何も書かれていない。
「この本は、私があなたと同じように、お役目でこの神殿を出る際に先輩のシスターに頂いた本です。しっかりそこに書かれていることを学んでください。そして、次にこの神殿を旅立つ後輩に手渡してあげるのですよ」
エリーは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、リナの頭を優しく撫でた。
「はい、分かりました。カティア司教様、エリーさん。本日は私のような者のために、ありがとうございました」
リナは礼の言葉とともに深々と頭を下げた。
そして、程なくして神殿前に迎えの馬車がやってくると、リナは二人にもう一度感謝の言葉を口にして、馬車に乗って旅立っていった。
「すみませんでしたね、エリー。あなたとあなたの旦那様に寂しい思いをさせてしまいました。……ようやく安心して暮らしていけるようになったというのに」
馬車の姿が見えなくなってから、カティアは謝罪の言葉を口にしたが、エリーは「いいえ、何ほどのことでもありません」と首を振る。
「……大丈夫ですよ、カティア様。ユウヤさんはまともな方でした。僅かな時間でしたが、お話をして、リナのお役目があの方の元でよかったと私は安堵しました」
エリーは小さく微笑み、静かに祈りの姿勢を取る。
「……リナ、あなたも後輩にその本を手渡せるように、精一杯お役目に励むのですよ。あなたに神のご加護がありますように」
エリーは後輩のために祈りを捧げる。かつての自分が先輩にしてもらったように。
「……ユウヤ様、貴方様に神のご加護がありますように。そして、どうか末永くリナにご寵愛をお願い致します」
彼女に倣い、カティアも祈りを捧げる。
もしも神がいるのならば、罪深い自らを罰してくれるようにとも心のうちで祈りながら。
♢
「……もっ、もう、限界です……」
早朝にエリーから手渡された本を読んでいたリナは、十分も経たないうちに限界が来て本を閉じた。
リナは湯気が出そうなほど赤面している顔を俯ける。この乗合馬車に乗っているのが自分ひとりでよかったと思いながら。
「どっ、どうしてエリーさんは……こっ、このような本を……」
先輩から渡されたその本は、リナが生まれてからこの十六年間、まったく学んでこなかった知識の、性教育の本だった。
もっともその内容はどこにでもある思春期を迎える子供用の内容で、簡単な男女の体の違いがイラスト付きで解説されているだけなのだが、リナにとってはそれでも刺激が強すぎた。
「……でっ、ですが、エリーさんからしっかりと学ぶようにと言われていますし……」
好奇心ではなく使命感で読むのだからと自分に言い訳をして、リナはもう一度本を手に取り、パラパラと先ほど見ていた男女の体の違いのイラストが載っている頁を開く。
「だっ、男性には、こっ、このようなものが……」
リナの視線は男性のイラストの股間部分に釘付けになってしまう。
女である自分には無い部分に興味を引かれるのは仕方の無いことだった。
「シスター! もうすぐヴェリス神殿に到着しますよ!」
「はっ、はい!」
不意に御者の少女が発した元気な声に、リナは慌てて本を閉じた。
リナと同年代か若干幼い御者の少女は、そんなリナの慌てる様に少しだけ怪訝な顔をしたが、すぐににっこり微笑んで前を向いてくれた。
リナは、ほっと胸を撫で下ろすと、本を丁寧に鞄の中にしまい、小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「……もうすぐヴェリス神殿です。しっかり気を引き締めて、リスレ神殿のシスターとして恥ずかしくないようにしなければ」
リナは心の中で自分にそう言い聞かせる。
カティア司教様の話では、今回のお役目にはヴェリス神殿のファリアという名のシスターも同行する事になっている。
いくら初めての遠出とはいえ、いつまでも浮かれているわけにはいかない。自分の振舞い一つでリスレ神殿の名誉を汚してしまうのだから。
それから、リナが気持ちを落ち着かせてから十分としないうちに、馬車は大きな神殿の前に止まった。
「は~い、ヴェリス神殿前です。シスター、ここで十五分ほど休憩を取ります。時間に遅れないように注意してくださいね」
小柄ながら元気のいい御者の少女は、馬車が止まるなり御者席から飛び降りて、馬車の乗降口の扉を開けてくれた。
「ありがとうございます。遅れないように気をつけますね」
「てへへっ、お待ちしてま~す」
リナがにっこり微笑むと、御者の少女は照れくさそうに笑う。
馬の世話をする御者の少女を残し、リナは目の前の神殿に足を進める。
「噂には聞いていましたが、素晴らしい神殿です……」
造り自体はリナの住んでいた神殿と似ているが、その規模は倍でもきかないほどの大きさだろう。さらに、大理石の壁に彫られた草花や動物、そして女性の素晴らしいレリーフはリナの暮らしていた神殿には無いものだ。
「気に入って頂けましたか?」
あまりの素晴らしさ見惚れていると、不意に誰かに声をかけられる。リナがそちらを向くと、一人の女性がいつの間にか彼女の隣に立っていた。
大きな鞄を手にしていることから、今回のお役目に同行してくださるシスターに違いない。
「たっ、大変失礼いたしました。私はリスレ神殿のシスターで、リナと申します」
神殿に見とれていて挨拶が遅れるなんて。
つい先ほど自分を戒めたはずなのに、早々に失態を晒してしまった。リナは羞恥に頬を染めながら、慌てて頭を下げる。
「ご丁寧にありがとうございます。私は、ファリアと申します。この神殿でシスターとして働かせて頂いている者です」
リナに倣い、ファリアと名乗った女性も静かに頭を下げる。
「この方が、私と一緒にお役目を……」
顔を上げ、リナは改めてファリアの姿を見て、神殿のレリーフ以上に彼女に見惚れてしまった。
年は自分より二つ上の十八歳とカティア司教様から聞いていたが、落ち着いた雰囲気のためかずいぶんと大人びて見えた。
腰まで伸びた金色の髪は、陽光に照らされて輝きを放っている。
優しい光を写すブラウンの瞳は宝石のようで、見ていると引き込まれそうになる。すらっとした鼻、淡い朱色の唇。全てのパーツが美しく、そしてそれらがすべて完璧な位置に収まり、輝かんばかりの美貌となっている。
あまりにも素晴らしすぎる美貌だが、人形のような冷たいわけではなく、優しい微笑みを浮かべるその姿は温かな光に満ちている。そしてそれらと、ゆったりとした純白のローブの上からでも分かる、大きな胸の膨らみがあいまって、ファリアは溢れんばかりの母性を醸し出していた。
「ファリア様、右も左も分からない未熟者ですが、どうかよろしくお願いいたします」
そう言ってリナがもう一度頭を下げると、ファリアも同じように頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願い致します。ですが、どうか私の事はファリアと呼んでください。私のような者にそのような敬称は必要ありませんよ」
「それでは、ファリアさんと呼ばせて下さい。そして、どうか私のことはリナとお呼びください」
いくらファリアが許可してくれたこととは言え、年上の方を呼び捨てにはできない。
リナがそう懇願すると、ファリアは「わかりました」と優しく微笑んだ。
「……まるで、天使様みたい……」
あまりにも美しいその笑顔に、リナはそんな感想を抱く。
「それでは、リナ。参りましょうか。そろそろ馬車の出発時刻です」
「はっ、はい。ファリアさん!」
リナは慌ててファリアの後を追う。
見たこともないほど美しい先輩とまだ見ぬ地に旅立つことに不安を覚えながらも、リナは心のどこかで期待に胸を膨らませていた。